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第二章
亡霊の叫び
しおりを挟むしまったな、と八田弘は息を止めた。睦月花子の額に浮かび上がった血管。画面越しに老人と女生徒の視線が交差する。
息を止めるのは八田弘の癖だった。動揺から言葉を失ったというわけではなく、花子の言葉に虚をつかれたというわけでもない。八田弘は思案していた。息を止めてゆっくりと思考を進める。白い顎髭がヘソを隠す。甘美な肉欲の匂いは画面の向こうには伝わらない。
何も焦る必要は無かった。ただ、しまったな、と八田弘は自分の過去を知る女生徒の額の血管を静かに眺めた。
「……一郎」
ポツリ、と老人の乾いた唇から声が零れ落ちる。止まっていた息が流れ出ると、瞳から溢れた温かな水が老人の乾いた頬を潤した。だが、その瞳の色は陰鬱なままである。
「……ああ、一郎。……ああ、英子。ああ、そうだ、もはや共に歩むこと叶わない、もはや夢を語り合うこと叶わない。ああ、あの者たちは、ワタシのかけがえの無い親友だった」
溢れ出る涙が老人の肌を伝う。涙と鼻水と唾液に濡れた老人の上半身が蛍光灯の白い光に煌めく。スクリーン越しに老人の嗚咽を見つめていた田中太郎は激しい嫌悪感に身震いした。対照的に、八田英一は亡き友を想っているであろう父の涙に心打たれている様子である。
「その親友を見殺しにしたのはアンタでしょーが! きっしょく悪い泣き真似してんじゃないわよ!」
睦月花子の怒鳴り声がスクリーンの幕を揺らす。小刻みに震える指で涙に濡れた顔を覆った八田弘は腹の底から低い掠れ声を絞り出した。
「返せ……」
錆びた鉄でガラスを引っ掻いたような声だった。老人の両隣に立つ女たちの頬が恐怖で引き攣る。ゾッと冷たい何かが太郎の背中を走った。
「返せ……」
「はあん?」
「一郎を、英子を、返せ……」
「返せですって?」
「返せ……! 二人を返さんか……!」
「何言ってんの? 二人を見捨てたのは、アンタで……」
「英子を殺したのはオマエだろう! 一郎の激情を駆り立てたのはオマエだろう! オマエが、オマエが二人を殺したんだ! 二人を返せ! この邪悪な鬼め!」
八田弘の陰鬱な視線が画面越しに花子の瞳を貫いた。花子は返す言葉を見失ってしまう。絶叫に近い嗚咽が本殿の六階を埋め尽くしていった。
「ア、アンタが……」
「何故だ……。何故あの時……オマエは英子を殺した?」
「そ、それは、あの女が……」
「何故あの時……オマエは一郎を煽った……?」
「煽ってなんて……」
「一郎は……一郎は……慕っておったのだぞ……? 一郎は英子を愛しておったのだぞ……!」
「そ、そんなの……」
「二人を……二人を殺したのはオマエだ……。オマエなんだ……。頼む、頼むから二人を、返しておくれぇ……」
掠れた声が絞り出されると共に老人の瞳からまた涙が溢れ出た。咽び泣く時は手で顔を覆い、言葉を発する時は指の間から暗い瞳を覗かせる。思案の度に息を止め、考えがまとまると息を吐いた。
そんな老人に対して花子はただグッと怒りに顔を歪めることしか出来ない。赤子の手を捻るようなものである。論理においても感情においても花子が敵う相手ではなかった。
花子が押し黙ると、指の間からその様子を観察していた八田弘は表情を変えることなく笑った。当然声は無く、笑いながらも涙を流す行為は止めない。
「う……う……」
「パパ……」
「う……うう……。も、もちろん、もちろん、ワタシだって分かってはおる……」
腕をだらりとベットの上に投げ出した八田弘は鼻水を啜った。ハンカチを取り出した両隣の女たちが慣れた手つきで老人の体を拭き始める。その表情に先程までの恐怖の影はない。女たちは諦めたように目を伏せて老人の汚れた体を拭き続けた。
「極限だったのだ……。あの時、ヤナギの霊に囚われていた我々は、極限の状態に置かれていた……」
体を拭く女たちに構わず、八田弘は話を続けた。花子の黒い前髪が額の熱に揺らめく。
「分かっておる……分かっておるのだ……。極限の状態において、オマエはただ、必死だったのだ……。二人を殺したことは、決して、許されることではない……。だが、ワタシは分かっておる……。オマエはただ、必死だった……。ただただ、必死に、必死に、必死に、必死に、生きようと、もがいておったのだ……」
「必死に……」
ジッと、怯えたように俯いていた大野木詩織が顔を上げた。老人が絞り出す声に、極限の状態であったというかつての場面を想像した詩織は、花子の額に浮かんだ血管を横目に見つめて息を呑んだ。
「オマエ、名前は、何という?」
老人の問いに花子は答えない。沈黙。深く息を吐いた老人は言葉を続けた。
「オマエは、オマエは、あの時のことを後悔しているのか?」
「……」
「いや、しているのだろう。変えられない過去への後悔が、どうしようもない怒りと悲しみを生む。そんな怒りと悲しみが、無限に広がる未来に暗い影を作る。オマエは、オマエの心はまだ、闇の中にあるのだ」
膨れ上がった腹を拭く女の髪に老人の指が触れた。表情を固めた女はその瞳に恐怖と嫌悪の色を浮かべながらも老人の体を拭く手を止めない。組んでいた腕を下ろした花子は脈打つ己の心臓の鼓動を聞いた。
「過去は変えられない。だが、未来は変えられる。後悔を止めろとは言わない。だが、目を逸らすのは止めなさい。ワタシは友を忘れない。だが、ワタシはオマエを恨まない」
「……」
「共に歩まないか? 変えられない過去を背負って、後悔を分かち合い、本当の敵と、共に戦わないか?」
「……」
「我々の敵は何だ。オマエの敵は何処にいる。共に戦ったことのあるオマエならば分かっておるだろう? 共に戦おう。ワタシはオマエを受け入れる。オマエもワタシを受け入れなさい。共に戦おう。我々は同じ過去を共有する仲間だ」
「アンタなんか助けるんじゃなかったわ」
花子の言葉にまた八田弘は息を止めた。思案に入ったのだ。助けるんじゃなかった、という言葉の意味を老人は思案した。
「アンタなんかじゃなくて、一郎を助けるべきだったわ!」
深い意味が込められた言葉ではない。激情のままに絞り出された稚拙な暴言の類である。だが、八田弘は言葉の意味を思案した。言葉通りの意味の先に、訪れたであろう結末を、八田弘は思案した。
助ける。生きる。助けられた。生きられた。
八田弘は幾度となく思案してきたのだ。あの場で、何故自分だけが生き残れたのか、と。
八田弘は幾度となく息を止めてきたのだ。果たして自分は、自分の力だけで、あの場を逃れられたのであろうか、と。
「助けた、だと?」
助けるんじゃなかった。そんな言葉に八田弘は反論する。ワタシは自分の知恵と力を振り絞った結果に生き延びたのだと、老人はかつての記憶を思い起こしながら胸を張った。掠れた声ではなかった。唾液の絡んだ低い声が老人の頬を揺らした。
「アンタなんかあの場で死んでればよかったのよ! そうよ、それが現実だったのよ! アンタはあの場で死んでる筈だったんだわ!」
「助けた……。死んでいた?」
花子の単純な言葉に思考が追い付かない。激しい混乱の渦の中で、老人は瞳は上下左右に振動させながら、かつての記憶と今の花子の言葉の意味を照らし合わせた。
あの時現れた見覚えのない生徒たちは誰だったのか。長年の謎の答えが、今、目の前で自分を助けるべきではなかったと叫んでいる。それが意味するものは何か。
思考が追い付かない。
「死んでたのよ、アンタは! 旧天文部集団失踪事件っつう有名な七不思議があんのよ! 八田弘! 本当ならアンタはあの場で死んでた筈だったのよ!」
「なんだ……失踪? 死んでいた? 訳が分からん。おい英一、その女は何を言っているんだ?」
「アンタなんか助けちゃったせいで世界がめちゃくちゃよ! 新九郎の眉は細くなってるし、憂炎は受験生みたくなっちゃうし、超研は何処にもないし、伝説の男もいないじゃない! いったいどう落とし前つけてくれんのよ、アンタ!」
「なんだ、なんで……世界? 助けた? ワタシが何をどうしたと? ワタシは、ワタシはただ必死に生きてきただけだ」
「アンタは本当なら、あの時、あの場所で死んでたのよ! 死んでた筈のアンタを助けちゃったから、世界がおかしくなっちゃったのよ!」
「なんだ……なんなんだ……オマエは……! ワタシは、ワタシは、普通に生きてきただけだ! なんなんだ、オマエは!」
体を拭く女の腕を振り払った老人は立ち上がった。老人の黒い瞳がスクリーン上に広がる。陰鬱なだけだった瞳は今や激しい動揺の光に揺らいでいた。
「普通ですって? 友達を見捨てて、怨霊に怯えて、金と女に溺れて、アンタのいったい何処が普通なのよ! アンタは元々どっか壊れてんのよ!」
「うるさい! すぐ暴力に頼るオマエにそんな事を言われる筋合いはない! 今すぐその場から立ち去れ!」
「偉そうに指図すんじゃないわよ! この亡霊が!」
「ぼ、亡霊……?」
「亡霊よ! 本当なら死んでんのよ、アンタは!」
「ぼ、ぼ、亡霊だって? ふ、ふざけるな! 僕は、僕は人間だ! 消えろ! 亡霊はお前だ! 今すぐ僕の前から消えて無くなれ!」
プツン、とスクリーンから光が消える。老人の声が止むと、猛獣の荒い息遣いのみが白い光の中に取り残された。
「八田弘ぃ!」
琥珀色の大理石を抜けた花子の絶叫は、やがて夏の青い空の彼方に消えていった。
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