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第一章
夢の崩壊
しおりを挟む白い影が職員室の前を通り過ぎる。腰を低く屈めた徳山吾郎は目線を上げたまま息を殺した。
ふっ、ふっ、と浅い呼吸音が抑えた指の隙間から漏れる。意識の無い三原麗奈の乱れた髪。赤黒く変色した両腕を床に伸ばした姫宮玲華は、仰向けに寝転んだまま視線だけを職員室の扉の窓に向けた。
白い影がまた職員室の前を横切った。静寂に包まれた暗闇。胸の内に響く鼓動のみが猛々しい。
カツン、という小さな音が響く。ビー玉が机を跳ねたような音だった。そんな軽い衝撃音が地面を打ち鳴らす金槌の打撃音のように、吾郎の脳髄を貫いて震わせた。
「はっ……あああっ……」
白い影が止まる。視線を扉に向けたまま、ひっくり返るようにして尻餅をついた吾郎は息を止めた。窓から此方を覗く顔。女生徒の小さな黒い瞳が暗闇に浮かぶ。
「あっ……はっ……」
腰を床に付けたまま吾郎は必死に地面を蹴った。スル、スル、と滑る上履き。足の先が意識の無い麗奈の左腕に当たると、視線を下げた吾郎は纏まらない思考の中で、彼女を外に連れ出さねば、と焦ったように腕を伸ばした。仰向けに倒れたままの玲華は視線だけを窓の外の女生徒に向け続けている。
スッと白い影が窓から離れた。麗奈の腕を掴んだ吾郎が芋虫に振り回される蟻のように床をのたうつと、窓の奥の暗闇を見つめていた玲華は「待て……」と小さな声を絞り出した。
やっと体勢を立て直した吾郎は床に片膝を付いて麗奈の腹部に腕を回した。視線を上げた彼は窓の外を睨む。だが、白い影は見えない。恐る恐る周囲を見渡した吾郎は片膝をついたまま玲華に視線を送った。
「奴は何処に?」
「上……」
苦悶の表情。ググッと頭を上げようとした玲華は全身の骨に走る苦痛に悲鳴を上げた。慌てて麗奈を下ろした吾郎が玲華の側に駆け寄る。
「無理をするんじゃない!」
「はっ……はっ……」
「すぐに救急車を……。いや、花子くんに……。と、とにかくだ、無理はするんじゃない!」
「……お、起こして……」
「何だって?」
「あたしを、起こして……」
「だから無理をするなと言ってるんだ!」
「じゃあ……はっ……書記、さん……はっ……二人、上に、運べる?」
「二人?」
「あたし、と……その子を……上に……」
「上に……」
横になった二人の女生徒を交互に見つめた吾郎は唇を結んだ。そんな体力は持ち合わせていないということを、先ほど痛感させられたばかりだった。
「いや、無理だ」
「じゃあ……」
「じゃあではない! ……よし、僕が花子くんたちを探してこよう。だから、君はここで安静にしていなさい」
「だめ」
体を上げようとした玲華がまた軽い悲鳴を上げる。額に浮かんだ汗。グッと奥歯を噛んだ吾郎はハンカチを取り出すと玲華の額の汗を拭った。
「何が駄目なんだ。外に出ては駄目、花子くんたちを探しに行っても駄目、じゃあどうしろと言うんだね」
「バラバラに……はっ……なっては、だめ、なの。三人で……上に……はっ……はっ……行かないと」
「何故だ? 二人で逃げろと先ほどまで言ってたではないか?」
「王子……が……上に……いるの。だから……はっ……上に……はっ……行かないと……だめなの」
「その、王子とやらも……」
「はっ……早く……! 早く、起こして……!」
バリンッ、と遠くでガラスが破壊されるような音が吾郎の鼓膜を震わす。顔を上げた吾郎の耳に、バババババッ、という廊下に並んだ窓ガラスが床に落ちていくかのような衝撃音が響いてきた。
「な、何だ?」
「……はっ……夢が、壊れる……」
ゴンッ、と岩が岩に叩き割られるかのような低い振動が床を揺らした。職員室の窓ガラスがその振動で震え始める。
「早く!」
慌てたように玲華の背中を支えた吾郎は、そのほっそりとした腰に腕を回した。苦痛に顔を歪ませた玲華をゆっくりと立たせた吾郎は、彼女のフラつく体を支えたまま振動する窓ガラスを見つめて唾を飲み込んだ。
「ど、どうすれば……」
「あの子……を」
玲華の濡れた唇。視線を下げた吾郎は、足元の覚束無い玲華を一旦壁に預けると、意識の無い麗奈に腕を伸ばした。
「早く……!」
片腕で麗奈を背中におぶった吾郎が職員室の扉を開ける。今にも倒れそうな玲華の細い体。両腕の使えない玲華の腰に手を回して自分の体に寄り掛からせた吾郎は、暗い廊下に向かってゆっくりと足を踏み出した。ゴンッ、ゴンッ、と重い低音が廊下を揺らす。吾郎の慎重な歩み。意識を朦朧とさせた玲華は、吾郎の腕にもたれ掛かりながらも、懸命に足を引き摺っていった。
階段前に差し掛かった所で玲華の体が膝から崩れ落ちる。吾郎の腕から抜け落ちた玲華は廊下に倒れると痛みに呻きながら息を絞り出した。
「……行って」
「馬鹿を言うな! こんな状況で君を置いていけるほど僕は非情な人間じゃないさ!」
「……はっ……その子も……死んじゃう」
「くっ……。な、ならば……頑張りたまえ!」
「……はっ……はっ……い、行って……」
「さぁ!」
麗奈を背中に背負ったまま、吾郎は片膝をついた。汗に湿った白い制服。途切れ途切れに浅い呼吸を繰り返す玲華には、もはや動く力が残されていない。
一人ずつ上に運べば……。
吾郎か階段を見上げた。終わりの見えない暗闇。その向こうに何が待ち構えているのか想像もつかない。吾郎は恐怖した。そして、思案した。
折り返して二階に行くという行為は一階との間の認識の遮断に繋がるだろう。即ち一階に残した玲華とバラバラになるという事だ。それは避けよ、という話だった。
立ち上がった吾郎は麗奈を背負い直した。そして、視線を足元に向ける。
二人同時には運べない。ならば一人ずつ運ぶしかない。だが、玲華を一階に置いていけば、たった数十歩の距離ですら離れ離れになってしまう可能性があるという。全くもって合理的ではない話だと吾郎は歯軋りをした。
ドンッ、と校舎の壁が揺れた。階段の手すりがカタカタと震え始める。不安げに辺りを見渡した吾郎はグラリと振動する廊下に危うくバランスを崩しかけた。
「……行って」
か細い声。目を瞑った吾郎は深く息を吐くと意を決したように頷いた。
「ここで待とう」
合理的な根拠などない。だが、吾郎は見かけによらず柔軟だった。彼はこの夢の中のような世界に置いての理屈自体を理解し始めていた。
麗奈を壁際に下ろした吾郎はサッと玲華の元に駆け寄った。力無く横たわる玲華の体を麗奈の側引き摺った吾郎は、二人を守るかのようにその前に片膝をつく。小刻みに揺れ始めた廊下。鉄柱が破壊されていくかのような破裂音が壁を内側から激しく振動させる。
「……行って……お願い……」
玲華の呻きが振動に飲まれていく。苦い笑みを浮かべた吾郎は首を振った。
「行ったところで会える保証などないではないか。行き違いになる可能性だってある。待つことこそが最善なんだ」
「……はっ……はっ……」
「大丈夫、花子くんも居るわけだし、彼らならばすぐに宮田くんを見つけ出して戻ってくるだろう」
「……はっ……はっ……」
「……もう少しの辛抱だ、姫宮くん、頑張りたまえ。もしも今の僕に何か出来ることがあれば、遠慮なく言ってみてくれ」
「……はっ……よ、呼んで……」
「何だって?」
「よ……はっ……呼んで……大声で……はっ……呼んで……」
「彼らをかい?」
「……そう……」
「分かった」
コクリと頷いた吾郎はスッと息を吸い込む。軋み歪みうねる校舎。吾郎は暗闇に向かって声を張り上げた。
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