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エピローグ
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朝食を終え、コーヒーを片手にぼんやりとベランダから街並みを見下ろしていた。朝日を浴びることは夜の睡眠の質を改善することにもつながるらしい。だから時間がある時はこうしてベランダに出て、なるべく朝日を浴びるようにしている。
こんな習慣も、一人暮らしなら定着しなかったと思う。仕事を休み、ただ怠惰に眠り、デリバリーの食品を食べるだけの日々……そうならなかったのは、水瀬がいたからだ。
「佐野さん」
ベランダの窓がカラカラと開く音がして、水瀬が顔を出した。出勤準備は終わったようで、淡い色のワイシャツにスラックスを合わせている。つい最近染め直した茶髪が朝日を浴びて明るく輝く。
「俺、そろそろ出勤しますね。お昼ご飯は冷蔵庫に入ってるんで」
それだけ言って窓を閉めようとした水瀬の後をついて、純平も室内に戻ってくる。出勤する水瀬を玄関まで見送るのが純平の朝一番の仕事である。
途中でコーヒーカップをテーブルに置き、玄関までついていくと水瀬は露骨に表情を崩した。するりと伸びてきた腕が純平の身体を優しく抱きしめる。
「今日はサッカーの練習もないし、早く帰ってきますよ」
水瀬の肩口に顔を埋めながら、うなずく。おずおずと腕を伸ばして、すこしだけ水瀬の背中を抱きしめた。服の上からでも伝わる、ゴツゴツとした筋肉の質感が夜、一緒に眠る時のことを思い起こさせる。
どちらからともなく身体を離すと、水瀬はひとつ手を振って、玄関から出て行った。純平は部屋に一人、残される。
結局、純平は休職したのち、そのまま復職することなく会社を辞めた。自分が辞めたら、上山の次の標的は後輩の宮田になるのではないかと思ったが、その心配は必要なかった。
上山が左遷されたのだ。純平が退職するにあたり、人事部からヒアリングが行われ、そこで純平は上山から受けたありとあらゆるハラスメントについて洗いざらい話した。その結果、調査が行われ上山のハラスメントが認定され、田舎の営業所へと飛ばされていったらしい。
すべて退職した後に宮田から聞いた話だ。彼は上山がいなくなった職場は快適だと話していた。純平は宮田に謝った。ろくな引き継ぎもなしに辞めてしまったから。しかし当の本人はあまり気にしていないようだ。周りの社員に聞いて上手くやっていると言っていた。
純平は飲みかけのコーヒーを持って、自室に入った。元々は物置部屋だったのを水瀬が掃除をして、純平のために部屋を空けてくれた。今ではパソコンやデスクなど、必要なものは一通り揃っている。
会社を退職してから、純平はずっと無職だったわけではない。迷った結果、明石の話を受けることにしたのだ。今は明石の会社でリモート勤務をしている。年収は下がったが、ストレスはすくないし、仕事量もちょうどいい。一度、折れた人間には最適な職場だった。
オンラインでの朝礼を終え、仕事に取りかかる。昼休憩には、水瀬が用意してくれたお昼ご飯を食べる。水瀬は純平が家事をしようとすると嫌がる。彼曰く、純平はまだ回復途中で、そんなことをする必要はないとのことだった。
仕事に没頭しているとあっという間に日が落ちてきた。退勤のチャットを送り、大きく伸びをしてデスクから立ち上がる。
自室から出て、純平はキッチンに向かった。仕事から帰ってくる水瀬のために、せめて夕食は自分が作りたいと思った。
一人暮らしをしていた期間が長いから、基本的な自炊はできる。料理をすること自体が久しぶりだが、なんとかなるだろう。
必要な食材を冷蔵庫から取り出し、淡々と刻んでいく。冷蔵庫の奥のほうにワインを見つけたから、夕食はパスタがいいかもしれない。
玄関のほうで鍵が開く音がした。水瀬が帰ってきたのだ。ちょうどパスタが茹で上がった頃だった。
「おかえりなさい」
リビングに入ってきた水瀬にキッチンから声をかける。彼は一直線にキッチンに向かってくると、茹で上がったパスタには目もくれず純平の手を取った。
「料理、したんですか?」
「だめでしたか……?」
水瀬が純平の手をひっくり返したり、こねくり回したりしてまじまじと見ている。
「怪我は?」
深刻そうな水瀬の声に、純平は思わず吹き出してしまった。
「してませんよ。料理初心者じゃないんだから」
ホッと息を吐いた水瀬は、そのまま純平の身体を引き寄せた。純平も抗うことなく、水瀬の腕の中にすっぽりと収まる。
「心配なんですよ。佐野さんになにかあったらって思うと、仕事も早く帰りたくなって」
「水瀬さんは心配しすぎです。俺だって普通に社会人やってたんですから、一通りのことは自分でできます」
「俺は佐野さんに幸せに暮らしてほしいだけです」
「もう十分、幸せですよ」
ようやく顔を上げた水瀬は、すこし様子を窺ってから純平の唇に触れるだけのキスをした。外の風を浴びてきた唇は冷たくて、乾いている。
離れていこうとする水瀬の腕を引いた。もう一度、今度は純平のほうから押しつけるようにキスをする。外の匂いがするその身体に腕を回す。キスの合間に、水瀬がくすりと笑った。
「……せっかく作ってくれたパスタ、冷めますよ?」
構わない、と思った。
純平が今ほしいものは夕食ではなく、水瀬のことだったから。
水瀬の太い腕が軽々と純平の身体を持ち上げる。
遠くでカラスの鳴く声がする。もうすぐ、夜がはじまる。
―完―
こんな習慣も、一人暮らしなら定着しなかったと思う。仕事を休み、ただ怠惰に眠り、デリバリーの食品を食べるだけの日々……そうならなかったのは、水瀬がいたからだ。
「佐野さん」
ベランダの窓がカラカラと開く音がして、水瀬が顔を出した。出勤準備は終わったようで、淡い色のワイシャツにスラックスを合わせている。つい最近染め直した茶髪が朝日を浴びて明るく輝く。
「俺、そろそろ出勤しますね。お昼ご飯は冷蔵庫に入ってるんで」
それだけ言って窓を閉めようとした水瀬の後をついて、純平も室内に戻ってくる。出勤する水瀬を玄関まで見送るのが純平の朝一番の仕事である。
途中でコーヒーカップをテーブルに置き、玄関までついていくと水瀬は露骨に表情を崩した。するりと伸びてきた腕が純平の身体を優しく抱きしめる。
「今日はサッカーの練習もないし、早く帰ってきますよ」
水瀬の肩口に顔を埋めながら、うなずく。おずおずと腕を伸ばして、すこしだけ水瀬の背中を抱きしめた。服の上からでも伝わる、ゴツゴツとした筋肉の質感が夜、一緒に眠る時のことを思い起こさせる。
どちらからともなく身体を離すと、水瀬はひとつ手を振って、玄関から出て行った。純平は部屋に一人、残される。
結局、純平は休職したのち、そのまま復職することなく会社を辞めた。自分が辞めたら、上山の次の標的は後輩の宮田になるのではないかと思ったが、その心配は必要なかった。
上山が左遷されたのだ。純平が退職するにあたり、人事部からヒアリングが行われ、そこで純平は上山から受けたありとあらゆるハラスメントについて洗いざらい話した。その結果、調査が行われ上山のハラスメントが認定され、田舎の営業所へと飛ばされていったらしい。
すべて退職した後に宮田から聞いた話だ。彼は上山がいなくなった職場は快適だと話していた。純平は宮田に謝った。ろくな引き継ぎもなしに辞めてしまったから。しかし当の本人はあまり気にしていないようだ。周りの社員に聞いて上手くやっていると言っていた。
純平は飲みかけのコーヒーを持って、自室に入った。元々は物置部屋だったのを水瀬が掃除をして、純平のために部屋を空けてくれた。今ではパソコンやデスクなど、必要なものは一通り揃っている。
会社を退職してから、純平はずっと無職だったわけではない。迷った結果、明石の話を受けることにしたのだ。今は明石の会社でリモート勤務をしている。年収は下がったが、ストレスはすくないし、仕事量もちょうどいい。一度、折れた人間には最適な職場だった。
オンラインでの朝礼を終え、仕事に取りかかる。昼休憩には、水瀬が用意してくれたお昼ご飯を食べる。水瀬は純平が家事をしようとすると嫌がる。彼曰く、純平はまだ回復途中で、そんなことをする必要はないとのことだった。
仕事に没頭しているとあっという間に日が落ちてきた。退勤のチャットを送り、大きく伸びをしてデスクから立ち上がる。
自室から出て、純平はキッチンに向かった。仕事から帰ってくる水瀬のために、せめて夕食は自分が作りたいと思った。
一人暮らしをしていた期間が長いから、基本的な自炊はできる。料理をすること自体が久しぶりだが、なんとかなるだろう。
必要な食材を冷蔵庫から取り出し、淡々と刻んでいく。冷蔵庫の奥のほうにワインを見つけたから、夕食はパスタがいいかもしれない。
玄関のほうで鍵が開く音がした。水瀬が帰ってきたのだ。ちょうどパスタが茹で上がった頃だった。
「おかえりなさい」
リビングに入ってきた水瀬にキッチンから声をかける。彼は一直線にキッチンに向かってくると、茹で上がったパスタには目もくれず純平の手を取った。
「料理、したんですか?」
「だめでしたか……?」
水瀬が純平の手をひっくり返したり、こねくり回したりしてまじまじと見ている。
「怪我は?」
深刻そうな水瀬の声に、純平は思わず吹き出してしまった。
「してませんよ。料理初心者じゃないんだから」
ホッと息を吐いた水瀬は、そのまま純平の身体を引き寄せた。純平も抗うことなく、水瀬の腕の中にすっぽりと収まる。
「心配なんですよ。佐野さんになにかあったらって思うと、仕事も早く帰りたくなって」
「水瀬さんは心配しすぎです。俺だって普通に社会人やってたんですから、一通りのことは自分でできます」
「俺は佐野さんに幸せに暮らしてほしいだけです」
「もう十分、幸せですよ」
ようやく顔を上げた水瀬は、すこし様子を窺ってから純平の唇に触れるだけのキスをした。外の風を浴びてきた唇は冷たくて、乾いている。
離れていこうとする水瀬の腕を引いた。もう一度、今度は純平のほうから押しつけるようにキスをする。外の匂いがするその身体に腕を回す。キスの合間に、水瀬がくすりと笑った。
「……せっかく作ってくれたパスタ、冷めますよ?」
構わない、と思った。
純平が今ほしいものは夕食ではなく、水瀬のことだったから。
水瀬の太い腕が軽々と純平の身体を持ち上げる。
遠くでカラスの鳴く声がする。もうすぐ、夜がはじまる。
―完―
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