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第1章 夢は叶えるためにある
李漢林
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ふわん、と草のにおいが鼻をつく。それに少しの腐敗臭。
これは、馬糞だ。薄青の官服の肩が泥を浴びたようになっているのを見て、羅刹は慌てて手ではたき落とす。
肩は少し掠めたくらいだったが、あとの二発はまともに当たったので、背中はもっと酷いことになっているだろう。これから泣く子も黙る御史台に行くというのに、なんたることだ。
ふと殺気を感じ、咄嗟に頭を下げた。頭の上を何かが通り抜けた音がする。
「おいおい、的は避けるなよ」
鼻にかかる気障ったらしい声の方を振り返ってみれば、吊り目の青年が立っていた。
銀色の短髪に、気の強さを表したような少し上を向いた高い鼻。まあまあ整った顔立ちはしているが、性格は悪そうである。
「なにをするんだ」
感情に任せて怒り散らしたい気持ちをグッと抑え、極力低い声で憤りを現す。思うままに罵ってやりたいところだが、そうすると女である素の自分が出てしまう。
「毎度毎度、挨拶もなく通り過ぎていきやがるから、ちょっと注意してやろうと思ってな」
吊り目の男の後ろから、もう二人官服の男が出てきた。手が汚れているところを見るに、彼らが実行犯らしい。
薄青の官服、ということは、彼らも進士か。
国の頭脳となるはずの人間たちが情けない。早速強そうなものに腰巾着というわけか。
「初対面のやつに挨拶なんて、できるわけがない。急いでいるのでこれで」
書類を両腕で守るように胸に抱き、涼しい顔をして通り過ぎようとしたが。吊り目にフンのついていない方の肩を掴まれる。
「どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ、柳羅刹」
「そうだ、李本家のご子息になんたる無礼!」
掴まれた肩にギリギリと指が食い込む。男の力で乱暴されれば、鶏ガラのような自分の体はひとたまりもない。だが、この高慢な男に下るのは我慢ならなかった。
「李本家、何人も将軍を排出した名門中の名門だね。その李家の君がどうして僕にお時間を割いてくださったの?」
「そこまでわかっておいて無視を決め込んでいたとは。貴様よほど度胸があると見える」
及第後の人脈作りの参考として、宮廷の勢力関係図は頭に入れている。そのため李家についても知ってはいた。だが軍部に強い李家との人脈は、志部への道の優位にも劣位にも働かない。つまり羅刹にとってはどうでも良い存在で、あまり気を払っていなかった。李家の息子が同期にいるというのも今知ったくらいだ。
「漢林様の進士式での厚意も無駄になさって、厚顔無恥というのはお前のようなやつのことを言うのだな」
腰巾着一が何か言っている。もはや名前を覚える気にもなれない。そしてさっきからなんなんだ。遠回しにへり下るよう促すような物言いに嫌気がさす。だが、腰巾着の言葉の中に、一つ気になる言葉があった。
「進士式での厚意、ってなに」
「とぼけやがって。普段は後ろ盾のろくにない市民になど、お声をかけない漢林様が、ただお前が隣にいたというそれだけで、声をかけてくださろうとしたんだ。これがどれだけありがたいことか、わかっているのか?」
腰巾着二の言葉は、途中から聞こえていなかった。進士式の場面が頭の中で蘇る。式が終わり、皆が席を立った時、視界の横で誰かが必死に喋っていたような気がしてきた。ぼやっとしか記憶にないが、ちょうど漢林のような銀髪の男だった気がする。あれは誰かに向けて喋っていたのではなくて、もしかして自分に話しかけていたのでは。
「もしかして、進士式の時僕の隣の席にいた人? っていうか、榜眼?」
「貴様……!」
やってしまった。あの時は夢への一歩が嬉しすぎて、ずっと志部で働く自分の姿を妄想していたのだ。好きなことに夢中になると、他のことに気が向かなくなるのは羅刹の悪い癖である。
そうか、このお坊ちゃんは、自分がせっかく声をかけたのに無視されたのが余程癪に触ったのね。
自分にも多少は突っかかられる理由があったのに気づき、急に冷静になっていく。だとしても、馬糞を投げつけられるほどの行いをしたとは思えないが。
「ごめん、全然気が付かなかった。もしかして、友達になってくれようとしてた?」
そう言い切ったあとで、自分が漢林の逆鱗に触れたことに気が付く。彼は羅刹の肩を掴んだまま、大きく後ろに拳を振りかぶっていた。
これは、馬糞だ。薄青の官服の肩が泥を浴びたようになっているのを見て、羅刹は慌てて手ではたき落とす。
肩は少し掠めたくらいだったが、あとの二発はまともに当たったので、背中はもっと酷いことになっているだろう。これから泣く子も黙る御史台に行くというのに、なんたることだ。
ふと殺気を感じ、咄嗟に頭を下げた。頭の上を何かが通り抜けた音がする。
「おいおい、的は避けるなよ」
鼻にかかる気障ったらしい声の方を振り返ってみれば、吊り目の青年が立っていた。
銀色の短髪に、気の強さを表したような少し上を向いた高い鼻。まあまあ整った顔立ちはしているが、性格は悪そうである。
「なにをするんだ」
感情に任せて怒り散らしたい気持ちをグッと抑え、極力低い声で憤りを現す。思うままに罵ってやりたいところだが、そうすると女である素の自分が出てしまう。
「毎度毎度、挨拶もなく通り過ぎていきやがるから、ちょっと注意してやろうと思ってな」
吊り目の男の後ろから、もう二人官服の男が出てきた。手が汚れているところを見るに、彼らが実行犯らしい。
薄青の官服、ということは、彼らも進士か。
国の頭脳となるはずの人間たちが情けない。早速強そうなものに腰巾着というわけか。
「初対面のやつに挨拶なんて、できるわけがない。急いでいるのでこれで」
書類を両腕で守るように胸に抱き、涼しい顔をして通り過ぎようとしたが。吊り目にフンのついていない方の肩を掴まれる。
「どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ、柳羅刹」
「そうだ、李本家のご子息になんたる無礼!」
掴まれた肩にギリギリと指が食い込む。男の力で乱暴されれば、鶏ガラのような自分の体はひとたまりもない。だが、この高慢な男に下るのは我慢ならなかった。
「李本家、何人も将軍を排出した名門中の名門だね。その李家の君がどうして僕にお時間を割いてくださったの?」
「そこまでわかっておいて無視を決め込んでいたとは。貴様よほど度胸があると見える」
及第後の人脈作りの参考として、宮廷の勢力関係図は頭に入れている。そのため李家についても知ってはいた。だが軍部に強い李家との人脈は、志部への道の優位にも劣位にも働かない。つまり羅刹にとってはどうでも良い存在で、あまり気を払っていなかった。李家の息子が同期にいるというのも今知ったくらいだ。
「漢林様の進士式での厚意も無駄になさって、厚顔無恥というのはお前のようなやつのことを言うのだな」
腰巾着一が何か言っている。もはや名前を覚える気にもなれない。そしてさっきからなんなんだ。遠回しにへり下るよう促すような物言いに嫌気がさす。だが、腰巾着の言葉の中に、一つ気になる言葉があった。
「進士式での厚意、ってなに」
「とぼけやがって。普段は後ろ盾のろくにない市民になど、お声をかけない漢林様が、ただお前が隣にいたというそれだけで、声をかけてくださろうとしたんだ。これがどれだけありがたいことか、わかっているのか?」
腰巾着二の言葉は、途中から聞こえていなかった。進士式の場面が頭の中で蘇る。式が終わり、皆が席を立った時、視界の横で誰かが必死に喋っていたような気がしてきた。ぼやっとしか記憶にないが、ちょうど漢林のような銀髪の男だった気がする。あれは誰かに向けて喋っていたのではなくて、もしかして自分に話しかけていたのでは。
「もしかして、進士式の時僕の隣の席にいた人? っていうか、榜眼?」
「貴様……!」
やってしまった。あの時は夢への一歩が嬉しすぎて、ずっと志部で働く自分の姿を妄想していたのだ。好きなことに夢中になると、他のことに気が向かなくなるのは羅刹の悪い癖である。
そうか、このお坊ちゃんは、自分がせっかく声をかけたのに無視されたのが余程癪に触ったのね。
自分にも多少は突っかかられる理由があったのに気づき、急に冷静になっていく。だとしても、馬糞を投げつけられるほどの行いをしたとは思えないが。
「ごめん、全然気が付かなかった。もしかして、友達になってくれようとしてた?」
そう言い切ったあとで、自分が漢林の逆鱗に触れたことに気が付く。彼は羅刹の肩を掴んだまま、大きく後ろに拳を振りかぶっていた。
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