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第6話 英雄赤ちゃんは、真夜中にオムツと世界を守る
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デビュタントでの騒動――いや、私の華麗なる逆転劇を終え、私たちは公爵家の馬車に揺られていた。 窓の外では、王都の夜景が流れていく。 ガス灯の明かりが遠ざかり、静寂が深まっていく中、車内には甘く穏やかな空気が満ちていた。
「……疲れただろう」
隣に座るアレクセイが、私の肩を抱き寄せながら囁いた。 彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。 パーティー会場での緊張感が嘘のように、彼の表情は緩みきっていた。
「いいえ、心地よい疲れです。……あんなに胸がすくような思いをしたのは、初めてかもしれません」
私は正直な感想を口にした。 五年前、無実の罪を着せられ、石を投げられるようにして追われた王都。 その場所で、堂々と顔を上げ、かつての敵を打ち負かしたのだ。 これ以上のカタルシスはない。
「君は強くなったな。……いや、俺が見ていなかっただけか」
アレクセイは自嘲気味に笑い、私の髪を指先で梳いた。
「あの時、君を守れなかった俺が言う資格はないかもしれないが……今日の君は、誰よりも輝いていた。俺の自慢の妻だ」
「アレクセイ様……」
「屋敷に戻ったら、シオンにも報告しないとな。『ママが悪者をやっつけたぞ』と」
「ふふ、シオンならきっと、『パパの出番が少なかったんじゃない?』なんて生意気なことを言うかもしれませんね」
私たちは顔を見合わせて笑った。 シオン。 私たちの愛しい息子。 今頃はきっと、あのピンク色の部屋で、天使のような寝顔で眠っているはずだ。
「早く帰ろう。二人が待つ我が家へ」
アレクセイの言葉に、私は深く頷いた。 ◆
しかし、その頃。 公爵邸の庭園では、天使とは程遠い、緊迫した空気が流れていた。
月明かりの下、手入れの行き届いた芝生の上に、小さな影が一つ。 シオン・フロスト(一歳)である。 彼はクマの刺繍が入ったロンパースを着て、お気に入りのタオルケットをマントのように羽織り、仁王立ちしていた。 右手には、愛用のガラガラ(アレクセイが贈った国宝級の竜素材製ではなく、村で作った木の枝製)が握られている。
『……来たか』
シオンは紫色の瞳を細めた。 彼の視線の先、庭木の陰から、音もなく複数の人影が現れた。 全身を黒装束で包み、顔を隠した集団。 その数、およそ五人。 ただの盗賊ではない。気配を完全に殺している。手練れの暗殺者だ。
「……情報通りだ。警備の騎士たちは、表門の方に誘導されている。今のうちに侵入し、ガキを確保するぞ」
先頭の男が、押し殺した声で仲間に指示を出した。 彼らの目的は、シオンの誘拐。 アリスが最後に言い残した「あの方たち」からの刺客だろう。 公爵家の跡取りを人質に取り、アレクセイを脅迫するつもりなのか、あるいはシオンの特異な魔力に気づいたのか。
男たちは音もなく芝生を駆け、テラスへと向かう。 しかし、その進路を塞ぐように、小さな幼児が立ちはだかった。
「……あん?」
男の一人が足を止めた。 足元にいる、豆粒のような存在に気づいたのだ。
「なんだ、このガキ……?」 「おい、ターゲットじゃないか? 銀髪に紫の目だ」 「ラッキーだな。まさか自分から出てきてくれるとは」
暗殺者たちは忍び笑いを漏らした。 彼らにとって、一歳児など赤子の手をひねる……文字通り、造作もない相手だ。 一人が麻酔薬を塗った布を取り出し、シオンに近づく。
「よしよし、坊や。おじさんと一緒に来ような。痛くしないから……」
シオンは動かない。 ただ、その瞳が冷徹に男を見上げていた。
『……おじさんたち、靴の裏、泥だらけだよ』
「あ?」
シオンの口は動いていないのに、男の頭の中に直接声が響いた。
『庭師のトムさんが、毎日丹精込めて手入れしてる芝生なんだ。踏み荒らすなら、入場料を払ってもらわないとね』
「な、なんだ!? 誰が喋って……」
男が周囲を見回した瞬間。 シオンが右手の木の枝(ガラガラ)を、指揮棒のように振った。
『重力操作(グラビティ・プレス)』
ズンッ!!
強烈な重圧が、暗殺者たちを襲った。 彼らは悲鳴を上げる間もなく、地面に這いつくばらされた。 まるで、見えない巨人に踏み潰されたかのように、身体が動かない。
「ぐ、あ……っ!? な、なんだこれは……ッ!」 「身体が……重い……ッ!」
男たちは芝生に顔をめり込ませながら、必死にもがいた。 シオンは、よちよち歩きで彼らに近づいた。 その足取りは危なっかしいが、纏っているオーラは歴戦の勇者のそれだった。
『……程度が低いな。この程度の隠密スキルで、元英雄の僕の家に侵入しようだなんて、一万年早いよ』
シオンは溜息をついた。 前世の感覚で言えば、彼らは雑魚敵(モブ)以下の存在だ。 しかし、今のシオンには致命的な弱点があった。
(あー……オムツが蒸れてきた)
不快指数が上昇中である。 早く片付けて、マリアに替えてもらわなければならない。
「ば、化け物か……!」 「このガキ、ただ者じゃねぇ……!」
男たちは恐怖に引きつった顔でシオンを見上げた。 シオンは無慈悲に彼らを見下ろした。
『化け物じゃないよ。パパとママの可愛い天使、シオンちゃんだよ。バブー』
シオンは真顔で言い放ち、再び木の枝を振った。
『さて、尋問タイムといきたいところだけど……君たちの雇い主の匂いくらいは覚えたから、もう用済みかな。パパが帰ってくる前に、掃除しておかないと』
シオンの周囲に、無数の光の球が浮かび上がった。 それは、攻撃魔法ではない。 空間転移のためのマーカーだ。
『空間転移(テレポート)・強制排除』
「ま、待て! どこへ飛ばす気だ!」
『さあね。王都の衛兵詰所の牢屋の中か、あるいは北の極寒の山頂か。……運が良ければ、前者だといいね』
シオンが指を鳴らす。 パチン。 その乾いた音と共に、暗殺者たちの姿は光に包まれ、跡形もなく消え失せた。
庭には再び静寂が戻った。 残されたのは、少しだけ凹んだ芝生と、満足げに鼻を鳴らす幼児のみ。
『ふぅ。任務完了。……あ、ママたちが帰ってきた』
門の方から、馬車の音が聞こえてくる。 シオンは慌ててテラスから部屋に戻り、ベッドにダイブした。 布団を被り、ガラガラを放り投げ、スヤスヤという寝息(偽装)を立てる。 その早業は、まさにプロフェッショナルだった。
◆
数分後。 部屋の扉が静かに開いた。 入ってきたのは、レティシアとアレクセイだ。
「……シオン、寝てるかしら?」
レティシアが小声で囁き、ベッドを覗き込む。 シオンは完璧な演技で、無防備な寝顔を晒していた。 口を半開きにし、よだれを少し垂らすというディテールまで完璧だ。
「……天使だ」
アレクセイが感嘆のため息を漏らした。 彼はそっとシオンの頬に触れた。
「こんなに小さくて、愛らしい生き物が、俺たちの息子なのか。……守らなければ。何があっても」
『パパ、さっき僕が守っておいたよ』とシオンは心の中で突っ込んだが、もちろん口には出さない。
「あれ? アレクセイ様、窓が開いています」
レティシアがテラスへの窓が少し開いていることに気づいた。 夜風がカーテンを揺らしている。
「……マリアが閉め忘れたのか? 珍しいな」
アレクセイが窓を閉めようと近づき、ふと庭に目をやった。 そこには、不自然に凹んだ芝生の跡があった。 まるで、何かが押し付けられたような。
「……なんだ、あの痕跡は」
アレクセイの目が鋭くなる。 魔力の残滓を感じ取ったのだろうか。 シオンは布団の中でドキリとした。 パパは意外と鋭いのだ。
「どうしました?」
「いや……微かに、知らない魔力の気配がする。それに、空間が歪んだような痕跡も」
さすが氷の公爵。 シオンの転移魔法の残り香を嗅ぎつけたらしい。
(やばい、バレる)
シオンはとっさに行動に出た。
「……んあ~……」
寝言のような声を出し、むくりと起き上がったのだ。 そして、目をこすりながら、アレクセイに向かって両手を広げた。
「パパ~……抱っこぉ~……」
必殺、寝ぼけ眼の甘え攻撃。 効果は絶大だった。
「ッ!!」
アレクセイの思考が一瞬で停止した。 魔力の残滓とか、侵入者の気配とか、そんなシリアスな情報はすべて吹き飛び、彼の脳内は「シオンが! 俺に! 抱っこを求めた!」という事実で埋め尽くされた。
「し、シオン……! ああ、パパだぞ! よしよし、怖い夢でも見たのか?」
アレクセイは崩れ落ちるようにシオンを抱きしめた。 その顔はデレデレに崩壊している。
「ふふ、パパ大人気ですね。シオン、ママたちは帰ってきたよ」
レティシアも微笑ましそうに見ている。 作戦成功だ。
シオンはアレクセイの胸に顔を埋めながら、ニヤリと笑った。 『ちょろい』と思いながら。
しかし、その時。 アレクセイが鼻をひくつかせた。
「……ん? なんか臭わないか?」
あ。 忘れてた。 オムツ。
「あら、本当。……シオン、もしかして?」
レティシアがクスクス笑いながらオムツを確認する。 シオンは屈辱に顔を赤らめた。 世界を救った英雄が、自分の排泄処理はママに頼らなければならないという、この理不尽な現実。
「はいはい、綺麗にしましょうねー」
「俺がやる! オムツ替えの練習は人形相手に百回やった!」
「えっ、いつの間に……」
アレクセイが張り切ってオムツとおしりふきを取り出す。 シオンは天井を見上げ、虚無の境地に至っていた。
(……まあ、いいか。平和なら)
公爵邸の夜は、こうして更けていった。
◆
翌朝。 私は爽やかな朝日で目を覚ました。 隣ではシオンが(綺麗なオムツで)気持ちよさそうに眠っている。 アレクセイは既に起きて、庭で朝の鍛錬をしているらしい。
着替えてダイニングへ降りると、食卓にはすでにアレクセイが座っていた。 しかし、その表情は険しい。 手には一枚の報告書を持っている。
「おはようございます、アレクセイ様。……何かありましたか?」
「おはよう、レティシア。……いや、奇妙なことがあってな」
彼は眉をひそめて言った。
「今朝、王都の衛兵から連絡があった。昨夜、衛兵詰所の地下牢に、突然五人の男が現れたらしい」
「えっ? 突然?」
「ああ。何の前触れもなく、牢屋の中に転送されたそうだ。しかも全員、気絶していた。調べたところ、彼らは裏社会で有名な暗殺集団だった」
私は息を飲んだ。 暗殺集団。 そんな危険な連中が、なぜ自ら牢屋に?
「彼らは目を覚ますと、『赤ん坊が! 悪魔の赤ん坊が!』と譫言(うわごと)のように叫んで怯えているらしい。精神に異常をきたしているようだ」
「赤ん坊……?」
アレクセイは首を傾げた。
「何かの隠語か、あるいは強力な幻覚魔法でも食らったのか……。とにかく、我々を狙っていた可能性が高い連中が、勝手に自滅してくれた。運が良いとしか言いようがない」
私はふと、昨夜のシオンを思い出した。 私たちが帰った時、彼は起きていて、アレクセイに抱っこをせがんだ。 そして、庭の凹み。
(まさか……ね)
私は心の中で苦笑して否定した。 いくら天才児のシオンでも、暗殺者を五人も撃退して牢屋に転送するなんて、そんな離れ業ができるはずがない。 もしできたとしたら、それはもう赤ちゃんじゃなくて英雄か魔王だ。
その時、マリアに抱っこされたシオンがダイニングに入ってきた。 彼は私と目が合うと、にっこりと無垢な笑顔を向けた。 「マンマ! パーパ!」
「おお、シオン! おはよう!」
アレクセイがデレデレの顔で駆け寄る。 シオンはキャッキャと笑い、アレクセイの頬をペチペチと叩いた。
平和だ。 なんて平和な朝なのだろう。
しかし、私は気づいてしまった。 シオンの右手に、小さな泥がついているのを。 そして、その泥が、庭の芝生の土と同じ色であるのを。
(…………)
私は見なかったことにした。 世の中には、知らない方が幸せなこともある。 我が家の息子が、実は世界最強のボディーガードだなんて事実は、母親の心臓には刺激が強すぎる。
「さあ、朝ごはんを食べましょう。今日はパンケーキですよ」
「パンケーキ! あい(食べる)!」
シオンが嬉しそうに声を上げる。 食欲旺盛なところは、確かに子供らしい。
私たちが席につこうとした時、アレクセイが真剣な顔で言った。
「レティシア。昨日のアリスの件だが……彼女の背後関係を洗わせていた諜報員から、気になる情報が入った」
「……気になる情報?」
「ああ。アリスに資金提供をし、俺たちを陥れるように唆していた黒幕の影だ。どうやら、この国の人間ではないらしい」
アレクセイの声が低くなる。
「隣国、ドラグニール帝国。……軍事国家の影が見え隠れしている」
ドラグニール帝国。 武力による領土拡大を推し進める、好戦的な大国だ。 もし彼らが絡んでいるとしたら、これは単なる家庭内の揉め事では済まされない。 国家間の陰謀に巻き込まれている可能性がある。
「……怖がる必要はない。俺が必ず守る」
アレクセイは私の手を強く握った。
「だが、少し警戒レベルを上げる必要があるかもしれない。シオンの護衛も強化しよう」
『パパ、僕の護衛なら僕が一番強いから大丈夫だよ』
シオンがパンケーキを頬張りながら、心の中で呟いたのが聞こえた気がした。
「はい、わかりました。……でも、私たちにはアレクセイ様がいてくださいますから、安心です」
私が言うと、アレクセイは少し照れたように視線を逸らした。
「……ああ。頼りにしてくれ。俺の氷魔法は、大切な人を守るためにこそある」
そう言った彼の横顔は、やはり頼もしく、そして昨夜よりも一層、夫としての自覚に満ちているように見えた。
シオンがコップのミルクを飲み干し、満足げに息をついた。 彼の視線は、窓の外の青空に向けられている。 その瞳の奥には、一歳児には似つかわしくない、深い知性と決意が宿っていた。
(帝国か……。面倒くさい相手が出てきたな)
シオンの内心など知る由もなく、私は彼の口についたミルクを拭ってあげた。
「あらあら、白いお髭ができてるわよ」
「エヘヘ」
笑うシオン。 この笑顔を守るためなら、私は悪役令嬢にだって、鬼にだってなってみせる。 改めてそう誓う朝だった。
だが、平和な日常は長くは続かない。 アリスが投獄されたことで、事態は収束するどころか、より大きな波乱へと動き出していたのだ。 帝国の手が、もうすぐそこまで迫っていることを、私たちはまだ知らなかった。
――いや、一人だけ、正確に把握している赤ちゃんを除いては。
「……疲れただろう」
隣に座るアレクセイが、私の肩を抱き寄せながら囁いた。 彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。 パーティー会場での緊張感が嘘のように、彼の表情は緩みきっていた。
「いいえ、心地よい疲れです。……あんなに胸がすくような思いをしたのは、初めてかもしれません」
私は正直な感想を口にした。 五年前、無実の罪を着せられ、石を投げられるようにして追われた王都。 その場所で、堂々と顔を上げ、かつての敵を打ち負かしたのだ。 これ以上のカタルシスはない。
「君は強くなったな。……いや、俺が見ていなかっただけか」
アレクセイは自嘲気味に笑い、私の髪を指先で梳いた。
「あの時、君を守れなかった俺が言う資格はないかもしれないが……今日の君は、誰よりも輝いていた。俺の自慢の妻だ」
「アレクセイ様……」
「屋敷に戻ったら、シオンにも報告しないとな。『ママが悪者をやっつけたぞ』と」
「ふふ、シオンならきっと、『パパの出番が少なかったんじゃない?』なんて生意気なことを言うかもしれませんね」
私たちは顔を見合わせて笑った。 シオン。 私たちの愛しい息子。 今頃はきっと、あのピンク色の部屋で、天使のような寝顔で眠っているはずだ。
「早く帰ろう。二人が待つ我が家へ」
アレクセイの言葉に、私は深く頷いた。 ◆
しかし、その頃。 公爵邸の庭園では、天使とは程遠い、緊迫した空気が流れていた。
月明かりの下、手入れの行き届いた芝生の上に、小さな影が一つ。 シオン・フロスト(一歳)である。 彼はクマの刺繍が入ったロンパースを着て、お気に入りのタオルケットをマントのように羽織り、仁王立ちしていた。 右手には、愛用のガラガラ(アレクセイが贈った国宝級の竜素材製ではなく、村で作った木の枝製)が握られている。
『……来たか』
シオンは紫色の瞳を細めた。 彼の視線の先、庭木の陰から、音もなく複数の人影が現れた。 全身を黒装束で包み、顔を隠した集団。 その数、およそ五人。 ただの盗賊ではない。気配を完全に殺している。手練れの暗殺者だ。
「……情報通りだ。警備の騎士たちは、表門の方に誘導されている。今のうちに侵入し、ガキを確保するぞ」
先頭の男が、押し殺した声で仲間に指示を出した。 彼らの目的は、シオンの誘拐。 アリスが最後に言い残した「あの方たち」からの刺客だろう。 公爵家の跡取りを人質に取り、アレクセイを脅迫するつもりなのか、あるいはシオンの特異な魔力に気づいたのか。
男たちは音もなく芝生を駆け、テラスへと向かう。 しかし、その進路を塞ぐように、小さな幼児が立ちはだかった。
「……あん?」
男の一人が足を止めた。 足元にいる、豆粒のような存在に気づいたのだ。
「なんだ、このガキ……?」 「おい、ターゲットじゃないか? 銀髪に紫の目だ」 「ラッキーだな。まさか自分から出てきてくれるとは」
暗殺者たちは忍び笑いを漏らした。 彼らにとって、一歳児など赤子の手をひねる……文字通り、造作もない相手だ。 一人が麻酔薬を塗った布を取り出し、シオンに近づく。
「よしよし、坊や。おじさんと一緒に来ような。痛くしないから……」
シオンは動かない。 ただ、その瞳が冷徹に男を見上げていた。
『……おじさんたち、靴の裏、泥だらけだよ』
「あ?」
シオンの口は動いていないのに、男の頭の中に直接声が響いた。
『庭師のトムさんが、毎日丹精込めて手入れしてる芝生なんだ。踏み荒らすなら、入場料を払ってもらわないとね』
「な、なんだ!? 誰が喋って……」
男が周囲を見回した瞬間。 シオンが右手の木の枝(ガラガラ)を、指揮棒のように振った。
『重力操作(グラビティ・プレス)』
ズンッ!!
強烈な重圧が、暗殺者たちを襲った。 彼らは悲鳴を上げる間もなく、地面に這いつくばらされた。 まるで、見えない巨人に踏み潰されたかのように、身体が動かない。
「ぐ、あ……っ!? な、なんだこれは……ッ!」 「身体が……重い……ッ!」
男たちは芝生に顔をめり込ませながら、必死にもがいた。 シオンは、よちよち歩きで彼らに近づいた。 その足取りは危なっかしいが、纏っているオーラは歴戦の勇者のそれだった。
『……程度が低いな。この程度の隠密スキルで、元英雄の僕の家に侵入しようだなんて、一万年早いよ』
シオンは溜息をついた。 前世の感覚で言えば、彼らは雑魚敵(モブ)以下の存在だ。 しかし、今のシオンには致命的な弱点があった。
(あー……オムツが蒸れてきた)
不快指数が上昇中である。 早く片付けて、マリアに替えてもらわなければならない。
「ば、化け物か……!」 「このガキ、ただ者じゃねぇ……!」
男たちは恐怖に引きつった顔でシオンを見上げた。 シオンは無慈悲に彼らを見下ろした。
『化け物じゃないよ。パパとママの可愛い天使、シオンちゃんだよ。バブー』
シオンは真顔で言い放ち、再び木の枝を振った。
『さて、尋問タイムといきたいところだけど……君たちの雇い主の匂いくらいは覚えたから、もう用済みかな。パパが帰ってくる前に、掃除しておかないと』
シオンの周囲に、無数の光の球が浮かび上がった。 それは、攻撃魔法ではない。 空間転移のためのマーカーだ。
『空間転移(テレポート)・強制排除』
「ま、待て! どこへ飛ばす気だ!」
『さあね。王都の衛兵詰所の牢屋の中か、あるいは北の極寒の山頂か。……運が良ければ、前者だといいね』
シオンが指を鳴らす。 パチン。 その乾いた音と共に、暗殺者たちの姿は光に包まれ、跡形もなく消え失せた。
庭には再び静寂が戻った。 残されたのは、少しだけ凹んだ芝生と、満足げに鼻を鳴らす幼児のみ。
『ふぅ。任務完了。……あ、ママたちが帰ってきた』
門の方から、馬車の音が聞こえてくる。 シオンは慌ててテラスから部屋に戻り、ベッドにダイブした。 布団を被り、ガラガラを放り投げ、スヤスヤという寝息(偽装)を立てる。 その早業は、まさにプロフェッショナルだった。
◆
数分後。 部屋の扉が静かに開いた。 入ってきたのは、レティシアとアレクセイだ。
「……シオン、寝てるかしら?」
レティシアが小声で囁き、ベッドを覗き込む。 シオンは完璧な演技で、無防備な寝顔を晒していた。 口を半開きにし、よだれを少し垂らすというディテールまで完璧だ。
「……天使だ」
アレクセイが感嘆のため息を漏らした。 彼はそっとシオンの頬に触れた。
「こんなに小さくて、愛らしい生き物が、俺たちの息子なのか。……守らなければ。何があっても」
『パパ、さっき僕が守っておいたよ』とシオンは心の中で突っ込んだが、もちろん口には出さない。
「あれ? アレクセイ様、窓が開いています」
レティシアがテラスへの窓が少し開いていることに気づいた。 夜風がカーテンを揺らしている。
「……マリアが閉め忘れたのか? 珍しいな」
アレクセイが窓を閉めようと近づき、ふと庭に目をやった。 そこには、不自然に凹んだ芝生の跡があった。 まるで、何かが押し付けられたような。
「……なんだ、あの痕跡は」
アレクセイの目が鋭くなる。 魔力の残滓を感じ取ったのだろうか。 シオンは布団の中でドキリとした。 パパは意外と鋭いのだ。
「どうしました?」
「いや……微かに、知らない魔力の気配がする。それに、空間が歪んだような痕跡も」
さすが氷の公爵。 シオンの転移魔法の残り香を嗅ぎつけたらしい。
(やばい、バレる)
シオンはとっさに行動に出た。
「……んあ~……」
寝言のような声を出し、むくりと起き上がったのだ。 そして、目をこすりながら、アレクセイに向かって両手を広げた。
「パパ~……抱っこぉ~……」
必殺、寝ぼけ眼の甘え攻撃。 効果は絶大だった。
「ッ!!」
アレクセイの思考が一瞬で停止した。 魔力の残滓とか、侵入者の気配とか、そんなシリアスな情報はすべて吹き飛び、彼の脳内は「シオンが! 俺に! 抱っこを求めた!」という事実で埋め尽くされた。
「し、シオン……! ああ、パパだぞ! よしよし、怖い夢でも見たのか?」
アレクセイは崩れ落ちるようにシオンを抱きしめた。 その顔はデレデレに崩壊している。
「ふふ、パパ大人気ですね。シオン、ママたちは帰ってきたよ」
レティシアも微笑ましそうに見ている。 作戦成功だ。
シオンはアレクセイの胸に顔を埋めながら、ニヤリと笑った。 『ちょろい』と思いながら。
しかし、その時。 アレクセイが鼻をひくつかせた。
「……ん? なんか臭わないか?」
あ。 忘れてた。 オムツ。
「あら、本当。……シオン、もしかして?」
レティシアがクスクス笑いながらオムツを確認する。 シオンは屈辱に顔を赤らめた。 世界を救った英雄が、自分の排泄処理はママに頼らなければならないという、この理不尽な現実。
「はいはい、綺麗にしましょうねー」
「俺がやる! オムツ替えの練習は人形相手に百回やった!」
「えっ、いつの間に……」
アレクセイが張り切ってオムツとおしりふきを取り出す。 シオンは天井を見上げ、虚無の境地に至っていた。
(……まあ、いいか。平和なら)
公爵邸の夜は、こうして更けていった。
◆
翌朝。 私は爽やかな朝日で目を覚ました。 隣ではシオンが(綺麗なオムツで)気持ちよさそうに眠っている。 アレクセイは既に起きて、庭で朝の鍛錬をしているらしい。
着替えてダイニングへ降りると、食卓にはすでにアレクセイが座っていた。 しかし、その表情は険しい。 手には一枚の報告書を持っている。
「おはようございます、アレクセイ様。……何かありましたか?」
「おはよう、レティシア。……いや、奇妙なことがあってな」
彼は眉をひそめて言った。
「今朝、王都の衛兵から連絡があった。昨夜、衛兵詰所の地下牢に、突然五人の男が現れたらしい」
「えっ? 突然?」
「ああ。何の前触れもなく、牢屋の中に転送されたそうだ。しかも全員、気絶していた。調べたところ、彼らは裏社会で有名な暗殺集団だった」
私は息を飲んだ。 暗殺集団。 そんな危険な連中が、なぜ自ら牢屋に?
「彼らは目を覚ますと、『赤ん坊が! 悪魔の赤ん坊が!』と譫言(うわごと)のように叫んで怯えているらしい。精神に異常をきたしているようだ」
「赤ん坊……?」
アレクセイは首を傾げた。
「何かの隠語か、あるいは強力な幻覚魔法でも食らったのか……。とにかく、我々を狙っていた可能性が高い連中が、勝手に自滅してくれた。運が良いとしか言いようがない」
私はふと、昨夜のシオンを思い出した。 私たちが帰った時、彼は起きていて、アレクセイに抱っこをせがんだ。 そして、庭の凹み。
(まさか……ね)
私は心の中で苦笑して否定した。 いくら天才児のシオンでも、暗殺者を五人も撃退して牢屋に転送するなんて、そんな離れ業ができるはずがない。 もしできたとしたら、それはもう赤ちゃんじゃなくて英雄か魔王だ。
その時、マリアに抱っこされたシオンがダイニングに入ってきた。 彼は私と目が合うと、にっこりと無垢な笑顔を向けた。 「マンマ! パーパ!」
「おお、シオン! おはよう!」
アレクセイがデレデレの顔で駆け寄る。 シオンはキャッキャと笑い、アレクセイの頬をペチペチと叩いた。
平和だ。 なんて平和な朝なのだろう。
しかし、私は気づいてしまった。 シオンの右手に、小さな泥がついているのを。 そして、その泥が、庭の芝生の土と同じ色であるのを。
(…………)
私は見なかったことにした。 世の中には、知らない方が幸せなこともある。 我が家の息子が、実は世界最強のボディーガードだなんて事実は、母親の心臓には刺激が強すぎる。
「さあ、朝ごはんを食べましょう。今日はパンケーキですよ」
「パンケーキ! あい(食べる)!」
シオンが嬉しそうに声を上げる。 食欲旺盛なところは、確かに子供らしい。
私たちが席につこうとした時、アレクセイが真剣な顔で言った。
「レティシア。昨日のアリスの件だが……彼女の背後関係を洗わせていた諜報員から、気になる情報が入った」
「……気になる情報?」
「ああ。アリスに資金提供をし、俺たちを陥れるように唆していた黒幕の影だ。どうやら、この国の人間ではないらしい」
アレクセイの声が低くなる。
「隣国、ドラグニール帝国。……軍事国家の影が見え隠れしている」
ドラグニール帝国。 武力による領土拡大を推し進める、好戦的な大国だ。 もし彼らが絡んでいるとしたら、これは単なる家庭内の揉め事では済まされない。 国家間の陰謀に巻き込まれている可能性がある。
「……怖がる必要はない。俺が必ず守る」
アレクセイは私の手を強く握った。
「だが、少し警戒レベルを上げる必要があるかもしれない。シオンの護衛も強化しよう」
『パパ、僕の護衛なら僕が一番強いから大丈夫だよ』
シオンがパンケーキを頬張りながら、心の中で呟いたのが聞こえた気がした。
「はい、わかりました。……でも、私たちにはアレクセイ様がいてくださいますから、安心です」
私が言うと、アレクセイは少し照れたように視線を逸らした。
「……ああ。頼りにしてくれ。俺の氷魔法は、大切な人を守るためにこそある」
そう言った彼の横顔は、やはり頼もしく、そして昨夜よりも一層、夫としての自覚に満ちているように見えた。
シオンがコップのミルクを飲み干し、満足げに息をついた。 彼の視線は、窓の外の青空に向けられている。 その瞳の奥には、一歳児には似つかわしくない、深い知性と決意が宿っていた。
(帝国か……。面倒くさい相手が出てきたな)
シオンの内心など知る由もなく、私は彼の口についたミルクを拭ってあげた。
「あらあら、白いお髭ができてるわよ」
「エヘヘ」
笑うシオン。 この笑顔を守るためなら、私は悪役令嬢にだって、鬼にだってなってみせる。 改めてそう誓う朝だった。
だが、平和な日常は長くは続かない。 アリスが投獄されたことで、事態は収束するどころか、より大きな波乱へと動き出していたのだ。 帝国の手が、もうすぐそこまで迫っていることを、私たちはまだ知らなかった。
――いや、一人だけ、正確に把握している赤ちゃんを除いては。
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