体臭

常陸之介寛浩 @書籍販売中

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第137話『一緒に歩いた雨上がりの道』

 雨上がりの午後は、街全体が少し冷たくて湿った匂いがした。

 アスファルトがまだ濡れていて、踏むたびに「ぺたっ」と小さな音を立てる。
 雨粒が葉の先に残り、風が吹くと落ちてくるその雫がスカートの裾を濡らす。

 歩道脇の草の匂いと、アスファルトが放つ湿った匂いが混じり合って、甘いような、酸っぱいような、雨の日特有の香りが空気の中に残っていた。

 今日は、部活の後に雨が降り出し、傘を持っていなかったわたしと拓は、体育館の軒下で雨宿りをしていた。

「降ると思わなかったな」

「うん……」

 校庭の砂が雨で濡れて、土の匂いが立ち上がっていた。

 その匂いが、どこか懐かしくて切なかった。

 *

 雨が止んだのは、夕方になる少し前だった。

 空にはまだ雲が残っていたけれど、雲の切れ間から差し込む光が濡れた地面に反射して、小さな虹のような光があちこちで揺れていた。

「行こっか」

「うん……」

 歩き出したわたしたちのスニーカーは、水たまりを避けながら歩いても、やっぱり濡れてしまった。

 靴下がじわっと冷たくなる感覚に、思わず顔をしかめる。

「やだな、これ……」

「濡れた靴って、最悪だよね」

「うん……」

 お互いに顔を見合わせて、同時に笑った。

 その笑い声が、雨上がりの静かな空気をやさしく揺らした。

 *

 歩道を歩くと、雨上がりの湿気がまだ空気の中に残っている。

 普段は乾いた空気の中で漂う柔軟剤の甘い匂いも、今日は湿気に混じって少しだけ重たく鼻先に届いた。

 わたしの制服の袖が風に揺れ、その動きに合わせて自分の匂いが立ち上る。

 部活でかいた汗の匂いと、柔軟剤の香りが混じり合った匂い。

 雨の日の湿った空気が、その匂いをいつもより強く感じさせた。

「……なんか、汗くさいかも」

 思わず口に出すと、拓が振り返って笑った。

「そんなことないよ」

「本当?」

「うん、むしろいい匂いする」

「ば、ばかじゃないの」

 顔が赤くなるのを感じて、視線を逸らす。

 でも、その言葉が少しだけ嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 *

 歩くスピードが自然と同じになって、肩と肩が触れそうで触れない距離で並んで歩く。

「ねえ、見て」

 拓が指さした先には、歩道脇に咲いた小さな花が、雨粒を乗せたまま揺れていた。

 光が差し込むと、花びらの先の雫がきらりと光る。

「きれい……」

「だろ?」

「うん……」

 言葉が途切れると、すぐ近くで拓の呼吸が聞こえた。

 雨上がりの空気の中で、彼の呼吸が混ざってくる。

 その呼吸の中に、わたしの呼吸も溶けていくような気がした。

 *

 ふと、足元のスニーカーが水たまりに入ってしまい、また冷たい水が靴下を濡らした。

「ひゃっ……」

 思わず声を上げて立ち止まると、拓も足を止めて笑った。

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない……冷たい」

「ははっ……帰ったらすぐ靴脱いで、靴下替えなよ」

「わかってるよ」

 その笑い声が、雨上がりの湿った空気の中でとても大きく響いた。

(こういう時間が、ずっと続けばいいのに)

 そう思った。

 *

 公園の前を通り過ぎるとき、風が吹いた。

 その風が、雨で濡れた草の匂いを運んでくる。

 その匂いに混じって、拓の制服の袖から微かに漂う柔軟剤の甘い香りが届く。

 普段より少しだけ強く感じるその香りが、胸の奥をぎゅっと締め付ける。

(拓くんの匂い……)

 その匂いを感じるだけで、鼓動が早くなる。

 彼はわたしの方を見て笑った。

「どうした?」

「……なんでもない」

 笑顔を返しながら、顔が赤くなるのを感じる。

 *

 住宅街に差し掛かると、空が少しずつ青くなっていくのが見えた。

 雨上がりの空はどこか澄んでいて、風が吹くたびに空気が変わっていくのがわかった。

 歩道の水たまりに映った空を見つめながら、わたしたちは歩き続けた。

 その歩幅は自然と合っていて、すれ違うときの距離が少しずつ縮まっていく。

「今日は、歩けてよかったな」

「……うん」

「雨の日も悪くないね」

「うん……」

 そのとき、また風が吹いて、わたしの髪が揺れた。

 その髪が、拓の肩に触れた。

 一瞬、二人の間に静かな空気が流れた。

 その空気の中で、雨上がりの草の匂いと、湿ったアスファルトの匂いと、二人の柔軟剤の匂いが混じり合った。

 その匂いの中で、わたしの心臓がドクン、と大きく鳴った。

(……この距離、嫌じゃない)

 そう思った。

 *

 玄関の前で立ち止まる。

「じゃあね、また明日」

「うん、また明日」

 拓の笑顔を見て、わたしも笑った。

 雨上がりの湿ったスニーカーの匂いさえも、今日は嫌じゃなかった。

 むしろ、その匂いの中に“今日”が詰まっているようで、愛おしく思えた。

「気をつけて帰ってね」

「わかってる」

 彼の背中が遠ざかるとき、雨上がりの風が吹いて、髪が揺れた。

 その髪から柔軟剤の香りが立ち上がり、その香りと一緒にわたしの“好き”が、風に乗って彼の背中へと届いているような気がした。

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