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第二十話:エピローグ〜白パンの味〜
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自由都市ヴォルフスブルクの朝は、焼きたてのパンの香りと共に始まります。
かつては風が吹き荒れるだけの荒野だったこの場所は、今や大陸でも有数の交易都市へと変貌を遂げていました。 石畳で舗装されたメインストリートには、朝早くから多くの商人の馬車が行き交い、市場には色とりどりの果物や新鮮な野菜、そして職人たちが丹精込めて作った革製品や鉄器が並びます。
街を取り囲む防壁は以前よりも高く、堅牢になり、その上には私たちを守るバリスタが誇らしげに空を睨んでいます。 ですが、それらが火を噴くことは、あれ以来一度もありませんでした。 圧倒的な経済力と技術力、そして『鉄の牙』の武名は、周辺諸国にとって最高の抑止力となっているのです。
領主の館のテラスで、私は湯気の立つコーヒーを飲みながら、眼下に広がる街の景色を眺めていました。 朝日を浴びて黄金色に輝く街並み。 それは、私とヴォルフガング、そして多くの仲間たちが、血と汗と知恵を絞って作り上げた結晶です。
「……ママ! 見て見て、蝶々!」
可愛らしい声がして、私の足元に小さな影が飛びついてきました。 五歳になる私の娘、ソフィアです。母の名前をもらいました。 金色の髪に、私と同じ碧と黄金が混じった瞳を持つ、愛らしい天使です。
「まぁ、綺麗な蝶々ね。でも、あまり遠くへ行っちゃダメよ」 「うん! パパがね、肩車してくれるって!」
ソフィアが指差した先には、巨大な父親の背中がありました。 ヴォルフガングです。 彼は今、三歳になる息子、レオンを高い高いしながら、豪快に笑っています。
「ほらレオン、高いぞー! 空まで届くか?」 「きゃっきゃっ! パパ、もっとー!」
かつて『剣聖』として戦場を震え上がらせた男が、今ではすっかり親バカのパパです。 その光景を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなります。 平和。 これが、私たちが戦って手に入れた、本当の報酬なのだと思います。
「おーい、エリス! そろそろ朝飯にするぞ!」
ヴォルフガングが私に手を振りました。 私はカップを置き、微笑みながら彼らの元へと歩き出しました。
「はいはい、今行きます。……まったく、二人とも朝から元気すぎますよ」 「へっ、子供は元気が一番だろ。ほらソフィア、お前も乗るか?」 「乗るー!」
ヴォルフガングは左腕にレオン、右腕にソフィアを軽々と抱え上げ、私の方へ歩いてきます。 その姿は、どんな立派な彫像よりも逞しく、輝いて見えました。
◇
朝食のテーブルには、今日も豪華な食事が並んでいました。 新鮮な卵のオムレツ、カリカリに焼いたベーコン、たっぷりのサラダ、そして……。 バスケットいっぱいに盛られた、真っ白でふわふわのパン。
『白パン』です。 かつては王都の貴族だけが口にできた、精製された小麦粉で作った高級品。 平民や傭兵たちは、硬くて酸っぱい黒パンか、雑穀の粥しか食べられませんでした。 ですが、今ではこの街の住民なら、誰でも毎日この白パンを食べることができます。
農業改革によって小麦の生産量が飛躍的に向上したこと。 そして、物流のハブとなったことで、世界中から安くて良質な小麦が集まるようになったからです。
「いただきまーす!」
子供たちが大きな口を開けてパンにかぶりつきます。 その幸せそうな顔を見ているだけで、お腹がいっぱいになりそうです。
「うめぇな。……何度食っても、この白パンってやつは最高だ」
ヴォルフガングも、パンをスープに浸しながらしみじみと言いました。
「昔は、こんな柔らかいパンがあるなんて知らなかった。黒パンを石で砕いてスープで煮込むのがご馳走だったからな」 「ええ。あの頃の『パネード』も、それはそれで思い出深い味ですけれどね」
私は懐かしむように言いました。 雪の降る砦で、凍えた体を温めてくれたパン粥。 あれがあったからこそ、私たちは結束し、ここまで来ることができたのです。 貧しさを知っているからこそ、今の豊かさに感謝できる。 それは、私たち夫婦の共通の価値観でした。
「そういえば団長、今日は午後から『施療院』の視察でしたね」 「ああ。最近、流れ者が増えてるって話だからな。変な病気が流行らねぇようにチェックしとかねぇと」
ヴォルフガングは表情を引き締めました。 街が豊かになれば、それを求めて多くの人が集まります。 中には、職や家を失った貧民や、怪我をした元傭兵などもいます。 私たちは彼らを切り捨てることはしません。 仕事を与え、病を治し、自立する手助けをする。それが『ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』……いえ、ヴォルフスブルクの流儀だからです。
「私も同行します。新しい医療設備の導入について、院長と話がありますから」 「おう、頼むわ。……お前がいないと、俺は難しい話がさっぱりだからな」
彼はニッと笑い、最後のパンを口に放り込みました。
◇
午後。 私たちは街の外れにある施療院を訪れました。 元々は小さな診療所でしたが、今では数百人を収容できる大きな施設になっています。 清潔な白い壁、手入れされた中庭、そして消毒用のアルコールの匂い。 ここでは、金のない者でも無償で治療を受けられる制度を整えています。その費用は、カジノや交易税からの収益で賄われています。
院内を見回っていると、入り口の方が騒がしいことに気づきました。 「おい、並べって言ってるだろ!」 「うるせぇ! 腹が減ってるんだ! 早く飯をよこせ!」
怒鳴り声が響いています。 見ると、一人の男が職員に掴みかかっていました。 ボロボロの衣服、伸び放題の髭と髪、そして泥と垢にまみれた肌。 強烈な悪臭を放つその男は、見るからに長い間、路上で生活していたことがわかります。 ただの浮浪者です。 ですが、その男が振り回している腕には、見覚えのある『傷跡』がありました。 火傷の痕。 手のひら全体が焼け爛れ、ひきつっている。
「……ヴォルフ」
私が小声で呼ぶと、ヴォルフガングも気づいたようです。 彼の目が細められました。
「……まさか、な」
私たちは無言で近づきました。 男は暴れ続けていましたが、ヴォルフガングの巨体が目の前に立つと、ピタリと動きを止めました。 見上げる男の目に、恐怖の色が走ります。 本能的な恐怖。 圧倒的な強者に対する、生物としての畏怖。
「……騒ぐな。ここは静かにする場所だ」
ヴォルフガングが低く告げると、男はへなへなと座り込みました。
「す、すまない……許してくれ……ただ、腹が減って……」
その声を聞いて、私は確信しました。 枯れて、濁って、卑屈に歪んでいますが、その声質は記憶の中にあるものと同じでした。
「……フェルディナンド様?」
私が呼びかけると、男はビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げました。 泥と垢にまみれた顔。 ですが、その目鼻立ちは、かつて私が知っていた美貌の貴公子の残骸を留めていました。
「……だ、誰だ……? なぜ、私の名を……」 「お久しぶりです。……エリスです」
私が名乗ると、彼は信じられないものを見るように目を見開きました。 そして、私の姿――上質なドレスを纏い、高貴な宝飾品を身につけ、護衛の兵士たちに守られている姿を、呆然と見つめました。 次に、隣に立つヴォルフガングを見上げます。 領主としての威厳に満ちた、堂々たる姿を。
「エ、エリス……? それに、あの時の傭兵……?」
彼の脳裏に、数年前の記憶が蘇ったのでしょう。 神明裁判の日。 彼が全てを失い、私が全てを手に入れた、あの日。
「な、なぜ……貴様らが……こんな……」 「ここは私たちの街です。私たちはここの領主ですから」
私は静かに答えました。 フェルディナンドは、絶句しました。 彼は鉱山での強制労働から逃げ出し、各地を転々とし、ここまで流れ着いたのでしょう。 かつて彼が見下し、捨てた女が、今や大陸一豊かな都市の女主人となっている。 その現実は、彼にとってどんな残酷な刑罰よりも重い衝撃だったはずです。
「う、嘘だ……嘘だぁぁぁ!」
彼は頭を抱えて叫びました。
「私は伯爵家の嫡男だ! 騎士団長だ! なんでこんな……なんで貴様らが!」 「現実は小説よりも奇なり、と言いますわ。……ですが、これは現実です」
私は彼を見下ろしました。 かつて私を「無能」と罵り、見下していた男。 今は、私の足元で這いつくばり、汚物にまみれている。 ざまぁみろ、と思う気持ちはありませんでした。 あるのは、ただ虚しさと、哀れみだけ。 彼はもう、私にとって敵ですらない。 ただの、過去の残滓(ざんし)。
「腹が減っているのですね?」
私は近くにいた職員に目配せをし、バスケットを持ってこさせました。 中には、配給用のパンが入っています。 私が朝食べたのと同じ、焼きたての白パンです。
「……どうぞ」
私はパンを一つ取り出し、彼に差し出しました。 フェルディナンドは、それを貪るようにひったくりました。 プライドも、騎士としての誇りも、もう彼には残っていません。 あるのは、飢えという動物的な本能だけ。
彼はパンにかじりつきました。 夢中で、涙を流しながら。
「う、うまい……! なんだこれ……柔らかい……甘い……!」
彼は泣きながらパンを頬張りました。 かつて、彼が毎日のように残し、捨てていた白パン。 それが今、彼にとってはこの世で最も美味しいご馳走なのです。
「……皮肉なもんだな」
ヴォルフガングがボソリと呟きました。
「昔は俺たちが黒パンをかじって、こいつが白パンを食ってた。……今は逆だ。いや、俺たちの街じゃ、誰でも白パンが食える」
そう。 私たちは変えたのです。 一部の特権階級だけが富を独占する世界を、努力と知恵で、誰もが豊かになれる世界へと。 フェルディナンドの今の姿は、古い時代の敗北の象徴でした。
「もっと……もっとくれ……!」
一つのパンを食べ終えたフェルディナンドが、薄汚い手を伸ばしてきました。 その手は火傷で引きつり、爪は黒く伸びています。 かつて私に触れようとし、ヴォルフガングに払いのけられた手。
私はもう一つのパンを差し出そうとして――止めました。 代わりに、職員に指示を出しました。
「彼を中へ入れてあげてください。体を洗わせ、新しい服を与え、食事を提供してあげなさい。……他の患者さんたちと『同じように』」
特別扱いはしません。 憎しみで冷遇することもしなければ、かつての情けで優遇することもしない。 彼はただの、保護が必要な一人の市民です。 それが、私のできる最大の復讐であり、施しでした。
「エ、エリス……! 待ってくれ! 私は……私は……!」
フェルディナンドが何かを叫ぼうとしましたが、職員たちに促されて奥へと連れて行かれました。 彼の背中は小さく、丸まっていました。 二度と、彼が私の人生に関わることはないでしょう。 彼はこの街のシステムの恩恵を受け、細々と生きていくのです。 私が作った箱庭の中で、一匹の迷い犬として。
「……優しすぎやしねぇか?」
ヴォルフガングが不満そうに言いました。
「俺なら、あいつを砂漠に放り出してやるところだぞ」 「それも一興ですが……彼には、生きて見てもらう方が残酷かもしれませんよ」
私は彼を見上げて微笑みました。
「私たちがどれほど幸せになったか。この街がどれほど発展していくか。……それを底辺から見上げ続けることが、彼にとって一番の罰になるはずです」
「……へっ、やっぱりお前は恐ろしい女だ」
ヴォルフガングは苦笑し、私の腰に腕を回しました。
「だが、そこがいい。……帰ろうぜ、エリス。子供たちが待ってる」 「ええ、帰りましょう。……私たちの家へ」
◇
帰り道。 夕日が街を赤く染め上げていました。 市場の賑わい、工房の槌音、家路を急ぐ人々の笑顔。 どこを見ても、活気と希望に満ちています。
私たちは馬車には乗らず、手をつないで歩きました。 通り過ぎる人々が、私たちに気づき、頭を下げ、手を振ってくれます。 「領主様!」「奥様!」 そこにあるのは、恐怖や強制ではなく、純粋な敬愛の情でした。
「ねぇ、ヴォルフ」 「ん?」 「私、魔力がなくて本当によかったです」
私は心からの本音を口にしました。 もし私に魔力があったら、私はただの傲慢な貴族令嬢として、フェルディナンドと結婚し、狭い鳥籠の中で一生を終えていたでしょう。 白パンの本当の味も、人の温かさも、そして自分の力で生きる喜びも知らずに。
「魔力がないから、私は考えました。工夫しました。そして……あなたに出会えました」
私は彼の手をギュッと握り返しました。 分厚く、タコだらけの、働き者の手。 この手が、私を泥沼から引き上げ、ここまで連れてきてくれたのです。
「ああ。俺もだ」
ヴォルフガングが足を止め、私を見つめました。 その黄金の瞳に、夕日が反射してキラキラと輝いています。
「魔力なんてなくても、お前は魔法使いだ。……俺の人生を、こんなに鮮やかに変えちまったんだからな」 「あら、上手な口説き文句ですね。どこで覚えたのですか?」 「うっ……うるせぇ。本心だよ」
彼が顔を赤くしてそっぽを向く。 私は嬉しくて、クスクスと笑いました。
「ただいまー! ママ、パパ!」
館の玄関から、ソフィアとレオンが飛び出してきました。 後ろには、母であるソフィア様と、すっかり執事らしくなった元砲兵隊長が微笑んで立っています。
「おかえりなさい、お二人とも」 「ただいま戻りました、お母様」 「おう、帰ったぞ!」
ヴォルフガングが子供たちを受け止め、高く抱き上げました。 歓声が上がります。 温かい家。 愛する家族。 そして、頼もしい仲間たち。
私の手の中には、魔力はありません。 ですが、それよりもずっと価値のあるものが、溢れるほどに詰まっています。
「……幸せですか、エリス?」
ふと、ヴォルフガングが聞いてきました。 私は彼を見上げ、満面の笑みで答えました。
「ええ。今が、一番幸せです」
そう。 これはハッピーエンドではありません。 私たちの物語は、ここからまた新しく始まるのです。 この荒野で、この街で、この愛しい人たちと共に。
いつまでも、いつまでも。
かつては風が吹き荒れるだけの荒野だったこの場所は、今や大陸でも有数の交易都市へと変貌を遂げていました。 石畳で舗装されたメインストリートには、朝早くから多くの商人の馬車が行き交い、市場には色とりどりの果物や新鮮な野菜、そして職人たちが丹精込めて作った革製品や鉄器が並びます。
街を取り囲む防壁は以前よりも高く、堅牢になり、その上には私たちを守るバリスタが誇らしげに空を睨んでいます。 ですが、それらが火を噴くことは、あれ以来一度もありませんでした。 圧倒的な経済力と技術力、そして『鉄の牙』の武名は、周辺諸国にとって最高の抑止力となっているのです。
領主の館のテラスで、私は湯気の立つコーヒーを飲みながら、眼下に広がる街の景色を眺めていました。 朝日を浴びて黄金色に輝く街並み。 それは、私とヴォルフガング、そして多くの仲間たちが、血と汗と知恵を絞って作り上げた結晶です。
「……ママ! 見て見て、蝶々!」
可愛らしい声がして、私の足元に小さな影が飛びついてきました。 五歳になる私の娘、ソフィアです。母の名前をもらいました。 金色の髪に、私と同じ碧と黄金が混じった瞳を持つ、愛らしい天使です。
「まぁ、綺麗な蝶々ね。でも、あまり遠くへ行っちゃダメよ」 「うん! パパがね、肩車してくれるって!」
ソフィアが指差した先には、巨大な父親の背中がありました。 ヴォルフガングです。 彼は今、三歳になる息子、レオンを高い高いしながら、豪快に笑っています。
「ほらレオン、高いぞー! 空まで届くか?」 「きゃっきゃっ! パパ、もっとー!」
かつて『剣聖』として戦場を震え上がらせた男が、今ではすっかり親バカのパパです。 その光景を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなります。 平和。 これが、私たちが戦って手に入れた、本当の報酬なのだと思います。
「おーい、エリス! そろそろ朝飯にするぞ!」
ヴォルフガングが私に手を振りました。 私はカップを置き、微笑みながら彼らの元へと歩き出しました。
「はいはい、今行きます。……まったく、二人とも朝から元気すぎますよ」 「へっ、子供は元気が一番だろ。ほらソフィア、お前も乗るか?」 「乗るー!」
ヴォルフガングは左腕にレオン、右腕にソフィアを軽々と抱え上げ、私の方へ歩いてきます。 その姿は、どんな立派な彫像よりも逞しく、輝いて見えました。
◇
朝食のテーブルには、今日も豪華な食事が並んでいました。 新鮮な卵のオムレツ、カリカリに焼いたベーコン、たっぷりのサラダ、そして……。 バスケットいっぱいに盛られた、真っ白でふわふわのパン。
『白パン』です。 かつては王都の貴族だけが口にできた、精製された小麦粉で作った高級品。 平民や傭兵たちは、硬くて酸っぱい黒パンか、雑穀の粥しか食べられませんでした。 ですが、今ではこの街の住民なら、誰でも毎日この白パンを食べることができます。
農業改革によって小麦の生産量が飛躍的に向上したこと。 そして、物流のハブとなったことで、世界中から安くて良質な小麦が集まるようになったからです。
「いただきまーす!」
子供たちが大きな口を開けてパンにかぶりつきます。 その幸せそうな顔を見ているだけで、お腹がいっぱいになりそうです。
「うめぇな。……何度食っても、この白パンってやつは最高だ」
ヴォルフガングも、パンをスープに浸しながらしみじみと言いました。
「昔は、こんな柔らかいパンがあるなんて知らなかった。黒パンを石で砕いてスープで煮込むのがご馳走だったからな」 「ええ。あの頃の『パネード』も、それはそれで思い出深い味ですけれどね」
私は懐かしむように言いました。 雪の降る砦で、凍えた体を温めてくれたパン粥。 あれがあったからこそ、私たちは結束し、ここまで来ることができたのです。 貧しさを知っているからこそ、今の豊かさに感謝できる。 それは、私たち夫婦の共通の価値観でした。
「そういえば団長、今日は午後から『施療院』の視察でしたね」 「ああ。最近、流れ者が増えてるって話だからな。変な病気が流行らねぇようにチェックしとかねぇと」
ヴォルフガングは表情を引き締めました。 街が豊かになれば、それを求めて多くの人が集まります。 中には、職や家を失った貧民や、怪我をした元傭兵などもいます。 私たちは彼らを切り捨てることはしません。 仕事を与え、病を治し、自立する手助けをする。それが『ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』……いえ、ヴォルフスブルクの流儀だからです。
「私も同行します。新しい医療設備の導入について、院長と話がありますから」 「おう、頼むわ。……お前がいないと、俺は難しい話がさっぱりだからな」
彼はニッと笑い、最後のパンを口に放り込みました。
◇
午後。 私たちは街の外れにある施療院を訪れました。 元々は小さな診療所でしたが、今では数百人を収容できる大きな施設になっています。 清潔な白い壁、手入れされた中庭、そして消毒用のアルコールの匂い。 ここでは、金のない者でも無償で治療を受けられる制度を整えています。その費用は、カジノや交易税からの収益で賄われています。
院内を見回っていると、入り口の方が騒がしいことに気づきました。 「おい、並べって言ってるだろ!」 「うるせぇ! 腹が減ってるんだ! 早く飯をよこせ!」
怒鳴り声が響いています。 見ると、一人の男が職員に掴みかかっていました。 ボロボロの衣服、伸び放題の髭と髪、そして泥と垢にまみれた肌。 強烈な悪臭を放つその男は、見るからに長い間、路上で生活していたことがわかります。 ただの浮浪者です。 ですが、その男が振り回している腕には、見覚えのある『傷跡』がありました。 火傷の痕。 手のひら全体が焼け爛れ、ひきつっている。
「……ヴォルフ」
私が小声で呼ぶと、ヴォルフガングも気づいたようです。 彼の目が細められました。
「……まさか、な」
私たちは無言で近づきました。 男は暴れ続けていましたが、ヴォルフガングの巨体が目の前に立つと、ピタリと動きを止めました。 見上げる男の目に、恐怖の色が走ります。 本能的な恐怖。 圧倒的な強者に対する、生物としての畏怖。
「……騒ぐな。ここは静かにする場所だ」
ヴォルフガングが低く告げると、男はへなへなと座り込みました。
「す、すまない……許してくれ……ただ、腹が減って……」
その声を聞いて、私は確信しました。 枯れて、濁って、卑屈に歪んでいますが、その声質は記憶の中にあるものと同じでした。
「……フェルディナンド様?」
私が呼びかけると、男はビクリと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げました。 泥と垢にまみれた顔。 ですが、その目鼻立ちは、かつて私が知っていた美貌の貴公子の残骸を留めていました。
「……だ、誰だ……? なぜ、私の名を……」 「お久しぶりです。……エリスです」
私が名乗ると、彼は信じられないものを見るように目を見開きました。 そして、私の姿――上質なドレスを纏い、高貴な宝飾品を身につけ、護衛の兵士たちに守られている姿を、呆然と見つめました。 次に、隣に立つヴォルフガングを見上げます。 領主としての威厳に満ちた、堂々たる姿を。
「エ、エリス……? それに、あの時の傭兵……?」
彼の脳裏に、数年前の記憶が蘇ったのでしょう。 神明裁判の日。 彼が全てを失い、私が全てを手に入れた、あの日。
「な、なぜ……貴様らが……こんな……」 「ここは私たちの街です。私たちはここの領主ですから」
私は静かに答えました。 フェルディナンドは、絶句しました。 彼は鉱山での強制労働から逃げ出し、各地を転々とし、ここまで流れ着いたのでしょう。 かつて彼が見下し、捨てた女が、今や大陸一豊かな都市の女主人となっている。 その現実は、彼にとってどんな残酷な刑罰よりも重い衝撃だったはずです。
「う、嘘だ……嘘だぁぁぁ!」
彼は頭を抱えて叫びました。
「私は伯爵家の嫡男だ! 騎士団長だ! なんでこんな……なんで貴様らが!」 「現実は小説よりも奇なり、と言いますわ。……ですが、これは現実です」
私は彼を見下ろしました。 かつて私を「無能」と罵り、見下していた男。 今は、私の足元で這いつくばり、汚物にまみれている。 ざまぁみろ、と思う気持ちはありませんでした。 あるのは、ただ虚しさと、哀れみだけ。 彼はもう、私にとって敵ですらない。 ただの、過去の残滓(ざんし)。
「腹が減っているのですね?」
私は近くにいた職員に目配せをし、バスケットを持ってこさせました。 中には、配給用のパンが入っています。 私が朝食べたのと同じ、焼きたての白パンです。
「……どうぞ」
私はパンを一つ取り出し、彼に差し出しました。 フェルディナンドは、それを貪るようにひったくりました。 プライドも、騎士としての誇りも、もう彼には残っていません。 あるのは、飢えという動物的な本能だけ。
彼はパンにかじりつきました。 夢中で、涙を流しながら。
「う、うまい……! なんだこれ……柔らかい……甘い……!」
彼は泣きながらパンを頬張りました。 かつて、彼が毎日のように残し、捨てていた白パン。 それが今、彼にとってはこの世で最も美味しいご馳走なのです。
「……皮肉なもんだな」
ヴォルフガングがボソリと呟きました。
「昔は俺たちが黒パンをかじって、こいつが白パンを食ってた。……今は逆だ。いや、俺たちの街じゃ、誰でも白パンが食える」
そう。 私たちは変えたのです。 一部の特権階級だけが富を独占する世界を、努力と知恵で、誰もが豊かになれる世界へと。 フェルディナンドの今の姿は、古い時代の敗北の象徴でした。
「もっと……もっとくれ……!」
一つのパンを食べ終えたフェルディナンドが、薄汚い手を伸ばしてきました。 その手は火傷で引きつり、爪は黒く伸びています。 かつて私に触れようとし、ヴォルフガングに払いのけられた手。
私はもう一つのパンを差し出そうとして――止めました。 代わりに、職員に指示を出しました。
「彼を中へ入れてあげてください。体を洗わせ、新しい服を与え、食事を提供してあげなさい。……他の患者さんたちと『同じように』」
特別扱いはしません。 憎しみで冷遇することもしなければ、かつての情けで優遇することもしない。 彼はただの、保護が必要な一人の市民です。 それが、私のできる最大の復讐であり、施しでした。
「エ、エリス……! 待ってくれ! 私は……私は……!」
フェルディナンドが何かを叫ぼうとしましたが、職員たちに促されて奥へと連れて行かれました。 彼の背中は小さく、丸まっていました。 二度と、彼が私の人生に関わることはないでしょう。 彼はこの街のシステムの恩恵を受け、細々と生きていくのです。 私が作った箱庭の中で、一匹の迷い犬として。
「……優しすぎやしねぇか?」
ヴォルフガングが不満そうに言いました。
「俺なら、あいつを砂漠に放り出してやるところだぞ」 「それも一興ですが……彼には、生きて見てもらう方が残酷かもしれませんよ」
私は彼を見上げて微笑みました。
「私たちがどれほど幸せになったか。この街がどれほど発展していくか。……それを底辺から見上げ続けることが、彼にとって一番の罰になるはずです」
「……へっ、やっぱりお前は恐ろしい女だ」
ヴォルフガングは苦笑し、私の腰に腕を回しました。
「だが、そこがいい。……帰ろうぜ、エリス。子供たちが待ってる」 「ええ、帰りましょう。……私たちの家へ」
◇
帰り道。 夕日が街を赤く染め上げていました。 市場の賑わい、工房の槌音、家路を急ぐ人々の笑顔。 どこを見ても、活気と希望に満ちています。
私たちは馬車には乗らず、手をつないで歩きました。 通り過ぎる人々が、私たちに気づき、頭を下げ、手を振ってくれます。 「領主様!」「奥様!」 そこにあるのは、恐怖や強制ではなく、純粋な敬愛の情でした。
「ねぇ、ヴォルフ」 「ん?」 「私、魔力がなくて本当によかったです」
私は心からの本音を口にしました。 もし私に魔力があったら、私はただの傲慢な貴族令嬢として、フェルディナンドと結婚し、狭い鳥籠の中で一生を終えていたでしょう。 白パンの本当の味も、人の温かさも、そして自分の力で生きる喜びも知らずに。
「魔力がないから、私は考えました。工夫しました。そして……あなたに出会えました」
私は彼の手をギュッと握り返しました。 分厚く、タコだらけの、働き者の手。 この手が、私を泥沼から引き上げ、ここまで連れてきてくれたのです。
「ああ。俺もだ」
ヴォルフガングが足を止め、私を見つめました。 その黄金の瞳に、夕日が反射してキラキラと輝いています。
「魔力なんてなくても、お前は魔法使いだ。……俺の人生を、こんなに鮮やかに変えちまったんだからな」 「あら、上手な口説き文句ですね。どこで覚えたのですか?」 「うっ……うるせぇ。本心だよ」
彼が顔を赤くしてそっぽを向く。 私は嬉しくて、クスクスと笑いました。
「ただいまー! ママ、パパ!」
館の玄関から、ソフィアとレオンが飛び出してきました。 後ろには、母であるソフィア様と、すっかり執事らしくなった元砲兵隊長が微笑んで立っています。
「おかえりなさい、お二人とも」 「ただいま戻りました、お母様」 「おう、帰ったぞ!」
ヴォルフガングが子供たちを受け止め、高く抱き上げました。 歓声が上がります。 温かい家。 愛する家族。 そして、頼もしい仲間たち。
私の手の中には、魔力はありません。 ですが、それよりもずっと価値のあるものが、溢れるほどに詰まっています。
「……幸せですか、エリス?」
ふと、ヴォルフガングが聞いてきました。 私は彼を見上げ、満面の笑みで答えました。
「ええ。今が、一番幸せです」
そう。 これはハッピーエンドではありません。 私たちの物語は、ここからまた新しく始まるのです。 この荒野で、この街で、この愛しい人たちと共に。
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※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
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素敵なお話でした♪
話は面白いのですが、第1話でエリスとヴォルフガングとの出会いの時に連射式のクロスボウを使って、第3話でクロスボウ隊がいるのに、第4話でクロスボウを買った時にクロスボウは初見のような反応っておかしくなくないですか?