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第19話 セカンド・プロポーズは、崩壊する空の下で
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上空三千メートル。 そこは、酸素が薄く、凍てつくような寒風が吹き荒れる死の世界だった。 しかし、今の私たちにとっては、寒さなど些細な問題だった。 目の前に聳え立つ、絶望そのものと対峙していることに比べれば。
『ア……アレクセイサマ……ココデ……エイエンニ……』
目の前に浮かぶ異形の怪物――かつてアリス・ヴァン・ローゼンだったモノが、鼓膜を劈くような不協和音で咆哮した。 その姿は、悪夢から抜け出してきたようだった。 白く美しい天使の翼は腐り落ち、代わりに黒い粘液が滴るコウモリのような皮膜が広がっている。 美しい顔は半分が溶け崩れ、その胸部には賢者ヴィクトルの苦悶の表情が埋め込まれ、ドクドクと不気味に脈打っていた。
それは、妄執と悪意が融合した、悲しき成れの果て。
「……醜いな」
私を背に乗せて飛ぶアレクセイが、冷たく言い放った。 その手には、大気中の水分を凝縮して作り上げた巨大な氷の大剣が握られている。
「他者を踏みにじり、利用し、その果てに得た力がこれか。……アリス、貴様にはもう、人としての尊厳すらないのか」
『ソンゲン……? 愛コソガ……スベテ……!』
怪物が腕を振るうと、無数の触手が槍のように伸びてきた。 その一本一本が、触れたものを腐食させる「絶望の泥」で覆われている。
「来るぞ! 捕まるな!」
アレクセイが氷の翼を羽ばたかせ、急加速する。 G(重力加速度)が全身にのしかかる。 私は彼にしがみつきながら、背中の荷物袋からポーション瓶を取り出した。
「シオン! 結界を!」
「あい!」
アレクセイの背中に負ぶさったシオンが、小さな手をかざす。 黄金色の六角形のバリアが展開され、迫り来る触手を弾き飛ばす。 ジュワッという音と共に、バリアの表面が泥で溶かされるが、シオンは即座に魔力を注入して修復していく。
『ママ、気をつけて! あの泥、物理的な汚れだけじゃない。精神汚染の呪いも混ざってる! 触れたら心が壊れるよ!』
シオンの警告が脳内に響く。 厄介極まりない。 でも、逃げ回っているだけでは勝てない。 王都には今も、この怪物の体から滴り落ちる泥が雨のように降り注いでいるのだ。 一刻も早く、核(コア)を叩き潰さなければならない。
「アレクセイ様! 接近してください! 私が浄化薬をぶつけます!」
「無茶だ! 奴の懐に入れば、全方位から攻撃を受けるぞ!」
「信じてください! 貴方が避けて、シオンが守って、私が撃つ! 私たち三人ならできます!」
私の叫びに、アレクセイは一瞬だけ躊躇したが、すぐにニヤリと笑った。
「……そうだな。俺たちは無敵の家族だったな。よし、行くぞッ!」
アレクセイが急降下する。 触手の森を、針の穴を通すような機動ですり抜けていく。 右へ、左へ、旋回、急上昇。 まるでダンスを踊るように華麗で、そして恐ろしいほど速い。
『ウオオオオオ! ニガサナイ……! ワタクシト……ヒトツニ……!』
アリスの胸にあるヴィクトルの顔が口を開け、漆黒のビームを放ってきた。
「させない!」
シオンが叫ぶ。 『聖盾(イージス)・反射(リフレクト)』
光の盾が出現し、ビームを弾き返す。 弾かれたビームが怪物の翼を焼き切る。
『ギャアアアア!』
怪物が体勢を崩した。 今だ。
「レティシア、やれッ!」
アレクセイが怪物の目の前まで肉薄した。 私は身を乗り出し、特製の「超高濃度・聖水爆弾」を、アリスの顔面めがけて全力投球した。
「顔洗って出直してきなさいッ!!」
ガシャァァン!!
瓶が砕け、聖なる液体が炸裂する。 白煙と共に、アリスの絶叫が響き渡った。
『イヤァァァァ! 熱イ! 痛イ! ワタクシノ顔ガァァァ!』
泥が浄化され、剥がれ落ちていく。 その下から現れたのは、かつての美しいアリスの素顔――ではなく、苦痛に歪み、老人のようにしわがれた素肌だった。 過剰な魔力摂取と改造の代償だ。彼女の肉体はもう限界を迎えている。
「……ヴィクトル。貴様、ここまでアリスを利用したのか」
アレクセイが怒りに震える声で言った。 アリスは加害者だ。許されない罪を犯した。 だが、今の彼女は、ヴィクトルという寄生虫に食い荒らされた抜け殻に過ぎない。
怪物の胸部で、ヴィクトルの顔が醜悪に笑った。
『ククク……良い器でしょう? 愛と憎悪、これほど良質な燃料はない。……さあ、もっと絶望を見せてくれ、アレクセイ! お前が愛するこの王都が、汚泥に沈む様をな!』
ヴィクトルの顔が膨張し、そこからさらに大量の泥が噴出した。 それは津波となって、私たちを飲み込もうとする。
「チッ……!」
アレクセイが氷壁を展開するが、泥の量が多すぎる。 視界が黒く染まる。
その時。 私の背中で、小さな温もりが輝いた。
『……うるさいなぁ、おじさん』
シオンの声だ。 透き通るような、凛とした声。
『パパとママのデートの邪魔をするなよ』
カッッッ!!!!
シオンを中心にして、黄金の光が爆発した。 それは物理的な閃光ではない。 彼の魂から溢れ出る、純粋な「希望」のエネルギーだ。
泥の津波が、光に触れた瞬間に蒸発していく。 闇が晴れ、雲が割れ、その隙間から朝日が差し込んでくる。
「……シオン?」
私は振り返った。 シオンは全身を発光させながら、小さな手でアレクセイの肩を掴んでいた。
『パパ。僕の魔力を全部あげる。……ママの薬を媒体にして、パパの魔法に上乗せして。一撃で決めて』
「魔力を全部……? そんなことをしたら、お前が……!」
『大丈夫。僕はもう一人じゃないから。……パパとママがいるから、空っぽになっても怖くない』
シオンはニカっと笑った。 その笑顔は、かつて孤独だった英雄のものではなく、愛を知った子供の笑顔だった。
アレクセイは歯を食いしばり、そして頷いた。
「……わかった。預かるぞ、息子の想いを!」
アレクセイの氷の大剣が、黄金色に輝き始めた。 シオンの聖なる魔力と、アレクセイの氷結の魔力が融合し、見たこともない虹色の輝きを放つ。
「レティシア! 仕上げだ!」
「はい!」
私は最後のポーションを取り出した。 それは、私の血と、シオンの涙(昨夜採取したもの)、そしてアレクセイの魔力を混ぜ合わせた「家族の絆ポーション」だ。 これを剣に振りかける。
ジュワァァァァ!
剣がさらに巨大化し、全長百メートルを超える光の刃となった。
「アリス。そしてヴィクトル。……これが、俺たちの答えだ!」
アレクセイが叫ぶ。 怪物は恐怖に顔を引きつらせ、後退しようとした。
『ヒッ……! ヤメロ、来ルナ! 消エタクナイ!』
「消えろ! 二度と俺たちの前に現れるな!」
アレクセイが大剣を振り下ろした。
『聖氷・家族の鉄槌(ファミリア・ジャッジメント)』!!!
ズドォォォォォォォォン!!!!!
光の刃が、怪物を真っ二つに切り裂いた。 断末魔の叫びすら、光の中に消えていく。 アリスの妄執も、ヴィクトルの野望も、泥の体も、すべてが浄化され、無数の光の粒子となって空に溶けていった。
後に残ったのは、突き抜けるような青空と、眩しい朝の光だけだった。
◆
戦いが終わり、私たちはゆっくりと地上へ降り立った。 場所は、王宮の庭園。 かつてアリスが主催したデビュタントが行われた場所であり、すべての因縁が始まった場所でもある。
地面に足がついた瞬間、アレクセイの氷の翼が砕け散り、彼は膝をついた。 魔力を使い果たしたのだ。
「アレクセイ様!」
私は彼を支えた。 背中のシオンは、すでにスヤスヤと眠っている。 今回は無理をしすぎたが、命に別状はない。安らかな寝息だ。
「……終わったな」
アレクセイは荒い息を吐きながら、空を見上げた。 黒い雲は消え去り、清々しい青空が広がっている。 王都のあちこちから、人々の歓声が聞こえてくる。 悪夢は去ったのだ。
「はい。……終わりました」
私はハンカチで彼の顔の煤を拭った。 アレクセイは私の手を取り、その手のひらに頬を寄せた。
「レティシア」
「はい」
「ありがとう。君がいなければ、俺は勝てなかった。……いや、戦うことすらできなかったかもしれない」
彼の蒼い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。 その瞳に映っているのは、ボロボロの服を着て、髪も乱れた私の姿だ。 でも、彼は世界で一番美しいものを見るような目で、私を見ていた。
アレクセイはゆっくりと立ち上がり、私の前に跪いた。 騎士が、主君に忠誠を誓うように。 いや、一人の男が、最愛の女性に愛を乞うように。
「……五年前。俺は君と、政略結婚という形だけの契約を結んだ」
彼は静かに語り始めた。
「あの時の俺は、愛を知らなかった。君を守る義務も、夫としての責任も、何一つ果たせなかった。……君を傷つけ、絶望させ、死の淵へと追いやった」
「アレクセイ様……それはもう……」
「いいや、許されることではない。一生かけて償うつもりだ。……だが、償いだけでは足りない」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。 戦場に持ってくるようなものではない。 でも、彼は肌身離さず持っていたのだ。
箱が開かれる。 中に入っていたのは、氷のように透き通るダイヤモンドの指輪だった。 その輝きは、さっきの魔法の光よりも優しく、温かい。
「レティシア・フロスト。……いや、サトウ・レナ」
私が息を飲んだ。 彼は、私の前世の名前を知っているはずがない。 ……あ。 シオンだ。 あの夢の中で、シオンの記憶を通じて、彼も私の「魂の名前」を知ったのかもしれない。
「君が誰であれ、どこの世界の人間であれ、関係ない。俺が愛しているのは、今ここにいる君だ」
アレクセイは、震える手で指輪を私の左手の薬指にはめた。
「もう一度、俺と結婚してくれ。……今度は、国のためでも、家のためでもなく。ただ、俺の妻として。シオンの母として。……俺たちの家族として」
「…………っ」
涙が溢れて、視界が滲んだ。 五年前、冷たい部屋で一人泣いていた私。 処刑前夜、絶望の中で逃げ出した私。 村でシオンと二人、ひっそりと暮らしていた私。 そのすべての私が、今、報われた気がした。
「……はい」
私は泣き笑いのような顔で頷いた。
「喜んで。……今度は、絶対に幸せにしてくださいね。返品不可ですよ?」
「ああ。絶対に離さない。……死が二人を分かつまで、いや、死んでも魂まで追いかけて愛し抜く」
「ふふ、重いです。……でも、そんな貴方が大好きです」
アレクセイが立ち上がり、私を抱きしめた。 そして、私たちは朝日の中で、長く、深い口づけを交わした。
背中のシオンが、寝言で「んふふ」と笑った気がした。 きっと、夢の中でも私たちの幸せを見守ってくれているのだろう。
◆
王宮のバルコニーから、国王陛下や貴族たちが、庭園の私たちを見下ろしていた。 彼らは拍手を送っていた。 英雄への称賛ではない。 一組の夫婦の、新たな門出への祝福だった。
王都の人々も、空を見上げていた。 崩壊しかけていた空は、いつの間にか美しい青空に戻り、虹がかかっていた。 それはまるで、これからの私たちの未来を暗示しているようだった。
「……帰ろうか、レティシア。シオンも重たくなってきた」
「ええ。お腹も空きましたね。今日は何を作りましょうか」
「パンケーキがいいな。シオンが好きな」
「いいですね。……貴方も手伝ってくださいね?」
「もちろん。料理スキルも上げるつもりだ」
私たちは手を取り合い、瓦礫の散らばる庭園を歩き出した。 ボロボロの服。泥だらけの顔。 でも、心はかつてないほど満たされていた。
悪役令嬢と、氷の公爵。 そして、最強の赤ちゃん。 私たちの「普通」で、騒がしくて、愛おしい日常が、ここからまた始まるのだ。
物語は、ハッピーエンドのその先へ。 ◆
数日後。 王都の復興が進む中、フロスト公爵邸にて。
「あーうー!(新聞! 新聞持ってきたよ!)」
シオンがハイハイで新聞を運んできた。 一面トップには、私たち三人が空を飛んでいる(誰かが魔法写真で撮ったらしい)スクープ写真が掲載されている。 見出しは『救国の聖家族! 空飛ぶ公爵夫妻と奇跡の御子!』。
「……聖家族、か」
アレクセイが苦笑いしながらコーヒーを飲む。
「まあ、悪役一家と呼ばれるよりはマシですね」
私がトーストをかじると、シオンがテーブルの下から私の足をペチペチと叩いた。
『ママ、記事の下の方見て』
『ん?』
そこには小さな記事があった。 『隣国ドラグニール帝国にてクーデター発生。皇帝派が失脚し、平和主義の新政府が樹立。謎の「影の組織」も壊滅状態とのこと』
ヴィクトルが消えたことで、帝国の闇も崩れ去ったらしい。 これで当分、外からの脅威はないだろう。
『やったね。これで安心して昼寝ができる』
シオンは満足げにあくびをした。 平和だ。 本当に、平和になったのだ。
「さて、シオン。今日は天気がいいから、ピクニックに行きましょうか」
「ピクニック! いく!」
「俺も行こう。サンドイッチを作る」
アレクセイが張り切ってエプロンをつける。 その背中を見ながら、私は心の中で呟いた。
(ありがとう、神様。……転生して、よかった)
私の物語は、これにてハッピーエンド。 ……と思いきや、シオンのお腹には、すでに「次の騒動」の種(弟か妹か?)が宿っているかもしれないという予感がしなくもないが、それはまた別のお話。
『ア……アレクセイサマ……ココデ……エイエンニ……』
目の前に浮かぶ異形の怪物――かつてアリス・ヴァン・ローゼンだったモノが、鼓膜を劈くような不協和音で咆哮した。 その姿は、悪夢から抜け出してきたようだった。 白く美しい天使の翼は腐り落ち、代わりに黒い粘液が滴るコウモリのような皮膜が広がっている。 美しい顔は半分が溶け崩れ、その胸部には賢者ヴィクトルの苦悶の表情が埋め込まれ、ドクドクと不気味に脈打っていた。
それは、妄執と悪意が融合した、悲しき成れの果て。
「……醜いな」
私を背に乗せて飛ぶアレクセイが、冷たく言い放った。 その手には、大気中の水分を凝縮して作り上げた巨大な氷の大剣が握られている。
「他者を踏みにじり、利用し、その果てに得た力がこれか。……アリス、貴様にはもう、人としての尊厳すらないのか」
『ソンゲン……? 愛コソガ……スベテ……!』
怪物が腕を振るうと、無数の触手が槍のように伸びてきた。 その一本一本が、触れたものを腐食させる「絶望の泥」で覆われている。
「来るぞ! 捕まるな!」
アレクセイが氷の翼を羽ばたかせ、急加速する。 G(重力加速度)が全身にのしかかる。 私は彼にしがみつきながら、背中の荷物袋からポーション瓶を取り出した。
「シオン! 結界を!」
「あい!」
アレクセイの背中に負ぶさったシオンが、小さな手をかざす。 黄金色の六角形のバリアが展開され、迫り来る触手を弾き飛ばす。 ジュワッという音と共に、バリアの表面が泥で溶かされるが、シオンは即座に魔力を注入して修復していく。
『ママ、気をつけて! あの泥、物理的な汚れだけじゃない。精神汚染の呪いも混ざってる! 触れたら心が壊れるよ!』
シオンの警告が脳内に響く。 厄介極まりない。 でも、逃げ回っているだけでは勝てない。 王都には今も、この怪物の体から滴り落ちる泥が雨のように降り注いでいるのだ。 一刻も早く、核(コア)を叩き潰さなければならない。
「アレクセイ様! 接近してください! 私が浄化薬をぶつけます!」
「無茶だ! 奴の懐に入れば、全方位から攻撃を受けるぞ!」
「信じてください! 貴方が避けて、シオンが守って、私が撃つ! 私たち三人ならできます!」
私の叫びに、アレクセイは一瞬だけ躊躇したが、すぐにニヤリと笑った。
「……そうだな。俺たちは無敵の家族だったな。よし、行くぞッ!」
アレクセイが急降下する。 触手の森を、針の穴を通すような機動ですり抜けていく。 右へ、左へ、旋回、急上昇。 まるでダンスを踊るように華麗で、そして恐ろしいほど速い。
『ウオオオオオ! ニガサナイ……! ワタクシト……ヒトツニ……!』
アリスの胸にあるヴィクトルの顔が口を開け、漆黒のビームを放ってきた。
「させない!」
シオンが叫ぶ。 『聖盾(イージス)・反射(リフレクト)』
光の盾が出現し、ビームを弾き返す。 弾かれたビームが怪物の翼を焼き切る。
『ギャアアアア!』
怪物が体勢を崩した。 今だ。
「レティシア、やれッ!」
アレクセイが怪物の目の前まで肉薄した。 私は身を乗り出し、特製の「超高濃度・聖水爆弾」を、アリスの顔面めがけて全力投球した。
「顔洗って出直してきなさいッ!!」
ガシャァァン!!
瓶が砕け、聖なる液体が炸裂する。 白煙と共に、アリスの絶叫が響き渡った。
『イヤァァァァ! 熱イ! 痛イ! ワタクシノ顔ガァァァ!』
泥が浄化され、剥がれ落ちていく。 その下から現れたのは、かつての美しいアリスの素顔――ではなく、苦痛に歪み、老人のようにしわがれた素肌だった。 過剰な魔力摂取と改造の代償だ。彼女の肉体はもう限界を迎えている。
「……ヴィクトル。貴様、ここまでアリスを利用したのか」
アレクセイが怒りに震える声で言った。 アリスは加害者だ。許されない罪を犯した。 だが、今の彼女は、ヴィクトルという寄生虫に食い荒らされた抜け殻に過ぎない。
怪物の胸部で、ヴィクトルの顔が醜悪に笑った。
『ククク……良い器でしょう? 愛と憎悪、これほど良質な燃料はない。……さあ、もっと絶望を見せてくれ、アレクセイ! お前が愛するこの王都が、汚泥に沈む様をな!』
ヴィクトルの顔が膨張し、そこからさらに大量の泥が噴出した。 それは津波となって、私たちを飲み込もうとする。
「チッ……!」
アレクセイが氷壁を展開するが、泥の量が多すぎる。 視界が黒く染まる。
その時。 私の背中で、小さな温もりが輝いた。
『……うるさいなぁ、おじさん』
シオンの声だ。 透き通るような、凛とした声。
『パパとママのデートの邪魔をするなよ』
カッッッ!!!!
シオンを中心にして、黄金の光が爆発した。 それは物理的な閃光ではない。 彼の魂から溢れ出る、純粋な「希望」のエネルギーだ。
泥の津波が、光に触れた瞬間に蒸発していく。 闇が晴れ、雲が割れ、その隙間から朝日が差し込んでくる。
「……シオン?」
私は振り返った。 シオンは全身を発光させながら、小さな手でアレクセイの肩を掴んでいた。
『パパ。僕の魔力を全部あげる。……ママの薬を媒体にして、パパの魔法に上乗せして。一撃で決めて』
「魔力を全部……? そんなことをしたら、お前が……!」
『大丈夫。僕はもう一人じゃないから。……パパとママがいるから、空っぽになっても怖くない』
シオンはニカっと笑った。 その笑顔は、かつて孤独だった英雄のものではなく、愛を知った子供の笑顔だった。
アレクセイは歯を食いしばり、そして頷いた。
「……わかった。預かるぞ、息子の想いを!」
アレクセイの氷の大剣が、黄金色に輝き始めた。 シオンの聖なる魔力と、アレクセイの氷結の魔力が融合し、見たこともない虹色の輝きを放つ。
「レティシア! 仕上げだ!」
「はい!」
私は最後のポーションを取り出した。 それは、私の血と、シオンの涙(昨夜採取したもの)、そしてアレクセイの魔力を混ぜ合わせた「家族の絆ポーション」だ。 これを剣に振りかける。
ジュワァァァァ!
剣がさらに巨大化し、全長百メートルを超える光の刃となった。
「アリス。そしてヴィクトル。……これが、俺たちの答えだ!」
アレクセイが叫ぶ。 怪物は恐怖に顔を引きつらせ、後退しようとした。
『ヒッ……! ヤメロ、来ルナ! 消エタクナイ!』
「消えろ! 二度と俺たちの前に現れるな!」
アレクセイが大剣を振り下ろした。
『聖氷・家族の鉄槌(ファミリア・ジャッジメント)』!!!
ズドォォォォォォォォン!!!!!
光の刃が、怪物を真っ二つに切り裂いた。 断末魔の叫びすら、光の中に消えていく。 アリスの妄執も、ヴィクトルの野望も、泥の体も、すべてが浄化され、無数の光の粒子となって空に溶けていった。
後に残ったのは、突き抜けるような青空と、眩しい朝の光だけだった。
◆
戦いが終わり、私たちはゆっくりと地上へ降り立った。 場所は、王宮の庭園。 かつてアリスが主催したデビュタントが行われた場所であり、すべての因縁が始まった場所でもある。
地面に足がついた瞬間、アレクセイの氷の翼が砕け散り、彼は膝をついた。 魔力を使い果たしたのだ。
「アレクセイ様!」
私は彼を支えた。 背中のシオンは、すでにスヤスヤと眠っている。 今回は無理をしすぎたが、命に別状はない。安らかな寝息だ。
「……終わったな」
アレクセイは荒い息を吐きながら、空を見上げた。 黒い雲は消え去り、清々しい青空が広がっている。 王都のあちこちから、人々の歓声が聞こえてくる。 悪夢は去ったのだ。
「はい。……終わりました」
私はハンカチで彼の顔の煤を拭った。 アレクセイは私の手を取り、その手のひらに頬を寄せた。
「レティシア」
「はい」
「ありがとう。君がいなければ、俺は勝てなかった。……いや、戦うことすらできなかったかもしれない」
彼の蒼い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。 その瞳に映っているのは、ボロボロの服を着て、髪も乱れた私の姿だ。 でも、彼は世界で一番美しいものを見るような目で、私を見ていた。
アレクセイはゆっくりと立ち上がり、私の前に跪いた。 騎士が、主君に忠誠を誓うように。 いや、一人の男が、最愛の女性に愛を乞うように。
「……五年前。俺は君と、政略結婚という形だけの契約を結んだ」
彼は静かに語り始めた。
「あの時の俺は、愛を知らなかった。君を守る義務も、夫としての責任も、何一つ果たせなかった。……君を傷つけ、絶望させ、死の淵へと追いやった」
「アレクセイ様……それはもう……」
「いいや、許されることではない。一生かけて償うつもりだ。……だが、償いだけでは足りない」
彼は懐から、小さな箱を取り出した。 戦場に持ってくるようなものではない。 でも、彼は肌身離さず持っていたのだ。
箱が開かれる。 中に入っていたのは、氷のように透き通るダイヤモンドの指輪だった。 その輝きは、さっきの魔法の光よりも優しく、温かい。
「レティシア・フロスト。……いや、サトウ・レナ」
私が息を飲んだ。 彼は、私の前世の名前を知っているはずがない。 ……あ。 シオンだ。 あの夢の中で、シオンの記憶を通じて、彼も私の「魂の名前」を知ったのかもしれない。
「君が誰であれ、どこの世界の人間であれ、関係ない。俺が愛しているのは、今ここにいる君だ」
アレクセイは、震える手で指輪を私の左手の薬指にはめた。
「もう一度、俺と結婚してくれ。……今度は、国のためでも、家のためでもなく。ただ、俺の妻として。シオンの母として。……俺たちの家族として」
「…………っ」
涙が溢れて、視界が滲んだ。 五年前、冷たい部屋で一人泣いていた私。 処刑前夜、絶望の中で逃げ出した私。 村でシオンと二人、ひっそりと暮らしていた私。 そのすべての私が、今、報われた気がした。
「……はい」
私は泣き笑いのような顔で頷いた。
「喜んで。……今度は、絶対に幸せにしてくださいね。返品不可ですよ?」
「ああ。絶対に離さない。……死が二人を分かつまで、いや、死んでも魂まで追いかけて愛し抜く」
「ふふ、重いです。……でも、そんな貴方が大好きです」
アレクセイが立ち上がり、私を抱きしめた。 そして、私たちは朝日の中で、長く、深い口づけを交わした。
背中のシオンが、寝言で「んふふ」と笑った気がした。 きっと、夢の中でも私たちの幸せを見守ってくれているのだろう。
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王宮のバルコニーから、国王陛下や貴族たちが、庭園の私たちを見下ろしていた。 彼らは拍手を送っていた。 英雄への称賛ではない。 一組の夫婦の、新たな門出への祝福だった。
王都の人々も、空を見上げていた。 崩壊しかけていた空は、いつの間にか美しい青空に戻り、虹がかかっていた。 それはまるで、これからの私たちの未来を暗示しているようだった。
「……帰ろうか、レティシア。シオンも重たくなってきた」
「ええ。お腹も空きましたね。今日は何を作りましょうか」
「パンケーキがいいな。シオンが好きな」
「いいですね。……貴方も手伝ってくださいね?」
「もちろん。料理スキルも上げるつもりだ」
私たちは手を取り合い、瓦礫の散らばる庭園を歩き出した。 ボロボロの服。泥だらけの顔。 でも、心はかつてないほど満たされていた。
悪役令嬢と、氷の公爵。 そして、最強の赤ちゃん。 私たちの「普通」で、騒がしくて、愛おしい日常が、ここからまた始まるのだ。
物語は、ハッピーエンドのその先へ。 ◆
数日後。 王都の復興が進む中、フロスト公爵邸にて。
「あーうー!(新聞! 新聞持ってきたよ!)」
シオンがハイハイで新聞を運んできた。 一面トップには、私たち三人が空を飛んでいる(誰かが魔法写真で撮ったらしい)スクープ写真が掲載されている。 見出しは『救国の聖家族! 空飛ぶ公爵夫妻と奇跡の御子!』。
「……聖家族、か」
アレクセイが苦笑いしながらコーヒーを飲む。
「まあ、悪役一家と呼ばれるよりはマシですね」
私がトーストをかじると、シオンがテーブルの下から私の足をペチペチと叩いた。
『ママ、記事の下の方見て』
『ん?』
そこには小さな記事があった。 『隣国ドラグニール帝国にてクーデター発生。皇帝派が失脚し、平和主義の新政府が樹立。謎の「影の組織」も壊滅状態とのこと』
ヴィクトルが消えたことで、帝国の闇も崩れ去ったらしい。 これで当分、外からの脅威はないだろう。
『やったね。これで安心して昼寝ができる』
シオンは満足げにあくびをした。 平和だ。 本当に、平和になったのだ。
「さて、シオン。今日は天気がいいから、ピクニックに行きましょうか」
「ピクニック! いく!」
「俺も行こう。サンドイッチを作る」
アレクセイが張り切ってエプロンをつける。 その背中を見ながら、私は心の中で呟いた。
(ありがとう、神様。……転生して、よかった)
私の物語は、これにてハッピーエンド。 ……と思いきや、シオンのお腹には、すでに「次の騒動」の種(弟か妹か?)が宿っているかもしれないという予感がしなくもないが、それはまた別のお話。
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