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4章(6)
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ちょうど夏季休暇がはじまる頃、出版社から連絡があったという。
「元々、他の作家が原稿を落とした隙間に入り込んだのが僕だった」
焦点の合わない目をさまよわせながら、碧が小さな声で語る。
「僕なら一ヶ月で初校まで持っていけると言って……刊行予定に入れてもらった」
「じゃあ、どうして出版の話がなくなったんです――」
「僕より有名な作家が話を聞きつけて、出版社に書き下ろしを出したからだ」
その時、書く気力がなくなった。そう言って、碧はへらりと笑った。痛々しい、自嘲気味の笑顔を見ていられなくて、旭陽は碧から目を逸らす。
「夢見しずくだ……僕はまたあいつに負けた!」
ガシャン、と大きな物音がして旭陽が顔を向けた時には、床にキーボードが転がっていた。碧が呻きとも叫びとも取れない不明瞭な声を上げながら、デスクの上に置かれたものを薙ぎ払う。モニターが大きな音を立てて床に落ち、紙束が宙を舞う。
そのうち碧は肩で大きく息をすると、窓に歩み寄り、ベランダに踊り出た。腰の高さほどある手すりに片脚をかけたのを見て、慌てて走り寄って肩を掴む。
「なにやってんすか! 落ちますよ!」
「止めてくれるな! 僕はわかったんだ、所詮凡人がなにをやったって天才には勝てない! 書けないのなら……いっそ死んだほうがマシなんだ」
手すりを乗り越えようとする碧の身体に掴みかかり、力まかせに引き剥がす。ろくに食べていないせいなのか、それとも元来弱い性質なのか、碧の身体はあっさりと持ち上げられ、部屋の中に引き戻された。
半ば強引に部屋へと引っ張り込み、敷きっぱなしの布団の上にその身体を放る。ベランダに続く窓を閉め切り、鍵をかけて旭陽は窓の前に立ちふさがった。もう二度と、碧が馬鹿な真似を起こさないようにここで見張っている必要があった。
「なんだよ、十束くん……僕の邪魔をしようってのかい」
「小野さんはまだ死ぬべきじゃありません」
「君に、なにがわかる――」
「わかります」
前にもこんなやり取りをしたような気がする。その時は旭陽が碧に、自分のなにがわかるのかと突っかかった。碧は旭陽に対し、わかると言ってくれたのだ。今ならわかる。碧があんなことを言った理由が。道上に負けて、競泳を辞めようとしていた自分を引き止めるような真似をした理由が。
「小野さんのデビュー作読みました」
「……面白かったかい?」
「あれは……俺のことを書いた小説ですよね?」
布団の上でだらりと手足を投げ出している碧を見つめた。覇気のない瞳に、自分の顔が映っている。
碧の小説を読んだ時、旭陽は感じた。これは自分のための物語だ、と。
「俺、小野さんとどっかで会ったことありましたっけ?」
碧の口から乾いた笑いが溢れた。
「君は僕を知らない……でも、僕は君を知っている」
「なぞなぞみたいっすね」
「そうかい? 実際、事実をありのままに表現したらそうなるのだから仕方がない」
がばりと勢いをつけて起き上がった碧が、未だ窓の前で仁王立ちをしている旭陽の顔を見上げた。
「十束くんの推測は正しい。あのデビュー作の主人公のモデルは、君だ」
「主人公のライバルは道上、ですか?」
「そうさ。許可も取らずにモデルにして悪かったね。気に障るなら出版を取りやめてもらおうか?」
「いえ、結構です」
それよりも、と旭陽はその場にしゃがみ込んだ。布団の上であぐらをかいている碧と視線がかち合う。
「小野さん、あんたはあの小説の続きを書かなきゃいけない」
碧がわずかに目を見開いた。
「続きを書かないで死ぬなんて、俺が許さない」
碧が目を逸らす。そしてゆっくりと立ち上がる。またベランダへ飛び出すのではないか、と一瞬身構えたが、彼は旭陽に背を向け、床に落ちたキーボードを拾い、デスクの上に置いた。両手で重そうにモニターを持ち上げ、元通りの場所に戻し、配線をつなぎ直す。散らばった紙束を集め、ゴミ箱に戻す。
自分の心を整えるように、碧はひとつひとつを元通りにしていった。デスク周りが一通り片付くと、碧は狭いキッチンで顔を洗い、床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。
すべてがもう一度、回り出そうとしていた。粛々と行われる身支度はまるで儀式のようで、旭陽は部屋の片隅にしゃがみ込んだまま、碧の様子を黙って見ていた。
「十束くん。今日の予定は?」
「今日すか? 今日は特になにもないですけど……」
「じゃあ一晩、そこにいてくれないか」
予想もしなかった提案に、一瞬なにを言われたのか理解が追いつかなくなる。
「はあ……」
「一晩起きていろってわけではない。寝たくなったら寝ていい」
「部屋、隣なのにわざわざここにいる意味あります?」
「僕がその気になれば今すぐにだって飛び降りれるぞ」
脅しのような文言に、旭陽は慌てて立ち上がり、窓を守った。その様子を見て、碧がかすかに笑う。
「……人間には、独りでは越えられない夜があるんだ」
そう言うと、碧は姿勢を正してデスクチェアに腰を下ろした。パソコンの電源をつけ、文書作成のソフトを立ち上げる。画面にはびっしりと文字が浮かび上がったが、碧はクリックひとつでそれらをすべて削除してしまった。
「いいんすか、消しちゃって」
後ろから画面を覗き込み、旭陽が問うと彼は「いいんだ」と言ってキーボードの上に両手を置いた。
「君の望み通り、続きを書こう。しかし無料では書けない。報酬はもらわないと」
碧が振り返り、旭陽の顔を見上げる。色の戻った瞳を見て、旭陽も決心した。
「俺は――次の大会で、道上の記録を破ります」
「元々、他の作家が原稿を落とした隙間に入り込んだのが僕だった」
焦点の合わない目をさまよわせながら、碧が小さな声で語る。
「僕なら一ヶ月で初校まで持っていけると言って……刊行予定に入れてもらった」
「じゃあ、どうして出版の話がなくなったんです――」
「僕より有名な作家が話を聞きつけて、出版社に書き下ろしを出したからだ」
その時、書く気力がなくなった。そう言って、碧はへらりと笑った。痛々しい、自嘲気味の笑顔を見ていられなくて、旭陽は碧から目を逸らす。
「夢見しずくだ……僕はまたあいつに負けた!」
ガシャン、と大きな物音がして旭陽が顔を向けた時には、床にキーボードが転がっていた。碧が呻きとも叫びとも取れない不明瞭な声を上げながら、デスクの上に置かれたものを薙ぎ払う。モニターが大きな音を立てて床に落ち、紙束が宙を舞う。
そのうち碧は肩で大きく息をすると、窓に歩み寄り、ベランダに踊り出た。腰の高さほどある手すりに片脚をかけたのを見て、慌てて走り寄って肩を掴む。
「なにやってんすか! 落ちますよ!」
「止めてくれるな! 僕はわかったんだ、所詮凡人がなにをやったって天才には勝てない! 書けないのなら……いっそ死んだほうがマシなんだ」
手すりを乗り越えようとする碧の身体に掴みかかり、力まかせに引き剥がす。ろくに食べていないせいなのか、それとも元来弱い性質なのか、碧の身体はあっさりと持ち上げられ、部屋の中に引き戻された。
半ば強引に部屋へと引っ張り込み、敷きっぱなしの布団の上にその身体を放る。ベランダに続く窓を閉め切り、鍵をかけて旭陽は窓の前に立ちふさがった。もう二度と、碧が馬鹿な真似を起こさないようにここで見張っている必要があった。
「なんだよ、十束くん……僕の邪魔をしようってのかい」
「小野さんはまだ死ぬべきじゃありません」
「君に、なにがわかる――」
「わかります」
前にもこんなやり取りをしたような気がする。その時は旭陽が碧に、自分のなにがわかるのかと突っかかった。碧は旭陽に対し、わかると言ってくれたのだ。今ならわかる。碧があんなことを言った理由が。道上に負けて、競泳を辞めようとしていた自分を引き止めるような真似をした理由が。
「小野さんのデビュー作読みました」
「……面白かったかい?」
「あれは……俺のことを書いた小説ですよね?」
布団の上でだらりと手足を投げ出している碧を見つめた。覇気のない瞳に、自分の顔が映っている。
碧の小説を読んだ時、旭陽は感じた。これは自分のための物語だ、と。
「俺、小野さんとどっかで会ったことありましたっけ?」
碧の口から乾いた笑いが溢れた。
「君は僕を知らない……でも、僕は君を知っている」
「なぞなぞみたいっすね」
「そうかい? 実際、事実をありのままに表現したらそうなるのだから仕方がない」
がばりと勢いをつけて起き上がった碧が、未だ窓の前で仁王立ちをしている旭陽の顔を見上げた。
「十束くんの推測は正しい。あのデビュー作の主人公のモデルは、君だ」
「主人公のライバルは道上、ですか?」
「そうさ。許可も取らずにモデルにして悪かったね。気に障るなら出版を取りやめてもらおうか?」
「いえ、結構です」
それよりも、と旭陽はその場にしゃがみ込んだ。布団の上であぐらをかいている碧と視線がかち合う。
「小野さん、あんたはあの小説の続きを書かなきゃいけない」
碧がわずかに目を見開いた。
「続きを書かないで死ぬなんて、俺が許さない」
碧が目を逸らす。そしてゆっくりと立ち上がる。またベランダへ飛び出すのではないか、と一瞬身構えたが、彼は旭陽に背を向け、床に落ちたキーボードを拾い、デスクの上に置いた。両手で重そうにモニターを持ち上げ、元通りの場所に戻し、配線をつなぎ直す。散らばった紙束を集め、ゴミ箱に戻す。
自分の心を整えるように、碧はひとつひとつを元通りにしていった。デスク周りが一通り片付くと、碧は狭いキッチンで顔を洗い、床に落ちていた眼鏡を拾い上げた。
すべてがもう一度、回り出そうとしていた。粛々と行われる身支度はまるで儀式のようで、旭陽は部屋の片隅にしゃがみ込んだまま、碧の様子を黙って見ていた。
「十束くん。今日の予定は?」
「今日すか? 今日は特になにもないですけど……」
「じゃあ一晩、そこにいてくれないか」
予想もしなかった提案に、一瞬なにを言われたのか理解が追いつかなくなる。
「はあ……」
「一晩起きていろってわけではない。寝たくなったら寝ていい」
「部屋、隣なのにわざわざここにいる意味あります?」
「僕がその気になれば今すぐにだって飛び降りれるぞ」
脅しのような文言に、旭陽は慌てて立ち上がり、窓を守った。その様子を見て、碧がかすかに笑う。
「……人間には、独りでは越えられない夜があるんだ」
そう言うと、碧は姿勢を正してデスクチェアに腰を下ろした。パソコンの電源をつけ、文書作成のソフトを立ち上げる。画面にはびっしりと文字が浮かび上がったが、碧はクリックひとつでそれらをすべて削除してしまった。
「いいんすか、消しちゃって」
後ろから画面を覗き込み、旭陽が問うと彼は「いいんだ」と言ってキーボードの上に両手を置いた。
「君の望み通り、続きを書こう。しかし無料では書けない。報酬はもらわないと」
碧が振り返り、旭陽の顔を見上げる。色の戻った瞳を見て、旭陽も決心した。
「俺は――次の大会で、道上の記録を破ります」
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