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第三章
どうしようもない
しおりを挟む八田弘は酷く落ち着きのない面持ちで、市議会議員である園田勇夫の杯を受けた。輪島塗の座卓を挟んで正座する園田勇夫の表情も思わしくなく、その名前とは裏腹な小さな目を神経質そうに瞬かせていた彼は、八田弘から受け取った二杯目の杯に視線を落とすばかりだった。
「ささ、園田さん、ご遠慮なさらず」
「いえいえ」
紅緋の膳に載せられた懐石料理が運ばれてくる。さっそく八田弘が濡れた箸を掴むと、二杯目の杯を傾けた園田勇夫は汁物に手を伸ばした。街の一角の料亭は座敷の並んだ平家の日本家屋で、飲食店の立ち並ぶ正面の小道からは想像出来ぬほどに広く壮麗な造りとなっている。八田弘と園田勇夫が杯を重ねる六畳一間の両隣では、心霊学会の幹部たちが厳かな会食に勤しんでおり、二人の会話が外に漏れる心配はなかった。
「抜かりはないと」
しばらく無言で箸を進めていた八田弘は、七杯目の杯に視線を落としていた園田勇夫のその掠れたような呟きに、眉を顰めそうになってしまう。静かな料亭の一間でなければ聞き逃してしまいそうなそれは、公の場以外では常にのっぺりとした能面顔を崩さない園田勇夫の地声だった。
深縹の結城紬に白い顎髭を重ねた八田弘は、既に冷め切った二杯目の燗を無理やり喉の奥に流し込むと、自分より一回りほど年下の小男に向かって愛想笑いを浮かべてみせた。
「抜かりなどと、ワタシ共とは無縁の言葉ですよ」
「国税局が動いとります」
八田弘の箸が止まる。
園田勇夫は相変わらず、杯に揺れる酒のさざなみに視線を落としていた。
「ほぉ、それはそれは……」
「それで、そちらには、抜かりはないと」
「ええ、ええ……。ただ、あまり家を荒らされたくはない。園田さんの方で、何とかなりませんかな?」
「なりませんな」
「園田さん、あのですね」
「委員会はどうとでも、ただ、庁とメディアはどうにも」
「……ふむ」
空の盃に酒が注がれる。
三杯目の杯を胃に流し込んだ八田弘は息を止めた。際限ない不安感に呼吸が乱れそうになったのだ。信頼出来る部下と息子の行方は知れず、自らが創り上げた組織は混乱の最中にある。それでもなくと八田弘は外の世界を嫌っていた。だが、今動かぬわけにはいかないと、こうして街に足を運んだわけであった。
「本当に抜かりはないと」
園田勇夫の箸は一向に前に進まない。あまりにも陰気な男だった。よくもまぁこんな体でやっていけるなと、八田弘は目の前の小男に薄寒い思いがした。
「大丈夫ですとも、ワタシ共に抜かりはない」
「お宿の方は」
「アチラに手が伸びることはありえません」
「では、メディアは」
「問題ない。多少の波風ごときで揺らぐようなワタシ共ではない」
そう断言すると、自分で自分の言葉に安心したのか、八田弘は呼吸を楽にした。しばらくジッと杯に揺れる酒を見つめていた園田勇夫はそれを口に含むと、八田弘の空の杯に徳利を傾けた。
荻野新平は自動式拳銃の引き金を引いた。
グロッグ17の銃口が煙を噴くと9mmパラベラム弾が空間を切り裂いていく。およそ肉眼では捉えきれない速度で二人の男子生徒の頭上を追い越した弾丸は、ちょうど三階の階段前に浮かんでいた人形の頭を撃ち抜くと、そのまま校舎の壁に穴を開けた。舞い落ちる白い綿。舌足らずな少女の声が遠ざかっていく。
その声を追って階段前の壁に背中を預けた新平はチラリと男子生徒たちに視線を送った。この1979年の校舎において、自分より二回り近く歳下であろうその二人の少年の両眼からは赤い鮮血が滴り落ちており、呻き声を上げながら廊下を彷徨う彼らは既に意識を喪失しているようだった。
「どうしようもない」
独り言のようにそう呟いた新平は階段下を警戒しつつ、グロッグ17の銃口を少年たちの額に向けた。どうしようもない、と。そんな必要のない言葉を呟いた彼の心境はいかなるものか。少年たちの苦しげな呻き声が初夏の陽に眩しい校舎を流れていく。
スッと銃口を下げた新平は足元に並んでいた人形の一つを階段下に向かって蹴り飛ばした。布を叩いたような音が静寂の階段を跳ねる。その音に反響する人の気配はない。
「どうしようもない」
もう一度そう言葉を噛み締めた新平は自動式拳銃を斜め下に構えると、彷徨える少年たちに背を向けて、ヤナギの霊の跡を追い掛けた。
それは叫び声だった。
一階の廊下を流れるピアノの旋律に複数の足音が重なる。
下駄箱との死闘に明け暮れる田中太郎を尻目に、どうしたものか、と腕を組んでいた睦月花子はその突然の喧騒に視線を動かした。叫び声に急き立てられるようにして複数の人影が階段の上から姿を見せる。すぐに臨戦体制に入った花子だったが、慌てた様子で階段を駆け下りてくる彼らはどうにも普通の生徒たちのようで、先頭の教師らしき女性のクルリとカールした黒髪に、花子は怪訝そうな顔をした。
「だ、誰ですか、貴方たちは……?」
「アンタらこそ何よ。まさか1年D組の奴ら?」
花子と教員らしき女性の視線が重なる。女性の真後ろでは十人ほどの生徒たちが不安げに眉を顰めており、彼らの視線の大半は、果敢に下駄箱に立ち向かっていく田中太郎の勇姿に向けられていた。
「八田先生……?」
現れた生徒の一人がそう首を傾げると、大野木詩織と大久保莉音の二人を庇うようにして腰を落としていた八田英一は、慌てたように笑顔を作った。
「ど、どうかしたのかな……?」
恐らくは臨時教諭としての自分が受け持っている生徒の声と勘違いしたのだろう。顔を上げた八田英一は一瞬、そこに立っていた見覚えのない彼らの古臭い格好に、困惑の表情を浮かべてしまった。
「ええっと……」
「八田弘先生のご親族の方ですか?」
教員らしき女性が黒い髪を耳に掛ける。八田英一は出来うる限りの笑顔を口元に浮かべてみせた。
「え、ええ……」
「まさか八田先生の弟とか?」
「まぁ、はい……」
「八田先生にご兄弟なんていらっしゃったかしら?」
教員らしき女性の目が疑わしげに細められていく。いったい何をどうすればいいのか、そもそも自分は何をしているのか、長い時の果てに判断能力が鈍ってしまっていた八田英一には愛想笑いを返すことしか出来なかった。
「あ、あの、それでいったい何が……」
ほんの僅かな沈黙の後に八田英一は首を横に倒した。
「その前に、貴方たちはいったい誰なんですか? ここは学び舎ですよ?」
教員らしき女性の視線が八田英一の後ろに伸びる。だが、彼の影に隠れた二人の女性の凄惨な状態には気が付かなかったのか、その表情は訝しげなままだった。
「あ、ああ、私どもは、その、何と言いますか……。突然、ここに迷い込んでしまった者たち、とでも言いますか……」
「迷い込んでしまった、とは?」
「その……」
「貴方、その疲れ切った表情といい、八田先生と瓜二つですわね。八田先生の弟だという話はまさか本当だったりしますの?」
「ああ、いや、ええっと、八田弘は私の父……。い、いえ、私の従兄弟にあたりまして……」
「あらまぁ。では、もしかして貴方も教員で?」
「はい、一応ですが……」
「そうだったんですか。私は八田先生の同僚で、数学を教えている高野真由美と申します」
そう言った彼女は頬を緩めてニッコリと微笑んだ。
「そうでしたか、貴方が……」
八田英一の目が驚いたように見開かれる。そうして、少し悲しげに唇を結んだ彼は、そっと浮かべた優しげな笑みを彼女に返してあげた。
叫び声の止んだ校舎には相変わらずクラシックピアノの軽快な音色が流れ続けている。田中太郎と下駄箱との間で繰り広げられていた死闘は小休止に入ったようで、現れた生徒たちは、花子たちを警戒するように顔を見合わせていた。
「出られないわよ」
男子生徒の一人が土間に駆け下りると、花子はそう言って腰に手を立てた。だが、男子生徒は構わず、初夏の校庭が見えるドアに手を伸ばす。そうして、ドアに触れられない事に気が付いた男子生徒は苦悶の叫び声を上げた。
「だから、そこからじゃ出られないっつの」
混乱が広がっていく。昇降口のドアに駆け寄った生徒たちが次々に声を上げて喚き始めると、やれやれと腕を組んだ花子はため息をついた。依然として出口は分からず、足手まといな者たちばかりが増えていく。本当にどうしたものかと、取り敢えず、すぐ側に座っていた田川明彦の頭を小突いた花子は、微かな違和感を覚えると共に辺りを見渡した。何かを忘れているような気がしたのだ。
激しい衝撃音が校舎に響き渡る。同時に理科室のドアが弾け飛んだ。
「ああ! 忘れてたわ!」
白い布が空間を漂う。黒い女生徒の影が一階の校舎に伸びると、慌てたようにリノリウムの廊下を蹴った花子は保健室のドアを片手で引き剥がした。
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