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第3錠
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水瀬は純平の目の前に薬の効能などが書かれた説明書のようなものを広げた。
「今回、処方されているのは睡眠導入剤と胃薬ですね。寝れないとか、そういう症状でしょうか?」
「はい、まあ……」
病院で説明したことをここでもう一度説明する必要があるのか、と思いながら純平は気のない返事をした。
純平の返事をものともせず、水瀬は透明な袋に入った錠剤を差し出してくる。
「こちらが睡眠導入剤です。あまり効果が強くないものなので、はじめてでも副作用の心配はそれほどなく飲めると思います」
それから、ともうひとつの袋も出してくる。
「こっちが胃薬ですね。こちらもよく処方されるものなので、特に心配はいらないかと」
純平は差し出された錠剤たちを眺めた。寝る前にたった一粒飲むだけで、眠れるというのだろうか? それにおそらくストレスに付随する胃痛や吐き気も、胃薬ひとつで治るという。
本当か? 純平がこれまであまり医者にかかって来なかったのは、医者や薬というものをそれほど信用していないからだ。医者や目の前にいる水瀬が言うように薬ひとつで人間の身体が治るというのなら、純平の母親は――。
「佐野さん?」
ささやくような声で呼ばれて、純平は意識を引き戻した。過去に浸っている場合ではない。水瀬のぱっちりとした二重の瞳が、すこしだけ心配そうに純平のことを見ている。
「お薬のことでなにか不明な点や心配な点はありますか?」
「いえ……大丈夫です。問題ありません」
「飲んでいてなにか気になることがあったら、いつでも相談してくださいね」
柔らかな声でそう言われて、純平は思わずうなずいた。
会計を終え、席を立った純平の背中に水瀬の明るい「お大事に」という声が響いた。
◇ ◇ ◇
いざ飲む前は抵抗感があった。本当にこんなもので眠れるのか、という疑いもあった。
しかし、すべては杞憂だったのだ。
純平はカーテンの隙間から差し込んでくる朝日を、すっきりとした気持ちで眺めていた。それから頭や身体の軽さを実感する。遅れて、止め忘れたアラームが控えめに鳴る。
アラームを止め、カーテンを開けた。南東向きのこの部屋は朝日がよく入る。いつもは恨めしい気持ちで浴びていたそれが、今は身体の隅々にみなぎるようでとても気持ちいい。
ベッドサイドのテーブルの上に放り出していた錠剤を見る。たった一錠飲むだけでこんなに効果があるなんて。
昨日は薬を飲んでからすぐにベッドに入った。いつものルーティン通り、スマホで動画を見ているうちに自然とまぶたが下がっていて――気づいたらアラームが鳴っていて、朝だったのだ。寝つけないどころか、夜中に一度も目を覚まさなかった。
朝からこんなに身体が軽いのは久しぶりだ。肩に重くのしかかるような疲れがない。頭もクリアに働いている。
純平はパジャマのままキッチンへ行き、数カ月ぶりにドリップコーヒーを淹れた。すこしずつ湯を注ぐ時間、ふんわりと香ってくるコーヒーの匂い。すべてが好ましい。ぐっすり眠れただけでこんなにも人生の色はちがって見えるというのか。
淹れたてのコーヒーをすすりながら、テレビをつけて朝のニュース番組を見る。今日は一日中天気が良いらしい。
今日はきっといい日になる。この時の純平は本気でそう思っていた。
よく眠れたからといって、上司の機嫌に変化がないのはわかりきっていたはずだ。今朝の純平はどうかしていて、自分の機嫌が良ければ上司の機嫌も良いなどという甘い夢を見ていた。
「佐野、ちょっと来い」
出社して三十分も経たないうちに上山に呼ばれ、純平は一度拳を固く握ってから席を立った。
上山の席まで行くと、彼は片手にタバコの箱を持ってパソコンの画面を見るともなしに見ている。
「なにかありましたか」
気をつけつつ、選んだ第一声はそれだった。しかし、その一声が失敗だったことを純平はすぐに知ることになる。
「なにかあったから呼んだんだろうが。お前、午後の会議資料どうした?」
片手でタバコの箱を弄んでいた上山が、じろりと純平を睨む。
「昨日の午前中のうちに人数分印刷して、課長のデスクに置いておきました」
「じゃあなんでないんだよ。資料、どこにも置いてないだろうが」
上山のデスクにさっと目を走らせる。決裁待ちの書類と、おそらく用済みの書類が混ざり合い、山のように積み上がっていてとても仕事が捗るような机ではない。
「本当に置いたんだろうな? お前、俺の分だけ印刷しなかったんじゃないのか?」
「なんでそんなことする必要があるんですか。ちゃんと置きました」
「証拠は?」
「一緒に印刷作業した宮田が――」
後ろを振り返って、純平は漏れそうになったため息を押し殺した。後輩の宮田は自分に火の粉が降りかかってこないよう願うかのようにじっと目を伏せて書類の陰に隠れていた。
「……もう一度、印刷して持ってきます」
「最初からそうしろよ。使えない奴だな」
上山のデスクを離れ、淡々と会議資料を印刷して届け、純平はトイレに駆け込んだ。胃がきりきりして、今朝飲んだコーヒーを戻しそうだった。
スーツのポケットから胃薬を取り出し、水もなしに一錠飲み下す。トイレの鏡に映った自分の顔色は悪くない。よく寝たからだろう。
しかし隠しきれない疲労が、じっとりとその顔に浮かんでいた。
「今回、処方されているのは睡眠導入剤と胃薬ですね。寝れないとか、そういう症状でしょうか?」
「はい、まあ……」
病院で説明したことをここでもう一度説明する必要があるのか、と思いながら純平は気のない返事をした。
純平の返事をものともせず、水瀬は透明な袋に入った錠剤を差し出してくる。
「こちらが睡眠導入剤です。あまり効果が強くないものなので、はじめてでも副作用の心配はそれほどなく飲めると思います」
それから、ともうひとつの袋も出してくる。
「こっちが胃薬ですね。こちらもよく処方されるものなので、特に心配はいらないかと」
純平は差し出された錠剤たちを眺めた。寝る前にたった一粒飲むだけで、眠れるというのだろうか? それにおそらくストレスに付随する胃痛や吐き気も、胃薬ひとつで治るという。
本当か? 純平がこれまであまり医者にかかって来なかったのは、医者や薬というものをそれほど信用していないからだ。医者や目の前にいる水瀬が言うように薬ひとつで人間の身体が治るというのなら、純平の母親は――。
「佐野さん?」
ささやくような声で呼ばれて、純平は意識を引き戻した。過去に浸っている場合ではない。水瀬のぱっちりとした二重の瞳が、すこしだけ心配そうに純平のことを見ている。
「お薬のことでなにか不明な点や心配な点はありますか?」
「いえ……大丈夫です。問題ありません」
「飲んでいてなにか気になることがあったら、いつでも相談してくださいね」
柔らかな声でそう言われて、純平は思わずうなずいた。
会計を終え、席を立った純平の背中に水瀬の明るい「お大事に」という声が響いた。
◇ ◇ ◇
いざ飲む前は抵抗感があった。本当にこんなもので眠れるのか、という疑いもあった。
しかし、すべては杞憂だったのだ。
純平はカーテンの隙間から差し込んでくる朝日を、すっきりとした気持ちで眺めていた。それから頭や身体の軽さを実感する。遅れて、止め忘れたアラームが控えめに鳴る。
アラームを止め、カーテンを開けた。南東向きのこの部屋は朝日がよく入る。いつもは恨めしい気持ちで浴びていたそれが、今は身体の隅々にみなぎるようでとても気持ちいい。
ベッドサイドのテーブルの上に放り出していた錠剤を見る。たった一錠飲むだけでこんなに効果があるなんて。
昨日は薬を飲んでからすぐにベッドに入った。いつものルーティン通り、スマホで動画を見ているうちに自然とまぶたが下がっていて――気づいたらアラームが鳴っていて、朝だったのだ。寝つけないどころか、夜中に一度も目を覚まさなかった。
朝からこんなに身体が軽いのは久しぶりだ。肩に重くのしかかるような疲れがない。頭もクリアに働いている。
純平はパジャマのままキッチンへ行き、数カ月ぶりにドリップコーヒーを淹れた。すこしずつ湯を注ぐ時間、ふんわりと香ってくるコーヒーの匂い。すべてが好ましい。ぐっすり眠れただけでこんなにも人生の色はちがって見えるというのか。
淹れたてのコーヒーをすすりながら、テレビをつけて朝のニュース番組を見る。今日は一日中天気が良いらしい。
今日はきっといい日になる。この時の純平は本気でそう思っていた。
よく眠れたからといって、上司の機嫌に変化がないのはわかりきっていたはずだ。今朝の純平はどうかしていて、自分の機嫌が良ければ上司の機嫌も良いなどという甘い夢を見ていた。
「佐野、ちょっと来い」
出社して三十分も経たないうちに上山に呼ばれ、純平は一度拳を固く握ってから席を立った。
上山の席まで行くと、彼は片手にタバコの箱を持ってパソコンの画面を見るともなしに見ている。
「なにかありましたか」
気をつけつつ、選んだ第一声はそれだった。しかし、その一声が失敗だったことを純平はすぐに知ることになる。
「なにかあったから呼んだんだろうが。お前、午後の会議資料どうした?」
片手でタバコの箱を弄んでいた上山が、じろりと純平を睨む。
「昨日の午前中のうちに人数分印刷して、課長のデスクに置いておきました」
「じゃあなんでないんだよ。資料、どこにも置いてないだろうが」
上山のデスクにさっと目を走らせる。決裁待ちの書類と、おそらく用済みの書類が混ざり合い、山のように積み上がっていてとても仕事が捗るような机ではない。
「本当に置いたんだろうな? お前、俺の分だけ印刷しなかったんじゃないのか?」
「なんでそんなことする必要があるんですか。ちゃんと置きました」
「証拠は?」
「一緒に印刷作業した宮田が――」
後ろを振り返って、純平は漏れそうになったため息を押し殺した。後輩の宮田は自分に火の粉が降りかかってこないよう願うかのようにじっと目を伏せて書類の陰に隠れていた。
「……もう一度、印刷して持ってきます」
「最初からそうしろよ。使えない奴だな」
上山のデスクを離れ、淡々と会議資料を印刷して届け、純平はトイレに駆け込んだ。胃がきりきりして、今朝飲んだコーヒーを戻しそうだった。
スーツのポケットから胃薬を取り出し、水もなしに一錠飲み下す。トイレの鏡に映った自分の顔色は悪くない。よく寝たからだろう。
しかし隠しきれない疲労が、じっとりとその顔に浮かんでいた。
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