王子の苦悩

忍野木しか

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第三章

イレギュラー

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 心道霊法学会の本殿は琥珀色の大理石に覆われていた。一面がガラス張りのドームは差し込む陽に鮮やかで、一階のホールは光に包まれている。
 白い廊下から始まる本殿の三階は信者たちの声で溢れている。三階の奥は彷徨える魂たちに声を届かせるための残響室となっているらしく、漏れ出してくる「祓え給え」という声が絶え間ない。幹部である橋田徹に続いてゆっくりと階段を上がっていた大場亜香里は、気味が悪い、と細く整えられた眉を顰めていた。
 本殿の五階は応接間となっていた。廊下にはアラビア模様のペルシャ絨毯が敷き詰められており、応接間へと続くダマスク柄の重厚な扉は閉じられていた。どうやら大物の来客があったようだ。心霊学会の尊師である八田弘自身が対応に追われているらしい。普段であれば本殿の最上階に引き篭もってしまっている彼が五階まで降りてきているという事で、ただふらりと本殿を訪れたような大場亜香里にも謁見のチャンスが回ってきたのだった。いや、彼女のようなうら若く美しい女性であれば、尊師の機嫌次第でいつでも会うことが出来たのだが。それにしても運がいいと、大場亜香里はまるで導かれているかのような順調な滑り出しにご機嫌だった。
 尊師の来客への対応を待つ間、大場亜香里は桜の間と呼ばれる和室でほっそりとした長い足を伸ばしていた。紺のデニムに黒のトップスと大人っぽい格好を意識しており、それは彼女が以前に八田弘に謁見した際の苦い記憶に起因していた。富士峰高校の制服姿で本殿を訪れた大場亜香里に対して、八田弘の反応があまりにも冷ややかだったのだ。どうにもあの老人の性癖は十代の学生にまでは及んでいないようである。一応は将来性があると見られたのか「卒業後はいつでもここを訪れなさい」と肩を叩かれたものの、その口調は彼の印象とは裏腹に厳格で、亜香里は女としてのプライドを大いに傷つけられてしまった。
「いやいや、藤田さん、どうぞまた何時でもいらしてください」
 桜の間に声が響いてくる。それは粘りつくような老人の声で、そっと立ち上がった亜香里は桃色の花弁が舞う襖を開けると思わず目を見開いた。予想外の光景が広がっていたのだ。
 ペルシャ絨毯の上を三人の男たちが歩いていた。真ん中を歩く長身の男は異様に肩が広く、スーツの上からでも分かるほどに引き締まった体をしている。四十代半ばくらいだろうか、その精悍な顔付きは自信に満ち溢れているようだった。そんな長身の男にへりくだるようにして二人の老人が腰を低くしている。白い顎髭を貯えた老人はその男を見上げるようにして卑屈な笑みを浮かべており、背の低い老人は項垂れるようにして肩を落としている。
 亜香里は唖然としてしまった。まさか尊師と呼ばれ、皆から畏敬の念を抱かれるような男が、そんな卑屈な笑い方をするとは思ってもみなかったのだ。長身の男に対する八田弘の態度には尊師としての威厳など何一つとして見受けられなかった。
「おや、どなたかな」
 長身の男が立ち止まる。ただ一人、亜香里の視線に気が付いた彼は口元に皺を作ると、桜の間を振り返った。その毅然とした笑みはテレビやポスターで見るよりもずっと生々しく、彼の身体からは圧倒的強者の匂いが溢れ出ていた。
 亜香里はゾッと背筋を凍り付かせた。その本能で彼の存在を恐れたのだ。衆議院議員の小野寺文久は捕食者の頂点に立つ男だった。
「幹部の女性かな。随分と美しい人だ」
 小野寺文久は広い肩をそびやかすように腕を後ろに回した。その微笑みが恐ろしい。ほっそりとした肩を震わせた亜香里は思わず視線を下げてしまった。
「どうしたのかね。何かやましいことでもあるのか」
 声色が変わる。小野寺文久の表情の変化は砂漠の砂のようだった。ほんのつい先ほどまでの毅然とした笑みが思い出せないほどに、今の彼の表情は冷たく乾いている。二人の老人も怪訝そうに眉を顰めており、どうすればいいか分からなくなった亜香里は、ただジッと下を向いたまま吉田障子の声を想った。
「キザキ様、申し訳ございません。彼女をここに連れてきたのは私なのです」
 応接間の扉を閉じた橋田徹は慌てた様子で深々と頭を下げた。
「いったい何が申し訳ないというんだね」
「彼女が、その、尊師との謁見を望んでおりまして……」
「ああ」
 小野寺文久は納得がいったように表情を緩めた。うんうんと頷いた彼は腕を振り上げると、隣に立っていた八田弘の背中を豪快に叩く。八田弘は困惑に眉を顰めたまま彼の顔を恐る恐る仰ぎ見た。
「キザキくん、いったい何を……」
「はっはっは、いやはや安心しましたよ。先生はいつまでもお元気なようだ」
「へぇ……?」
「なに、こんな事態だからと遠慮することはない。存分に楽しんでいらしてください」
「楽しむとは……?」
「どうですか藤田さん、アナタも先生と御一緒に楽しんでみては。いやいや、はっはっは、当然彼女の意見も尊重せねばなるまいがね」
「いいや、僕は遠慮させてもらうよ」
 そう言った藤田泰三は悔しそうに乾いた唇を結ぶと、桜の間から顔を覗かせる大場亜香里を睨み付けた。亜香里は何と言ってよいものか分からず、首を振ることも、唇を動かすことすらもままならず、ただただ肩を震わせ続けた。
「どうだね、ええっとそこの君、彼女の名を教えてもらえるかね」
「大場亜香里です。ファッションモデルをしておりまして」
 橋田徹は頭を下げたまま、亜香里に向かって視線を動かした。
「どうりで美しい。まるで立華瓶の花だ。忙しくさえなければ是非とも私がお相手を願いたいくらいだよ」
「ほら亜香里さん、君もご挨拶なさい」
 橋田徹は声を低くした。亜香里ははっと顔を上げると、慌てて腰を低くした。
「お、大場亜香里です……」
「初めまして亜香里さん、私は小野寺文久という。もしやご存知かな」
「あ、はい。テレビとかでよく……」
「はっはっは、これは不味いね、どうにも印象を悪くしてしまったようだ」
「いえ、そんな……」
 亜香里はひたすらに恐縮した。目を付けられたくないと思った。いったい何故こんな事態に陥ったのか。亜香里にはもはやここに来た目的について考える余裕がなく、ただひたすらに、早くこの場を去りたいと願った。
「では私はこの辺で。まったく、先生のおかげでゆっくりと立ち話しをする暇もない」
「ほ、本当に申し訳ない、キザキくん。僕が不甲斐ないばっかりに……」
 八田弘もまた彼の存在を恐れているようだった。亜香里にはその理由が分からず、また分かりたいとも思わない。ただ、いったいなぜ小野寺文久が「キザキ」と呼ばれているのか、そんなどうでもいい事のみ、ほんの少しだけ気になった。
「先生、ほら先生、顔を上げてください。尊師であるアナタがそんな不甲斐ない表情でどうするのです」
「だが……」
「先生はただ尊大に胸を張っていればよいのです。それだけで信者たちは心が軽くなる。それと、自分のことは僕ではなく私と呼べと何度も言っているでしょう」
「あ、ああ……」
「さぁ先生、余計なことなどは忘れてしまって、亜香里さんとパーっと遊んできてください。……ただし、絶対に他人には見られぬよう」
 そう最後に声を低くした小野寺文久は「おい君、先生のことを頼んだぞ」と橋田徹に向かって目を細めると、秘書らしき人物の待つエレベーターの前へと歩いていった。小野寺文久の広い肩が階下に消えると、ほっと胸を撫で下ろした亜香里は、白い髭を伸ばした老人に向かってため息をついた。
「あー……」
 だが、一向に言葉は出てこない。今さら尊大な態度にもなれず、もはや亜香里にはもじもじと指をこまねくことしか出来なかった。
 ポケットに手を突っ込んだ藤田泰三が階段を降りていくと、深く息を吐いた八田弘の視線がやっと大場亜香里に向けられた。その瞳には僅かずつではあるが普段通りの荒淫な熱が戻ってきているようで、八田弘は先ほどの小野寺文久の言葉を吟味しているようだった。
「それで、君はワタシに何のようだ……?」
 八田弘は惚けたように首を倒してみせた。先ほどまでのオドオドとした態度は何処へやら。老人の瞳には今や異性への欲望が溢れており、そのチグハグな言葉遣いと相まってか、何やら激しい屈辱感と怒りを覚えた亜香里は尊大な態度で彼を見下ろした。
「一人で寂しがってないかなって、お爺ちゃんのことが心配になってさ。だから遊びに来てあげたんだよ」
「おい君ッ!」
 橋田徹は怒りに目をひん剥いた。大場亜香里の言葉遣いがあまりにも不遜だったのだ。だが、八田弘はといえば特に気にした様子もなく、むしろ彼は嬉しそうに頬を緩めていた。
「ほぉ、そうかそうか、それはありがたい」
「あーあ、さっきの小野寺さんの話じゃないけどさ、あたしもお爺ちゃんと何処かでパーっと遊びたいなぁ」
「ええぞええぞ、パーっと遊ぼうや」
 話が順調に進んでいく。どうにも先ほどの小野寺文久の存在のみが完全なるイレギュラーだったようだ。彼さえいなければ欲望に忠実な老人を手玉に取るくらい何でもなく、やっと自信を取り戻した亜香里は自身のボディラインを強調するように腰を落とすと、老人の顔を上目遣いに見上げた。
「わーい! じゃあお爺ちゃん、ドライブに連れてってよ!」
「ドライブとな?」
「あたしは別にここで遊んでも構わないんだけどさぁ」
 大場亜香里のその言葉に、僅かに眉を動かした八田弘は白い天井を流し見た。
「……いいやそうだな、外に出よう。最近はここも騒がしくってな、遊んでも何も面白くないのだ」
 そう言った八田弘はギョロリと目を見開くと、すぐ側に控えていた橋田徹に視線を送った。橋田徹はサッと頭を下げると「では、先にお待ちしております」と素早く階段を降りていった。
「じゃあ亜香里くん、行こうか」
 老人の乾いた手が大場亜香里の手を包み込む。激しい嫌悪感に身震いした彼女はそれでも表情を崩すことなく、彼に続いて歩き出した。
「あ、そういえばお爺ちゃん、そのドライブなんだけどね、なんか最近パトカーが多くってさ……」
 やたらと豪奢なエレベーターの中で、吉田障子の言葉を思い出した亜香里はまた老人の顔を上目遣いに見つめた。老人は口を横に広げると、勿体ぶったような態度でゆっくりと息を吐き出す。
「知っておるよ」
「あのね、その、ほらもしパトカーに止められちゃったらさ、せっかくの遊びが台無しになっちゃうってゆうか……」
「亜香里くんは海が好きかね」
「え……?」
「海を見たくはないかと、ワタシは聞いている」
「海は好きだけど……。その前にほら、警察がさ……」
 亜香里は困ったように首を傾げた。そもそも街を走り回るパトカーなど自分達にはどうしようもない話ではないか。いわば運次第で、完璧な対処法などは存在しないのだ。そんなことを思った亜香里は彼の計画の杜撰さに腹を立てると、それでも無邪気に唇を突き出したまま、こっそりとヒップポケットのスマホに左手を伸ばした。
「警察には止められんよ」
 老人の唇が動く。思わず手の動きを止めた亜香里は困惑したように首を傾げた。
「ええっと、それっていわゆる高級車だからてきなアレかな……?」
「いいや違う。実はワタシも警察が大嫌いでな、なるべく奴らとは顔を合わせたくないのだ」
「でも、それってやっぱり運次第になるんじゃ……」
「別のルートを使えばよい」
「別のルート?」
「山だ。この辺いったいがワタシの私有地なのだ。そこから海に抜ける道があってな、まぁ道のりは単調だが、海に付けば存分に楽しめる」
 老人の口元にイヤらしい笑みが浮かび上がる。亜香里は僅かに頬を引き攣らせると、なんとか吉田障子に連絡を付けなければと、ポケットのスマホを指で撫でた。
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