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帰り花
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必ず帰ってくるって言ったじゃない。
帰ってきたら、結婚をしようって。
それなのに――貴方は帰ってこなかった。
遺骨すら、手元に戻ることはなかったの。
貴方と私は幼いころから家族ぐるみの付き合いで、私の隣には貴方がいて、貴方の隣には私がいることがこの小さな村では当たり前だったわね。
我が家は代々酒造を営んでいたから、貴方もいずれは婿入りして私と一緒に後を継ぐものだと、誰も疑うことなくそう思っていたわ。
もちろん、貴方の意思はちゃんと確認したわよね?
周囲に外堀を埋められてしまった形だったけれども……貴方が望まないのなら、無理に私と結婚する必要はないのよって。
でもそう言ったら、貴方ったら……なんて答えたか覚えてる?
「そんなことを言わないでくれよ、シュラリエ。君がいないと僕は生きていけないんだ。そんなこと、君が一番よく分かってるだろう?」
ほんの少し頼りなくて、お人好しで、義理を欠くことは決してしない人。
とても優しい人だから本心を隠しているだけなんじゃないかって、そう疑ってもいたのに。
それでも貴方は困ったような顔をして、「俺は君じゃなきゃダメなんだよ」と、何度も繰り返してくれたのよね。
――だからって、私と離れた途端に本当にダメになってしまうなんて、思うはずがないじゃない。
本国と帝国との戦争が始まって、この片田舎の村にも徴兵の通達が届くようになってしまって。
『三十歳以下の成人男子は、兵役に就くように』
王命だもの。断れるはずがないじゃない。
出征の日。私たちは人目をはばかるように抱きしめ合って最後の言葉を交わしたよね。
「必ず帰ってくるから。そうしたら、俺と結婚して欲しい」
「ええ、約束よ。その間は私がこの酒蔵を守っていくから――」
そう、あのとき約束したのにね。
お互いにその約束を守ることはできなかったわね。
貴方の乗った軍船が海の藻屑に消えたと聞いて、私がどれほど嘆き悲しんだか。
そして戦禍がこの村にも及んで、酒蔵が焼失したとき、私がどれほど絶望したことか。
両親も、職人たちもみんな死んでしまって。
村に残されたのは、ごくわずかな人たちだけだったの。
でもね。
焼け野原で呆然と立ち尽くす人々を前に――まだ成人前だった貴方の弟が、こう言ったのよ。
「僕たちの手で、またやり直そうよ」
ねぇ、サイラス。
本当にそんなことができるのかしら?
だってこの村には何も残されていなかったのよ?
働き盛りの男たちは戦争から帰ってこなくて、逃げ遅れた老人たちは焼け死んで、残されたのは女と子どもばかり。
食事もままならずに、木の根を齧り、粗末な罠にかかった間抜けな獣にすがるような日々だったの。
徹底抗戦の構えを見せていたお国も、王都近くまで帝国兵が迫ったらあっさりと降伏をなされたそうよ。
帝国だってこんな外れの村に用なんてあるわけもなく。
私たちは、どこからも見捨てられてしまったの。
ひとたび病でも流行ろうものなら、生死にかかわるような状況で――。
それでも、私たちは生きていかなければならなかった。
だって、死にたくはなかったもの。
どんなに苦しくても、死にたいわけじゃなかったんだもの。
それに、貴方は……ひょっとしたら海を漂ってどこかの島にでも辿り着いているかもしれないでしょう?
くじけそうになるたびに、貴方との約束が、胸の奥で希望の光のように灯ったの。
約束したものね。
必ず帰ってくるって。
だから、私も約束を守るために。
貴方が帰る場所を見つけられるように。
私たちは、この地でやり直すことに決めたのよ。
素人の集まりだったけれどみんなで知恵と力を出し合って、どうにか一軒一軒、家を建て直していったわ。
――でも、貴方はまだ帰ってこない。
戦地から命からがら逃げのびてきた男たちが少しずつ戻ってきて。女たちは、ようやく息を吐けるようになったのよ。
――でも、その中にも貴方の姿はなかったわよね。
誰かが戻ってくるたびに、私も息を切らして出迎えたのに。
感動の再会を果たす家族や恋人たちが、羨ましくて、妬ましくて。
素直に喜んであげられない自分がひどく嫌な女に思えて、私は歯を食いしばりながら、祝福の拍手を送ったわ。
「義姉さん、兄さんは必ず帰ってきますから」
そのたびに、貴方の弟――カルロは私を慰めてくれたわ。
だから二人で血豆をこさえながら酒蔵の再建に取り組んだのよ。
お酒じゃお腹は満たせないけれど、いくばくかの慰めにはなるでしょう?
村にも人手が戻ってきて、少しずつ復興の兆しが見え始めていたの。
これからは帝国の人たちを相手に商売をしていかなければならないのだから。この地にしか伝わらない秘伝の花酒は目新しさも手伝って、きっと帝国でも受け入れられるはずよ。
「義姉さん、製法は覚えていますか?」
私も跡継ぎとして父の手伝いはしていたもの。もちろん、覚えているわ。
我が家には花をお酒に漬ける花酒が代々伝わっていて、その材料に使うのは近くの野原に群生している『シュラリエ』の花なこと……貴方も当然覚えているわよね?
……ふふ、私と同じ名前のお花。父はずいぶんと安直だったのよね。
戦が終わって、もう幾年。
荒れ地だった野原も、手を加えなくても時間とともに少しずつ再生していったわ。
そのたくましさにいったいどれだけ励まされたことかしら。
そう。原料になるシュラリエの白い花も――毎年、春先には見事に咲き誇るようになっていたのよ。
まずは、カルロと二人でシュラリエの花を摘んで、昔馴染みの商店からアルコールを手に入れて、一年、瓶に漬けるところから始めたの。
覚えてる? あのお店、貴方と一緒に行ったこともあるわよね。焼けずに残っていて本当に良かったわ。
それにね。家族を失った私の身を案じて、あのお店のご主人は原価に近い値で卸してくれたのよ。
「私もシュラリエの花酒には随分とお世話になったんですよ。……酒蔵の再開、楽しみにしていますね」
待ってくれる人がいるんですもの。もう泣きごとなんて言っていられないじゃない。
毎朝、花を摘んで、花弁をより分けて、丁寧に花粉を拭い去って。
乾燥させているあいだに瓶を煮沸し、そこへ乾燥させたシュラリエを入れて、アルコールを注いで漬け込む。
本当は大樽で作れれば良かったのだけれど、まだそこまでは材料が揃わなくて。だからまずは、瓶詰めの花酒から手をつけることにしたのよ。
花が漬かっている間もやることは山積みよ。
だって、仕込みの間はお金になんてならないんですもの。別の仕事をしながら種銭を溜める必要があったわ。
なんでもやったわ。力仕事も、子守りも、給仕も、苦手だった織物も。
――あぁ、安心してちょうだい。身体は売らなかったわよ。身持ちが固い女だって、近所でも評判だったんだから。
そうして迎えた一年目。ようやく出来あがった花酒は――そうね。とても飲めたものじゃなかったの。
環境が整っていなかったからかしら。それとも、久しぶりに手をつけたせいで感覚が鈍っていたのかもしれないわね。
貴方だったらきっと何かアドバイスをくれたと思うけれど……いないのだから仕方がないわよね。
そこからはもう、試行錯誤の繰り返しだったわ。
村の人たちもね、自分のことのように応援してくれたのよ。貴重な蜂蜜を分けてくれたり、花摘みを手伝ってくれたり。
きっとみんな、何かしていないと落ち着かなかったのかもしれないわね。出世払いになることが心苦しかったけれど、涙に濡れていたこの村にも、少しずつ笑い声が戻ってきたの。
八年が経った頃かしら。
ようやく人様に出しても恥ずかしくないシュラリエの花酒が生まれたのよ。
淡く透き通る白。口当たりが優しく、花の香りが爽やかに広がる、父から受け継いだ味。
村のお祭りで花酒を振る舞ったときの――あのみんなの、弾けるような笑顔。
ああ、ようやく実がなったのだと。
私もカルロも肩を抱き合ってむせび泣いたわ。
……なんて言ったら、少し大げさかしらね。
でもね、それくらい嬉しかったのよ。
村長は「この村の特産にしよう!」って張り切るし。
「帝国の連中にも、たらふく飲ませてやろうぜ」なんて、戦で心に傷を負った人が、そんな冗談を言えるようにもなっていたの。
こういうのを、時間薬って言うのかしら。
ああ、心配しないで。
貴方のことを忘れた日なんて、一日たりともなかったから。
……でもね、毎晩祈ることは、やめたの。
もし生きているのなら手紙の一つでも送らせて頂戴と、神様に強請るのも――やめたのよ。
だって、誰かにお願いしたって誰も叶えてくれないんですもの。
だったら自分で立ち上がって――貴方に気付いてもらえるようにしたほうが、よっぽど私らしいでしょう?
酒蔵を再開するにあたって、名前は『ラ・シュラリエ』にしたの。……安直なのは、父譲りなのかもしれないわね。
でも、これなら。
いつか帝国が大陸を統一する過程で、あちこちでこの花酒が取引されるかもしれないじゃない?
そうしたら、きっと貴方も気づいてくれるでしょう?
私は、この村で生きているって。
――この地に、ちゃんと足をつけて立っているんだって。
――◇◆◇――
必ず帰ってくると約束をしてから、もう何年の月日が流れただろう。
今更どの面下げて、という思いはありながらも、俺は懐かしい故郷の土を踏みしめていた。
とはいっても、のどかな風景が広がるだけだった村も今や川沿いにはいくつもの水車が並び、村の規模もいくらか大きくなっているように見える。
かつてを思わせるものを見つける方が難しいくらいかもしれない。
一度は帝国の攻勢に遭って、この村も壊滅状態だったと旅の商人から耳にしていたのに――。
すっかり生まれ変わった村を前に、どうしても足を踏み入れる勇気が湧かなかった。
「……おや、旅人さんかい?」
村の入り口近くでまごついていた俺に、村人と思しき若者が気さくに話しかけてくる。
見たことのない顔だが、この村を出てからもう二十年以上が経とうとしている。きっと流れ者か、俺が出た後に生まれた子どもだろう。
「あ、ああ。昔、この辺りに住んでいたんだ」
「へぇ、それならあんたも戦争に駆り出されたクチかい? たまにそういう人が帰ってくるんだよ」
「そうなのか……。焼け野原になったと聞いていたが、その、随分と綺麗になったものだ」
「酒蔵のおかげさ。帝国も気に入ったんだろうね。開発費だって言って援助してくれるようになったんだ。あの国は、使えると思った相手には優しいからな」
酒蔵――その言葉を聞いた瞬間、胸が大きく高鳴った。
そう、俺が滞在していた漁村でも目にしたのだ。『シュラリエ』の名が刻まれた、白く澄んだ花酒を。
「その酒蔵に用があって来たんだ。場所は村の中央付近で、変わってないだろうか」
「でっかい酒蔵がいくつかあるからすぐに分かるはずだよ。今日は季節外れの暑さだからな。店の中で試飲もさせてくれるから、飲んでいくといいよ」
親切に教えてくれた若者に軽く礼を言い、まだ躊躇の残る足を無理やりに動かす。
道筋は覚えている。見た目はすっかり変わってしまっても、村の構造自体は変わっていない。
中央へ急ぐと、そこには昔はなかった噴水広場が広がり、向かいには立派な酒蔵がいくつも建てられていた。
……親父さんがやっていた頃に比べても、ずいぶんと立派になったものだ。
そのうちの一つが、酒を売る店だろうか。
外から中の様子を窺い知ることはできないが――看板には『ラ・シュラリエ』と書かれていて、ふと、想い人の顔が脳裏をよぎった。
躊躇う気持ちを振り払うように、意を決して酒蔵の扉を開ける。
爽やかなシュラリエの花の匂いが鼻をかすめ、かつてこの村で過ごした日々が記憶と共に甦ってくるようだった。
「いらっしゃいませ~」
どこか間延びした少女の声が出迎えてくれる。
店内は薄暗く、棚には花酒をはじめとしたさまざまな酒が並び、奥には木樽や瓶のラックが見えた。
仕込み場につながっているらしい奥の扉が少し開いていて、そこからは発酵中の甘い香りが漂ってくる。
まだ成人前だろうか。若い娘は俺を見ても特に反応はない。
ただ、その面影はどことなく――弟に似ている気がする。
この娘はもしかして……。
そう考えたとき、少女が声をかけてきた。
「あれ、お客さん、見たことのないお顔ですね。買い付けですか?」
「いや……。ここの店主に会いに来たんだが、息災だろうか」
「お母さんですか? ちょっと待ってくださいね」
そう言って、少女は階段を昇っていく。
――お母さん。その一言に、知らず心が揺れた。
いや、そりゃそうだ。二十年も放ったらかしにしていたんだ。結婚くらいしているに決まっている。
気は強いが、あれだけ器量の良い娘だったんだ。他の男が放っておくわけもないし――成長した弟が支えてくれていたとしても何らおかしな話じゃない。
そもそも俺は死んだものとして扱われていたはずだ。連絡の一つもよこさなかったんだから、肩を落とす方が間違っている。
子までもうけているのなら、今さら顔を合わせない方がいいかもしれない。
今や俺は彼女にとって亡霊も同然だ。
無闇に心をかき乱す必要はないだろう。
そう思ったら、もう足が動いていた。
少女が「お母さん」を連れて戻ってくる前に出ていこう。
そう決心して、入り口の扉に手をかけた瞬間。
ゆっくりと扉が開いた。
時間が一瞬止まったように感じる。
目の前に立っていたのは、かつて愛した女――シュラリエだった。
見間違えるはずがない。
確かにその顔は、年月を重ねているけれど。
けれど、目元のほくろは昔のままで、あの日の面影が色濃く残っていた。
「……あ、ごめんなさい! ……あら? 貴方、もしかして……!」
胸板にぶつかったシュラリエは、驚愕に目を見開いている。
唇が微かに震えているのが見えた。
「……サイラス……?」
言葉にならない感情が喉の奥で詰まって動かない。
一歩も動けずにいると、シュラリエは震える手を伸ばして俺の胸板をペタペタと触った。
「……ほんとに、貴方なのね……?」
思わず小さく笑ってしまった。
その仕草が、昔と変わらないものだったから。
「……ああ、俺だよ。待たせて本当にすまなかった」
その瞬間、ようやく現実を理解したのかシュラリエの目から大粒の涙が零れた。
触れていた手のひらで、そのまま俺の胸を容赦なく叩き始める。
「ばか……! 馬鹿! 生きていたのなら、いったい今まで何をしていたのよ! 私がどんな思いで貴方をずっと待っていたと思っているの……!」
一方、階段上からは小気味よい足音が響いてきた。
振り返ると、そこには先ほどの少女と――見知らぬ女がひとり。妊娠しているのか、腹を抱えながらふぅふぅと息をついていた。
「私に御用って聞いたんだけれど――やだ、義姉さん、どうして泣いているの……?!」
「お客さん、叔母さんを泣かさないでください!」
二人の母子はすっかり混乱している。
だが、シュラリエは言い訳をする暇も与えてくれず、胸をひとしきり叩いたあと、そのままわんわんと泣き出してしまった。
何が何やら、俺にだって分からない。
けれど、胸元にいるのは俺が愛する人に違いなくて――。
俺は彼女の少し小さくなった身体を、思いきり抱きしめた。
*
……珍しく、取り乱してしまったわね。
ようやく落ち着いた私は、鼻をかみながらサイラスの話に耳を傾けたの。
本当に、とても運が良かったのね。
軍船は確かに沈んだそうなのだけれど――彼は海を漂うだけ漂って、漁村にたどり着いたんですって。
ただ、そこは帝国と戦乱中の国。帝国領となったこの村に手紙を出すことなどできるわけもない。
それに彼はひどい怪我を負っていたらしくて、しばらくは記憶も曖昧な状態が続いたんだそうよ。
確かに彼の首には大きな傷跡が残っていて、冷静になってまじまじと見てみると、とても痛々しいものだったわ。
「瀕死の俺を助けてくれたご婦人がいたんだが、そのまま匿ってくれてね。なんでも戦死した息子さんによく似ていたそうなんだ。俺も世話になった手前、出ていくわけにはいかなくて……。すっかり居ついてしまったが――先日、見送ったんだ」
義理堅い人だから、その人を置いて帰ってくることなんてできなかったんでしょうね。
そんなところが好きになったんだもの。とても責める気にはなれなかったわ。
「……正直、君ももう死んでしまっていると思っていた。この村が戦禍にあったという話は聞いていたから。それに、生きていたとしても……きっといい人を見つけているだろうって……そう思ってたんだ」
そうよね。こんな片田舎の村のことなんて、海を挟んだ先の大陸にまで届くはずがないのよね。
貴方はその地に根付こうとしていたはずなのに。それでも帰ってきてくれたのは――。
「俺のいるところもそのうちに帝国領になって……漁村でまで、『ラ・シュラリエ』の花酒が売られるようになったんだ。最初は目を疑ったよ。でも。それを見たらもういてもたってもいられなくなって……帰ってきた」
そう言って彼は、カバンの中からシュラリエの乾燥花を取り出した。
お店のシンボルとして、酒瓶に紐で巻きつけているものを。
ああ、私のしてきたことは何も間違いではなかったのね。
貴方が帰るための道しるべとして、シュラリエは、ちゃんと届いてくれたのね――。
「シュラリエはこの地方でしか咲かないし、きっと君に違いないと思ったんだ。……親父さんと同じセンスで助かったよ。これを目にしなかったら……きっと俺はこの村には帰ってこなかったと思うから」
「生きていてくれただけでも私は嬉しいわ。でも……向こうでいい人でもいたんじゃないの?」
「まさか。何度も言っただろう? 俺は、君じゃなきゃダメなんだって。……すっかり遅くなったけれども、俺の妻になってくれないか?」
どこまでも遠慮がちな彼に、言いたいことは山ほどあったはずなのに、私はつい笑ってしまった。
もちろんよ。私だって、貴方のことをずっと待っていたのだから。
それに、義弟夫婦にこの酒蔵は任せたけれど、私はまだいくつかの酒蔵を抱えているの。
貴方には、帰ってきたことを後悔するくらいに働いてもらわないと困るのよ。
窓の外を見ると、花畑では、季節外れのシュラリエが気候に騙されて狂い咲いている。
まるで、私と一緒にサイラスの帰還を待ち侘びていたかのように――。
帰ってきたら、結婚をしようって。
それなのに――貴方は帰ってこなかった。
遺骨すら、手元に戻ることはなかったの。
貴方と私は幼いころから家族ぐるみの付き合いで、私の隣には貴方がいて、貴方の隣には私がいることがこの小さな村では当たり前だったわね。
我が家は代々酒造を営んでいたから、貴方もいずれは婿入りして私と一緒に後を継ぐものだと、誰も疑うことなくそう思っていたわ。
もちろん、貴方の意思はちゃんと確認したわよね?
周囲に外堀を埋められてしまった形だったけれども……貴方が望まないのなら、無理に私と結婚する必要はないのよって。
でもそう言ったら、貴方ったら……なんて答えたか覚えてる?
「そんなことを言わないでくれよ、シュラリエ。君がいないと僕は生きていけないんだ。そんなこと、君が一番よく分かってるだろう?」
ほんの少し頼りなくて、お人好しで、義理を欠くことは決してしない人。
とても優しい人だから本心を隠しているだけなんじゃないかって、そう疑ってもいたのに。
それでも貴方は困ったような顔をして、「俺は君じゃなきゃダメなんだよ」と、何度も繰り返してくれたのよね。
――だからって、私と離れた途端に本当にダメになってしまうなんて、思うはずがないじゃない。
本国と帝国との戦争が始まって、この片田舎の村にも徴兵の通達が届くようになってしまって。
『三十歳以下の成人男子は、兵役に就くように』
王命だもの。断れるはずがないじゃない。
出征の日。私たちは人目をはばかるように抱きしめ合って最後の言葉を交わしたよね。
「必ず帰ってくるから。そうしたら、俺と結婚して欲しい」
「ええ、約束よ。その間は私がこの酒蔵を守っていくから――」
そう、あのとき約束したのにね。
お互いにその約束を守ることはできなかったわね。
貴方の乗った軍船が海の藻屑に消えたと聞いて、私がどれほど嘆き悲しんだか。
そして戦禍がこの村にも及んで、酒蔵が焼失したとき、私がどれほど絶望したことか。
両親も、職人たちもみんな死んでしまって。
村に残されたのは、ごくわずかな人たちだけだったの。
でもね。
焼け野原で呆然と立ち尽くす人々を前に――まだ成人前だった貴方の弟が、こう言ったのよ。
「僕たちの手で、またやり直そうよ」
ねぇ、サイラス。
本当にそんなことができるのかしら?
だってこの村には何も残されていなかったのよ?
働き盛りの男たちは戦争から帰ってこなくて、逃げ遅れた老人たちは焼け死んで、残されたのは女と子どもばかり。
食事もままならずに、木の根を齧り、粗末な罠にかかった間抜けな獣にすがるような日々だったの。
徹底抗戦の構えを見せていたお国も、王都近くまで帝国兵が迫ったらあっさりと降伏をなされたそうよ。
帝国だってこんな外れの村に用なんてあるわけもなく。
私たちは、どこからも見捨てられてしまったの。
ひとたび病でも流行ろうものなら、生死にかかわるような状況で――。
それでも、私たちは生きていかなければならなかった。
だって、死にたくはなかったもの。
どんなに苦しくても、死にたいわけじゃなかったんだもの。
それに、貴方は……ひょっとしたら海を漂ってどこかの島にでも辿り着いているかもしれないでしょう?
くじけそうになるたびに、貴方との約束が、胸の奥で希望の光のように灯ったの。
約束したものね。
必ず帰ってくるって。
だから、私も約束を守るために。
貴方が帰る場所を見つけられるように。
私たちは、この地でやり直すことに決めたのよ。
素人の集まりだったけれどみんなで知恵と力を出し合って、どうにか一軒一軒、家を建て直していったわ。
――でも、貴方はまだ帰ってこない。
戦地から命からがら逃げのびてきた男たちが少しずつ戻ってきて。女たちは、ようやく息を吐けるようになったのよ。
――でも、その中にも貴方の姿はなかったわよね。
誰かが戻ってくるたびに、私も息を切らして出迎えたのに。
感動の再会を果たす家族や恋人たちが、羨ましくて、妬ましくて。
素直に喜んであげられない自分がひどく嫌な女に思えて、私は歯を食いしばりながら、祝福の拍手を送ったわ。
「義姉さん、兄さんは必ず帰ってきますから」
そのたびに、貴方の弟――カルロは私を慰めてくれたわ。
だから二人で血豆をこさえながら酒蔵の再建に取り組んだのよ。
お酒じゃお腹は満たせないけれど、いくばくかの慰めにはなるでしょう?
村にも人手が戻ってきて、少しずつ復興の兆しが見え始めていたの。
これからは帝国の人たちを相手に商売をしていかなければならないのだから。この地にしか伝わらない秘伝の花酒は目新しさも手伝って、きっと帝国でも受け入れられるはずよ。
「義姉さん、製法は覚えていますか?」
私も跡継ぎとして父の手伝いはしていたもの。もちろん、覚えているわ。
我が家には花をお酒に漬ける花酒が代々伝わっていて、その材料に使うのは近くの野原に群生している『シュラリエ』の花なこと……貴方も当然覚えているわよね?
……ふふ、私と同じ名前のお花。父はずいぶんと安直だったのよね。
戦が終わって、もう幾年。
荒れ地だった野原も、手を加えなくても時間とともに少しずつ再生していったわ。
そのたくましさにいったいどれだけ励まされたことかしら。
そう。原料になるシュラリエの白い花も――毎年、春先には見事に咲き誇るようになっていたのよ。
まずは、カルロと二人でシュラリエの花を摘んで、昔馴染みの商店からアルコールを手に入れて、一年、瓶に漬けるところから始めたの。
覚えてる? あのお店、貴方と一緒に行ったこともあるわよね。焼けずに残っていて本当に良かったわ。
それにね。家族を失った私の身を案じて、あのお店のご主人は原価に近い値で卸してくれたのよ。
「私もシュラリエの花酒には随分とお世話になったんですよ。……酒蔵の再開、楽しみにしていますね」
待ってくれる人がいるんですもの。もう泣きごとなんて言っていられないじゃない。
毎朝、花を摘んで、花弁をより分けて、丁寧に花粉を拭い去って。
乾燥させているあいだに瓶を煮沸し、そこへ乾燥させたシュラリエを入れて、アルコールを注いで漬け込む。
本当は大樽で作れれば良かったのだけれど、まだそこまでは材料が揃わなくて。だからまずは、瓶詰めの花酒から手をつけることにしたのよ。
花が漬かっている間もやることは山積みよ。
だって、仕込みの間はお金になんてならないんですもの。別の仕事をしながら種銭を溜める必要があったわ。
なんでもやったわ。力仕事も、子守りも、給仕も、苦手だった織物も。
――あぁ、安心してちょうだい。身体は売らなかったわよ。身持ちが固い女だって、近所でも評判だったんだから。
そうして迎えた一年目。ようやく出来あがった花酒は――そうね。とても飲めたものじゃなかったの。
環境が整っていなかったからかしら。それとも、久しぶりに手をつけたせいで感覚が鈍っていたのかもしれないわね。
貴方だったらきっと何かアドバイスをくれたと思うけれど……いないのだから仕方がないわよね。
そこからはもう、試行錯誤の繰り返しだったわ。
村の人たちもね、自分のことのように応援してくれたのよ。貴重な蜂蜜を分けてくれたり、花摘みを手伝ってくれたり。
きっとみんな、何かしていないと落ち着かなかったのかもしれないわね。出世払いになることが心苦しかったけれど、涙に濡れていたこの村にも、少しずつ笑い声が戻ってきたの。
八年が経った頃かしら。
ようやく人様に出しても恥ずかしくないシュラリエの花酒が生まれたのよ。
淡く透き通る白。口当たりが優しく、花の香りが爽やかに広がる、父から受け継いだ味。
村のお祭りで花酒を振る舞ったときの――あのみんなの、弾けるような笑顔。
ああ、ようやく実がなったのだと。
私もカルロも肩を抱き合ってむせび泣いたわ。
……なんて言ったら、少し大げさかしらね。
でもね、それくらい嬉しかったのよ。
村長は「この村の特産にしよう!」って張り切るし。
「帝国の連中にも、たらふく飲ませてやろうぜ」なんて、戦で心に傷を負った人が、そんな冗談を言えるようにもなっていたの。
こういうのを、時間薬って言うのかしら。
ああ、心配しないで。
貴方のことを忘れた日なんて、一日たりともなかったから。
……でもね、毎晩祈ることは、やめたの。
もし生きているのなら手紙の一つでも送らせて頂戴と、神様に強請るのも――やめたのよ。
だって、誰かにお願いしたって誰も叶えてくれないんですもの。
だったら自分で立ち上がって――貴方に気付いてもらえるようにしたほうが、よっぽど私らしいでしょう?
酒蔵を再開するにあたって、名前は『ラ・シュラリエ』にしたの。……安直なのは、父譲りなのかもしれないわね。
でも、これなら。
いつか帝国が大陸を統一する過程で、あちこちでこの花酒が取引されるかもしれないじゃない?
そうしたら、きっと貴方も気づいてくれるでしょう?
私は、この村で生きているって。
――この地に、ちゃんと足をつけて立っているんだって。
――◇◆◇――
必ず帰ってくると約束をしてから、もう何年の月日が流れただろう。
今更どの面下げて、という思いはありながらも、俺は懐かしい故郷の土を踏みしめていた。
とはいっても、のどかな風景が広がるだけだった村も今や川沿いにはいくつもの水車が並び、村の規模もいくらか大きくなっているように見える。
かつてを思わせるものを見つける方が難しいくらいかもしれない。
一度は帝国の攻勢に遭って、この村も壊滅状態だったと旅の商人から耳にしていたのに――。
すっかり生まれ変わった村を前に、どうしても足を踏み入れる勇気が湧かなかった。
「……おや、旅人さんかい?」
村の入り口近くでまごついていた俺に、村人と思しき若者が気さくに話しかけてくる。
見たことのない顔だが、この村を出てからもう二十年以上が経とうとしている。きっと流れ者か、俺が出た後に生まれた子どもだろう。
「あ、ああ。昔、この辺りに住んでいたんだ」
「へぇ、それならあんたも戦争に駆り出されたクチかい? たまにそういう人が帰ってくるんだよ」
「そうなのか……。焼け野原になったと聞いていたが、その、随分と綺麗になったものだ」
「酒蔵のおかげさ。帝国も気に入ったんだろうね。開発費だって言って援助してくれるようになったんだ。あの国は、使えると思った相手には優しいからな」
酒蔵――その言葉を聞いた瞬間、胸が大きく高鳴った。
そう、俺が滞在していた漁村でも目にしたのだ。『シュラリエ』の名が刻まれた、白く澄んだ花酒を。
「その酒蔵に用があって来たんだ。場所は村の中央付近で、変わってないだろうか」
「でっかい酒蔵がいくつかあるからすぐに分かるはずだよ。今日は季節外れの暑さだからな。店の中で試飲もさせてくれるから、飲んでいくといいよ」
親切に教えてくれた若者に軽く礼を言い、まだ躊躇の残る足を無理やりに動かす。
道筋は覚えている。見た目はすっかり変わってしまっても、村の構造自体は変わっていない。
中央へ急ぐと、そこには昔はなかった噴水広場が広がり、向かいには立派な酒蔵がいくつも建てられていた。
……親父さんがやっていた頃に比べても、ずいぶんと立派になったものだ。
そのうちの一つが、酒を売る店だろうか。
外から中の様子を窺い知ることはできないが――看板には『ラ・シュラリエ』と書かれていて、ふと、想い人の顔が脳裏をよぎった。
躊躇う気持ちを振り払うように、意を決して酒蔵の扉を開ける。
爽やかなシュラリエの花の匂いが鼻をかすめ、かつてこの村で過ごした日々が記憶と共に甦ってくるようだった。
「いらっしゃいませ~」
どこか間延びした少女の声が出迎えてくれる。
店内は薄暗く、棚には花酒をはじめとしたさまざまな酒が並び、奥には木樽や瓶のラックが見えた。
仕込み場につながっているらしい奥の扉が少し開いていて、そこからは発酵中の甘い香りが漂ってくる。
まだ成人前だろうか。若い娘は俺を見ても特に反応はない。
ただ、その面影はどことなく――弟に似ている気がする。
この娘はもしかして……。
そう考えたとき、少女が声をかけてきた。
「あれ、お客さん、見たことのないお顔ですね。買い付けですか?」
「いや……。ここの店主に会いに来たんだが、息災だろうか」
「お母さんですか? ちょっと待ってくださいね」
そう言って、少女は階段を昇っていく。
――お母さん。その一言に、知らず心が揺れた。
いや、そりゃそうだ。二十年も放ったらかしにしていたんだ。結婚くらいしているに決まっている。
気は強いが、あれだけ器量の良い娘だったんだ。他の男が放っておくわけもないし――成長した弟が支えてくれていたとしても何らおかしな話じゃない。
そもそも俺は死んだものとして扱われていたはずだ。連絡の一つもよこさなかったんだから、肩を落とす方が間違っている。
子までもうけているのなら、今さら顔を合わせない方がいいかもしれない。
今や俺は彼女にとって亡霊も同然だ。
無闇に心をかき乱す必要はないだろう。
そう思ったら、もう足が動いていた。
少女が「お母さん」を連れて戻ってくる前に出ていこう。
そう決心して、入り口の扉に手をかけた瞬間。
ゆっくりと扉が開いた。
時間が一瞬止まったように感じる。
目の前に立っていたのは、かつて愛した女――シュラリエだった。
見間違えるはずがない。
確かにその顔は、年月を重ねているけれど。
けれど、目元のほくろは昔のままで、あの日の面影が色濃く残っていた。
「……あ、ごめんなさい! ……あら? 貴方、もしかして……!」
胸板にぶつかったシュラリエは、驚愕に目を見開いている。
唇が微かに震えているのが見えた。
「……サイラス……?」
言葉にならない感情が喉の奥で詰まって動かない。
一歩も動けずにいると、シュラリエは震える手を伸ばして俺の胸板をペタペタと触った。
「……ほんとに、貴方なのね……?」
思わず小さく笑ってしまった。
その仕草が、昔と変わらないものだったから。
「……ああ、俺だよ。待たせて本当にすまなかった」
その瞬間、ようやく現実を理解したのかシュラリエの目から大粒の涙が零れた。
触れていた手のひらで、そのまま俺の胸を容赦なく叩き始める。
「ばか……! 馬鹿! 生きていたのなら、いったい今まで何をしていたのよ! 私がどんな思いで貴方をずっと待っていたと思っているの……!」
一方、階段上からは小気味よい足音が響いてきた。
振り返ると、そこには先ほどの少女と――見知らぬ女がひとり。妊娠しているのか、腹を抱えながらふぅふぅと息をついていた。
「私に御用って聞いたんだけれど――やだ、義姉さん、どうして泣いているの……?!」
「お客さん、叔母さんを泣かさないでください!」
二人の母子はすっかり混乱している。
だが、シュラリエは言い訳をする暇も与えてくれず、胸をひとしきり叩いたあと、そのままわんわんと泣き出してしまった。
何が何やら、俺にだって分からない。
けれど、胸元にいるのは俺が愛する人に違いなくて――。
俺は彼女の少し小さくなった身体を、思いきり抱きしめた。
*
……珍しく、取り乱してしまったわね。
ようやく落ち着いた私は、鼻をかみながらサイラスの話に耳を傾けたの。
本当に、とても運が良かったのね。
軍船は確かに沈んだそうなのだけれど――彼は海を漂うだけ漂って、漁村にたどり着いたんですって。
ただ、そこは帝国と戦乱中の国。帝国領となったこの村に手紙を出すことなどできるわけもない。
それに彼はひどい怪我を負っていたらしくて、しばらくは記憶も曖昧な状態が続いたんだそうよ。
確かに彼の首には大きな傷跡が残っていて、冷静になってまじまじと見てみると、とても痛々しいものだったわ。
「瀕死の俺を助けてくれたご婦人がいたんだが、そのまま匿ってくれてね。なんでも戦死した息子さんによく似ていたそうなんだ。俺も世話になった手前、出ていくわけにはいかなくて……。すっかり居ついてしまったが――先日、見送ったんだ」
義理堅い人だから、その人を置いて帰ってくることなんてできなかったんでしょうね。
そんなところが好きになったんだもの。とても責める気にはなれなかったわ。
「……正直、君ももう死んでしまっていると思っていた。この村が戦禍にあったという話は聞いていたから。それに、生きていたとしても……きっといい人を見つけているだろうって……そう思ってたんだ」
そうよね。こんな片田舎の村のことなんて、海を挟んだ先の大陸にまで届くはずがないのよね。
貴方はその地に根付こうとしていたはずなのに。それでも帰ってきてくれたのは――。
「俺のいるところもそのうちに帝国領になって……漁村でまで、『ラ・シュラリエ』の花酒が売られるようになったんだ。最初は目を疑ったよ。でも。それを見たらもういてもたってもいられなくなって……帰ってきた」
そう言って彼は、カバンの中からシュラリエの乾燥花を取り出した。
お店のシンボルとして、酒瓶に紐で巻きつけているものを。
ああ、私のしてきたことは何も間違いではなかったのね。
貴方が帰るための道しるべとして、シュラリエは、ちゃんと届いてくれたのね――。
「シュラリエはこの地方でしか咲かないし、きっと君に違いないと思ったんだ。……親父さんと同じセンスで助かったよ。これを目にしなかったら……きっと俺はこの村には帰ってこなかったと思うから」
「生きていてくれただけでも私は嬉しいわ。でも……向こうでいい人でもいたんじゃないの?」
「まさか。何度も言っただろう? 俺は、君じゃなきゃダメなんだって。……すっかり遅くなったけれども、俺の妻になってくれないか?」
どこまでも遠慮がちな彼に、言いたいことは山ほどあったはずなのに、私はつい笑ってしまった。
もちろんよ。私だって、貴方のことをずっと待っていたのだから。
それに、義弟夫婦にこの酒蔵は任せたけれど、私はまだいくつかの酒蔵を抱えているの。
貴方には、帰ってきたことを後悔するくらいに働いてもらわないと困るのよ。
窓の外を見ると、花畑では、季節外れのシュラリエが気候に騙されて狂い咲いている。
まるで、私と一緒にサイラスの帰還を待ち侘びていたかのように――。
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