愛すべきマリア

志波 連

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 マリアの勉強は驚異のスピードで進み、狐と狸の関係はますます険悪になっていた。
 彼女たちにとって、マリアという存在こそが、排除対象であったはずなのに、いつの間にか蚊帳の外へと追いやられている。
 カーチスは相変わらず逃げ回り、アラバスは適当に狸と狐をあしらっていた。
 豊穣祭まであとふと月となったある日の夜、マリアが神妙な顔でアラバスに言う。

「お姉ちゃんが、アシュに伝えてって言ったよ」

「おねえちゃん? もしかして『いつも寝ているお姉ちゃん』か?」

「うん、お昼頃に起きてきてね『出産の時には戻れますから、それまでには大掃除を済ませておいてくださいね』だってさ」

「出産? 本当にそう言ったのか?」

「うん。ねえアシュ、出産ってなあに?」

「出産というのは、子を産むことだが……マリア、お前……妊娠しているのか?」

 不思議そうな顔で首をかしげるマリア。

「あの日か? たった一夜の……」

「それとね『お陰様で毎日楽しく過ごしております』だってさ」

「そうか、やはりマリアは失った時間を取り戻しているのか」

 アラバスがマリアの髪を撫でた。

「なあマリア、明日は勉強はお休みにして、お医者様に診てもらおうな」

「ん? マリアはお怪我もご病気もないよ?」

「それでもだ。お姉ちゃんが言ったのはそういう意味だ」

「うん、わかった」

 いきなり腕を伸ばしてマリアをぎゅうぎゅうと抱きしめるアラバス。

「アシュ? どうしたの? さびしくなっちゃった?」

「違う! 嬉しいんだ。もしそれが本当なら人生で最高の喜びだぞ! 嬉しくてたまらん! 俺にもこんな感情が残っていたとはな。ははは!」

 意味もわからず、されるがままになっているマリアも笑っていた。
 そして翌朝、第一王子宮は大騒ぎとなる。
 早朝から王宮医を呼び出したアラバスが、人払いをしたうえで昨夜の事を話した。

「なんと! それが本当だとすれば……彼女の中にいるマリア嬢は現状を把握しているということですな。彼女が眠っていない時もマリアちゃんは自我を維持できるということだ。これはなかなか興味深いケースですよ」

 アラバスがイラついた声を出した。

「そこじゃない! 重要なのはマリアが懐妊しているかもしれないという事だろう!」

「あっ、そっちですか。たった一夜とはいえ、あれほど何度も……ねえ?」

 悪い顔で笑った王宮医が、あわあわと口を動かしているアラバスを追い出し診察を始めた。
 寝室の前でウロウロと熊のように歩き回る姿を見たメイド達がクスクスと笑っている。

「どうしたんだ? アラバス」

 いつまでたっても執務室に姿を見せない第一王子を心配したアレンが迎えに来た。

「アレン……実はな……あっ、いや、ここでは拙いから執務室へ行こう。あっ、でもここを動くわけにはいかんな」

 珍しく即断即決をしないアラバスを見て、アレンが不思議そうな顔をした。

「どうしたんだ?」

「はぁぁぁぁ……嬉しいが困っている」

 アレンが何かを言おうとした時、マリアの自室の扉が開いた。
 侍女長が顔だけを出して手招きをする。

「終わったか」

「はい、先生からお話があるそうです」

「僕は遠慮しよう」
 
 アレンがそういうと、アラバスが首を横に振った。

「いや、頼む。お前も来てくれ」

 ベッドの上では、診察を受けたご褒美なのか、マリアが大きなカップケーキに熱い視線を注いでいた。

「先生、どうだった」

 王宮医がニコッと笑って口を開いた。

「ご懐妊です。間違いなくご成婚の日ですから、そろそろ六週ですな。心音も聞こえるようになる頃ですよ」

「心音……そうか……マリアは子を宿したか」

 感動した表情のアラバスが後ろに控えているアレンの方に顔を向けると、驚きすぎて目を落としそうな顔をしていた。

「何か注意するようなことがあれば、侍女長に伝えてくれ。陛下達には私が報告する」

「畏まりました。アラバス第一王子殿下、おめでとう存じます」

 侍女長が頭を下げてそういうと、その場にいた使用人たちが全員同じ姿勢をとった。

「あ……ああ、ありがとう。これからもよろしく頼む」

 照れくさそうな顔で扉に向かったアラバスに、マリアが声をかけた。

「アシュもアエンも後で遊ぼうね~」

 困った顔で頷いて見せるアラバスと、ニコニコしながら手を振るアレン。
 マリアが懐妊したということ以外、何も変わっていない日常の風景だ。

「なんだと! それは目出度い! やったなアラバス!」

 執務室の椅子を倒すほどの勢いで立ち上がったのは、報告を受けた国王だ。

「カレンには伝えたか?」

「この後で伺います」

 国王が控えている侍従に指示をして、王妃を呼びに向かわせた。

「まあ座れ。トーマスには?」

「いえ、まだ伝えてはおりません。豊穣祭までには戻ると言っておりましたので、そろそろだとは思うのですが、漏洩を考えると使者を飛ばすのもどうかと」

「そうだな。トーマスには悪いが戻るまでは知らせない方が良いだろう。おそらくとんでもなく動揺するはずだ。それにしても……妊娠すれば出産ということになるが……」

 その時、バンッと扉が開き、王妃が駆け込んできた。
 そのあまりの勢いに、思わず立ち上がる国王と第一王子。
 王妃は一直線にアラバスに向かっている。
 パンッという乾いた音が室内に響いた。

「は……ははうえ……」

「アラバス! なんてことなの! あなた妊娠と出産の辛さを侮り過ぎよ! 命と引き換えになるかもしれないのよ? 三歳児に耐えられるような痛みでは無いのよ?」

 アラバスがギュッと拳を握って俯いた。

「申し訳ございません」

 唇を嚙みしめながら息子を睨んでいた王妃だったが、スッと腕を伸ばした。
 俯くアラバスをギュッと抱きしめると、優しい声で言う。

「でも神からの授かりものですものね。おめでとう、アラバス。本当におめでとう」

「母上……」

「何よりもマリアちゃんの命を優先します。それでいいわね? あなたもアラバスも」

 二人が首振り人形のようにコクコクと何度も頷いた。

「そうと決まれば万全の体制を整えるわよ! あなた達は一秒でも早く問題を解決してちょうだい。大掃除よ」

 アラバスが『大掃除』という言葉に反応した。

「お二人に聞いていただきたいことがございます。カーチスとラングレー公爵夫人とアレン、そして王宮医と侍従長と侍女長にも同席をさせましょう」

「わかったわ。すぐに連絡を出しましょう。今日のお昼でいいかしら?」

「もちろんです」

 三人は立ち上がり、もう一度抱き合ってから執務室を出た。
 外で待っていたアレンがアラバスの顔を覗き込む。

「大丈夫か? 少し腫れているが」

「ああ、母上の仰る通りだ。お陰で目が覚めたよ。なあアレン、悠長になどしてはいられない。最短で片づけるぞ」

「ああ、任せとけ」

 学生時代に戻ったように肩を組んで歩き出す二人を、メイド達が眩しそうに見送った。
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