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第三章
違和感
しおりを挟む三原麗奈は動けなかった。
肌触りの良い黒髪。花の匂い。「ごめんね」という優しい声。麗奈は、姫宮玲華の柔らかな温もりから離れられなかった。
どのくらい泣き続けていただろうか。それほど長い時間ではあるまい。止まっていた足音がまた響き始めると、しゃっくりを上げた麗奈は冷たい空気が吸いたいと顔の位置をずらした。そうしてやっと目の前に迫る栗色の瞳に気が付いた麗奈は軽い悲鳴を上げた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
三原千夏が不安げに首を傾げる。体育館を見渡せば、ボールを動かす手を止めた生徒たちの視線がこちらに集まっており、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にした麗奈は慌てて玲華の細い身体から腕を離した。
「だ、だ、大丈夫だよ……!」
麗奈は努めて明るい声を出した。気恥ずかしさはあった。だが、先ほどまでの憂いは何処にもない。玲華の水筒に手を伸ばした麗奈は、あはは、と手で顔を仰ぐと冷たい水で喉を潤した。
「王子、ごめんね」
再び玲華の腕が麗奈の体を包み込もうとする。その腕を押し退けた麗奈は、あわわ、と床を転がるようにして後ろに下がると降参のポーズをとった。
「ひ、姫宮さん、僕もう大丈夫だから」
「大丈夫じゃないよ。王子は苦しんでるんでしょ?」
「なんかもう大丈夫みたいなの」
「もう苦しくないの?」
「く、苦しくなくはないけど、早く元に戻りたいけど、その、今はもう大丈夫みたいな……」
汗が頬を伝う。花の匂いが離れない。玲華の柔らかな感触がいつ迄も手の中に生々しく、麗奈は、やはり自分は男なのだと安心すると共に、何やら申し訳ない気持ちで冷や汗が止まらなくなった。
「そっか。でも、本当にごめんね、またあたしが間違えちゃってたみたい」
「ま、間違えてたって?」
「王子が楽しんでるって、そう思い込んでたの」
「ええっと」
「前の頃の王子はなんだかいっつも寂しそうで、苦しそうで、だから今の王子は自分の人生を楽しんでるなって、あたし、そう勝手に思い込んじゃってて……。ごめんね、勘違いしちゃって、本当にごめんね」
そう微笑んだ玲華は俯いてしまう。何処までも悲しげな表情だった。
色々と突っ込みどころはあった。だが、何だか麗奈にはそんな彼女の様子が可哀想で、ゆっくりと首を横に振った麗奈は水筒を床に置いた。
「ううん、姫宮さんは何も悪くないよ」
「王子?」
「むしろ、しっかりと言葉にして伝えなかった僕が悪いんだ」
「そんな風になっちゃたの、あたしのせいなのに?」
「え……。で、でも、姫宮さんはいっつも僕の事を考えてくれて……」
「うん、だって王子はあたしの王子だもん。あたしにとっては王子が一番だからね!」
青いラケットを振り上げた玲華の口元に満面の笑みが浮かび上がる。「立ち直るの早いね」と麗奈は眉を顰めた。
「よーし、これからは一緒に力を合わせて頑張ろう!」
「うん。そんな事よりも姫宮さん、こんな風になっちゃったのが姫宮さんのせいって、どういう意味?」
「たぶんなんだけどね、あたしが王子に接触したから、こんな風になっちゃたの」
「はい?」
「だって、王子と占いをやったあの放課後からなんだもん。王子が夜の学校に迷い込むようになっちゃったの」
そう呟いた玲華は、千夏に向かって白い羽を放り投げた。床に腰を付けたまま千夏がその羽を打ち返すと、キャッキャと彼女たちは黄色い声を上げ始める。
麗奈は唖然とした。まさかその事実を本人の口から聞かされるとは思っていなかったのだ。しかも、平然とした口調である。まるで悪びれた様子の無い玲華の態度に唖然とした麗奈は、怒りよりも先に湧き上がってくる様々な疑問に息を呑んだ。
「あ、あの、姫宮さん、ちょっといいかな」
平静である。今さら怒っても仕方がないと、麗奈は努めて平静に首を傾げた。
「どうしたの?」
「こんな風になっちゃったのって、やっぱり姫宮さんのせいだったんだ」
「うん、たぶんだけどね」
「たぶん?」
「王子が千代子に狙われるのは時間の問題だったんだよ。だから偶然、あの占いをやった放課後から、王子が夜の学校に迷い込むようになったって可能性もあるの」
「そもそも、その千代子って誰なの?」
「ヤナギの霊だよ。山本千代子が戦前のあたしで、戦前は田村しょう子だった王子とあたしは、魂の業で繋がってるんだよ」
そう赤い唇を動かした玲華は、千夏に向かって白い羽を打ち返した。何とか話を整理しようと麗奈は頭を抱える。
「ええっと、それで、どうしてその千代子ってお化けは僕を狙ってるの?」
「王子が田村しょう子の生まれ変わりだからかな」
「ううーん、じゃあどうしてそれが姫宮さんのせいなの?」
「えっとね、これはたぶんなんだけどね。ほら、あの時あたしたち二人で占いやって楽しかったじゃん。それを見た千代子が嫉妬しちゃったんじゃないかって。だからあの放課後から、夜の学校に連れ込まれるようになったんだよ」
「し、嫉妬って」
ただ眺めてただけなのに、とあの時の姫宮玲華の奇行を思い出した麗奈はムッと下唇を突き出した。
「それでね、この世界に変わってからの王子って夜の学校に迷い込まなくなったじゃん。あ、これはもしかしたら、前の世界でのことを千代子が忘れちゃったのかなって。あたしが王子と余計な接触をしなかったら、もう王子が危険な目に遭う事もなくなるのかなって。だからあたしは王子を放っておく事にしたの」
ふうっと息を吐いた麗奈は目を瞑った。話の整理が付かなかったからだ。
どうにもこの姫宮玲華という名のミステリアスな女生徒は、吉田障子と三原麗奈の体が入れ替わってしまっている可能性について、別段の違和感を抱いていないらしい。
いったい生まれ変わりとは何の事やら。夜の学校とはいったい。
そう言えば前に、緊急会議と称してそんな訳の分からない話し合いをしていたな、と麗奈は頭を抱えたまま深いため息をついた。
「……つまり姫宮さんが僕に付き纏ったから、その千代子ってお化けが怒って僕に変な夢を見せたってわけ」
「そんな感じだよ」
「でも、それでも千代子ってお化けの怒りは収まらなくて、僕の体をこんな風に変えちゃったと」
「変えちゃった?」
「ほら姫宮さん、よーく見てみて。僕の体、前とは少し変わってるでしょ」
「そう言えば、髪色が明るくなってるような……」
「体だよ、か、ら、だ。女の子の体になっちゃってるよ。これ、三原麗奈さんの体だよ」
「え、でも王子って元々女の子だったじゃん」
「男だよ、何言ってんの姫宮さん!」
麗奈の目がキッと細くなる。千夏と目を見合わせた玲華は困惑したように肩をすくめた。
「最近のお姉ちゃん、頻繁におかしくなっちゃうんだよね」
「ねぇ王子、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だってば、むしろ君たちの頭が心配だよ」
昼休みの終わりを告げるチャイムが響き渡る。
やれやれと立ち上がった麗奈は、やはり三原麗奈本人と話しをしなければいけないな、と男だった頃の自分を頭に思い浮かべた。
「そもそもこうなったのって、姫宮さんとラインの交換をしてからだよ」
そう呟いた麗奈は肩を落とす。
「何かすっごく怖い夢見て、目が覚めたら姫宮さんからいっぱいライン来てて、階段下りたら姫宮さんが牛乳飲んでて……。あの時からだよ、変なことがいっぱい起きるようになったの」
「ああ、王子がぜんぜん返信くれないから心配になっちゃって」
青いラケットをケースに仕舞い込んだ玲華は斜め上を見上げた。二階の窓の向こうには青空が広がっている。
「もう、夜中に送ってこないでよ。あ、そういえば姫宮さんって、最近僕の家に上がり込んだ?」
「最近?」
「三原さんと、僕の身体が入れ替わってから……。その、吉田障子の家に上がり込んだりしてないよねって……」
麗奈は声のトーンを落とした。千夏には聞かれない方がいいと思ったのだ。いや、今さら遅いかも知れない、とそう思った麗奈は恐る恐る千夏を振り返る。だが、千夏はといえば、オレンジ色のラケットをラケットケースに押し込もうと奮闘中で、二人の会話には全く意識を向けていない様子だった。
「ううん、行ってないよ。だってあの人なんだか気持ち悪いし」
「そ、そっか……」
麗奈の心に深い傷がつく。同時に、麗奈はほっと息を吐いた。
「ならいいや。なんかお母さんがね、家に姫宮さんが来たって変な顔するから、ちょっと心配になっちゃって」
「どういうこと?」
「たぶん牛乳飲んでたあの日のことだよ。だから別にもういいや」
「それって変だよ」
そう言った玲華はラケットケースを片手に目を細めた。その表情は先程までとは別人のようで、麗奈はもじもじと太ももの前で手を合わせた。
「な、何が変なの?」
「あたしってさ、バトミントン部なんだよね」
「うん」
「つまりこの世界でのあたしは部活を辞めてなかったの」
「そ、そうなんだ」
「前の世界では、王子と接触しようと思い立ったからバトミントン部を辞めたの。そうして、私は王子の家に行くようになった」
「そ、そう言えば姫宮さん、部活辞めちゃったとか言ってたもんね。でも、それの何が変なの?」
恐々と麗奈は首を傾げた。玲華の口調が、その細められた瞳が、怖かったのだ。
「この世界での私は部活を辞めなかった。つまりこの世界での私は王子と接触しようとしなかった。つまり王子の母親が私の記憶を持っている筈がない」
「ど、どうして?」
「世界が変わっているから」
そう言った玲華は赤い唇を閉じた。
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