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第4錠
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もうここへ来るつもりはなかったのに。
純平はどんよりとした気持ちで薬局のソファに腰かけた。前回とはちがい、今回はきちんとお薬手帳も持参した。二回目だから受付もスムーズだった。
処方された二週間分の薬を飲みきった後、純平はまた不眠に悩まされることになった。薬を飲んでいた頃は布団に入ればすぐに目が閉じてきて、朝までぐっすりだったのに、薬を飲まなくなった瞬間、明け方になっても眠れずに朝日を見るのが日常になった。
ストレス性の胃痛も悪化していて、最近は昼食すらろくに食べられない。元々、朝食は食べないタイプだったが、昼食も満足に食べられないとなると一日の中で食事をするのは夜だけになってしまう。その夜も、残業で潰されることが多々あって、純平の体重は着実に減少しつつあった。
「佐野さん。佐野純平さん。一番窓口へどうぞ」
快活な大きな声。二週間前も会った、担当薬剤師の水瀬の声だろう。窓口の椅子に座ると案の定、水瀬が今日もがっちりとした身体に白衣を着込んでアクリル板の向こうに座っている。
「二週間ぶりですね」
パソコンの操作をしながら水瀬が話しかけてくる。爪の短い指が、器用にキーボードを叩いているのを、見るともなしに見ていた。
「前回と同じお薬が出ていますが、やっぱり薬がないと眠れない感じですか?」
「まあ、そんな感じです」
水瀬の視線が、ちらりと純平の顔を見る。
「寝れない理由が、なにかあったりするんですか?」
水瀬はキーボードを叩いていた手を止めてこちらを見た。すこし茶色がかった、まっすぐな目。純平の濁りきった瞳とはちがう、純粋な目。
純平は正直に話すべきか迷った。会社でのことは医者にも言っていない。ただストレスがかかっていて眠れないと伝えているだけだ。
うつむいていた顔を上げて、水瀬の顔を見た。水瀬はじっと、純平が話し出すのを待っているようにも見えるし、なにも言わなくてもそれはそれでいいと言ってくれそうな雰囲気も持ち合わせている。
喋ってみても、いいかもしれない。ふいに、そう思った。純平の重たい口が、ゆっくりと開く。
「会社で、パワハラを……受けていて」
水瀬はなにも言わない。黙って純平が続きを話すのを待っている。
「四月に直属の上司が変わってから、ずっとこんな感じなんです。わけもわからないことで怒鳴られて、家に帰ってもそれを思い出して寝れなくて」
自分は弱い人間だ、と何度も思った。たかが仕事の関係。家に帰れば忘れていいはずなのに。
「食事は、取れていますか?」
「え?」
水瀬の思いがけない質問に、純平は自虐的な笑みを止めた。彼の目はいつだってまっすぐだ。まっすぐに自分を、患者を見ている。
「二週間前に来た時より、すこし痩せているような気がしたので」
ぐっと、込み上げてくるものがあった。純平は慌てて目を瞬かせる。かすれた声で、大丈夫ですと言うのが精いっぱいだった。
水瀬はそれ以上、突っ込んで来なかった。いつも通り、処方された薬の説明をし、淡々と会計を済ませる。純平が薬をカバンにしまい込み席を立つと、水瀬も立ち上がった。がっちりとした体型から想像していたように、背が高い。純平より頭ひとつ分は高いように見える。
「あまり勝手なことは言えませんけど」
立ち上がった純平に向かって、水瀬が静かな声で言った。
「もしどうしても眠れなくてつらいなら、夜の散歩をおすすめします」
「散歩ですか?」
「はい。足が棒になるまで歩いて、もう歩けないってところで牛丼屋に入ったら最高ですよ」
マスクの下で、水瀬は笑っているようだった。ぱっちりとした目が笑うと細くなって、顔の印象が変わる。悪い人ではない、というのが水瀬に対する純平の評価だった。
「お大事に」
薬局を出る純平の背中に、水瀬が声をかけてくれる。
心がすこしだけ軽かった。ただ薬を出すだけの医者より、実践的な助言をくれる薬剤師のほうを好ましく思っていることは事実だった。
◇ ◇ ◇
純平はどこにも寄らず、まっすぐ帰宅した。今日は土曜日ということもあって、どこも混んでいる。溜まった洗濯物をすべて洗濯機に突っ込んで、見もしないのにテレビをつけた。一人でいる時の静けさがやけに身に染みた。
いつまでも薬に頼って眠ることが得策ではないことはわかっている。それが健康とは程遠いことも。
転職を検討するべきだろうか。今年中に上山がどこかへ行くということは考えられない。彼の元で働く限り、純平がストレスにさらされ続けることは明白である。
ごうんごうん、と洗濯機が回る音を聞きながら純平はベッドに寝転んだ。スマホで転職サイトを開いてみるも、自分にどんな会社が向いているのかがわからない。早々にスマホを投げ出し、目を閉じた。
自分はどこへ向かっていくのだろう。いつまで薬を飲んで眠りにつく生活を送るつもりなのだろう。脳裏に浮かんでくるのは、水瀬の明るい声と、穏やかな笑顔だった。彼に会わないことが健康への第一歩であることはわかっている。病院や薬局は健康な人が行くところではないからだ。
「散歩、するか……」
純平は起き上がると玄関のシューズボックスを漁った。ランニングを趣味にしようと、何年か前に買ったランニングシューズがすこしも履かれないまま眠っているはずだった。
歩いて歩いて、歩きまくって、腹ペコになったら牛丼屋に入る。それは実に水瀬らしい、明るい提案だと思った。
純平はどんよりとした気持ちで薬局のソファに腰かけた。前回とはちがい、今回はきちんとお薬手帳も持参した。二回目だから受付もスムーズだった。
処方された二週間分の薬を飲みきった後、純平はまた不眠に悩まされることになった。薬を飲んでいた頃は布団に入ればすぐに目が閉じてきて、朝までぐっすりだったのに、薬を飲まなくなった瞬間、明け方になっても眠れずに朝日を見るのが日常になった。
ストレス性の胃痛も悪化していて、最近は昼食すらろくに食べられない。元々、朝食は食べないタイプだったが、昼食も満足に食べられないとなると一日の中で食事をするのは夜だけになってしまう。その夜も、残業で潰されることが多々あって、純平の体重は着実に減少しつつあった。
「佐野さん。佐野純平さん。一番窓口へどうぞ」
快活な大きな声。二週間前も会った、担当薬剤師の水瀬の声だろう。窓口の椅子に座ると案の定、水瀬が今日もがっちりとした身体に白衣を着込んでアクリル板の向こうに座っている。
「二週間ぶりですね」
パソコンの操作をしながら水瀬が話しかけてくる。爪の短い指が、器用にキーボードを叩いているのを、見るともなしに見ていた。
「前回と同じお薬が出ていますが、やっぱり薬がないと眠れない感じですか?」
「まあ、そんな感じです」
水瀬の視線が、ちらりと純平の顔を見る。
「寝れない理由が、なにかあったりするんですか?」
水瀬はキーボードを叩いていた手を止めてこちらを見た。すこし茶色がかった、まっすぐな目。純平の濁りきった瞳とはちがう、純粋な目。
純平は正直に話すべきか迷った。会社でのことは医者にも言っていない。ただストレスがかかっていて眠れないと伝えているだけだ。
うつむいていた顔を上げて、水瀬の顔を見た。水瀬はじっと、純平が話し出すのを待っているようにも見えるし、なにも言わなくてもそれはそれでいいと言ってくれそうな雰囲気も持ち合わせている。
喋ってみても、いいかもしれない。ふいに、そう思った。純平の重たい口が、ゆっくりと開く。
「会社で、パワハラを……受けていて」
水瀬はなにも言わない。黙って純平が続きを話すのを待っている。
「四月に直属の上司が変わってから、ずっとこんな感じなんです。わけもわからないことで怒鳴られて、家に帰ってもそれを思い出して寝れなくて」
自分は弱い人間だ、と何度も思った。たかが仕事の関係。家に帰れば忘れていいはずなのに。
「食事は、取れていますか?」
「え?」
水瀬の思いがけない質問に、純平は自虐的な笑みを止めた。彼の目はいつだってまっすぐだ。まっすぐに自分を、患者を見ている。
「二週間前に来た時より、すこし痩せているような気がしたので」
ぐっと、込み上げてくるものがあった。純平は慌てて目を瞬かせる。かすれた声で、大丈夫ですと言うのが精いっぱいだった。
水瀬はそれ以上、突っ込んで来なかった。いつも通り、処方された薬の説明をし、淡々と会計を済ませる。純平が薬をカバンにしまい込み席を立つと、水瀬も立ち上がった。がっちりとした体型から想像していたように、背が高い。純平より頭ひとつ分は高いように見える。
「あまり勝手なことは言えませんけど」
立ち上がった純平に向かって、水瀬が静かな声で言った。
「もしどうしても眠れなくてつらいなら、夜の散歩をおすすめします」
「散歩ですか?」
「はい。足が棒になるまで歩いて、もう歩けないってところで牛丼屋に入ったら最高ですよ」
マスクの下で、水瀬は笑っているようだった。ぱっちりとした目が笑うと細くなって、顔の印象が変わる。悪い人ではない、というのが水瀬に対する純平の評価だった。
「お大事に」
薬局を出る純平の背中に、水瀬が声をかけてくれる。
心がすこしだけ軽かった。ただ薬を出すだけの医者より、実践的な助言をくれる薬剤師のほうを好ましく思っていることは事実だった。
◇ ◇ ◇
純平はどこにも寄らず、まっすぐ帰宅した。今日は土曜日ということもあって、どこも混んでいる。溜まった洗濯物をすべて洗濯機に突っ込んで、見もしないのにテレビをつけた。一人でいる時の静けさがやけに身に染みた。
いつまでも薬に頼って眠ることが得策ではないことはわかっている。それが健康とは程遠いことも。
転職を検討するべきだろうか。今年中に上山がどこかへ行くということは考えられない。彼の元で働く限り、純平がストレスにさらされ続けることは明白である。
ごうんごうん、と洗濯機が回る音を聞きながら純平はベッドに寝転んだ。スマホで転職サイトを開いてみるも、自分にどんな会社が向いているのかがわからない。早々にスマホを投げ出し、目を閉じた。
自分はどこへ向かっていくのだろう。いつまで薬を飲んで眠りにつく生活を送るつもりなのだろう。脳裏に浮かんでくるのは、水瀬の明るい声と、穏やかな笑顔だった。彼に会わないことが健康への第一歩であることはわかっている。病院や薬局は健康な人が行くところではないからだ。
「散歩、するか……」
純平は起き上がると玄関のシューズボックスを漁った。ランニングを趣味にしようと、何年か前に買ったランニングシューズがすこしも履かれないまま眠っているはずだった。
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