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薄翅蜉蝣
第八夜
しおりを挟む「する。でも、その前に……」
意気込んでいた肝心の場面は、気付いた時にはもう過ぎ去っていた。
軽やかなリップ音を立てて離れた唇が鮮やかであろう筈もないのに、触れる前よりもいっそう美味しそうに熟れているように見えて、目を瞬く。
「え」
心の準備をさせてもらう余裕もなかったが、する必要もなかったのかもしれないと思うほどのライトなキスだった。
しかし、私はクレームをつける瞬発力に長けてはいなかったらしい。
何の変哲もない一音に動揺を託すのがやっとだった。
「約束。してたから」
先ほど口の周りに付けてしまった筈のオリーブオイルのぬめりは微塵も感じられず、彼女の息からはフレッシュなミントが薫った。
ありきたりで清潔な歯磨き粉の香りも似合わないわけではないが、彼女の代名詞はやはりテキーラだ。
私は固定観念に捕らわれやすい性質らしい。
いずれにしても、ミントと酒とでは系統が離れすぎていて、ちぐはぐな印象が拭えなかった。
モヒートを常飲している人間が言えた台詞でない事は重々承知の上だが、私がモヒートを酒として認識していないというだけの話かもしれない。
「……『特別な相手にするキス』、には……思えなかったんですけど」
『この家に頻繁に漂うのは、買い置きの缶ビール臭だが』と、内心では蛇足以外の何物でもない注釈まで付けながら、漸く不満を表に出した。
「これで終わりなんて、言ってない」
スローモーション気味に近付く紅が形を変える様子を、今度は視認することができた。
ライトなものから少しディープなものまで、唇が重なった回数を数えるのも馬鹿馬鹿しく思えてきた頃、それは突然訪れた。
――――私を襲ったのは、眠気だった。
迂闊だったと言う他ない。
どうしてこんな簡単な事さえ覚えていられないのか。
一番の敵は、彼女の周囲の人間ではなく、捻くれていて可愛げのない性格でもなく、原因不明の睡魔だったのに。
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