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《砂漠の秘宝と、快楽を記す遺跡へ》 ――触れ合いを石に刻んだ民の、失われた祈りとは?
第162話『記憶のない幸福──客は、涙の理由を知らない』
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──午後四時。
白く泡立つ湯の香に包まれた《記香施術庵・第三分室》。
その日最後の施術を終えた少年は、
無言で湯室から出てきた。
目は赤く、頬には濡れた痕。
けれど本人に、それを説明する言葉はなかった。
「……あの、俺……」
リセのもとで施術を受けた少年は、戸惑ったように目を伏せながら言う。
「なにされたか……あんまり覚えてないんですけど……」
「うん」
リセは淡くうなずいた。
「……でも、なんか……胸のあたりが、あったかくて……」
「涙が出たのは、なんでか自分でもわかんないんです。
でも……変なんですけど……今、誰かに“ありがとう”って言いたい気がするんです」
それだけ言って、少年は深々と頭を下げ、香泡室へと去っていった。
リセは見送ったまま、一言も発しなかった。
だが、彼女の目は、明らかに揺れていた。
*
「……見た?」
香炉の奥、半透明のカーテン越しから様子を見ていたリリアが呟いた。
「記憶、ないのよ? 施術の記憶も、施術師の顔も、声も、全部ないのに……」
「それでも、涙が出た」
「“理由はわかんないけど、ありがとうって言いたい”──
そんな幸福、あるの?」
ミレーユが低く言う。
「確かに、彼は癒された。
でもそれは、“記憶に残らない癒し”。
行為の実感がなくても、結果として安らぎを得たなら──
それは“成功”ってことになるのかしら」
「私は……ちょっと違うと思う」
アリシアが静かに口を開いた。
「だって、癒しって“信じたい”って思わせてくれるものじゃなかった?」
「“誰かが、私の痛みに触れてくれた”って記憶があるからこそ、
“明日も人と関われるかもしれない”って、思えるんじゃないの?」
リリアも深くうなずく。
「忘れた癒しって、なんか、
“どこから来たかわからない光”みたいで……ちょっと怖い」
「幸せの理由がわからないって、
逆に“すぐ消えちゃいそう”で、不安にならない……?」
*
その夜。
流星は、湯屋の縁に腰かけ、香を焚いていた。
その隣に、リセがそっと座った。
「……あなた、施術、見てましたか」
「うん。最後の子、泣いてたな」
「記録はすべて消去されました。
誰に施術されたかも、何をされたかも、香泡で洗い流されています」
「でも、涙は残った」
流星は、リセを見た。
「“ありがとうって言いたい気がする”って、
それって本当に“記憶がない”のか?」
リセは、わずかに息を呑んだ。
「人の身体には、“思い出せない記憶”が残ることがあります」
「匂い、温度、空気の湿度、呼吸のリズム。
理性では忘れていても、感情が“記憶の骨”をなぞってしまう」
「だから、涙が出ることはあります。……でも」
「でも?」
「……それでも、
“施術者の名前を知りたい”と言われたことは、一度もありません」
「皆、納得して帰るんです。“理由がわからない幸せ”に」
「それでいいのかな」
流星がつぶやく。
「それって──“誰が癒したか”が、どうでもいいってことにもなっちまうんじゃないのか?」
「……そう、かもしれません」
リセの声が、小さく揺れる。
「でも私は……
“残らないからこそ、癒せるものがある”とも思っています」
「名前も、記録も、記憶もいらない。
ただ、心が少し軽くなったら、それでいい」
「……でも、お前の手は」
流星が目を伏せる。
「“誰かに覚えていてほしい”って、思ってる手だったよ」
リセは、驚いたように目を見開いた。
「……それは、たぶん」
彼女の声は、波の音に紛れそうになるほど小さくて。
「私が……“忘れられること”に、
ほんとは怯えてるからかもしれません」
「だって──誰かを癒したことがあるって、
ほんとうは……覚えていてほしいことですから」
その瞬間、流星の焚いていた香が、強く風にあおられて揺れた。
香炉の炎が小さく跳ね、
リセの白衣にほんのりと“施術香”の残り香が舞い戻る。
それは、あの少年の涙と同じ香りだった。
白く泡立つ湯の香に包まれた《記香施術庵・第三分室》。
その日最後の施術を終えた少年は、
無言で湯室から出てきた。
目は赤く、頬には濡れた痕。
けれど本人に、それを説明する言葉はなかった。
「……あの、俺……」
リセのもとで施術を受けた少年は、戸惑ったように目を伏せながら言う。
「なにされたか……あんまり覚えてないんですけど……」
「うん」
リセは淡くうなずいた。
「……でも、なんか……胸のあたりが、あったかくて……」
「涙が出たのは、なんでか自分でもわかんないんです。
でも……変なんですけど……今、誰かに“ありがとう”って言いたい気がするんです」
それだけ言って、少年は深々と頭を下げ、香泡室へと去っていった。
リセは見送ったまま、一言も発しなかった。
だが、彼女の目は、明らかに揺れていた。
*
「……見た?」
香炉の奥、半透明のカーテン越しから様子を見ていたリリアが呟いた。
「記憶、ないのよ? 施術の記憶も、施術師の顔も、声も、全部ないのに……」
「それでも、涙が出た」
「“理由はわかんないけど、ありがとうって言いたい”──
そんな幸福、あるの?」
ミレーユが低く言う。
「確かに、彼は癒された。
でもそれは、“記憶に残らない癒し”。
行為の実感がなくても、結果として安らぎを得たなら──
それは“成功”ってことになるのかしら」
「私は……ちょっと違うと思う」
アリシアが静かに口を開いた。
「だって、癒しって“信じたい”って思わせてくれるものじゃなかった?」
「“誰かが、私の痛みに触れてくれた”って記憶があるからこそ、
“明日も人と関われるかもしれない”って、思えるんじゃないの?」
リリアも深くうなずく。
「忘れた癒しって、なんか、
“どこから来たかわからない光”みたいで……ちょっと怖い」
「幸せの理由がわからないって、
逆に“すぐ消えちゃいそう”で、不安にならない……?」
*
その夜。
流星は、湯屋の縁に腰かけ、香を焚いていた。
その隣に、リセがそっと座った。
「……あなた、施術、見てましたか」
「うん。最後の子、泣いてたな」
「記録はすべて消去されました。
誰に施術されたかも、何をされたかも、香泡で洗い流されています」
「でも、涙は残った」
流星は、リセを見た。
「“ありがとうって言いたい気がする”って、
それって本当に“記憶がない”のか?」
リセは、わずかに息を呑んだ。
「人の身体には、“思い出せない記憶”が残ることがあります」
「匂い、温度、空気の湿度、呼吸のリズム。
理性では忘れていても、感情が“記憶の骨”をなぞってしまう」
「だから、涙が出ることはあります。……でも」
「でも?」
「……それでも、
“施術者の名前を知りたい”と言われたことは、一度もありません」
「皆、納得して帰るんです。“理由がわからない幸せ”に」
「それでいいのかな」
流星がつぶやく。
「それって──“誰が癒したか”が、どうでもいいってことにもなっちまうんじゃないのか?」
「……そう、かもしれません」
リセの声が、小さく揺れる。
「でも私は……
“残らないからこそ、癒せるものがある”とも思っています」
「名前も、記録も、記憶もいらない。
ただ、心が少し軽くなったら、それでいい」
「……でも、お前の手は」
流星が目を伏せる。
「“誰かに覚えていてほしい”って、思ってる手だったよ」
リセは、驚いたように目を見開いた。
「……それは、たぶん」
彼女の声は、波の音に紛れそうになるほど小さくて。
「私が……“忘れられること”に、
ほんとは怯えてるからかもしれません」
「だって──誰かを癒したことがあるって、
ほんとうは……覚えていてほしいことですから」
その瞬間、流星の焚いていた香が、強く風にあおられて揺れた。
香炉の炎が小さく跳ね、
リセの白衣にほんのりと“施術香”の残り香が舞い戻る。
それは、あの少年の涙と同じ香りだった。
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