悪役令嬢、心理学無双で氷の騎士様の心を溶してみせます

希羽

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8. 実験6: 情熱の惹起(別名: 下心)

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 暗号解読の一件以来、ケイン様の中で私に対する「敬意」という名の感情が芽生えたのは明らかだった。図書館で顔を合わせれば、彼の方から軽く会釈をしてくれるようになったし、その灰色の瞳に浮かぶ警戒の色は、ほぼ完全に「興味」の色へと置き換わっていた。

 司令室(自室)に戻った私は、ペンを噛みながら壁に貼った『スタンバーグの愛の三角理論』の図を睨んでいた。

(「親密性」の土台はできた。でも、これだけではただの「好意」、つまり友情のままだわ。関係を「ロマンティックな愛」へと昇華させるには、第二の要素…『情熱』が必要不可欠!)

 情熱。それは、相手への身体的な魅力や、もっと近づきたいと願う衝動的な欲求。知的な共感だけでは足りない。男女として、互いを意識させる「何か」が必要なのだ。

 問題は、どうやってその「何か」を自然に発生させるか。

 これまでの奇行で、ただでさえ予測不能な存在だと思われているのだ。下手な色仕掛けは、築き始めた信頼関係を木っ端微塵にしかねない。

「…これしかないわね」

 私は、最も合理的で、彼が決して断れないであろう口実を思いついた。

 数日後、私は騎士団の詰所を訪れ、ケイン様に正式に面会を申し入れた。

 応接室で向かい合った彼に、私は真剣な表情で切り出した。

「騎士団長様。先日の王城での一件以来、わたくしは自らの無力さを痛感しております。そこで、あなた様にお願いがございまして」
「…何でしょう」
「わたくしに、護身術の初歩を教えてはいただけないでしょうか」

 彼の眉が、ぴくりと動いた。

「…そのようなことは、他の者にでも」
「いいえ、あなた様でなくてはなりません」

 私は畳み掛ける。

「わたくしは、どうもトラブルを引き寄せやすい体質のようですから。中途半端な護衛では意味がありません。王国の最強の騎士であるあなた様に、実践的な技術の基礎を教えていただきたいのです。もちろん、ご迷惑にならない範囲で結構ですわ」

 論理的で、謙虚で、そして彼のプライドをくすぐる、完璧な依頼。

 ケイン様はしばらく黙考していたが、やがて小さく頷いた。

「…承知した。ただし、訓練は厳しい」
「望むところですわ」

 こうして、私は推しから直々に手ほどきを受けるという、最高のご褒美…もとい、実験の機会を手に入れたのだ。

 *

 翌日、私は動きやすい乗馬服姿で、騎士団の私設道場を訪れた。

 道場には、二人きり。私の心臓は、期待と緊張で、これまでにないほど激しく高鳴っていた。

「では、始める。まず、構えからだ」

 ケイン様は、一切の無駄口なく訓練を開始した。

「重心が浮ついている。もっと腰を落とせ。膝の角度が甘い」

 彼は私の背後に回ると、その大きな手で、私の腰や肩の位置を、寸分の狂いもなく修正していく。

(…っ!)

 背中に感じる彼の胸板の硬さ。耳元で響く低い声。触れた箇所から、彼の体温が伝わってくるようだ。私の脳内では、ドーパミンとノルアドレナリンが激しい嵐を起こしていた。

「次に、手首を掴まれた際の離脱法だ」

 そう言うと、彼は私の右手首をぐっと掴んだ。

(手! 手首を掴まれた! ゲームでしか見られなかった光景が今現実に…! この骨張った指の感触、血管の浮き具合、完璧な造形…!)

「…聞いているか、セラフィナ嬢」
「は、はい! 聞いております!」
「この状態から、力で抗おうとしても無意味だ。重要なのは、てこの原理と、相手の関節の可動域を理解することだ」

 彼は私の手をとり、驚くほど滑らかな動きで、いとも簡単に彼自身の拘束を解いてみせた。

「やってみろ」
「は、はい!」

 私は教わった通りにやってみるが、全くうまくいかない。
 すると、ケイン様は深いため息をついた。

「…仕方ない。体で覚えろ」

 そう言うと、彼は再び私の背後に立ち、私の腕を彼自身の腕で包み込むようにして、正しい動きをガイドし始めた。

 もはや、背後から抱きしめられているのと変わらない状態だった。首筋にかかる彼の吐息に、全身の毛が逆立つ。

(だめ、意識が…! 思考がまとまらない…! これが『情熱』の構成要素…! あまりに強力すぎる…!)

 訓練の最後、彼は「受け身の練習だ」と言った。

「私が合図をしたら、体の力を抜け」
「は、はい…」
「いくぞ」

 そう言った瞬間、私の体はふわりと浮き、次の瞬間には、背中から柔らかなマットの上に倒れ込んでいた。完璧にコントロールされた、美しい投げ技だった。

 呆然と天井を見上げる私の目に、上から私を見下ろす、ケイン様の顔が映る。

 逆光の中で、彼の灰色の瞳が、何かを探るように、じっと私を見つめていた。

 それは、いつものように私を分析する目とは、少し違っていた。

 男女の物理的な近さがもたらす、ほんの僅かな熱が、その瞳の奥に揺らめいたように見えたのは、きっと私の願望が生み出した幻覚だろう。

【実験6:情熱の惹起に関する報告】

  結果: 護身術訓練を名目に、対象との計画的かつ継続的な身体的接触に成功。対象の反応は終始プロフェッショナルであったが、こちらの生理的反応(心拍数の上昇等)は顕著に観測された。
  考察: これまで知的・協力的な関係であった対象との間に、初めて「身体性」という要素を導入できた。これにより、対象の私に対する認識は、「興味深い協力者」から、一人の「女性」へと、無意識下で変化し始めている可能性がある。

 道場を後にした私の腕には、うっすらと赤い痣が残っていた。
 彼に掴まれた跡だ。

 痛むはずなのに、なぜかそれが、甘美な勲章のように思えた。
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