異世界召喚された俺の料理が美味すぎて魔王軍が侵略やめた件

さかーん

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第三章 魔王様、アルバイトは時給千円からです!

第61話 初めての日給と、閉ざされた門

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【日本・横浜】

 魔王ゼファーは、生まれて初めて「安全ベスト」という、彼の美学とは著しくかけ離れた蛍光緑色の物体を身にまとっていた。着心地は最悪。おまけに、頭には不格好な黄色いヘルメット。その姿は、かつて彼が討伐した「粘液沼(スライムマーシュ)のヌメヌメトロール」を彷彿とさせた。

(屈辱だ……! 我が威厳が、この緑の布切れ一枚で、ここまで損なわれるとは……!)

 ゼファーの內心は、怒りと羞恥で燃え上がっていた。だが、現場監督――「オヤカタ」と呼ばれる男――の怒声が、そんな感傷を無慈悲に打ち砕く。

「おーい、ゼファーさん! 突っ立ってねえで、そこの鉄パイプ運んでくれ! 3階までな!」
「……『さん』付けはやめろ。我は魔王ゼファーだ。敬意を込めて『陛下』と呼ぶがいい」
「へーか? 寝言は寝て言え! いいからさっさと運べ、このコスプレ野郎!」

 オヤカタの容赦ない罵声に、ゼファーのこめかみに青筋が浮かぶ。魔界広しといえど、彼に面と向かって「コスプレ野郎」と言い放った者はいない。
(……落ち着け、我。これも『現地視察』の一環だ。この世界の原始的な労働形態と、階級社会における口頭伝達の力学を分析する、重要な任務なのだ……)
 ゼファーは必死に自己暗示をかけ、鉄パイプの束に手をかけた。

「ぬんっ!」
 片手で、軽々と。鉄パイプの束が持ち上がる。本来なら指先一つで浮かせられる代物だが、今は純粋な筋力だけが頼りだ。
「お、おお!? すげえなアンタ!」
 オヤカタや他の作業員たちが、その怪力に目を見張る。ゼファーは「ふん」と鼻を鳴らし、悠然と階段を上り始めた。

 その様子を、工事現場のフェンスの隙間から、ギギが小さな瞳で見守っていた。
「ま、魔王様が……鉄の棒を……。あんな重そうなものを……。ご立派です、魔王様……!」
 彼の目には、誇りと心配の色が浮かんでいる。主君が肉体労働に身をやつす姿は、彼にとっても衝撃的だったが、その力強い姿に、改めて畏敬の念を抱いていた。

 昼休憩。作業員たちが輪になって、それぞれ持参した弁当を広げ始めた。ゼファーとギギには、もちろん弁当などない。二人は輪から少し離れた場所で、腹の虫を押し殺しながら、その光景を無言で見つめていた。

「……なあ、ゼファーさん」
 声をかけてきたのは、オヤカタだった。彼は、自分の巨大な弁当箱から、ラップに包まれた大きなおにぎりを一つ、無造作に差し出した。
「腹、減ってんだろ。これ、オフクロが作りすぎちまったんだ。食えよ」
「……施しは受けぬ」
 ゼファーは、顔を背けて即答した。王のプライドが、それだけは許さなかった。

 ぐぅぅぅぅぅぅ………。

 だが、彼の腹は、プライドよりも遥かに正直だった。

「……ぷっ、ははは! 意地張ってんじゃねえよ!」
 オヤカタは豪快に笑い、おにぎりをゼファーの手に無理やり握らせた。
「いいから食えって! 午後も働いてもらわなきゃなんねえんだからな!」

 ゼファーは、手のひらに残る、まだ温かいおにぎりの感触に、しばし戸惑っていた。
(……民からの、貢物……ではない。これは……対価のない、純粋な……『好意』……?)

 複雑な心理のまま、彼は恐る恐るおにぎりを口に運んだ。
 塩気の効いた、シンプルな握り飯。中には、甘辛く煮付けられた昆布が入っている。
 それは、カップ麺のような暴力的な旨味も、魔界の宮廷料理のような洗練された味もない。
 だが、米の一粒一粒に、人の手の温もりが宿っていた。

「……悪くない」
 ゼファーは、ポツリと呟いた。その声は、誰にも聞こえないほど、小さかった。

 そして夕方。一日分の労働を終えたゼファーに、オヤカタが現金の入った封筒を手渡した。
「ほらよ、今日の日当、一万円だ。助かったぜ、ゼファーさん! 明日も頼むな!」
「……うむ」

 ゼファーは、生まれて初めて手にする「給金」を、ただじっと見つめていた。
 それは、税として徴収した金でも、戦で奪った金でもない。己の汗で、己の力で稼いだ、初めての金だった。その一枚一枚の紙幣が、奇妙なほど重く感じられた。

【異世界・王都貴族街】

 陽人とリリアは、息を呑んでいた。
 下町とは何もかもが違う。埃一つない石畳の道、手入れの行き届いた庭園、そして、城のように巨大な屋敷の数々。行き交う人々も、仕立ての良い服に身を包んだ貴族や、その従者ばかりだ。

「し、シェフ……空気が違います……。なんだか、吸うのにお金がかかりそうです……」
「言うなリリア。俺も同じことを考えてた」
 二人は完全に場違いだった。周囲から注がれる「何だ、あの庶民は」という視線が、針のように肌に突き刺さる。

(くそっ、完全にアウェーだ……。でも、ここで帰るわけにはいかない)
 陽人は意を決し、地図を頼りに、ひときわ大きく、そして古い威厳を放つ屋敷の前で足を止めた。門には、あのカードと同じ、精巧な紋章が掲げられている。オルロフ公爵邸だ。

「……よし、行くぞ」
「は、はい!」
 二人は、巨大な鉄の門の前に立つ、鎧姿の門番に恐る恐る近づいた。門番は、氷のような視線を二人に向け、一言も発しない。

「あ、あの……!」
 陽人が口を開きかけた瞬間、門番が地を這うような低い声で遮った。
「庶民に用はない。去れ」
「いえ、それが、その……オルロフ公爵様に、お目通りを……」
「身の程を知れ」
 門番は、それだけ言うと、再び沈黙した。まるで石像だ。これ以上、何を言っても無駄だろう。

(万事休すか……!?)
 陽人の顔から血の気が引く。リリアも、不安げに陽人の服の袖を掴んだ。
 その時、陽人は懐のカードの存在を思い出した。これしかない。

「失礼! 我々は、公爵様ご自身から、お招きいただいた者です!」
 陽人は、社畜時代に培ったハッタリ全開の営業ボイスで叫び、懐から紋章カードを恭しく掲げた。
「先日、我が店『マカイ亭』にお越しいただいた際に、これを。いつでも訪ねてくるようにとのお言葉を賜りました!」

 門番の眉が、ピクリと動いた。
 彼は陽人の手にあるカードを認めると、その氷のような表情を僅かに崩し、驚きの色を浮かべた。

「……それは、公爵家の……」
 門番は、すぐさま背筋を伸ばし、先ほどまでの威圧的な態度を改めた。
「……失礼いたしました。お名前をお伺いしても?」
「橘陽人、と申します」

 門番はもう一人の衛兵に目配せすると、その衛兵は慌てて屋敷の中へと駆け込んでいった。
「……公爵様に、お取次ぎいたします。しばらく、こちらでお待ちを」

 そう言うと、門番は再び石像のような沈黙に戻った。
 だが、その視線には、先ほどの侮蔑の色はもうない。ただ、得体の知れない料理人を見る、警戒と好奇心が入り混じった光が宿っていた。

 陽人とリリアは、固く閉ざされた巨大な門の前で、ただ心臓の音を聞きながら、屋敷からの返事を待つことしかできなかった。
 この門が、希望へと続く扉か、それとも新たな絶望への入り口か。
 今はまだ、誰にも分からなかった。
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