『おしっこパニックで恋が始まる!?』

本能寺から始める常陸之介寛浩

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《帰社後の波乱編──出張の余韻と、恋とトイレのリベンジ戦》

第195話『出社、そして現実が返ってくる』

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 月曜の朝。
 オフィスの空気は、異様なほど澄んでいて、冷たかった。

 つい数日前まで地方支社での合同研修に参加していたハルカは、駅の階段を昇るたび、心臓の鼓動が嫌でも早まるのを感じていた。
 ──今日から、また普通の日々。
 ──だけど、それは本当に“普通”に戻れるのだろうか。

 出張中、ケントとトイレ前でふたりきりになった夜。
 あの何気ない小声の告白。「わたし、ずっとあんたのせいでトイレ我慢してる気がする」──
 あの一言が、冗談半分でも、本音が混じっていたのは確かだった。

 そして、ケントの微笑。

「……そっか。じゃあ次から、ちゃんと早めに行けよ」

 それだけの、たわいない会話。
 でも、その余韻は、彼女の中に今も残っている。
 胸の奥に、鈍く、熱く。

 ビルの自動ドアをくぐると、いつも通りの出勤ラッシュのざわめきが耳に入る。
 エレベーターは混んでいた。同期のナナとミキが近くにいたけれど、なぜか今日は目を合わせる気分じゃなかった。

 ──なんか、みんなの視線が気になる。

 数秒後、すれ違った先輩女子社員がこちらを見ながら、何か耳打ちして笑った。

(……え、まさか)

 ハルカの胸に、冷たい感覚が広がる。
 背筋に汗が伝う。出張中のこと、なにか漏れてる? いや、でもそんなバカな──。

「おはよ、ハルカちゃん」

 後ろから聞こえてきたのは、営業部の山本さんの声だった。
 軽いノリの30代男子社員。いつもなら軽口の一つも交わすはずだが──

「出張、どうだった? ケントくんと同室じゃなかったの~?」

 その瞬間、ハルカの脳内で爆音が鳴った。

「は……え? ちがっ、同室って、なんで……!」

「いやいや~、なんか“夜にふたりで廊下にいたの見た”って噂になってるよ? うちの部署の女子たち、かなり色めき立ってるっていうか~」

「う、うそ……っ」

 ハルカの手が、カバンのストラップを握りしめたまま強張った。
 指先が白くなっている。心拍数が跳ね上がり、頭が真っ白になる。

(ちょっと待って……なんで、そんな情報が流れてるの?)

 ナナ? ミキ? まさか、サバナかエミリか?
 それとも……まさか、ケント本人が誰かに喋った?

 ──ない。それは、ない。
 ケントがそういうことを吹聴するようなタイプじゃないのは、誰より自分が知っている。

「……ちがうよ。同室なんかじゃ、ないよ。ただの……偶然、トイレの前で鉢合わせただけで」

 言い訳めいたその返事に、山本は笑って肩をすくめた。

「ハイハイ、そーいうことにしといてあげるよ~。でも気をつけなよ。噂って、火がつくと止まんないからね」

 軽口のまま、彼は去っていく。

 取り残されたハルカは、深く息を吐いた。

(……やだ……めんどくさ)

 オフィスのデスクに着いた瞬間、目の前のモニターに表示されているのは何でもない業務用のメール画面だった。
 でもその後ろから、自分を見ている気配がする。

 ──誰かが囁いてる。

 ──あのふたり、なんかあったんだって。

 ──ハルカちゃんって、ああ見えて意外と……。

「ッ……」

 カタカタカタッと、ハルカのキーボードを打つ指が震える。
 後ろを向きたくない。けれど、無視できない。

 そんな中、ふと横の席──ナナが小声で呟いた。

「ハルカ。気にすんなって」

「……え?」

「噂、もう広まってるっぽいけど……あたしは、ちゃんとわかってるから。あんたがそんな軽い奴じゃないって」

 ハルカの目が一瞬、潤む。
 そう──ナナは、あの夜、一番近くにいた。
 出張先の部屋で“膀胱反省会”をして、素直に「ケントのこと、本気で考えてる」って口にしたナナ。

 だからこそ、なおさらハルカの胸は苦しくなった。

「ありがと……でも、ごめん。なんか、あたしが……」

「ううん。誰が先でもいいって思ってたけど、なんか、あの夜で……踏ん切りついた。たぶん、あたしじゃ勝てないなって」

 ナナはそう言って、すっと立ち上がった。
 コピー機の方向へ歩いていくその背中に、ハルカはなにも返せなかった。

 時間が進むごとに、オフィスの雑談は確実に“あの出張”の話題で盛り上がっていった。

「レイナ先輩、立ちショングッズ持ち込んだらしいよ?」「なにそれマジ?」「マジです、証拠写真あるよ」

 そんな下世話な噂まで飛び出していて、もう何が真実かも曖昧になっていた。

 ──そして、運命の昼休み。

 社食でハルカが食券を買っていると、真後ろから声が飛んできた。

「トイレ、もうチェック済んだ?」

 その声にハッと振り返ると、そこにはケントがいた。

 ネクタイをゆるめた彼は、出張中とは違う“日常の顔”に戻っていて、少しだけ頼りない表情だった。

「……あんた、またそんな……」

「いや、ちょっと心配で。噂、広まってんだろ?」

 ハルカは、そっと目を伏せた。

「広まってるよ。めっちゃ……でも、別に平気」

「……そっか。でも、俺もなにか言ったほうがいいのか?」

「いいよ。もう、どうでもいいから」

 ほんとは、よくない。
 でも、口にしてしまったその言葉を、今さら取り消すことはできない。

 沈黙が落ちた。

 だけどその中で、ケントはぽつりと呟いた。

「俺、けっこう……本気なんだけどな。そういうの」

 ハルカの呼吸が止まる。

「……なにが?」

「“ずっと我慢してた”って言っただろ? あれ……俺もたぶん、同じだったのかもなって」

 不意に、社食の券売機の前で流れる音楽が変わった。
 何もかもが、ざわざわしていた。

 そして、ハルカはただ、小さく頷いた。

「……うん。じゃあ、これからは、ちゃんと行くわ。トイレ」

「うん、それがいい」

 そう言って微笑んだケントの顔に、ハルカはまた胸を掴まれたような感覚になる。

 青春って、こんなふうに形を変えて、続いていくんだろうか。

 答えは、まだわからない。
 でも今は、それでいい気がした。

 ──そして、午後の会議が始まる。

 その直前。ハルカは、しっかりとトイレに行った。

「よし、今日はもう、我慢しない!」

 そんな小さな誓いを胸に、ドアを開ける。

 現実は、重く、優しく、そして今日もまた続いていくのだった。
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