処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人

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第6話 英雄赤ちゃんは、真夜中にオムツと世界を守る

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 デビュタントでの騒動――いや、私の華麗なる逆転劇を終え、私たちは公爵家の馬車に揺られていた。  窓の外では、王都の夜景が流れていく。  ガス灯の明かりが遠ざかり、静寂が深まっていく中、車内には甘く穏やかな空気が満ちていた。

 「……疲れただろう」

 隣に座るアレクセイが、私の肩を抱き寄せながら囁いた。  彼の体温が、ドレス越しに伝わってくる。  パーティー会場での緊張感が嘘のように、彼の表情は緩みきっていた。

 「いいえ、心地よい疲れです。……あんなに胸がすくような思いをしたのは、初めてかもしれません」

 私は正直な感想を口にした。  五年前、無実の罪を着せられ、石を投げられるようにして追われた王都。  その場所で、堂々と顔を上げ、かつての敵を打ち負かしたのだ。  これ以上のカタルシスはない。

 「君は強くなったな。……いや、俺が見ていなかっただけか」

 アレクセイは自嘲気味に笑い、私の髪を指先で梳いた。

 「あの時、君を守れなかった俺が言う資格はないかもしれないが……今日の君は、誰よりも輝いていた。俺の自慢の妻だ」

 「アレクセイ様……」

 「屋敷に戻ったら、シオンにも報告しないとな。『ママが悪者をやっつけたぞ』と」

 「ふふ、シオンならきっと、『パパの出番が少なかったんじゃない?』なんて生意気なことを言うかもしれませんね」

 私たちは顔を見合わせて笑った。  シオン。  私たちの愛しい息子。  今頃はきっと、あのピンク色の部屋で、天使のような寝顔で眠っているはずだ。

 「早く帰ろう。二人が待つ我が家へ」

 アレクセイの言葉に、私は深く頷いた。        ◆

 しかし、その頃。  公爵邸の庭園では、天使とは程遠い、緊迫した空気が流れていた。

 月明かりの下、手入れの行き届いた芝生の上に、小さな影が一つ。  シオン・フロスト(一歳)である。  彼はクマの刺繍が入ったロンパースを着て、お気に入りのタオルケットをマントのように羽織り、仁王立ちしていた。  右手には、愛用のガラガラ(アレクセイが贈った国宝級の竜素材製ではなく、村で作った木の枝製)が握られている。

 『……来たか』

 シオンは紫色の瞳を細めた。  彼の視線の先、庭木の陰から、音もなく複数の人影が現れた。  全身を黒装束で包み、顔を隠した集団。  その数、およそ五人。  ただの盗賊ではない。気配を完全に殺している。手練れの暗殺者だ。

 「……情報通りだ。警備の騎士たちは、表門の方に誘導されている。今のうちに侵入し、ガキを確保するぞ」

 先頭の男が、押し殺した声で仲間に指示を出した。  彼らの目的は、シオンの誘拐。  アリスが最後に言い残した「あの方たち」からの刺客だろう。  公爵家の跡取りを人質に取り、アレクセイを脅迫するつもりなのか、あるいはシオンの特異な魔力に気づいたのか。

 男たちは音もなく芝生を駆け、テラスへと向かう。  しかし、その進路を塞ぐように、小さな幼児が立ちはだかった。

 「……あん?」

 男の一人が足を止めた。  足元にいる、豆粒のような存在に気づいたのだ。

 「なんだ、このガキ……?」  「おい、ターゲットじゃないか? 銀髪に紫の目だ」  「ラッキーだな。まさか自分から出てきてくれるとは」

 暗殺者たちは忍び笑いを漏らした。  彼らにとって、一歳児など赤子の手をひねる……文字通り、造作もない相手だ。  一人が麻酔薬を塗った布を取り出し、シオンに近づく。

 「よしよし、坊や。おじさんと一緒に来ような。痛くしないから……」

 シオンは動かない。  ただ、その瞳が冷徹に男を見上げていた。

 『……おじさんたち、靴の裏、泥だらけだよ』

 「あ?」

 シオンの口は動いていないのに、男の頭の中に直接声が響いた。

 『庭師のトムさんが、毎日丹精込めて手入れしてる芝生なんだ。踏み荒らすなら、入場料を払ってもらわないとね』

 「な、なんだ!? 誰が喋って……」

 男が周囲を見回した瞬間。  シオンが右手の木の枝(ガラガラ)を、指揮棒のように振った。

 『重力操作(グラビティ・プレス)』

 ズンッ!!

 強烈な重圧が、暗殺者たちを襲った。  彼らは悲鳴を上げる間もなく、地面に這いつくばらされた。  まるで、見えない巨人に踏み潰されたかのように、身体が動かない。

 「ぐ、あ……っ!? な、なんだこれは……ッ!」  「身体が……重い……ッ!」

 男たちは芝生に顔をめり込ませながら、必死にもがいた。  シオンは、よちよち歩きで彼らに近づいた。  その足取りは危なっかしいが、纏っているオーラは歴戦の勇者のそれだった。

 『……程度が低いな。この程度の隠密スキルで、元英雄の僕の家に侵入しようだなんて、一万年早いよ』

 シオンは溜息をついた。  前世の感覚で言えば、彼らは雑魚敵(モブ)以下の存在だ。  しかし、今のシオンには致命的な弱点があった。

 (あー……オムツが蒸れてきた)

 不快指数が上昇中である。  早く片付けて、マリアに替えてもらわなければならない。

 「ば、化け物か……!」  「このガキ、ただ者じゃねぇ……!」

 男たちは恐怖に引きつった顔でシオンを見上げた。  シオンは無慈悲に彼らを見下ろした。

 『化け物じゃないよ。パパとママの可愛い天使、シオンちゃんだよ。バブー』

 シオンは真顔で言い放ち、再び木の枝を振った。

 『さて、尋問タイムといきたいところだけど……君たちの雇い主の匂いくらいは覚えたから、もう用済みかな。パパが帰ってくる前に、掃除しておかないと』

 シオンの周囲に、無数の光の球が浮かび上がった。  それは、攻撃魔法ではない。  空間転移のためのマーカーだ。

 『空間転移(テレポート)・強制排除』

 「ま、待て! どこへ飛ばす気だ!」

 『さあね。王都の衛兵詰所の牢屋の中か、あるいは北の極寒の山頂か。……運が良ければ、前者だといいね』

 シオンが指を鳴らす。  パチン。  その乾いた音と共に、暗殺者たちの姿は光に包まれ、跡形もなく消え失せた。

 庭には再び静寂が戻った。  残されたのは、少しだけ凹んだ芝生と、満足げに鼻を鳴らす幼児のみ。

 『ふぅ。任務完了。……あ、ママたちが帰ってきた』

 門の方から、馬車の音が聞こえてくる。  シオンは慌ててテラスから部屋に戻り、ベッドにダイブした。  布団を被り、ガラガラを放り投げ、スヤスヤという寝息(偽装)を立てる。  その早業は、まさにプロフェッショナルだった。

       ◆

 数分後。  部屋の扉が静かに開いた。  入ってきたのは、レティシアとアレクセイだ。

 「……シオン、寝てるかしら?」

 レティシアが小声で囁き、ベッドを覗き込む。  シオンは完璧な演技で、無防備な寝顔を晒していた。  口を半開きにし、よだれを少し垂らすというディテールまで完璧だ。

 「……天使だ」

 アレクセイが感嘆のため息を漏らした。  彼はそっとシオンの頬に触れた。

 「こんなに小さくて、愛らしい生き物が、俺たちの息子なのか。……守らなければ。何があっても」

 『パパ、さっき僕が守っておいたよ』とシオンは心の中で突っ込んだが、もちろん口には出さない。

 「あれ? アレクセイ様、窓が開いています」

 レティシアがテラスへの窓が少し開いていることに気づいた。  夜風がカーテンを揺らしている。

 「……マリアが閉め忘れたのか? 珍しいな」

 アレクセイが窓を閉めようと近づき、ふと庭に目をやった。  そこには、不自然に凹んだ芝生の跡があった。  まるで、何かが押し付けられたような。

 「……なんだ、あの痕跡は」

 アレクセイの目が鋭くなる。  魔力の残滓を感じ取ったのだろうか。  シオンは布団の中でドキリとした。  パパは意外と鋭いのだ。

 「どうしました?」

 「いや……微かに、知らない魔力の気配がする。それに、空間が歪んだような痕跡も」

 さすが氷の公爵。  シオンの転移魔法の残り香を嗅ぎつけたらしい。

 (やばい、バレる)

 シオンはとっさに行動に出た。

 「……んあ~……」

 寝言のような声を出し、むくりと起き上がったのだ。  そして、目をこすりながら、アレクセイに向かって両手を広げた。

 「パパ~……抱っこぉ~……」

 必殺、寝ぼけ眼の甘え攻撃。  効果は絶大だった。

 「ッ!!」

 アレクセイの思考が一瞬で停止した。  魔力の残滓とか、侵入者の気配とか、そんなシリアスな情報はすべて吹き飛び、彼の脳内は「シオンが! 俺に! 抱っこを求めた!」という事実で埋め尽くされた。

 「し、シオン……! ああ、パパだぞ! よしよし、怖い夢でも見たのか?」

 アレクセイは崩れ落ちるようにシオンを抱きしめた。  その顔はデレデレに崩壊している。

 「ふふ、パパ大人気ですね。シオン、ママたちは帰ってきたよ」

 レティシアも微笑ましそうに見ている。  作戦成功だ。

 シオンはアレクセイの胸に顔を埋めながら、ニヤリと笑った。  『ちょろい』と思いながら。

 しかし、その時。  アレクセイが鼻をひくつかせた。

 「……ん? なんか臭わないか?」

 あ。  忘れてた。  オムツ。

 「あら、本当。……シオン、もしかして?」

 レティシアがクスクス笑いながらオムツを確認する。  シオンは屈辱に顔を赤らめた。  世界を救った英雄が、自分の排泄処理はママに頼らなければならないという、この理不尽な現実。

 「はいはい、綺麗にしましょうねー」

 「俺がやる! オムツ替えの練習は人形相手に百回やった!」

 「えっ、いつの間に……」

 アレクセイが張り切ってオムツとおしりふきを取り出す。  シオンは天井を見上げ、虚無の境地に至っていた。

 (……まあ、いいか。平和なら)

 公爵邸の夜は、こうして更けていった。

       ◆

 翌朝。  私は爽やかな朝日で目を覚ました。  隣ではシオンが(綺麗なオムツで)気持ちよさそうに眠っている。  アレクセイは既に起きて、庭で朝の鍛錬をしているらしい。

 着替えてダイニングへ降りると、食卓にはすでにアレクセイが座っていた。  しかし、その表情は険しい。  手には一枚の報告書を持っている。

 「おはようございます、アレクセイ様。……何かありましたか?」

 「おはよう、レティシア。……いや、奇妙なことがあってな」

 彼は眉をひそめて言った。

 「今朝、王都の衛兵から連絡があった。昨夜、衛兵詰所の地下牢に、突然五人の男が現れたらしい」

 「えっ? 突然?」

 「ああ。何の前触れもなく、牢屋の中に転送されたそうだ。しかも全員、気絶していた。調べたところ、彼らは裏社会で有名な暗殺集団だった」

 私は息を飲んだ。  暗殺集団。  そんな危険な連中が、なぜ自ら牢屋に?

 「彼らは目を覚ますと、『赤ん坊が! 悪魔の赤ん坊が!』と譫言(うわごと)のように叫んで怯えているらしい。精神に異常をきたしているようだ」

 「赤ん坊……?」

 アレクセイは首を傾げた。

 「何かの隠語か、あるいは強力な幻覚魔法でも食らったのか……。とにかく、我々を狙っていた可能性が高い連中が、勝手に自滅してくれた。運が良いとしか言いようがない」

 私はふと、昨夜のシオンを思い出した。  私たちが帰った時、彼は起きていて、アレクセイに抱っこをせがんだ。  そして、庭の凹み。

 (まさか……ね)

 私は心の中で苦笑して否定した。  いくら天才児のシオンでも、暗殺者を五人も撃退して牢屋に転送するなんて、そんな離れ業ができるはずがない。  もしできたとしたら、それはもう赤ちゃんじゃなくて英雄か魔王だ。

 その時、マリアに抱っこされたシオンがダイニングに入ってきた。  彼は私と目が合うと、にっこりと無垢な笑顔を向けた。    「マンマ! パーパ!」

 「おお、シオン! おはよう!」

 アレクセイがデレデレの顔で駆け寄る。  シオンはキャッキャと笑い、アレクセイの頬をペチペチと叩いた。

 平和だ。  なんて平和な朝なのだろう。

 しかし、私は気づいてしまった。  シオンの右手に、小さな泥がついているのを。  そして、その泥が、庭の芝生の土と同じ色であるのを。

 (…………)

 私は見なかったことにした。  世の中には、知らない方が幸せなこともある。  我が家の息子が、実は世界最強のボディーガードだなんて事実は、母親の心臓には刺激が強すぎる。

 「さあ、朝ごはんを食べましょう。今日はパンケーキですよ」

 「パンケーキ! あい(食べる)!」

 シオンが嬉しそうに声を上げる。  食欲旺盛なところは、確かに子供らしい。

 私たちが席につこうとした時、アレクセイが真剣な顔で言った。

 「レティシア。昨日のアリスの件だが……彼女の背後関係を洗わせていた諜報員から、気になる情報が入った」

 「……気になる情報?」

 「ああ。アリスに資金提供をし、俺たちを陥れるように唆していた黒幕の影だ。どうやら、この国の人間ではないらしい」

 アレクセイの声が低くなる。

 「隣国、ドラグニール帝国。……軍事国家の影が見え隠れしている」

 ドラグニール帝国。  武力による領土拡大を推し進める、好戦的な大国だ。  もし彼らが絡んでいるとしたら、これは単なる家庭内の揉め事では済まされない。  国家間の陰謀に巻き込まれている可能性がある。

 「……怖がる必要はない。俺が必ず守る」

 アレクセイは私の手を強く握った。

 「だが、少し警戒レベルを上げる必要があるかもしれない。シオンの護衛も強化しよう」

 『パパ、僕の護衛なら僕が一番強いから大丈夫だよ』

 シオンがパンケーキを頬張りながら、心の中で呟いたのが聞こえた気がした。

 「はい、わかりました。……でも、私たちにはアレクセイ様がいてくださいますから、安心です」

 私が言うと、アレクセイは少し照れたように視線を逸らした。

 「……ああ。頼りにしてくれ。俺の氷魔法は、大切な人を守るためにこそある」

 そう言った彼の横顔は、やはり頼もしく、そして昨夜よりも一層、夫としての自覚に満ちているように見えた。

 シオンがコップのミルクを飲み干し、満足げに息をついた。  彼の視線は、窓の外の青空に向けられている。  その瞳の奥には、一歳児には似つかわしくない、深い知性と決意が宿っていた。

 (帝国か……。面倒くさい相手が出てきたな)

 シオンの内心など知る由もなく、私は彼の口についたミルクを拭ってあげた。

 「あらあら、白いお髭ができてるわよ」

 「エヘヘ」

 笑うシオン。  この笑顔を守るためなら、私は悪役令嬢にだって、鬼にだってなってみせる。  改めてそう誓う朝だった。

 だが、平和な日常は長くは続かない。  アリスが投獄されたことで、事態は収束するどころか、より大きな波乱へと動き出していたのだ。  帝国の手が、もうすぐそこまで迫っていることを、私たちはまだ知らなかった。

 ――いや、一人だけ、正確に把握している赤ちゃんを除いては。
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