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第6章 蔡華の想い
過去との対峙
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玉龍宮を出たところで、雲嵐が立ち止まった。
「すこし、時間をもらえるか」
「はい」
羅刹の少し先をゆく後ろ姿は、まごうことなき雅さをまとっていた。
仮面の変人の印象があまりに強すぎて、まるで別人のように感じてしまう。
雲嵐は瞳の色を隠そうとしてか、目を伏せて歩いている。その彼を後宮女官や侍女たちは、頬を染めて見つめていた。
本当なら、自分が関われるようなお方ではない。そう実感する。
無言で歩き続けた先、彼が羅刹を案内したのは東宮殿だった。
ここに外から来るのは初めてだ。麻布を被せられたり、意識のない状態で担ぎ込まれたことならあるのだが。
改めて見ると立派な建物だ。
室内の一室に通され、円卓につくように促される。茶の支度のために侍女が一人現れた。雲嵐は冕冠を脱ぎ、彼女にそれを渡す。
「東宮様のお客様ですか! 侍女の麗玲と申します! 以後お見知り置きを」
凄まじい勢いの挨拶に、羅刹はギョッとする。
「羅刹様ですね? お話は伺っております。おやおや少々お疲れのご様子ですね? そんな貴方には、ひと口飲めば元気百倍、吹雪の中でも全裸で踊れると噂のこの栄養剤、今ならなんと……」
「下がれ、麗玲」
「はい! 我が君の御命令とあらば!」
ぴし、と背筋を伸ばし、ふたたび礼をとれば、麗玲はしずしずと部屋をあとにした。
何が起こったのか理解が追いつかず、羅刹は唖然とする。
「あれが金子を積めばなんでもこなしてくれると噂の」
「経験豊富な侍女を提供する商家があってな。そこから派遣してもらっている。隙あらば実家の商品を売りつけようとするのが問題だが、契約内容は絶対厳守なのがこちらとしては都合がいいのだ」
敵の多い彼にとっては、下手な侍女を配属されるよりいいのかもしれない。
雲嵐がまとめていた髪を解く。闇夜を溶かしたような黒髪がおりると同時、雲嵐の表情に疲労の色が出る。
「俺はちゃんと喋れていたか」
「はい」
「母上と、目を合わせて話したのはかなり久しぶりだった気がする」
徳妃と顔をあわせた直後の雲嵐は、ずいぶんとつんけんしていた。まるで、傷つけられないよう威嚇する獣のように。
「羅刹、お前は誰から琵琶を習ったか、武術はどこで習ったかと、俺に聞いたな」
「聞きました。私はそれは、徳妃が影から手をまわされたものだと思っています」
「悔しいが、俺も同感だ」
雲嵐は卓に両肘をつき、組んだ両手に額を押し付ける。
「都合よく各分野の玄人が身の回りに現れるわけはない。俺の日々の予定は、父上に厳しく管理されていた」
翠の瞳は、遠くを見ていた。
「死んだ子どもの代わりに与えられた厄介者。侍女たちの噂話から、俺は自分の真実を知った。なぜ自分と会ってくれないのか、優しくしてもらえないのか、合点がいった」
「雲嵐……」
「よく考えれば、あのとき母上が俺に情をかけられるわけがない。下手に大切に扱えば、謀反の疑いをかけられてもおかしくない。今ならわかる。その時の凰族に対する周囲の目がどんなものだったか」
「さきほど、閨ごとの件でお話を伺った際、話してくださったのですが」
羅刹は鏡花妃の表情を見て、とても彼女が雲嵐を憎んでいるとは思えなかった。
それで彼女に問うた。雲嵐のことを、どう思っているのかと。
『子どもを失うっていうのは、母親にとって身を引き裂かれる如く辛いことなのよ。今思い出しても涙が出る』
黒目がちな瞳が潤む。徳妃は右手をぎゅっと握り、胸においた。
『翠嵐は絶望の底に沈む私の腕に、渡された赤子。あたたかくて、柔らかくて、か弱くてねぇ。母を失い、支えてくれる全てさえも失ってしまった子。そんな子どもを、妾が憎めると思う?』
ふ、と笑った鏡花の表情は、子を思う母の顔をしていた。
『あの子には辛い思いをさせてしまったわ。母として、表向き優しい態度をとってあげることはできなかった。抱きしめてあげたくても、そうしてあげることはできなかった。蒼徳は翠嵐が知恵をつけ、自分に復讐することを恐れていたから』
『でも子は勝手に育つものねぇ。私は最低限の手助けしかできなかったけれど。少し見ない間に随分と立派になって』
雲嵐のことを語る鏡花の顔は、実の息子を思う母のものだったと羅刹は思う
彼女は雲嵐を憎んでなどいない。ただ、愛を表現する機会を得られなかっただけなのだ。
羅刹が鏡花の言葉を伝えれば、雲嵐の顔が困惑に歪む。そして翠の瞳から、一筋の涙が溢れでた。
「すまん」
「何を謝るのですか」
「胸がいっぱいで、止まらない」
「肩、貸しましょうか?」
おどけてそう言えば、雲嵐は椅子を羅刹のすぐ横に寄せる。
大柄な彼が体を丸めたかと思うと、羅刹の肩へ額を押し付けてきた。
「い、いまのは冗談だったんですが」
「しばしこのままでいろ」
堪えていたものが溢れ出すのを感じる。羅刹の服の左肩が、あたたかな涙でじんわり濡れた。
この人は孤独に耐えてきた。
別に皇子が生まれるまでの東宮として、殺される運命を待ってきた。
母からの愛など期待していなかった。
しかし今、密かにかけられていた母の愛情を感じることができた。
これがどれだけのことを意味するだろう。
「しかたありませんね」
羅刹は仕方なく、雲嵐の頭に手を添え髪をすく。彼の気持ちが落ち着くまで、このままでいてやろうと思った。
「すこし、時間をもらえるか」
「はい」
羅刹の少し先をゆく後ろ姿は、まごうことなき雅さをまとっていた。
仮面の変人の印象があまりに強すぎて、まるで別人のように感じてしまう。
雲嵐は瞳の色を隠そうとしてか、目を伏せて歩いている。その彼を後宮女官や侍女たちは、頬を染めて見つめていた。
本当なら、自分が関われるようなお方ではない。そう実感する。
無言で歩き続けた先、彼が羅刹を案内したのは東宮殿だった。
ここに外から来るのは初めてだ。麻布を被せられたり、意識のない状態で担ぎ込まれたことならあるのだが。
改めて見ると立派な建物だ。
室内の一室に通され、円卓につくように促される。茶の支度のために侍女が一人現れた。雲嵐は冕冠を脱ぎ、彼女にそれを渡す。
「東宮様のお客様ですか! 侍女の麗玲と申します! 以後お見知り置きを」
凄まじい勢いの挨拶に、羅刹はギョッとする。
「羅刹様ですね? お話は伺っております。おやおや少々お疲れのご様子ですね? そんな貴方には、ひと口飲めば元気百倍、吹雪の中でも全裸で踊れると噂のこの栄養剤、今ならなんと……」
「下がれ、麗玲」
「はい! 我が君の御命令とあらば!」
ぴし、と背筋を伸ばし、ふたたび礼をとれば、麗玲はしずしずと部屋をあとにした。
何が起こったのか理解が追いつかず、羅刹は唖然とする。
「あれが金子を積めばなんでもこなしてくれると噂の」
「経験豊富な侍女を提供する商家があってな。そこから派遣してもらっている。隙あらば実家の商品を売りつけようとするのが問題だが、契約内容は絶対厳守なのがこちらとしては都合がいいのだ」
敵の多い彼にとっては、下手な侍女を配属されるよりいいのかもしれない。
雲嵐がまとめていた髪を解く。闇夜を溶かしたような黒髪がおりると同時、雲嵐の表情に疲労の色が出る。
「俺はちゃんと喋れていたか」
「はい」
「母上と、目を合わせて話したのはかなり久しぶりだった気がする」
徳妃と顔をあわせた直後の雲嵐は、ずいぶんとつんけんしていた。まるで、傷つけられないよう威嚇する獣のように。
「羅刹、お前は誰から琵琶を習ったか、武術はどこで習ったかと、俺に聞いたな」
「聞きました。私はそれは、徳妃が影から手をまわされたものだと思っています」
「悔しいが、俺も同感だ」
雲嵐は卓に両肘をつき、組んだ両手に額を押し付ける。
「都合よく各分野の玄人が身の回りに現れるわけはない。俺の日々の予定は、父上に厳しく管理されていた」
翠の瞳は、遠くを見ていた。
「死んだ子どもの代わりに与えられた厄介者。侍女たちの噂話から、俺は自分の真実を知った。なぜ自分と会ってくれないのか、優しくしてもらえないのか、合点がいった」
「雲嵐……」
「よく考えれば、あのとき母上が俺に情をかけられるわけがない。下手に大切に扱えば、謀反の疑いをかけられてもおかしくない。今ならわかる。その時の凰族に対する周囲の目がどんなものだったか」
「さきほど、閨ごとの件でお話を伺った際、話してくださったのですが」
羅刹は鏡花妃の表情を見て、とても彼女が雲嵐を憎んでいるとは思えなかった。
それで彼女に問うた。雲嵐のことを、どう思っているのかと。
『子どもを失うっていうのは、母親にとって身を引き裂かれる如く辛いことなのよ。今思い出しても涙が出る』
黒目がちな瞳が潤む。徳妃は右手をぎゅっと握り、胸においた。
『翠嵐は絶望の底に沈む私の腕に、渡された赤子。あたたかくて、柔らかくて、か弱くてねぇ。母を失い、支えてくれる全てさえも失ってしまった子。そんな子どもを、妾が憎めると思う?』
ふ、と笑った鏡花の表情は、子を思う母の顔をしていた。
『あの子には辛い思いをさせてしまったわ。母として、表向き優しい態度をとってあげることはできなかった。抱きしめてあげたくても、そうしてあげることはできなかった。蒼徳は翠嵐が知恵をつけ、自分に復讐することを恐れていたから』
『でも子は勝手に育つものねぇ。私は最低限の手助けしかできなかったけれど。少し見ない間に随分と立派になって』
雲嵐のことを語る鏡花の顔は、実の息子を思う母のものだったと羅刹は思う
彼女は雲嵐を憎んでなどいない。ただ、愛を表現する機会を得られなかっただけなのだ。
羅刹が鏡花の言葉を伝えれば、雲嵐の顔が困惑に歪む。そして翠の瞳から、一筋の涙が溢れでた。
「すまん」
「何を謝るのですか」
「胸がいっぱいで、止まらない」
「肩、貸しましょうか?」
おどけてそう言えば、雲嵐は椅子を羅刹のすぐ横に寄せる。
大柄な彼が体を丸めたかと思うと、羅刹の肩へ額を押し付けてきた。
「い、いまのは冗談だったんですが」
「しばしこのままでいろ」
堪えていたものが溢れ出すのを感じる。羅刹の服の左肩が、あたたかな涙でじんわり濡れた。
この人は孤独に耐えてきた。
別に皇子が生まれるまでの東宮として、殺される運命を待ってきた。
母からの愛など期待していなかった。
しかし今、密かにかけられていた母の愛情を感じることができた。
これがどれだけのことを意味するだろう。
「しかたありませんね」
羅刹は仕方なく、雲嵐の頭に手を添え髪をすく。彼の気持ちが落ち着くまで、このままでいてやろうと思った。
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