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ダンジョン・ロマンティカ
第1話「この世界は、少しだけおかしい」
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---
最初の記憶は、光だった。
ぼんやりとした温かい光の中で、誰かが自分を抱き上げている。その腕は細くて、でも力強くて、自分を絶対に離さないという意思が伝わってくるようだった。
声が聞こえる。泣いている声だ。嬉し泣き。
「――男の子……男の子よ……!」
その言葉に、周囲がどよめいた。歓声が上がり、何人もの人が口々に祝福の言葉を述べる。まるでこの世に王子が生まれたかのような騒ぎだった。
――いや、別にそこまで大袈裟にならなくてもよくない?
生まれたばかりの赤子の頭の中で、そんな感想が浮かんだ。
もちろん、それを口にできるわけもなく。新生児の身体はただふにゃふにゃと動くばかりで、泣くことしかできなかった。
でも、意識はあった。
不思議なほどに、はっきりと。
---
名前は、日向 蓮(ひなた れん)。
母さんがつけてくれた名前らしい。蓮の花のように、泥の中からでも美しく咲ける子に――そんな願いが込められているのだと、後から聞いた。
母さんの名前は、日向 咲良(ひなた さくら)。優しくて、でもどこか儚げな笑顔をする人だった。フリーランスの翻訳家をしていて、家で仕事をしながら俺たちを育ててくれた。
俺たち、というのは――。
「れんくん、おきてー! あさだよー!」
四歳の俺の頬を、小さな手がぺちぺちと叩く。目を開けると、少しだけつり目がちな瞳がすぐ近くにあった。
姉の、日向 凛花(ひなた りんか)。俺より二つ上の六歳。
「りんねえ……まだねむい……」
「だめー! きょうはようちえんのにゅうえんしきなんだから!」
凛花姉ちゃん――りんねえは、しっかり者だ。母さんが仕事で忙しい時は、まだ六歳なのに俺の面倒を見てくれる。朝ごはんは作れないけど、起こしてくれるのは毎朝姉ちゃんの役目だった。
「……うー」
「うーじゃないの! ほら、おきて!」
布団を引っぺがされて、四月の朝の冷気が身体を包む。仕方なくのそのそと起き上がると、りんねえが満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、おきがえてつだってあげる」
「じぶんでできるよ」
「いいからいいから」
姉ちゃんは、弟の世話を焼くのが好きだった。というより――この世界では、男の子の世話を焼くということ自体が、特別なことなのだ。
男女比、一対五十。
この世界では、男は圧倒的に少ない。
俺はこの四年間で、それを嫌というほど理解していた。
---
前世の記憶というものは、不思議なものだ。
別に映画のように鮮明な映像が脳内で再生されるわけじゃない。「こういう世界があった」という漠然とした知識と感覚が、まるで常識のように頭の中に染みついている。
前の世界では、男と女は大体半々だった。学校のクラスには男子と女子が同じくらいいて、街を歩けば男も女も同じくらいすれ違った。
でも、自分が誰だったのかは分からない。名前も、顔も、年齢も、何をしていた人間なのかも。ただ「そういう世界で生きていた」という感覚だけが残っている。
最初は混乱した。なんで周りに男の子がいないんだろう。なんでお母さんは俺を見るたびにあんなに大事そうな顔をするんだろう。なんで検診のたびにお医者さんが俺を宝物みたいに扱うんだろう。
でも、四歳にもなれば分かる。
この世界では、男はそれだけ貴重なのだ。
精液提供による人工的な方法で人口は維持されている。でも、それだけでは「男」は増えない。実際に男女が関係を持った上での妊娠の方が、有意に男児の出生率が高い――そんな研究結果があるらしい。
だから、男は複数の婚姻相手を持つことが法的に認められ、むしろ推奨されている。
前世の感覚で言えば、とんでもない話だ。
でも、この世界ではそれが「正しい」こと。種の存続のために必要なこと。
――まあ、四歳の俺にそんな難しいことを考える余裕はなかった。
---
「れんくーん!」
幼稚園の門をくぐった瞬間、数人の女の子たちが駆け寄ってきた。入園式だというのに、まるで旧知の仲のように。
――いや、違う。「男の子が来た」というだけで、これだ。
「あっ、ほんとにおとこのこだ!」
「かわいー!」
「ねえねえ、なまえは?」
わらわらと囲まれる。りんねえが隣でちょっと嫌そうな顔をしたのが見えた。
前世の感覚が、ここで役に立つ。
普通に接すればいい。それだけだ。
「おれ、ひなたれん! よろしくね!」
にかっと笑うと、女の子たちが一瞬きょとんとした。
この世界の男の子は、大抵おとなしい。大勢の女の子に囲まれれば、たいていは怖がったり、恥ずかしがったりする。物心ついた頃から「あなたは特別」「大事にしなければならない存在」と言われ続けて育てば、自然と引っ込み思案になるのだろう。
でも、俺は違う。
前の世界では、男も女も関係なく、友達は友達だった。一緒に遊んで、一緒に笑って、一緒にふざけて。
だから。
「なにしてあそぶ? おにごっこする? それともすなばいく?」
自分から声をかけると、女の子たちの顔がぱあっと明るくなった。
「おにごっこ! おにごっこしたい!」
「わたしもー!」
「じゃあ、さいしょおにやるよ! いーい、にげてにげて!」
走り出すと、きゃあきゃあと歓声が上がった。
りんねえが遠くで「もう……しょうがないなあ」とため息をつきながらも、少し嬉しそうに笑っていた。
---
幼稚園で初めての友達ができた日のことは、よく覚えている。
入園から一週間ほど経った、ある昼下がり。園庭の隅で、一人の女の子がしゃがみ込んでいた。
他の子たちが元気にわいわいしている中で、その子だけがぽつんと。
「どうしたの?」
声をかけると、その子はびくっと肩を震わせて振り返った。大きな茶色い瞳が、少し潤んでいた。
「……なんでもない」
「なんでもなくない顔してるよ」
「…………」
その子は、天宮 雫(あまみや しずく)と言った。おっとりした見た目に反して、少し人見知りするタイプ。入園から一週間、まだ誰とも打ち解けられていないようだった。
「おうちに、かえりたい……」
「んー、まあ気持ちはわかるよ。でもさ、ようちえんも楽しいよ?」
「……たのしくない。みんな、もうグループできてるし……」
前世の感覚が、また囁く。こういう時は、理屈じゃない。
「じゃあ、おれといっしょにあそぼ」
「……え?」
「おれ、友達いっぱいほしいんだ。しずくちゃんも、友達になってくれない?」
手を差し出すと、雫はきょとんとした顔で俺を見つめた。
「……おとこのこなのに、わたしなんかと、ともだちになりたいの?」
「なんで『なのに』? 男とか女とかかんけいないでしょ、友達に」
その言葉が、どれだけこの世界の常識から外れているか、四歳の俺には正直よく分かっていなかった。
この世界で男の子は「守られる存在」だ。女の子の方から近づくことはあっても、男の子の方から気軽に手を差し出すことは珍しい。ましてや、「友達になってほしい」なんて――。
雫は数秒間、差し出された手を見つめていた。
そして、おずおずと、小さな手を重ねた。
「……うん。ともだち」
「やった! じゃあ行こう、あっちでりんねえたちが何かやってるみたいだから!」
「わっ、は、はやい……!」
手を引いて走り出す。雫が慌てながらも、少しだけ笑ったのが分かった。
---
その日から、雫は俺の隣にいることが多くなった。
最初はもじもじしていた雫も、一週間もすれば少しずつ笑顔が増えていった。俺が他の子たちと遊ぶ時も、「しずくちゃんもおいでよ」と声をかけるうちに、自然とグループに馴染んでいった。
「れんくん、ありがとう」
「んー? なにが?」
「ともだち、できた」
「それはしずくちゃんがいい子だからだよ」
「……っ」
雫が真っ赤になって俯いた。四歳児相手に何を照れているのか――と前世の感覚では思うけれど、この世界では男の子から褒められるというのは、それだけで特別なことらしい。
まあ、深くは考えない。友達は多い方がいい。それだけだ。
---
「れんくん、きょうね、わたしのおべんとうにたまごやきいっぱいはいってるの。ひとつあげる!」
「お、マジ? ありがとう! あ、おれのウインナー一個あげるよ」
「……いいの?」
「友達なんだからいいに決まってんじゃん」
昼食の時間。俺と雫が弁当を広げていると、もう一人、すっと隣に座ってくる影があった。
「……わたしのも、あげる」
目を向けると、真っ黒なストレートの髪をした女の子が、弁当箱からミニトマトを一つ差し出していた。
静かな目。整った顔立ち。四歳にして、どこか大人びた雰囲気。
名前は、鷹司 沙耶(たかつかさ さや)。
鷹司、という名前を聞いて、後に母さんから教えてもらうことになる。鷹司家は旧華族の血筋を引く名家で、政財界に強い影響力を持つ一族だと。沙耶はそこの長女。
しかし、四歳の俺にそんなことは分からない。
「お、ありがとう! おれトマト好きなんだよ!」
「…………」
沙耶は少し驚いたような顔をした。それから、ほんの微かに――本当に微かに、口角が上がった。
「……あなた、変わってるのね」
「えー、そう?」
「おとこのこは、大体もっとおとなしいもの。あんまり話しかけてこないし」
「そっかー。でも、話しかけないと友達になれないじゃん」
「……友達」
沙耶はその言葉を、まるで初めて聞いた外国語のように反復した。
「わたしと、友達になりたいの?」
「うん。沙耶ちゃんでしょ? さっきせんせいがなまえよんでるの聞いた。よろしくね」
「…………」
沙耶は黙って俺を見つめた後、静かに頷いた。
「……よろしく」
その声は小さかったけれど、確かに温度があった。
後から知ったことだが、鷹司家の教育方針は厳格そのものだったらしい。「男性は我々が守るべき存在。対等に馴れ合うものではない」――そんな考えが根底にある。
四歳の沙耶も、すでにその教育を受けていた。だからこそ、男の子から対等に「友達になろう」と言われたことに、戸惑ったのだろう。
でも、沙耶は拒絶しなかった。
それが、全ての始まりだった。
---
一方、家に帰れば、もう一人の存在が俺を待っている。
「にいに、おかえいー!」
玄関のドアを開けた瞬間、小さな身体が突進してくる。受け止めると、ふわふわの髪が鼻をくすぐった。
妹の、日向 結月(ひなた ゆづき)。二歳。
「ただいま、ゆづき」
「にいに、にいに! きょう、ねんどでおはなつくったの!」
「お、すごいじゃん。見せてよ」
「うん!」
結月はとてとてと走っていき、テーブルの上に置いてあった粘土細工を持ってくる。丸い塊が三つくっついた、かろうじて花に見えなくもない何かだった。
「これ、にいにに、あげゆ!」
「マジで? ありがとう、大事にするね」
「えへへー」
結月を抱き上げると、きゃっきゃと笑った。
りんねえが後ろから「ゆづき、れんくんに抱きつきすぎ」とたしなめるが、結月は「やーだー」と舌を出す。
「りんねえも一緒に遊ぼうよ」
「……べ、別にれんくんが言うなら」
姉ちゃんは時々そういう言い方をする。素直じゃないけど、本当は一番一緒に遊びたがっているのを俺は知っている。
前世の感覚がなければ、この姉妹の愛情がどれだけ「普通」からかけ離れているかなんて、分からなかっただろう。この世界では、兄弟が――特に男のきょうだいがいるということ自体が奇跡に近い。
りんねえも、ゆづきも。俺がいるだけで、こんなに嬉しそうにしてくれる。
……なんか、照れるな。
---
「ねえ、れん。テレビ見て」
夕食後、母さんがリモコンを操作して、ニュースチャンネルを映した。
画面に映ったのは、巨大な穴だった。
地面にぽっかりと口を開けた、底の見えない暗闇。周囲は立入禁止のテープで囲まれ、自衛隊の車両が何台も停まっている。
『――本日未明、北海道釧路市近郊にて、新たなダンジョンの出現が確認されました。これで国内のダンジョン総数は十七となり、政府は……』
ダンジョン。
この世界に突如として現れ始めた、異常現象。今から七年前――俺が生まれる三年前に最初の一つが発見されて以来、世界中で次々と出現している。
地下深くまで続く巨大な迷宮。内部には現代科学では説明できない素材や鉱石、見たこともない植物や生物が存在するという。
中には、信じられないほどの美味を持つ食材も見つかっているらしい。テレビで見た特集では、ダンジョン産の果実を食べたレポーターが泣いていた。
そして、危険も。
ダンジョン内での死亡事故は珍しくない。自己責任が原則。国の整備も、ここ数年でようやくまともな形になってきたばかりだ。
「すごいね、ダンジョン。中に何があるんだろう」
四歳の俺の目は、画面に釘付けだった。前世の記憶にもダンジョンなんてものはない。どこかのゲームや漫画で見たような気がしなくもないけれど、記憶が曖昧で確信は持てない。
でも、胸が高鳴る。
未知の世界。誰も知らない深淵。何があるか分からない暗闇。
怖い――はずなのに、ワクワクする。
「れん」
母さんの声が、少し硬かった。
「ダンジョンはね、危ないところなの。人が死ぬこともあるの。だから……」
「うん、わかってるよ」
わかってる。わかってるけど。
「でも、すごいと思わない? 誰も見たことない世界が、地面の下にあるんだよ?」
母さんは、何かを言いかけて、やめた。代わりに、俺の頭をそっと撫でた。
その手は、少しだけ震えていた。
---
「ねえ、れんくん。おおきくなったら、なにになりたい?」
幼稚園のお絵描きの時間。雫が画用紙にクレヨンを走らせながら聞いてきた。
沙耶も、隣で黙々と正確な線を引きながら、さりげなく耳を傾けている。
「うーん」
俺はクレヨンを止めて、天井を見上げた。
この世界で、男はどう生きるのが「正しい」とされているか。
安全な仕事に就き、複数の女性と結婚し、子供を作り、守られて生きる。それがこの社会の期待する男の姿だ。
前世の記憶がなければ、疑問にすら思わなかったかもしれない。
でも。
「おれ、ダンジョンにもぐりたいな」
教室が、しん、と静まった。
お絵描きをしていた周りの子たちも、先生も、ぎょっとしたようにこちらを見た。
雫が目を丸くする。沙耶のクレヨンが止まる。
「……れんくん、ダンジョンは、あぶないところだよ?」
「うん、知ってる。でもさ、すっごいお宝があったり、見たことない食べ物があったりするんでしょ? ロマンじゃん」
「ロマン……?」
「なんかこう、ワクワクするやつ! 誰も見たことない景色とか、見てみたいじゃん!」
先生が慌てたように「れんくん、ダンジョンは大人でも危ないところだからね」と口を挟むが、俺は画用紙に向き直って、でたらめな洞窟と宝箱の絵を描き始めた。
その隣に、棒人間を描く。ダンジョンに飛び込もうとしている勇者。
「かっこいい……」
小さな呟きが聞こえた。
振り返ると、雫が俺の絵をじっと見ていた。頬がほんのり赤い。
「……おれの絵、へたくそだけどね」
「ううん、かっこいい。れんくんが、かっこいい」
「ん?」
「な、なんでもない……!」
雫は慌てて自分の画用紙に視線を戻した。
隣で、沙耶が小さくため息をついた。
「……ばか」
「え、おれ?」
「おとこのこが、ダンジョンなんて。しんじゃうかもしれないのに」
その声は冷たかったけれど、クレヨンを握る指先が白くなるほど力が入っていたことに、四歳の俺は気づかなかった。
---
夜。
布団の中で、天井を見つめる。
前世の自分が何者だったのかは分からない。でも一つだけ確信していることがある。
あの世界でも、この世界でも、俺は俺だ。
男とか女とか、貴重とか普通とか、そんなことは関係ない。
面白そうなことがあれば飛びつきたいし、困ってる人がいたら手を伸ばしたいし、友達とは馬鹿笑いしていたい。
ダンジョンの暗闇の先に何があるのか、知りたい。
まだ四歳。何もできない。
でも、いつか必ず。
「――待ってろよ、ダンジョン」
小さな声で呟いて、目を閉じた。
隣の布団で、りんねえが寝言のように「……れんくんは、ぜったい、わたしがまもる……」と呟いたのは、もうちょっと後になってから気づく話。
---
第1話 了
最初の記憶は、光だった。
ぼんやりとした温かい光の中で、誰かが自分を抱き上げている。その腕は細くて、でも力強くて、自分を絶対に離さないという意思が伝わってくるようだった。
声が聞こえる。泣いている声だ。嬉し泣き。
「――男の子……男の子よ……!」
その言葉に、周囲がどよめいた。歓声が上がり、何人もの人が口々に祝福の言葉を述べる。まるでこの世に王子が生まれたかのような騒ぎだった。
――いや、別にそこまで大袈裟にならなくてもよくない?
生まれたばかりの赤子の頭の中で、そんな感想が浮かんだ。
もちろん、それを口にできるわけもなく。新生児の身体はただふにゃふにゃと動くばかりで、泣くことしかできなかった。
でも、意識はあった。
不思議なほどに、はっきりと。
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名前は、日向 蓮(ひなた れん)。
母さんがつけてくれた名前らしい。蓮の花のように、泥の中からでも美しく咲ける子に――そんな願いが込められているのだと、後から聞いた。
母さんの名前は、日向 咲良(ひなた さくら)。優しくて、でもどこか儚げな笑顔をする人だった。フリーランスの翻訳家をしていて、家で仕事をしながら俺たちを育ててくれた。
俺たち、というのは――。
「れんくん、おきてー! あさだよー!」
四歳の俺の頬を、小さな手がぺちぺちと叩く。目を開けると、少しだけつり目がちな瞳がすぐ近くにあった。
姉の、日向 凛花(ひなた りんか)。俺より二つ上の六歳。
「りんねえ……まだねむい……」
「だめー! きょうはようちえんのにゅうえんしきなんだから!」
凛花姉ちゃん――りんねえは、しっかり者だ。母さんが仕事で忙しい時は、まだ六歳なのに俺の面倒を見てくれる。朝ごはんは作れないけど、起こしてくれるのは毎朝姉ちゃんの役目だった。
「……うー」
「うーじゃないの! ほら、おきて!」
布団を引っぺがされて、四月の朝の冷気が身体を包む。仕方なくのそのそと起き上がると、りんねえが満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、おきがえてつだってあげる」
「じぶんでできるよ」
「いいからいいから」
姉ちゃんは、弟の世話を焼くのが好きだった。というより――この世界では、男の子の世話を焼くということ自体が、特別なことなのだ。
男女比、一対五十。
この世界では、男は圧倒的に少ない。
俺はこの四年間で、それを嫌というほど理解していた。
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前世の記憶というものは、不思議なものだ。
別に映画のように鮮明な映像が脳内で再生されるわけじゃない。「こういう世界があった」という漠然とした知識と感覚が、まるで常識のように頭の中に染みついている。
前の世界では、男と女は大体半々だった。学校のクラスには男子と女子が同じくらいいて、街を歩けば男も女も同じくらいすれ違った。
でも、自分が誰だったのかは分からない。名前も、顔も、年齢も、何をしていた人間なのかも。ただ「そういう世界で生きていた」という感覚だけが残っている。
最初は混乱した。なんで周りに男の子がいないんだろう。なんでお母さんは俺を見るたびにあんなに大事そうな顔をするんだろう。なんで検診のたびにお医者さんが俺を宝物みたいに扱うんだろう。
でも、四歳にもなれば分かる。
この世界では、男はそれだけ貴重なのだ。
精液提供による人工的な方法で人口は維持されている。でも、それだけでは「男」は増えない。実際に男女が関係を持った上での妊娠の方が、有意に男児の出生率が高い――そんな研究結果があるらしい。
だから、男は複数の婚姻相手を持つことが法的に認められ、むしろ推奨されている。
前世の感覚で言えば、とんでもない話だ。
でも、この世界ではそれが「正しい」こと。種の存続のために必要なこと。
――まあ、四歳の俺にそんな難しいことを考える余裕はなかった。
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「れんくーん!」
幼稚園の門をくぐった瞬間、数人の女の子たちが駆け寄ってきた。入園式だというのに、まるで旧知の仲のように。
――いや、違う。「男の子が来た」というだけで、これだ。
「あっ、ほんとにおとこのこだ!」
「かわいー!」
「ねえねえ、なまえは?」
わらわらと囲まれる。りんねえが隣でちょっと嫌そうな顔をしたのが見えた。
前世の感覚が、ここで役に立つ。
普通に接すればいい。それだけだ。
「おれ、ひなたれん! よろしくね!」
にかっと笑うと、女の子たちが一瞬きょとんとした。
この世界の男の子は、大抵おとなしい。大勢の女の子に囲まれれば、たいていは怖がったり、恥ずかしがったりする。物心ついた頃から「あなたは特別」「大事にしなければならない存在」と言われ続けて育てば、自然と引っ込み思案になるのだろう。
でも、俺は違う。
前の世界では、男も女も関係なく、友達は友達だった。一緒に遊んで、一緒に笑って、一緒にふざけて。
だから。
「なにしてあそぶ? おにごっこする? それともすなばいく?」
自分から声をかけると、女の子たちの顔がぱあっと明るくなった。
「おにごっこ! おにごっこしたい!」
「わたしもー!」
「じゃあ、さいしょおにやるよ! いーい、にげてにげて!」
走り出すと、きゃあきゃあと歓声が上がった。
りんねえが遠くで「もう……しょうがないなあ」とため息をつきながらも、少し嬉しそうに笑っていた。
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幼稚園で初めての友達ができた日のことは、よく覚えている。
入園から一週間ほど経った、ある昼下がり。園庭の隅で、一人の女の子がしゃがみ込んでいた。
他の子たちが元気にわいわいしている中で、その子だけがぽつんと。
「どうしたの?」
声をかけると、その子はびくっと肩を震わせて振り返った。大きな茶色い瞳が、少し潤んでいた。
「……なんでもない」
「なんでもなくない顔してるよ」
「…………」
その子は、天宮 雫(あまみや しずく)と言った。おっとりした見た目に反して、少し人見知りするタイプ。入園から一週間、まだ誰とも打ち解けられていないようだった。
「おうちに、かえりたい……」
「んー、まあ気持ちはわかるよ。でもさ、ようちえんも楽しいよ?」
「……たのしくない。みんな、もうグループできてるし……」
前世の感覚が、また囁く。こういう時は、理屈じゃない。
「じゃあ、おれといっしょにあそぼ」
「……え?」
「おれ、友達いっぱいほしいんだ。しずくちゃんも、友達になってくれない?」
手を差し出すと、雫はきょとんとした顔で俺を見つめた。
「……おとこのこなのに、わたしなんかと、ともだちになりたいの?」
「なんで『なのに』? 男とか女とかかんけいないでしょ、友達に」
その言葉が、どれだけこの世界の常識から外れているか、四歳の俺には正直よく分かっていなかった。
この世界で男の子は「守られる存在」だ。女の子の方から近づくことはあっても、男の子の方から気軽に手を差し出すことは珍しい。ましてや、「友達になってほしい」なんて――。
雫は数秒間、差し出された手を見つめていた。
そして、おずおずと、小さな手を重ねた。
「……うん。ともだち」
「やった! じゃあ行こう、あっちでりんねえたちが何かやってるみたいだから!」
「わっ、は、はやい……!」
手を引いて走り出す。雫が慌てながらも、少しだけ笑ったのが分かった。
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その日から、雫は俺の隣にいることが多くなった。
最初はもじもじしていた雫も、一週間もすれば少しずつ笑顔が増えていった。俺が他の子たちと遊ぶ時も、「しずくちゃんもおいでよ」と声をかけるうちに、自然とグループに馴染んでいった。
「れんくん、ありがとう」
「んー? なにが?」
「ともだち、できた」
「それはしずくちゃんがいい子だからだよ」
「……っ」
雫が真っ赤になって俯いた。四歳児相手に何を照れているのか――と前世の感覚では思うけれど、この世界では男の子から褒められるというのは、それだけで特別なことらしい。
まあ、深くは考えない。友達は多い方がいい。それだけだ。
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「れんくん、きょうね、わたしのおべんとうにたまごやきいっぱいはいってるの。ひとつあげる!」
「お、マジ? ありがとう! あ、おれのウインナー一個あげるよ」
「……いいの?」
「友達なんだからいいに決まってんじゃん」
昼食の時間。俺と雫が弁当を広げていると、もう一人、すっと隣に座ってくる影があった。
「……わたしのも、あげる」
目を向けると、真っ黒なストレートの髪をした女の子が、弁当箱からミニトマトを一つ差し出していた。
静かな目。整った顔立ち。四歳にして、どこか大人びた雰囲気。
名前は、鷹司 沙耶(たかつかさ さや)。
鷹司、という名前を聞いて、後に母さんから教えてもらうことになる。鷹司家は旧華族の血筋を引く名家で、政財界に強い影響力を持つ一族だと。沙耶はそこの長女。
しかし、四歳の俺にそんなことは分からない。
「お、ありがとう! おれトマト好きなんだよ!」
「…………」
沙耶は少し驚いたような顔をした。それから、ほんの微かに――本当に微かに、口角が上がった。
「……あなた、変わってるのね」
「えー、そう?」
「おとこのこは、大体もっとおとなしいもの。あんまり話しかけてこないし」
「そっかー。でも、話しかけないと友達になれないじゃん」
「……友達」
沙耶はその言葉を、まるで初めて聞いた外国語のように反復した。
「わたしと、友達になりたいの?」
「うん。沙耶ちゃんでしょ? さっきせんせいがなまえよんでるの聞いた。よろしくね」
「…………」
沙耶は黙って俺を見つめた後、静かに頷いた。
「……よろしく」
その声は小さかったけれど、確かに温度があった。
後から知ったことだが、鷹司家の教育方針は厳格そのものだったらしい。「男性は我々が守るべき存在。対等に馴れ合うものではない」――そんな考えが根底にある。
四歳の沙耶も、すでにその教育を受けていた。だからこそ、男の子から対等に「友達になろう」と言われたことに、戸惑ったのだろう。
でも、沙耶は拒絶しなかった。
それが、全ての始まりだった。
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一方、家に帰れば、もう一人の存在が俺を待っている。
「にいに、おかえいー!」
玄関のドアを開けた瞬間、小さな身体が突進してくる。受け止めると、ふわふわの髪が鼻をくすぐった。
妹の、日向 結月(ひなた ゆづき)。二歳。
「ただいま、ゆづき」
「にいに、にいに! きょう、ねんどでおはなつくったの!」
「お、すごいじゃん。見せてよ」
「うん!」
結月はとてとてと走っていき、テーブルの上に置いてあった粘土細工を持ってくる。丸い塊が三つくっついた、かろうじて花に見えなくもない何かだった。
「これ、にいにに、あげゆ!」
「マジで? ありがとう、大事にするね」
「えへへー」
結月を抱き上げると、きゃっきゃと笑った。
りんねえが後ろから「ゆづき、れんくんに抱きつきすぎ」とたしなめるが、結月は「やーだー」と舌を出す。
「りんねえも一緒に遊ぼうよ」
「……べ、別にれんくんが言うなら」
姉ちゃんは時々そういう言い方をする。素直じゃないけど、本当は一番一緒に遊びたがっているのを俺は知っている。
前世の感覚がなければ、この姉妹の愛情がどれだけ「普通」からかけ離れているかなんて、分からなかっただろう。この世界では、兄弟が――特に男のきょうだいがいるということ自体が奇跡に近い。
りんねえも、ゆづきも。俺がいるだけで、こんなに嬉しそうにしてくれる。
……なんか、照れるな。
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「ねえ、れん。テレビ見て」
夕食後、母さんがリモコンを操作して、ニュースチャンネルを映した。
画面に映ったのは、巨大な穴だった。
地面にぽっかりと口を開けた、底の見えない暗闇。周囲は立入禁止のテープで囲まれ、自衛隊の車両が何台も停まっている。
『――本日未明、北海道釧路市近郊にて、新たなダンジョンの出現が確認されました。これで国内のダンジョン総数は十七となり、政府は……』
ダンジョン。
この世界に突如として現れ始めた、異常現象。今から七年前――俺が生まれる三年前に最初の一つが発見されて以来、世界中で次々と出現している。
地下深くまで続く巨大な迷宮。内部には現代科学では説明できない素材や鉱石、見たこともない植物や生物が存在するという。
中には、信じられないほどの美味を持つ食材も見つかっているらしい。テレビで見た特集では、ダンジョン産の果実を食べたレポーターが泣いていた。
そして、危険も。
ダンジョン内での死亡事故は珍しくない。自己責任が原則。国の整備も、ここ数年でようやくまともな形になってきたばかりだ。
「すごいね、ダンジョン。中に何があるんだろう」
四歳の俺の目は、画面に釘付けだった。前世の記憶にもダンジョンなんてものはない。どこかのゲームや漫画で見たような気がしなくもないけれど、記憶が曖昧で確信は持てない。
でも、胸が高鳴る。
未知の世界。誰も知らない深淵。何があるか分からない暗闇。
怖い――はずなのに、ワクワクする。
「れん」
母さんの声が、少し硬かった。
「ダンジョンはね、危ないところなの。人が死ぬこともあるの。だから……」
「うん、わかってるよ」
わかってる。わかってるけど。
「でも、すごいと思わない? 誰も見たことない世界が、地面の下にあるんだよ?」
母さんは、何かを言いかけて、やめた。代わりに、俺の頭をそっと撫でた。
その手は、少しだけ震えていた。
---
「ねえ、れんくん。おおきくなったら、なにになりたい?」
幼稚園のお絵描きの時間。雫が画用紙にクレヨンを走らせながら聞いてきた。
沙耶も、隣で黙々と正確な線を引きながら、さりげなく耳を傾けている。
「うーん」
俺はクレヨンを止めて、天井を見上げた。
この世界で、男はどう生きるのが「正しい」とされているか。
安全な仕事に就き、複数の女性と結婚し、子供を作り、守られて生きる。それがこの社会の期待する男の姿だ。
前世の記憶がなければ、疑問にすら思わなかったかもしれない。
でも。
「おれ、ダンジョンにもぐりたいな」
教室が、しん、と静まった。
お絵描きをしていた周りの子たちも、先生も、ぎょっとしたようにこちらを見た。
雫が目を丸くする。沙耶のクレヨンが止まる。
「……れんくん、ダンジョンは、あぶないところだよ?」
「うん、知ってる。でもさ、すっごいお宝があったり、見たことない食べ物があったりするんでしょ? ロマンじゃん」
「ロマン……?」
「なんかこう、ワクワクするやつ! 誰も見たことない景色とか、見てみたいじゃん!」
先生が慌てたように「れんくん、ダンジョンは大人でも危ないところだからね」と口を挟むが、俺は画用紙に向き直って、でたらめな洞窟と宝箱の絵を描き始めた。
その隣に、棒人間を描く。ダンジョンに飛び込もうとしている勇者。
「かっこいい……」
小さな呟きが聞こえた。
振り返ると、雫が俺の絵をじっと見ていた。頬がほんのり赤い。
「……おれの絵、へたくそだけどね」
「ううん、かっこいい。れんくんが、かっこいい」
「ん?」
「な、なんでもない……!」
雫は慌てて自分の画用紙に視線を戻した。
隣で、沙耶が小さくため息をついた。
「……ばか」
「え、おれ?」
「おとこのこが、ダンジョンなんて。しんじゃうかもしれないのに」
その声は冷たかったけれど、クレヨンを握る指先が白くなるほど力が入っていたことに、四歳の俺は気づかなかった。
---
夜。
布団の中で、天井を見つめる。
前世の自分が何者だったのかは分からない。でも一つだけ確信していることがある。
あの世界でも、この世界でも、俺は俺だ。
男とか女とか、貴重とか普通とか、そんなことは関係ない。
面白そうなことがあれば飛びつきたいし、困ってる人がいたら手を伸ばしたいし、友達とは馬鹿笑いしていたい。
ダンジョンの暗闇の先に何があるのか、知りたい。
まだ四歳。何もできない。
でも、いつか必ず。
「――待ってろよ、ダンジョン」
小さな声で呟いて、目を閉じた。
隣の布団で、りんねえが寝言のように「……れんくんは、ぜったい、わたしがまもる……」と呟いたのは、もうちょっと後になってから気づく話。
---
第1話 了
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