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4章(3)
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久しぶりにやってきた市民プールは、それほど混んではいなかった。浅いほうのプールで、小学生がちらほらと遊んでいる。より本格的に泳ぐ人のための25mプールには、プールサイドからほど近いところに一人が浮いているだけだった。
近くに寄ってたしかめなくてもわかる。小柄だが、引き締まった体型。紺色の競技用水着。道上だ。旭陽が思った通り、道上は帰省したというのにプールに入り浸っていた。
旭陽が近寄っていくと、その姿が道上の目に映ったのか、彼は一度水中に沈んでから顔を上げた。
「もう辞めたのかと思った」
道上の狼のように鋭い視線が旭陽を射抜く。
道上を無視して、プールに飛び込む。体温と同じくらいの、ぬるい水に身体が包まれる。三歳の頃から慣れ親しんだ、この感覚。
旭陽は幼い頃から、水が怖いと思ったことが一度もなかった。クラブに通いはじめた頃から浮くことも沈むことも自由自在にできたし、四泳法を覚えるのも早かった。その頃はもしかして自分は水泳の天才なのかもしれない、なんて思ったりしたものだ。実際は道上がクラブに来たと同時にあらゆることが彼には及ばないと気づかされたのだが。
「辞めたんならここに来てない」
道上の隣に浮かび上がり、天井を見つめたまま言った。プールの天井は夏の空と同じくらい高くて、どんなに手を伸ばしても届きそうにない。旭陽にとっての道上は、空と同じだった。目を向ければいつでもそこにあるのに、決して届きはしないもの。手を掠めたことさえ、なかった。
「お前こそ、帰省してていいのかよ。合宿とかあるんじゃないの」
「肩壊して休み」
「だったら市民プールもだめだろ」
身体にぶつかってくるうねるような波と水が跳ねる音で、道上がプールから上がったのがわかった。耳元でちゃぷちゃぷと揺れる水の音と混じって、遠くから小学生たちの声が高い天井に反響して聞こえてくる。
明るすぎる照明に目が痛くなってきて、旭陽は水中でターンをしてプール端に寄り、身体を引き揚げた。道上は足先を水に浸したまま、水深の浅いプールのほうをぼんやりと見ていた。
「昔は足がつかないプールが怖かった」
ふいに道上がそんなことを言った。
「水泳を習いはじめたのも、俺の意思じゃなかった」
「父親が競泳選手だったんだっけ?」
旭陽の問いに、道上がこくりとうなずく。道上の父親が有名な競泳選手だということは、ずっと昔に風の噂で聞いたことがあった。道上がクラブに入ったのも、父親が息子にどうしても水泳をやらせたかったからだ、と。
「小学生からはじめた俺が、三歳からやってるお前に追いつけるわけないって当時は思ってた」
「まあ、普通はそうだろうな。お前は普通じゃないから」
「負けることが許されないんだよ、俺は」
こうしてプールサイドに座って道上と話をするのは、何年ぶりだろう。大会の時などにちょこちょこ顔を合わせてはいたが、思い出話をするような時間はなかった。
ちらりと道上の横顔を見る。肩の辺りに四角く残るテーピングの跡。合宿に参加できなかったのに、帰省先でまでプールに入る律義さ。いや、執念と言ったほうがいいのだろうか。天才を形づくるものが、決して生易しいものではないことに、旭陽は薄々気づきはじめていた。
「お前が辞めるなら、俺も辞める」
道上は、はっきりと言いきった。
「……なんだよ、それ」
言葉に詰まり、横顔を窺う。道上は顔こそ前を向いているものの、視線は確実に旭陽を捉えていた。
「お前が常に俺と比べられてきたように、俺もずっとお前と比べられてきた。お前が何歳から水泳をやってようと、努力の天才だって言われようと、俺はお前に負けられない。――お前がいなくなった競泳の世界で、俺が勝ち続ける理由はない」
心の底が、じわじわと熱くなっていくようだった。旭陽は道上のせいで、泳ぐことを止めようとしているのに。
この感情にどういった名前をつけたらいいのか、旭陽にはわからなかった。憎しみ、とはまたちがう。道上に対して、腹も立っている。しかし同時に、道上の競争相手は自分しか務まらないのだという優越感のようなものがある。
色んな感情がごちゃまぜになって、旭陽はつま先で水面を蹴飛ばした。飛沫を上げた水が降りかかり、吸い慣れた塩素の匂いが肺を満たす。
……結局、自分はここでしか生きられないのだ。自分から水泳を取り払ってしまったら、後にはなにも残らない。碧が書くのを止められないと言ったように、旭陽もまた泳ぐことを止められない。それがどんなにつらく、これから何度も道上との差を見せつけられたとしても。
「肩壊してんなら、早く帰れよ」
「お前は?」
「俺は練習してから帰る。しばらく部活も出てなかったから」
道上は一瞬、旭陽の顔を見て唇を歪めたような気がした。それが笑みだったのかもしれないと気づいたのは、彼がシャワー室をくぐり抜けて更衣室の窓に映った後だった。
めいいっぱい泳いだら、家に帰ろう。家に帰ったら母親に伝えないといけない。
自分はまだ部活も大学も辞めない。もう一度、水泳に向き合ってみる、と。
そして帰省から帰ったら碧にも言わなくてはいけない。
延長戦。碧が二作目を十万部売ると言うのなら、自分は次の大会で道上の記録を破る。
近くに寄ってたしかめなくてもわかる。小柄だが、引き締まった体型。紺色の競技用水着。道上だ。旭陽が思った通り、道上は帰省したというのにプールに入り浸っていた。
旭陽が近寄っていくと、その姿が道上の目に映ったのか、彼は一度水中に沈んでから顔を上げた。
「もう辞めたのかと思った」
道上の狼のように鋭い視線が旭陽を射抜く。
道上を無視して、プールに飛び込む。体温と同じくらいの、ぬるい水に身体が包まれる。三歳の頃から慣れ親しんだ、この感覚。
旭陽は幼い頃から、水が怖いと思ったことが一度もなかった。クラブに通いはじめた頃から浮くことも沈むことも自由自在にできたし、四泳法を覚えるのも早かった。その頃はもしかして自分は水泳の天才なのかもしれない、なんて思ったりしたものだ。実際は道上がクラブに来たと同時にあらゆることが彼には及ばないと気づかされたのだが。
「辞めたんならここに来てない」
道上の隣に浮かび上がり、天井を見つめたまま言った。プールの天井は夏の空と同じくらい高くて、どんなに手を伸ばしても届きそうにない。旭陽にとっての道上は、空と同じだった。目を向ければいつでもそこにあるのに、決して届きはしないもの。手を掠めたことさえ、なかった。
「お前こそ、帰省してていいのかよ。合宿とかあるんじゃないの」
「肩壊して休み」
「だったら市民プールもだめだろ」
身体にぶつかってくるうねるような波と水が跳ねる音で、道上がプールから上がったのがわかった。耳元でちゃぷちゃぷと揺れる水の音と混じって、遠くから小学生たちの声が高い天井に反響して聞こえてくる。
明るすぎる照明に目が痛くなってきて、旭陽は水中でターンをしてプール端に寄り、身体を引き揚げた。道上は足先を水に浸したまま、水深の浅いプールのほうをぼんやりと見ていた。
「昔は足がつかないプールが怖かった」
ふいに道上がそんなことを言った。
「水泳を習いはじめたのも、俺の意思じゃなかった」
「父親が競泳選手だったんだっけ?」
旭陽の問いに、道上がこくりとうなずく。道上の父親が有名な競泳選手だということは、ずっと昔に風の噂で聞いたことがあった。道上がクラブに入ったのも、父親が息子にどうしても水泳をやらせたかったからだ、と。
「小学生からはじめた俺が、三歳からやってるお前に追いつけるわけないって当時は思ってた」
「まあ、普通はそうだろうな。お前は普通じゃないから」
「負けることが許されないんだよ、俺は」
こうしてプールサイドに座って道上と話をするのは、何年ぶりだろう。大会の時などにちょこちょこ顔を合わせてはいたが、思い出話をするような時間はなかった。
ちらりと道上の横顔を見る。肩の辺りに四角く残るテーピングの跡。合宿に参加できなかったのに、帰省先でまでプールに入る律義さ。いや、執念と言ったほうがいいのだろうか。天才を形づくるものが、決して生易しいものではないことに、旭陽は薄々気づきはじめていた。
「お前が辞めるなら、俺も辞める」
道上は、はっきりと言いきった。
「……なんだよ、それ」
言葉に詰まり、横顔を窺う。道上は顔こそ前を向いているものの、視線は確実に旭陽を捉えていた。
「お前が常に俺と比べられてきたように、俺もずっとお前と比べられてきた。お前が何歳から水泳をやってようと、努力の天才だって言われようと、俺はお前に負けられない。――お前がいなくなった競泳の世界で、俺が勝ち続ける理由はない」
心の底が、じわじわと熱くなっていくようだった。旭陽は道上のせいで、泳ぐことを止めようとしているのに。
この感情にどういった名前をつけたらいいのか、旭陽にはわからなかった。憎しみ、とはまたちがう。道上に対して、腹も立っている。しかし同時に、道上の競争相手は自分しか務まらないのだという優越感のようなものがある。
色んな感情がごちゃまぜになって、旭陽はつま先で水面を蹴飛ばした。飛沫を上げた水が降りかかり、吸い慣れた塩素の匂いが肺を満たす。
……結局、自分はここでしか生きられないのだ。自分から水泳を取り払ってしまったら、後にはなにも残らない。碧が書くのを止められないと言ったように、旭陽もまた泳ぐことを止められない。それがどんなにつらく、これから何度も道上との差を見せつけられたとしても。
「肩壊してんなら、早く帰れよ」
「お前は?」
「俺は練習してから帰る。しばらく部活も出てなかったから」
道上は一瞬、旭陽の顔を見て唇を歪めたような気がした。それが笑みだったのかもしれないと気づいたのは、彼がシャワー室をくぐり抜けて更衣室の窓に映った後だった。
めいいっぱい泳いだら、家に帰ろう。家に帰ったら母親に伝えないといけない。
自分はまだ部活も大学も辞めない。もう一度、水泳に向き合ってみる、と。
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