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第5章 第十五次帝国戦役編
第348話 コミュニケーション障害
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隊員たちの息は切れに切れていた。
ゼェゼェ、ヒィヒィ、口呼吸で肺に空気を出し入れするものだから、喉は乾くし、口はべたつく。
彼らはそれでも止まるわけにはいかない。
この後一級河川であるコートランド川を横断し、味方陣地に帰還しなければならない。
そして、ここからは隊長であるアラタしか知らないことだが、陣地への帰還は味方によって阻害される。
そこからが、この作戦の真骨頂なのだ。
いうなれば、この作戦はまだ本番ではない。
そんな状況でも、彼らの体力は相応に消耗していた。
「次が来ます!」
「第3小隊は迎撃! 下がりながらだぞ!」
中隊長アラタの指示で、デリンジャー率いる小隊が最後尾に出てきた。
迫りくるのはこれまた20騎弱の騎馬隊だ。
歩兵では301中隊に追いつくことが出来ないから、必然的に相手は騎乗することになる。
高低差が地味にキツイ。
「アーキム、援護射撃に回れ」
「了解。お前らついてこい」
第1小隊の中にある、元第1192小隊第2分隊のメンバーが離脱した。
彼らがいれば、第3小隊も大きな被害を受けることは無いだろう。
中隊の中盤、少し前を走るアラタは、今のところ作戦通りに進行している現状を密かに喜んだ。
曖昧な理由で出撃させられたと思っている彼の部下とは異なり、作戦の委細を承知している彼にはこの後の展開が綿密に叩き込まれている。
上手くいけば、渡河を開始してもうすぐ上陸できるという時に、味方の方から部隊が川を渡ろうとしてくるはず。
そこで301中隊と味方がバッティングしてしまうことで、接触地点に混乱が生まれる。
ごちゃごちゃと味方が入り乱れる状態を出来る限り維持して、敵に隙を見せることが作戦の要だ。
追跡している敵が釣れれば御の字、後続が出てきて渡河してきたら文句なし、全軍で突撃してきたらこの上なし。
とまあ、ここまで綿密で繊細な作戦がどこで綻ぶのか、アラタ含め作戦を知る人間たちは気が気でない。
だから予備の案をいくつか並列で走らせることで、リスクを軽減する。
そんな複数の展開をアラタが反芻していた時だった。
「くっそ、隊長抜かれました!」
第3小隊とアーキム達の隙間から、敵がこちらめがけて突撃してきたのだ。
何もしなければ、最後尾から順番に削られてしまう。
手練れの出番だ。
「キィ、リャン、カロン、ハリス、それから5人、俺についてこい。ここの指揮はアレサンドロが取れ」
「了解」
アラタはすぐに横に逸れると、敵の姿を視認した。
ざっくり20騎程度、こちらに向かっている。
装備は可もなく不可もなく、一般的な騎兵のそれ。
初めに来たような重装騎兵の数は実はそこまで多くないのかもしれない。
作戦が第2段階に移行してから、ずっと苦しめられている騎兵に対して、アラタはそろそろ一泡吹かせたかった。
そして、そのためにリャンを連れてきたのだ。
「リャン以外の3人は俺と来い。残りはリャンを守れ。リャン、スキルを使うんだ」
「出力は?」
「最大がベストだけど、体力的にきついなら出来るだけでいい。どうせこの後も出番が来る」
「分かりました。火球程度なら使えるかもしれません」
「分かった。お前ら行くぞ」
アラタは刀ではなく、もう一つの装備武器であるナイフを手に取った。
それを見てキィ、カロン、ハリスの3名は何をするのか理解する。
このメンバーで、リャンに【魔術効果減衰】を使用させるのなら、やることはおのずと決まってくる。
「敵が出てきました! 数10!」
「小出しにするなんて分かってない連中だ」
「狙いはあくまで敵本隊、目の前の敵はすれ違いざまに攻撃するだけでいい」
騎馬隊を取り仕切る男は、そろそろ武功の一つでも、そう考えていた。
全く奇襲を受けてからというもの、自分たちの所に出撃命令が下るのに何分の時間を要したことか、思い出すだけでも頭痛がしてくる。
そんな中でようやっと回って来た戦いの機会、ここを逃せばまた暇な時間が訪れてしまう。
もう馬の世話をするだけの毎日には飽き飽きしていた。
だから、ここで敵を掃討してより戦闘参加機会を多く与えてもらう。
それが男の望みだった。
「踏みつぶせ!」
「回避!」
2人の指揮官の声が重なり、両者の指示は衝突を回避した。
アラタは部下に回避を命じ、敵はすれ違いざまの攻撃のみに限定した。
通り抜けてしまえば、騎馬隊の攻撃目標は301中隊の中核に移行する。
アラタたちのいた意味は無くなってしまう。
「何だったんだ? あい——」
「バラン?」
「死ね」
そう耳に届くのが先か、それとも頸動脈が掻き切られたのが先か。
冷たい金属の刃が、兵士の命を刈り取った。
いつの間に馬に飛び乗って……そんなことを考えている余裕は無い。
すぐに槍を捨てて剣を抜きつつ、魔術で牽制を試みた。
使用魔術は雷撃、起動速度と消費魔力が売りだ。
「……は?」
1人の騎兵が間抜けな声をあげたのち、これまた敵兵の短刀に命を奪われた。
殺された兵士は今際の際で、魔術が発動しなかった原因について思いを馳せていた。
自分の腕が未熟だったとは思えず、そうなると敵の能力によるもの。
そこまで考えたところで、男の意識は喪失した。
「撤退! 下がれお前ら!」
「おせーな。リャン! もういいぞ!」
——【魔術効果減衰】解除。
騎兵から馬を強奪し、ナイフを収めた男の手に握られるのは日本刀。
魔力を円滑に流し、スムーズな魔術行使を手助けする。
アラタが刀を一振りすると、刀の先から漏れ出した魔力の残滓が寄り集まっていくつもの玉になった。
使用魔術は雷撃、高速起動と並列起動が比較的容易な魔術だ。
殺傷力はお察しでも、手練れが使えばそれなりの威力になる。
落馬させたり気絶させたりするには十分な威力だ。
「馬を回収しろ。川を渡るときに役に立つ。それからカロンはハリスを回収してくれ」
「了解。生きてますかね」
「馬を使って川を渡ればまだ全然助かる。急げ」
強奪した馬は興奮していて手綱を握るのに苦労する。
ようやっと落ち着かせて安定させた頃には、一同は河川敷にまで到達していた。
ここを渡り切れば、ひとまず作戦に区切りがつく。
「怪我人報告!」
そうアラタが叫ぶと、どこからともなく報告係の兵士が彼に状況を伝えるためにやって来た。
「第1小隊、重体1、軽傷3です」
「重症の人間を馬に乗せて運べ。迅速にな」
「第4小隊軽傷5名」
「川を渡れるか」
「2人は厳しいかと」
「そいつらも同じだ。馬を使わせてやれ」
そんな調子でアラタは自分も下馬し、負傷者の移送に考えを巡らせていた。
比較的渡河が容易な地点に再集合し、その箇所には敵がいなかった。
ここまでは理想的過ぎるほどに理想的な展開だ。
それはもう、仕組まれているのではないかと疑うほどに。
いずれにせよ、チャンスは今しかない。
「川を渡り始めろ!」
第301中隊の川渡りが開始された。
※※※※※※※※※※※※※※※
「報告します。敵2個集団が退却中、すでに川を渡り始めました」
「場所はどこだ」
「ここと……ここです」
報告係は司令部にある地図に場所を指し示す。
司令部からは距離があるが、いずれも戦場の中央付近で兵士を集めやすい。
「ご苦労。おい、追撃にいくら出している」
司令官イリノイ元帥は訊く。
「は、それぞれ500をぶつけています」
「足りない。もう1000ずつ追加しろ」
「え、いや、しかし……」
司令官の指示を受けた将校の歯切れが悪い。
「何か?」
「現状動かせる部隊があまり……その」
「はっきりと言え」
「大規模な配置換えの最中でして、動かせる部隊があまりおりません」
司令官は、そのような指示を出していない。
彼の記憶喪失だとか、そういうことではない。
本当にそんな指示は出していなかった。
となれば、考えられる中で最も可能性が高いのは……
「中将殿、貴殿の差し金か?」
イリノイは隣にいる参謀をギロリと睨みつけた。
今にも斬りかからんとばかりの形相である。
しかし激昂している司令官の前でも、エヴァラトルコヴィッチ中将はどこ吹く風といった様子でまともに取り合おうとしない。
無能な指揮官もここまでくれば哀れなまであると、少し同情的だ。
彼の下で戦う兵士に対しての憐憫だが。
「私の部隊は所用があって後方に下がりました。みなさんがそれを勘違いして同じ行動をしたのでしょう」
「ほぉ、では今すぐ戻ってこれるのだな」
「私の部下はともかく、遅れて移動を開始した皆さんなら可能でしょうね」
頭に血が上り切ったイリノイの眼が、周囲にいる将校を見渡した。
あ、これは話とか道理とか常識がまるで通用しないやつだ、と指揮官たちを諦念させるには、十分すぎる狂気。
それでも彼らは自身が前線に立って戦うわけではない分、まだましと言える。
可哀想なのは、実際に戦って命を散らすであろう帝国兵士だ。
「全軍、逃げる敵兵を一人残らずぶち殺せ! 動かなかった部隊の指揮官は後で沙汰を下す!」
「は……しかし川向うまで攻撃するメリットは……」
優秀というか、直線的というか、正しすぎるというか、正論を振りかざすというか。
建設的な意見を述べること自体は間違ってはいない。
間違ってはいないが、真っ当なコミュニケーションが不可能な相手に対話を求めるという事は、それ相応のリスクを孕んでいるものなのだ。
イリノイはほぼ飾りになっている腰の剣を引き抜き、居合で斬りつけた。
戦闘中ならいざ知らず、味方と思っている人間からの攻撃をこの距離で回避可能な者はそう多くない。
司令官である彼に考え直しを迫ろうとした将校は、自身を肉塊に変えて床に倒れた。
地面の上に木の板を敷き、さらにその上にある絨毯に血が染みこむ。
これはまずいと、誰もが思った。
先ほどまであんなに元気だったエヴァラトルコヴィッチでさえも顔を青くしている。
「全軍突撃! このまま敵軍を葬り去るのだ!」
——司令官の激情まで知られているのだとすれば、敵はそれなりに頭が切れるな。
それに、内通者もいるだろう、今のやり取りで大体検討はついたが。
1歩、2歩と後ずさりした中将は、そのまま天幕を後にする。
彼の率いる兵士2千がこの戦いに参加できない位置にいるのは事実で、今更覆しようがない。
ただ、そんな感じなんですんません、ハハッ、なんて言ったら次に斬り殺されるのは彼だ。
まだ死ぬには早いと、自分でそう思っている。
帝国軍司令部に、生暖かい不吉な風が吹き始めた。
現状カナン公国軍のペースで戦いが進んでいる中、帝国軍はどこかで盛り返すことが出来るのか。
その結果は、少なくとも今日中には決まることだろう。
ゼェゼェ、ヒィヒィ、口呼吸で肺に空気を出し入れするものだから、喉は乾くし、口はべたつく。
彼らはそれでも止まるわけにはいかない。
この後一級河川であるコートランド川を横断し、味方陣地に帰還しなければならない。
そして、ここからは隊長であるアラタしか知らないことだが、陣地への帰還は味方によって阻害される。
そこからが、この作戦の真骨頂なのだ。
いうなれば、この作戦はまだ本番ではない。
そんな状況でも、彼らの体力は相応に消耗していた。
「次が来ます!」
「第3小隊は迎撃! 下がりながらだぞ!」
中隊長アラタの指示で、デリンジャー率いる小隊が最後尾に出てきた。
迫りくるのはこれまた20騎弱の騎馬隊だ。
歩兵では301中隊に追いつくことが出来ないから、必然的に相手は騎乗することになる。
高低差が地味にキツイ。
「アーキム、援護射撃に回れ」
「了解。お前らついてこい」
第1小隊の中にある、元第1192小隊第2分隊のメンバーが離脱した。
彼らがいれば、第3小隊も大きな被害を受けることは無いだろう。
中隊の中盤、少し前を走るアラタは、今のところ作戦通りに進行している現状を密かに喜んだ。
曖昧な理由で出撃させられたと思っている彼の部下とは異なり、作戦の委細を承知している彼にはこの後の展開が綿密に叩き込まれている。
上手くいけば、渡河を開始してもうすぐ上陸できるという時に、味方の方から部隊が川を渡ろうとしてくるはず。
そこで301中隊と味方がバッティングしてしまうことで、接触地点に混乱が生まれる。
ごちゃごちゃと味方が入り乱れる状態を出来る限り維持して、敵に隙を見せることが作戦の要だ。
追跡している敵が釣れれば御の字、後続が出てきて渡河してきたら文句なし、全軍で突撃してきたらこの上なし。
とまあ、ここまで綿密で繊細な作戦がどこで綻ぶのか、アラタ含め作戦を知る人間たちは気が気でない。
だから予備の案をいくつか並列で走らせることで、リスクを軽減する。
そんな複数の展開をアラタが反芻していた時だった。
「くっそ、隊長抜かれました!」
第3小隊とアーキム達の隙間から、敵がこちらめがけて突撃してきたのだ。
何もしなければ、最後尾から順番に削られてしまう。
手練れの出番だ。
「キィ、リャン、カロン、ハリス、それから5人、俺についてこい。ここの指揮はアレサンドロが取れ」
「了解」
アラタはすぐに横に逸れると、敵の姿を視認した。
ざっくり20騎程度、こちらに向かっている。
装備は可もなく不可もなく、一般的な騎兵のそれ。
初めに来たような重装騎兵の数は実はそこまで多くないのかもしれない。
作戦が第2段階に移行してから、ずっと苦しめられている騎兵に対して、アラタはそろそろ一泡吹かせたかった。
そして、そのためにリャンを連れてきたのだ。
「リャン以外の3人は俺と来い。残りはリャンを守れ。リャン、スキルを使うんだ」
「出力は?」
「最大がベストだけど、体力的にきついなら出来るだけでいい。どうせこの後も出番が来る」
「分かりました。火球程度なら使えるかもしれません」
「分かった。お前ら行くぞ」
アラタは刀ではなく、もう一つの装備武器であるナイフを手に取った。
それを見てキィ、カロン、ハリスの3名は何をするのか理解する。
このメンバーで、リャンに【魔術効果減衰】を使用させるのなら、やることはおのずと決まってくる。
「敵が出てきました! 数10!」
「小出しにするなんて分かってない連中だ」
「狙いはあくまで敵本隊、目の前の敵はすれ違いざまに攻撃するだけでいい」
騎馬隊を取り仕切る男は、そろそろ武功の一つでも、そう考えていた。
全く奇襲を受けてからというもの、自分たちの所に出撃命令が下るのに何分の時間を要したことか、思い出すだけでも頭痛がしてくる。
そんな中でようやっと回って来た戦いの機会、ここを逃せばまた暇な時間が訪れてしまう。
もう馬の世話をするだけの毎日には飽き飽きしていた。
だから、ここで敵を掃討してより戦闘参加機会を多く与えてもらう。
それが男の望みだった。
「踏みつぶせ!」
「回避!」
2人の指揮官の声が重なり、両者の指示は衝突を回避した。
アラタは部下に回避を命じ、敵はすれ違いざまの攻撃のみに限定した。
通り抜けてしまえば、騎馬隊の攻撃目標は301中隊の中核に移行する。
アラタたちのいた意味は無くなってしまう。
「何だったんだ? あい——」
「バラン?」
「死ね」
そう耳に届くのが先か、それとも頸動脈が掻き切られたのが先か。
冷たい金属の刃が、兵士の命を刈り取った。
いつの間に馬に飛び乗って……そんなことを考えている余裕は無い。
すぐに槍を捨てて剣を抜きつつ、魔術で牽制を試みた。
使用魔術は雷撃、起動速度と消費魔力が売りだ。
「……は?」
1人の騎兵が間抜けな声をあげたのち、これまた敵兵の短刀に命を奪われた。
殺された兵士は今際の際で、魔術が発動しなかった原因について思いを馳せていた。
自分の腕が未熟だったとは思えず、そうなると敵の能力によるもの。
そこまで考えたところで、男の意識は喪失した。
「撤退! 下がれお前ら!」
「おせーな。リャン! もういいぞ!」
——【魔術効果減衰】解除。
騎兵から馬を強奪し、ナイフを収めた男の手に握られるのは日本刀。
魔力を円滑に流し、スムーズな魔術行使を手助けする。
アラタが刀を一振りすると、刀の先から漏れ出した魔力の残滓が寄り集まっていくつもの玉になった。
使用魔術は雷撃、高速起動と並列起動が比較的容易な魔術だ。
殺傷力はお察しでも、手練れが使えばそれなりの威力になる。
落馬させたり気絶させたりするには十分な威力だ。
「馬を回収しろ。川を渡るときに役に立つ。それからカロンはハリスを回収してくれ」
「了解。生きてますかね」
「馬を使って川を渡ればまだ全然助かる。急げ」
強奪した馬は興奮していて手綱を握るのに苦労する。
ようやっと落ち着かせて安定させた頃には、一同は河川敷にまで到達していた。
ここを渡り切れば、ひとまず作戦に区切りがつく。
「怪我人報告!」
そうアラタが叫ぶと、どこからともなく報告係の兵士が彼に状況を伝えるためにやって来た。
「第1小隊、重体1、軽傷3です」
「重症の人間を馬に乗せて運べ。迅速にな」
「第4小隊軽傷5名」
「川を渡れるか」
「2人は厳しいかと」
「そいつらも同じだ。馬を使わせてやれ」
そんな調子でアラタは自分も下馬し、負傷者の移送に考えを巡らせていた。
比較的渡河が容易な地点に再集合し、その箇所には敵がいなかった。
ここまでは理想的過ぎるほどに理想的な展開だ。
それはもう、仕組まれているのではないかと疑うほどに。
いずれにせよ、チャンスは今しかない。
「川を渡り始めろ!」
第301中隊の川渡りが開始された。
※※※※※※※※※※※※※※※
「報告します。敵2個集団が退却中、すでに川を渡り始めました」
「場所はどこだ」
「ここと……ここです」
報告係は司令部にある地図に場所を指し示す。
司令部からは距離があるが、いずれも戦場の中央付近で兵士を集めやすい。
「ご苦労。おい、追撃にいくら出している」
司令官イリノイ元帥は訊く。
「は、それぞれ500をぶつけています」
「足りない。もう1000ずつ追加しろ」
「え、いや、しかし……」
司令官の指示を受けた将校の歯切れが悪い。
「何か?」
「現状動かせる部隊があまり……その」
「はっきりと言え」
「大規模な配置換えの最中でして、動かせる部隊があまりおりません」
司令官は、そのような指示を出していない。
彼の記憶喪失だとか、そういうことではない。
本当にそんな指示は出していなかった。
となれば、考えられる中で最も可能性が高いのは……
「中将殿、貴殿の差し金か?」
イリノイは隣にいる参謀をギロリと睨みつけた。
今にも斬りかからんとばかりの形相である。
しかし激昂している司令官の前でも、エヴァラトルコヴィッチ中将はどこ吹く風といった様子でまともに取り合おうとしない。
無能な指揮官もここまでくれば哀れなまであると、少し同情的だ。
彼の下で戦う兵士に対しての憐憫だが。
「私の部隊は所用があって後方に下がりました。みなさんがそれを勘違いして同じ行動をしたのでしょう」
「ほぉ、では今すぐ戻ってこれるのだな」
「私の部下はともかく、遅れて移動を開始した皆さんなら可能でしょうね」
頭に血が上り切ったイリノイの眼が、周囲にいる将校を見渡した。
あ、これは話とか道理とか常識がまるで通用しないやつだ、と指揮官たちを諦念させるには、十分すぎる狂気。
それでも彼らは自身が前線に立って戦うわけではない分、まだましと言える。
可哀想なのは、実際に戦って命を散らすであろう帝国兵士だ。
「全軍、逃げる敵兵を一人残らずぶち殺せ! 動かなかった部隊の指揮官は後で沙汰を下す!」
「は……しかし川向うまで攻撃するメリットは……」
優秀というか、直線的というか、正しすぎるというか、正論を振りかざすというか。
建設的な意見を述べること自体は間違ってはいない。
間違ってはいないが、真っ当なコミュニケーションが不可能な相手に対話を求めるという事は、それ相応のリスクを孕んでいるものなのだ。
イリノイはほぼ飾りになっている腰の剣を引き抜き、居合で斬りつけた。
戦闘中ならいざ知らず、味方と思っている人間からの攻撃をこの距離で回避可能な者はそう多くない。
司令官である彼に考え直しを迫ろうとした将校は、自身を肉塊に変えて床に倒れた。
地面の上に木の板を敷き、さらにその上にある絨毯に血が染みこむ。
これはまずいと、誰もが思った。
先ほどまであんなに元気だったエヴァラトルコヴィッチでさえも顔を青くしている。
「全軍突撃! このまま敵軍を葬り去るのだ!」
——司令官の激情まで知られているのだとすれば、敵はそれなりに頭が切れるな。
それに、内通者もいるだろう、今のやり取りで大体検討はついたが。
1歩、2歩と後ずさりした中将は、そのまま天幕を後にする。
彼の率いる兵士2千がこの戦いに参加できない位置にいるのは事実で、今更覆しようがない。
ただ、そんな感じなんですんません、ハハッ、なんて言ったら次に斬り殺されるのは彼だ。
まだ死ぬには早いと、自分でそう思っている。
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