9 / 15
9. 実験7. 愛着理論(別名: 嫉妬心の観測)
しおりを挟む
護身術の訓練は、いつしか私とケイン様の間の、奇妙な定例行事となっていた。
週に二度、道場で交わす言葉は少ない。しかし、触れ合う手や、互いの呼吸を読む真剣な時間を通して、私たちの間には言葉以上の何かが、確実に積み重なっていた。
それは、心地よい緊張感と、確かな信頼。
しかし、これだけでは足りない。
司令室(自室)で、私は新たな研究テーマを羊皮紙に書きつけた。
『実験7:愛着(アタッチメント)理論に基づく、対象の内的ワーキングモデルの検証』
(人は、幼少期の養育者との関係で形成された「愛着スタイル」を、成人後の恋愛関係でも繰り返す。ケイン様の自立心と親密さへの躊躇いは、典型的な『回避型』のそれ。ならば、私が『不安型』のように振る舞った時、彼はどう反応するだろうか?)
『不安型』は過剰な親密さを求め、見捨てられることを恐れる。一方、『回避型』は親密さを避け、束縛を嫌う。この二つのタイプが組み合わさると、一方が追いかけ、もう一方が逃げるという、苦しいダンスが始まるのが定説だ。
私の仮説はこうだ。
私が彼に依存するような素振りを見せれば、回避型の彼は、息苦しさを感じて私から距離を置こうとするはず。
それを観測できれば、彼の攻略法はさらに明確になる。
絶好の実験場が、すぐに用意された。王妃様主催の、小規模な音楽会だ。謹慎中の私も、王妃様直々のお招きとあっては断れない。そして、護衛としてケイン様が同行することも、すでに確定していた。
*
月明かりが差し込む、優雅な夜会。
弦楽四重奏の甘いメロディが流れる中、私は意図的に、いつもより少しだけ心細そうな表情を浮かべていた。
案の定、数人の若い貴族たちが、婚約破棄された「傷心の公爵令嬢」に言い寄ってきた。その中の一人、マーカス子爵は特に熱心だった。
「セラフィナ嬢、あなたの憂いを帯びた瞳は、まるで夜露に濡れた菫のようだ。よろしければ、今宵は私があなたの騎士となりましょう」
クサい台詞だ。しかし、好都合。
私は助けを求めるように、部屋の隅で壁の花と化しているケイン様へと視線を送った。
(さあ、ケイン様。あなたの回避型としての反応を見せてちょうだい。私が他の男性と親しくすることで、あなたは面倒な関係から解放されると安堵し、私からさらに距離を置くはず…!)
ケイン様は、マーカス子爵と私を一瞥すると、予測通り、ふいと顔をそむけた。
まるで、私たちの存在など意に介さないというように。
(…よし。仮説通り)
私は内心で頷き、マーカス子爵との当たり障りのない会話を続けた。
しかし、その会話が長引くにつれ、私はケイン様の様子に、微かな違和感を覚え始めた。
彼は壁に寄りかかったまま動かない。だが、その視線は、一見あらぬ方向を向いているようで、その実、ガラス窓や銀食器に反射する私たちの姿を、執拗に追いかけていた。
そして、マーカス子爵が私の手にそっと触れようと、指を伸ばした、その瞬間だった。
すっ、と。
私たちの間に、影が差した。
いつの間にか移動してきたケイン様が、無表情のまま、そこに立っていた。
「マーカス卿。申し訳ないが、セラフィナ嬢をお借りしても?」
「な、騎士団長殿…? しかし、我々は今、音楽の感想を…」
「緊急の用件だ」
有無を言わせぬ、低く、静かな声。
それは命令に等しかった。マーカス子爵は顔を引きつらせ、すごすごと退散していく。
二人きりになったバルコニーで、私は彼に問いかけた。
「緊急の用件とは、何ですの?」
「……」
ケイン様は何も答えない。ただ、じっと私を見つめている。
その灰色の瞳の奥に、これまで見たことのない種類の感情が、暗い炎のように揺らめいていた。
それは、焦燥? 苛立ち? あるいは…。
「…君は、見る目がないな」
やがて、彼はぽつりと、そう呟いた。
「え?」
「マーカス卿は、女癖が悪いことで有名だ。見るからに下心しかない男に、安易に気を許すべきではない」
それは、驚くほどストレートな非難だった。そして、庇護欲を超えた、独占欲にも似た響きがあった。
「まあ。ご心配してくださったのですか?」
私がからかうように言うと、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「…護衛対象の安全を確保するのは、私の任務だ」
【実験7:愛着理論に関する報告】
結果: 対象に意図的な嫉妬誘発刺激を与えたところ、予測された「回避行動」ではなく、明確な「介入・独占行動」が観測された。
考察: 対象の愛着スタイルは、確かに「回避型」の傾向を持つ。しかし、これまでの実験で構築された「親密性」と、護身術訓練で芽生えた「情熱」が、その基本的な行動パターンを上書きし始めている可能性が高い。彼の内なるワーキングモデルは、私という変数によって、すでに書き換えられつつある。
実験は、ある意味で失敗だった。
彼の心は、教科書通りの単純なモデルでは、もはや測定できないほど、複雑に変化してしまっていたのだ。
そして、その事実は、科学者としての私を困惑させると同時に、一人の女としての私を、どうしようもなく喜ばせていた。
週に二度、道場で交わす言葉は少ない。しかし、触れ合う手や、互いの呼吸を読む真剣な時間を通して、私たちの間には言葉以上の何かが、確実に積み重なっていた。
それは、心地よい緊張感と、確かな信頼。
しかし、これだけでは足りない。
司令室(自室)で、私は新たな研究テーマを羊皮紙に書きつけた。
『実験7:愛着(アタッチメント)理論に基づく、対象の内的ワーキングモデルの検証』
(人は、幼少期の養育者との関係で形成された「愛着スタイル」を、成人後の恋愛関係でも繰り返す。ケイン様の自立心と親密さへの躊躇いは、典型的な『回避型』のそれ。ならば、私が『不安型』のように振る舞った時、彼はどう反応するだろうか?)
『不安型』は過剰な親密さを求め、見捨てられることを恐れる。一方、『回避型』は親密さを避け、束縛を嫌う。この二つのタイプが組み合わさると、一方が追いかけ、もう一方が逃げるという、苦しいダンスが始まるのが定説だ。
私の仮説はこうだ。
私が彼に依存するような素振りを見せれば、回避型の彼は、息苦しさを感じて私から距離を置こうとするはず。
それを観測できれば、彼の攻略法はさらに明確になる。
絶好の実験場が、すぐに用意された。王妃様主催の、小規模な音楽会だ。謹慎中の私も、王妃様直々のお招きとあっては断れない。そして、護衛としてケイン様が同行することも、すでに確定していた。
*
月明かりが差し込む、優雅な夜会。
弦楽四重奏の甘いメロディが流れる中、私は意図的に、いつもより少しだけ心細そうな表情を浮かべていた。
案の定、数人の若い貴族たちが、婚約破棄された「傷心の公爵令嬢」に言い寄ってきた。その中の一人、マーカス子爵は特に熱心だった。
「セラフィナ嬢、あなたの憂いを帯びた瞳は、まるで夜露に濡れた菫のようだ。よろしければ、今宵は私があなたの騎士となりましょう」
クサい台詞だ。しかし、好都合。
私は助けを求めるように、部屋の隅で壁の花と化しているケイン様へと視線を送った。
(さあ、ケイン様。あなたの回避型としての反応を見せてちょうだい。私が他の男性と親しくすることで、あなたは面倒な関係から解放されると安堵し、私からさらに距離を置くはず…!)
ケイン様は、マーカス子爵と私を一瞥すると、予測通り、ふいと顔をそむけた。
まるで、私たちの存在など意に介さないというように。
(…よし。仮説通り)
私は内心で頷き、マーカス子爵との当たり障りのない会話を続けた。
しかし、その会話が長引くにつれ、私はケイン様の様子に、微かな違和感を覚え始めた。
彼は壁に寄りかかったまま動かない。だが、その視線は、一見あらぬ方向を向いているようで、その実、ガラス窓や銀食器に反射する私たちの姿を、執拗に追いかけていた。
そして、マーカス子爵が私の手にそっと触れようと、指を伸ばした、その瞬間だった。
すっ、と。
私たちの間に、影が差した。
いつの間にか移動してきたケイン様が、無表情のまま、そこに立っていた。
「マーカス卿。申し訳ないが、セラフィナ嬢をお借りしても?」
「な、騎士団長殿…? しかし、我々は今、音楽の感想を…」
「緊急の用件だ」
有無を言わせぬ、低く、静かな声。
それは命令に等しかった。マーカス子爵は顔を引きつらせ、すごすごと退散していく。
二人きりになったバルコニーで、私は彼に問いかけた。
「緊急の用件とは、何ですの?」
「……」
ケイン様は何も答えない。ただ、じっと私を見つめている。
その灰色の瞳の奥に、これまで見たことのない種類の感情が、暗い炎のように揺らめいていた。
それは、焦燥? 苛立ち? あるいは…。
「…君は、見る目がないな」
やがて、彼はぽつりと、そう呟いた。
「え?」
「マーカス卿は、女癖が悪いことで有名だ。見るからに下心しかない男に、安易に気を許すべきではない」
それは、驚くほどストレートな非難だった。そして、庇護欲を超えた、独占欲にも似た響きがあった。
「まあ。ご心配してくださったのですか?」
私がからかうように言うと、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「…護衛対象の安全を確保するのは、私の任務だ」
【実験7:愛着理論に関する報告】
結果: 対象に意図的な嫉妬誘発刺激を与えたところ、予測された「回避行動」ではなく、明確な「介入・独占行動」が観測された。
考察: 対象の愛着スタイルは、確かに「回避型」の傾向を持つ。しかし、これまでの実験で構築された「親密性」と、護身術訓練で芽生えた「情熱」が、その基本的な行動パターンを上書きし始めている可能性が高い。彼の内なるワーキングモデルは、私という変数によって、すでに書き換えられつつある。
実験は、ある意味で失敗だった。
彼の心は、教科書通りの単純なモデルでは、もはや測定できないほど、複雑に変化してしまっていたのだ。
そして、その事実は、科学者としての私を困惑させると同時に、一人の女としての私を、どうしようもなく喜ばせていた。
21
あなたにおすすめの小説
婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします
たくわん
恋愛
社交界の華と謳われた伯爵令嬢セレスティアは、王太子から「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄を告げられる。傷心のまま逃げるように向かったのは、亡き祖母が遺した田舎の小さな屋敷だった。
荒れ果てた屋敷、慣れない一人暮らし、そして庭に住みついた五匹の野良猫たち。途方に暮れるセレスティアの隣には、無愛想で人嫌いな青年医師・ノアが暮らしていた。
「この猫に構うな。人間嫌いだから」
冷たく突き放すノアだが、捨て猫を保護し、傷ついた動物を治療する彼の本当の姿を知るうちに、セレスティアの心は少しずつ惹かれていく。
猫の世話を通じて近づく二人。やがて明かされるノアの過去と、王都から届く縁談の催促。「完璧な令嬢」を脱ぎ捨てた先に待つ、本当の自分と本当の恋——。
お金がありすぎて困っておりますの(悪役令嬢ver.) ~悪役令嬢は噂も相場も支配しますわ~
ふわふわ
恋愛
「お金がありすぎて、困っておりますの」
ヴァレンティス侯爵家当主・シグネアは、若くして膨大な資産と権限を手にした“悪役令嬢”。 しかし彼女は、金にも噂にも振り回されない。
──ならば、支配すればよろしいのですわ。
社交界を飛び交う根拠のない噂。 無能な貴族の見栄と保身。 相場を理解しない者が引き起こす経済混乱。 そして「善意」や「情」に見せかけた、都合のいい救済要求。
シグネアは怒鳴らない。 泣き落としにも応じない。 復讐も、慈善も、選ばない。
彼女がするのはただ一つ。 事実と数字と構造で、価値を測ること。
噂を操り、相場を読まず、裁かず、助けず、 それでもすべてを終わらせる“悪役令嬢”の統治劇。
「助けなかったのではありませんわ」 「助ける必要がなかっただけです」
一撃で終わる教育的指導。 噂も相場も、そして人の価値さえも―― 悪役令嬢は、今日も静かに支配する。
冷酷侯爵と政略結婚したら、実家がざまぁされました
鍛高譚
恋愛
「この結婚は、家のため。ただの政略結婚よ」
そう言い聞かせ、愛のない結婚を受け入れた公爵令嬢リゼット。
しかし、挙式後すぐに父が「婚約破棄しろ」と命じてきた!?
だが、夫であるアレクシス・フォン・シュヴァルツ侯爵は冷たく言い放つ。
「彼女を渡すつもりはない」
冷酷無慈悲と噂される侯爵が、なぜかリゼットを溺愛し始める!?
毎日甘やかされ、守られ、気づけば逃げ場なし!
さらに、父の不正が明るみに出て、公爵家は失墜――
リゼットを道具として利用しようとした者たちに、ざまぁの鉄槌が下される!
政略結婚から始まる、甘々溺愛ラブストーリー!
「愛なんてないはずなのに……どうしてこんなに大切にされるの?」
転生したら、乙女ゲームの悪役令嬢だったので現実逃避を始めます
山見月あいまゆ
恋愛
私が前世を思い出したのは前世のことに興味を持った時だった
「えっ!前世って前の人生のことなの。私の前の人生はなんだろう?早く思い出したい」
そう思った時すべてを思い出した。
ここは乙女ゲームの世界
そして私は悪役令嬢セリーナ・グランチェスタ
私の人生の結末はハーッピーエンドなんて喜ばしいものじゃない
バットエンド処刑されて終わりなのだ
こんなことを思い出すなら前世を思い出したくなかった
さっき言ったこととは真逆のことを思うのだった…
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
婚約破棄?結構ですわ。公爵令嬢は今日も優雅に生きております
鍛高譚
恋愛
婚約破棄された直後、階段から転げ落ちて前世の記憶が蘇った公爵令嬢レイラ・フォン・アーデルハイド。
彼女の前世は、ブラック企業で心身をすり減らして働いていたOLだった。――けれど、今は違う!
「復讐? 見返す? そんな面倒くさいこと、やってられませんわ」
「婚約破棄? そんなの大したことじゃありません。むしろ、自由になって最高ですわ!」
貴族の婚姻は家同士の結びつき――つまりビジネス。恋愛感情など二の次なのだから、破談になったところで何のダメージもなし。
それよりも、レイラにはやりたいことがたくさんある。ぶどう園の品種改良、ワインの販路拡大、新商品の開発、そして優雅なティータイム!
そう、彼女はただ「貴族令嬢としての特権をフル活用して、人生を楽しむ」ことを決めたのだ。
ところが、彼女の自由気ままな行動が、なぜか周囲をざわつかせていく。
婚約破棄した王太子はなぜか複雑な顔をし、貴族たちは彼女の事業に注目し始める。
そして、彼女が手がけた最高級ワインはプレミア化し、ついには王室から直々に取引の申し出が……!?
「はぁ……復讐しないのに、勝手に“ざまぁ”になってしまいましたわ」
復讐も愛憎劇も不要!
ただひたすらに自分の幸せを追求するだけの公爵令嬢が、気づけば最強の貴族になっていた!?
優雅で自由気ままな貴族ライフ、ここに開幕!
無能な悪役令嬢は静かに暮らしたいだけなのに、超有能な側近たちの勘違いで救国の聖女になってしまいました
黒崎隼人
ファンタジー
乙女ゲームの悪役令嬢イザベラに転生した私の夢は、破滅フラグを回避して「悠々自適なニート生活」を送ること!そのために王太子との婚約を破棄しようとしただけなのに…「疲れたわ」と呟けば政敵が消え、「甘いものが食べたい」と言えば新商品が国を潤し、「虫が嫌」と漏らせば魔物の巣が消滅!? 私は何もしていないのに、超有能な側近たちの暴走(という名の忠誠心)が止まらない!やめて!私は聖女でも策略家でもない、ただの無能な怠け者なのよ!本人の意思とは裏腹に、勘違いで国を救ってしまう悪役令嬢の、全力で何もしない救国ファンタジー、ここに開幕!
王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない
エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい
最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。
でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる