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無責任な領主
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セシリアが夢も見ずに熟睡していると、突然、部屋の扉が激しくノックされた。
「奥様! お休みのところ大変申し訳ございません。至急、ご報告申し上げたいことがございまして……」
執事の切羽詰まった声にセシリアは思わず飛び起きた。
セシリアは寝起きのかすれた声で「どうしたの?」と尋ねる。それで返ってきたのは信じられないような答えだった。
「大変申し上げにくいのですが……旦那様は復興の指示を出された後、再び邸を発たれてしまいました……」
それを聞いた瞬間、セシリアのこめかみがピクリと震えた。
眠っていた頭は一気に冴えわたり、怒りが込み上げる。
「外出したですって……? この緊急事態に、当主が……?」
低く押し殺した声。その恐ろしさに執事は思わず「ヒイッ!」と小さな悲鳴をあげる。
「今、領民たちは家を失い、雨に打たれ、泥の中で寒さに震えているというのに……」
セシリアは椅子から立ち上がり、執事がいる扉の傍へと向かう。
「その中で出かけた!? ガーネット侯爵家の領地で民が苦しんでいるというのに、ガーネット侯爵本人が!!」
声が部屋中に響き渡る。いつもは冷静なセシリアの表情は今や怒りに染まり、その瞳は冷たい鋼のように鋭く光っていた。
「……いいわ。無責任で役立たずな男に頼ろうとした私が馬鹿だったようね。夫が己の責務を忘れたというのなら、この領地の再建は“妻”である私が担いましょう……」
彼女は扉を開け、執事に向かって毅然と言い放った。
「まず、避難所の状況を報告して。食料と薬品の備蓄は足りている? 冷え込みは今夜から一層厳しくなるわ。暖を取る手段を至急整えて」
その声に執事は胸を張り直し、深く頭を下げた。
「かしこまりました、奥様」
夫の不在などものともせず、セシリアは冷静に、だが燃えるような情熱をもって、混乱の中心へと足を踏み出していった――己の民を、己の手で守るために。そして、ガーネット侯爵夫人の責務を全うするために。
*
一方その頃、ガーネット侯爵家当主であるエリオットはとあるレストランの一室にて満足げにワインを口に含んでいた。頬はわずかに紅潮し、上機嫌で杯を掲げている。
「……これは上物だな。まろやかで、香りも深い」
「ええ、とても美味しいわ。あなたと一緒だから余計にそう感じられるの……」
「キャサリン……」
彼の向かいには一夜を共にした相手、キャサリンがワイングラスを傾けている。
二人は笑い合い、甘い会話を楽しんでいる。芳醇なワインの香り、肉の焼ける香ばしい匂い、絹の衣擦れ――まるで災厄など存在しない別世界のようだった。
だがその中で、エリオットの従者のロベールは一人、顔を曇らせている。
グラスを傾ける主にそっと近づき、耳元で囁いた。
「旦那様――お言葉ではございますが、今は、このような時ではございません。早急に邸へと戻るべきかと」
その言葉にエリオットは眉をひそめた。楽しいひと時を邪魔されたと言わんばかりに。
「……別に、命に関わる被害はなかったと聞いている。それに、僕がいなくともセシリアが上手くやってくれるさ」
「それが領主の言葉ですか……。情けない」
ロベールの声がわずかに震えた。怒りではない。嘆きだった。
「民は家を失い、家畜は流され、作物も泥に埋もれました。寒さと飢えに、明日さえ見えぬ状況でございます。奥様は……奥様は、か弱き婦女子の身で泥に足を取られながら現場に向かうことでしょう。本来ならば、旦那様がすべきことと理解されておりますか?」
エリオットはワインを傾けようとしたが、その手が止まった。
「奥様がどれほど心を砕いておられるか、あなた様がご存知ないはずはございません。なのに……ご自身は、女性とワインにご満悦とは……」
「………………」
低く、冷たく、嘆きの籠った声にエリオットは何も言えなかった。
「恐れながら申し上げます……。このままでは、誰が“領主”か、いずれ明白になるでしょう」
沈黙が落ちた。
やがてエリオットはグラスをテーブルへとゆっくり置く。彼の瞳に浮かんだものは、怒りか、羞恥か――いや、まだ何も、わかっていないようだった。
「……何を馬鹿なことを。領主は僕だ。セシリアじゃない。そんなことは無学の平民でも分かることだろう?」
エリオットが呟いたその目の前で、突然キャサリンがくすくすと笑った。
「どうでもいいじゃない、平民のことなんて。あなたは“貴族”なんですもの。高貴な方が泥まみれになる必要なんて、ないわ。奥様が代わりにしてくれるなら、別にそれでいいじゃないの」
キャサリンの気楽で無責任な発言にエリオットは目を輝かせた。
「キャサリンの言う通りだ! 貴族の僕が泥にまみれるなんて冗談じゃない。セシリアがやりたいのなら好きにやればいいさ。彼女はガーネット侯爵夫人なのだから、別に彼女がやってもいいじゃないか……」
目を逸らし、言葉を継ぐたびに小さくなる声。キャサリンの無責任な発言に同意するその姿は、まるで現実から逃げる子供のようだった。
「それに、初夜明けに女性を一人にするなど、男が廃るというもの。なあ、キャサリン?」
「やだ、もう……エリオットったら……」
一夜を共にした女に鼻の下を伸ばすその顔には、責任ある“領主”の面影は欠片もなかった。
ロベールはその姿を見て、心の中で何かが音を立てて崩れたのを感じた。
キャサリンと男女の仲にさせることは、彼とセシリアの共通の目的ではある。
それが成就し、本来ならば喜ぶべきところだが……今は緊急事態だ。それどころではない。
「……もはや、言葉もございません」
低く絞るような声。ロベールは立ち上がり、黙って背を向ける。
「領民は、明日を生きるために泥の中に立っています。そして、奥様はその先頭におられることでしょう」
「……」
「旦那様、今のあなたは……その傍らに立つ資格すら、ありません」
その言葉は静かだったが、鋭く冷たく、刃のようにエリオットの胸に突き刺さった。
何も言い返すことが出来ない彼に代わり、キャサリンがロベールに向かって吠える。
「エリオットに酷いこと言わないで! 彼は奥様よりも私を優先してくれただけなの!」
「……キャサリンお嬢様、そういう問題ではございません。領地の一大事に領主が遊んでいることが問題なのです」
「え? でも……奥様がエリオットの代わりに色々しているのでしょう? だったらそれでいいじゃない」
キョトンとしたキャサリンを、ロベールは信じられないものでも見るかのように目を見開いた。
「奥様! お休みのところ大変申し訳ございません。至急、ご報告申し上げたいことがございまして……」
執事の切羽詰まった声にセシリアは思わず飛び起きた。
セシリアは寝起きのかすれた声で「どうしたの?」と尋ねる。それで返ってきたのは信じられないような答えだった。
「大変申し上げにくいのですが……旦那様は復興の指示を出された後、再び邸を発たれてしまいました……」
それを聞いた瞬間、セシリアのこめかみがピクリと震えた。
眠っていた頭は一気に冴えわたり、怒りが込み上げる。
「外出したですって……? この緊急事態に、当主が……?」
低く押し殺した声。その恐ろしさに執事は思わず「ヒイッ!」と小さな悲鳴をあげる。
「今、領民たちは家を失い、雨に打たれ、泥の中で寒さに震えているというのに……」
セシリアは椅子から立ち上がり、執事がいる扉の傍へと向かう。
「その中で出かけた!? ガーネット侯爵家の領地で民が苦しんでいるというのに、ガーネット侯爵本人が!!」
声が部屋中に響き渡る。いつもは冷静なセシリアの表情は今や怒りに染まり、その瞳は冷たい鋼のように鋭く光っていた。
「……いいわ。無責任で役立たずな男に頼ろうとした私が馬鹿だったようね。夫が己の責務を忘れたというのなら、この領地の再建は“妻”である私が担いましょう……」
彼女は扉を開け、執事に向かって毅然と言い放った。
「まず、避難所の状況を報告して。食料と薬品の備蓄は足りている? 冷え込みは今夜から一層厳しくなるわ。暖を取る手段を至急整えて」
その声に執事は胸を張り直し、深く頭を下げた。
「かしこまりました、奥様」
夫の不在などものともせず、セシリアは冷静に、だが燃えるような情熱をもって、混乱の中心へと足を踏み出していった――己の民を、己の手で守るために。そして、ガーネット侯爵夫人の責務を全うするために。
*
一方その頃、ガーネット侯爵家当主であるエリオットはとあるレストランの一室にて満足げにワインを口に含んでいた。頬はわずかに紅潮し、上機嫌で杯を掲げている。
「……これは上物だな。まろやかで、香りも深い」
「ええ、とても美味しいわ。あなたと一緒だから余計にそう感じられるの……」
「キャサリン……」
彼の向かいには一夜を共にした相手、キャサリンがワイングラスを傾けている。
二人は笑い合い、甘い会話を楽しんでいる。芳醇なワインの香り、肉の焼ける香ばしい匂い、絹の衣擦れ――まるで災厄など存在しない別世界のようだった。
だがその中で、エリオットの従者のロベールは一人、顔を曇らせている。
グラスを傾ける主にそっと近づき、耳元で囁いた。
「旦那様――お言葉ではございますが、今は、このような時ではございません。早急に邸へと戻るべきかと」
その言葉にエリオットは眉をひそめた。楽しいひと時を邪魔されたと言わんばかりに。
「……別に、命に関わる被害はなかったと聞いている。それに、僕がいなくともセシリアが上手くやってくれるさ」
「それが領主の言葉ですか……。情けない」
ロベールの声がわずかに震えた。怒りではない。嘆きだった。
「民は家を失い、家畜は流され、作物も泥に埋もれました。寒さと飢えに、明日さえ見えぬ状況でございます。奥様は……奥様は、か弱き婦女子の身で泥に足を取られながら現場に向かうことでしょう。本来ならば、旦那様がすべきことと理解されておりますか?」
エリオットはワインを傾けようとしたが、その手が止まった。
「奥様がどれほど心を砕いておられるか、あなた様がご存知ないはずはございません。なのに……ご自身は、女性とワインにご満悦とは……」
「………………」
低く、冷たく、嘆きの籠った声にエリオットは何も言えなかった。
「恐れながら申し上げます……。このままでは、誰が“領主”か、いずれ明白になるでしょう」
沈黙が落ちた。
やがてエリオットはグラスをテーブルへとゆっくり置く。彼の瞳に浮かんだものは、怒りか、羞恥か――いや、まだ何も、わかっていないようだった。
「……何を馬鹿なことを。領主は僕だ。セシリアじゃない。そんなことは無学の平民でも分かることだろう?」
エリオットが呟いたその目の前で、突然キャサリンがくすくすと笑った。
「どうでもいいじゃない、平民のことなんて。あなたは“貴族”なんですもの。高貴な方が泥まみれになる必要なんて、ないわ。奥様が代わりにしてくれるなら、別にそれでいいじゃないの」
キャサリンの気楽で無責任な発言にエリオットは目を輝かせた。
「キャサリンの言う通りだ! 貴族の僕が泥にまみれるなんて冗談じゃない。セシリアがやりたいのなら好きにやればいいさ。彼女はガーネット侯爵夫人なのだから、別に彼女がやってもいいじゃないか……」
目を逸らし、言葉を継ぐたびに小さくなる声。キャサリンの無責任な発言に同意するその姿は、まるで現実から逃げる子供のようだった。
「それに、初夜明けに女性を一人にするなど、男が廃るというもの。なあ、キャサリン?」
「やだ、もう……エリオットったら……」
一夜を共にした女に鼻の下を伸ばすその顔には、責任ある“領主”の面影は欠片もなかった。
ロベールはその姿を見て、心の中で何かが音を立てて崩れたのを感じた。
キャサリンと男女の仲にさせることは、彼とセシリアの共通の目的ではある。
それが成就し、本来ならば喜ぶべきところだが……今は緊急事態だ。それどころではない。
「……もはや、言葉もございません」
低く絞るような声。ロベールは立ち上がり、黙って背を向ける。
「領民は、明日を生きるために泥の中に立っています。そして、奥様はその先頭におられることでしょう」
「……」
「旦那様、今のあなたは……その傍らに立つ資格すら、ありません」
その言葉は静かだったが、鋭く冷たく、刃のようにエリオットの胸に突き刺さった。
何も言い返すことが出来ない彼に代わり、キャサリンがロベールに向かって吠える。
「エリオットに酷いこと言わないで! 彼は奥様よりも私を優先してくれただけなの!」
「……キャサリンお嬢様、そういう問題ではございません。領地の一大事に領主が遊んでいることが問題なのです」
「え? でも……奥様がエリオットの代わりに色々しているのでしょう? だったらそれでいいじゃない」
キョトンとしたキャサリンを、ロベールは信じられないものでも見るかのように目を見開いた。
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