悪役令嬢、心理学無双で氷の騎士様の心を溶してみせます

希羽

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6. 実験4: 好意の返報性(別名: 餌付け)

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 その夜、近衛騎士団長ケイン・ブラックウッドは、自室で一人、思考の迷路に迷い込んでいた。

 彼の脳内は、本来であれば王国の防衛戦略や部隊の編成といった、秩序正しい情報で満たされているはずだった。しかし今、その大半を占拠しているのは、一人の公爵令嬢の不可解な行動記録である。

 セラフィナ・フォン・ルクセン。

 最初は、皇太子に捨てられた悲劇の令嬢。

 次に、ストーカーまがいの不審者。

 そして、付け焼き刃の知識を披露する、危なっかしいポンコツ。

 極めつけは、物理法則を応用して木から猫を救出する、謎の奇人。

 どの人物像も、他の人物像と矛盾している。まるで、いくつもの仮面を使い分けるスパイのようだ。だが、彼女の行動には、スパイが持つべき隠密さや計算高さが見られない。むしろ、その全てがどこかズレていて、滑稽ですらあった。

(一体、何が目的なんだ…?)

 ケインは眉間に皺を寄せた。彼女は、彼がこれまで出会ったどんな人間とも違う、全く新しいカテゴリーの謎だった。そして、解けない謎は、彼の知的好奇心を静かに、しかし確実に刺激し始めていた。

 *

 一方、司令室(自室)に戻った私は、次の実験計画を練っていた。

【実験3:ハロー効果の逆利用に関する報告】

  結果: 対象の認知に、意図的な混乱を生じさせることに成功。
  考察: これまでの実験で、対象の私に対する認識は「無関心」→「不審」→「困惑・興味」へと移行したと推測される。受動的なアプローチはここまで。次の段階では、能動的な関係構築フェーズへと移行する必要がある。

 ペンをくるりと回し、私は新たな計画書のタイトルを書きつけた。

『実験4:好意の返報性と、自己開示によるラポール形成』

(人は、他者から受けた好意に対して、何かお返しをしなければならないと感じる。これが『好意の返報性』。そして、自らの個人的な情報を開示する『自己開示』は、相手との信頼関係――すなわちラポールを築く上で最も効果的な手法の一つ)

 これまでの奇行で警戒されている今、必要なのは、計算や下心を感じさせない、純粋で分かりやすい「善意」の提示だ。

 数日後、私は絶好の機会が訪れたことを知った。近衛騎士団が、王都近郊で大規模な対抗演習を行う日だ。一日中、重い鎧を着て剣を振るう過酷な訓練。終わる頃には全員が疲労困憊になるはずだ。

 私は侍女たちに命じ、大きな樽にたっぷりの蜂蜜レモン水と、塩分を補給できるシンプルな焼き菓子を大量に用意させた。派手な装飾のバスケットではない。実用的な、大きな木の樽と麻袋だ。

 演習が終わる頃合いを見計らい、私は訓練場の片隅に、ささやかな休憩所を設営した。

 泥と汗にまみれた騎士たちが、疲れ切った様子でぞろぞろと戻ってくる。そして、予期せぬ光景に足を止めた。

「…なんだ、あれは?」
「公爵令嬢…? また来てるぞ…」

 騎士たちの間に、警戒と困惑が広がる。

 その輪の中から、ケイン様が厳しい表情で歩み出てきた。

「セラフィナ嬢。またあなたか。一体ここで何を…」

 彼の言葉を、私は穏やかな微笑みで遮った。

「皆様、本日の演習、お疲れ様でございました。ささやかではございますが、喉を潤すものを用意いたしましたわ。どうぞ、ご遠慮なく」

 騎士たちは、私の言葉を信じかねたように、ケイン様の顔色を窺う。

 ケイン様は、値踏みするように私と樽を交互に見た。毒でも入っていると疑っているのかもしれない。

 そこで、私は切り札を切った。計算し尽くした「自己開示」のカードを。

「おかしなこと、ですわよね。わたくしのような者が、このような場所にいるのは」

 私は少しだけ寂しそうに目を伏せ、続けた。

「わたくしの父も、昔は騎士でしたの。幼い頃、父が訓練から帰ると、いつも泥だらけで、とても疲れた顔をしていましたわ。でも、母が用意した冷たい果実水を飲むと、本当に幸せそうに笑うのです」

 私は顔を上げ、ケイン様を真っ直ぐに見つめた。

「その顔を見るのが、わたくしは大好きでした。ただの自己満足ですわ。でも、皆様の疲れが、ほんの少しでも癒えるのならと…」

 私の言葉に、ケイン様は目を見開いた。

 騎士たちも、ざわめきを止めて、静かに私を見ていた。

 最初に動いたのは、ケイン様の副官だった。

「…団長。…いただいても、よろしいでしょうか」

 ケイン様はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
 その許可が出ると同時に、騎士たちは我先にと樽に殺到した。

「うめぇ!」「生き返る…!」「焼き菓子も塩が効いてて最高だ!」

 あちこちから、心からの歓声が上がる。

 ケイン様は、部下たちが喜ぶ姿を静かに見つめた後、自らも一杯の蜂蜜レモン水を手に取り、ゆっくりと口に含んだ。

 そして、私の前に立ち、深く頭を下げた。

「…セラフィナ嬢。部下たちに代わり、礼を言う。心遣い、感謝する」

 その声には、いつもの警戒心ではなく、純粋な感謝の響きがあった。

 私は、計画の成功を確信し、満足げに微笑んだのだった。

【実験4:好意の返報性に関する報告】

  結果: 対象および周辺人物は、提供した善意(物理的な報酬)を受容。極めてポジティブな反応を得た。戦略的自己開示により、こちらの行動原理に「共感可能なストーリー」を付与することに成功。
  考察: これまでの奇行によって生まれた「不信感」の壁に、初めて有効な亀裂を入れることができた。対象は、私を「理解不能な存在」から「理解できるかもしれない存在」へと認識を改め始めている可能性が高い。今後は、この信頼の芽を育てるフェーズに移行する。

 ペンを置き、私は窓の外を見た。

 ケイン様の頭の中は、今頃どうなっているだろうか。

 きっと、蜂蜜レモン水の甘さと、私の語った物語が、彼の心を少しだけかき乱しているに違いない。

 氷の壁に、小さな温かい光が灯った。

 この光を大きく育てていくのが、私の次なる任務だ。
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