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第四十五話:不和の種
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帝都の後宮は、見えない毒に蝕まれ始めていた。
私が北へ旅立ってから数日、アンナとサラは、日に日に重くなる空気を感じていた。かつては活気と仲間意識に満ちていた『後宮生活改善組合』の工房でも、侍女たちの間にぎこちない沈黙が流れる時間が増えていた。
「ねえ、聞いた? 北の畑の病、ソラリスの使節団が来てから始まったんですって……」
「リディア様は、あのジュリアン王子とばかり親しくなさっているものね……」
イザベラが蒔いた毒の種は、人々の不安を養分として、着実に芽を出し始めていたのだ。アンナとサラは、必死にその噂を打ち消そうとした。
「リディア様が、帝国を裏切るようなことをなさるはずがありません!」
「そうです! 今も、私たちの未来のために、北の地で戦っておられるのです!」
しかし、一度人々の心に根付いた疑念の根は、そう簡単には抜けなかった。
イザベラは、その状況を離宮の窓から満足げに眺めていた。そして、次なる一手として、より巧妙な罠を仕掛ける。
彼女は、昔の配下の者を通じて、厨房の若い料理人にささやかな賄賂を渡した。そして、こう指示したのだ。
「次にソラリスの使節団へ届ける食料品の中に、本来なら後宮の侍女たちに配給されるはずだった、上質なバターを少しだけ、間違えて混ぜてしまいなさい」と。
数日後、後宮の食堂で、事件は起きた。
「どうして今日のパンにはバターが付いていないの?」
「聞いた? 私たちの分のバター、手違いでソラリスの使節団の方へ運ばれてしまったんですって」
「まあ……。リディア様がご不在の間に、なんてこと……」
それは、些細な、しかし決定的な「手違い」だった。侍女たちの間に、「リディア様は、やはりソラリスを優遇しているのでは……」という、声にならない疑念が、黒い染みのように広がっていく。アンナとサラは、それが仕組まれた罠であると直感したが、証拠がない以上、何も言い返すことができなかった。
その頃、北の村に到着した私は、フィンと合流した後、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
黄金色に輝いていたはずの小麦畑は、広範囲にわたって黒く変色し、まるで大地が焼け爛れたかのように、不吉な静寂に包まれていた。
「ひどい……」
私は膝をつき、黒ずんだ土を手に取った。鼻をつく、微かな薬品の匂い。そして、枯れた穂をよく見ると、そこには肉眼ではほとんど見えないほど小さな、この地方には存在しないはずの害虫の卵が付着していた。
「フィン様、これは……」
「ああ。病などではない。何者かが、強力な毒と外来の害虫を、意図的にこの畑に持ち込んだのだ」
フィンの氷のように冷たい声が、事実を裏付ける。これは、ソラリスによる、宣戦布告なき生物兵器攻撃だった。
私たちはその日から、寝る間も惜しんで対策の研究に没頭した。フィンは村の古老たちと協力して、この土地に自生する薬草の中から、害虫が嫌う成分を持つ植物を探し出す。私は、賢者の書庫から持ち出した古文書を頼りに、毒を中和するための土壌改良法を必死に模索した。
帝都にいるアレクシスに、この惨状と私たちの仮説を伝えるための、緊急の書簡を送ったのは、そんな過酷な日々が始まって数日が経った頃だった。
その手紙が帝都に届いた日、アレクシスはジュリアン王子を招いた、表向きは友好的な茶会に臨んでいた。
ジュリアンは、優雅に紅茶を飲みながら、心から心配しているかのような表情で言った。
「北の畑のこと、お察しいたします。我が国には、この種の病害に詳しい専門家がおりますが……陛下さえよろしければ、お力になりましょうか?」
その言葉の裏に隠された、勝利を確信した者の傲慢さを、アレクシスは感じ取っていた。しかし、彼の手元には、まだ決定的な証拠がない。彼は、込み上げる怒りを冷静な仮面の下に隠し、ただ静かにその申し出を断るしかなかった。
その夜、アレクシスは私からの書簡を読み、北での私たちの苦闘を知った。会いたい、すぐにでも駆けつけて支えたい。だが、皇帝という立場が、それを許さない。帝都では、ジュリアンという名の、笑顔の蛇を抑え込まなければならないのだ。
もどかしさと、己の無力さへの苛立ち。そして、遠い地で、フィンという有能な男と共に戦っているであろう私への、複雑な想い。
彼は、返信を書くためのペンを取った。しかし、彼の心に渦巻く様々な感情は、言葉になることを拒んだ。
結果として、彼のペンから紡ぎ出されたのは、「状況を、可及的速やかに報告せよ」という、皇帝としての一文だけだった。
それは、私を案じる一人の男の心ではなく、ただ帝国の安寧を求める君主の、冷たい命令のように、インクの染みとなって羊皮紙の上に残った。
私が北へ旅立ってから数日、アンナとサラは、日に日に重くなる空気を感じていた。かつては活気と仲間意識に満ちていた『後宮生活改善組合』の工房でも、侍女たちの間にぎこちない沈黙が流れる時間が増えていた。
「ねえ、聞いた? 北の畑の病、ソラリスの使節団が来てから始まったんですって……」
「リディア様は、あのジュリアン王子とばかり親しくなさっているものね……」
イザベラが蒔いた毒の種は、人々の不安を養分として、着実に芽を出し始めていたのだ。アンナとサラは、必死にその噂を打ち消そうとした。
「リディア様が、帝国を裏切るようなことをなさるはずがありません!」
「そうです! 今も、私たちの未来のために、北の地で戦っておられるのです!」
しかし、一度人々の心に根付いた疑念の根は、そう簡単には抜けなかった。
イザベラは、その状況を離宮の窓から満足げに眺めていた。そして、次なる一手として、より巧妙な罠を仕掛ける。
彼女は、昔の配下の者を通じて、厨房の若い料理人にささやかな賄賂を渡した。そして、こう指示したのだ。
「次にソラリスの使節団へ届ける食料品の中に、本来なら後宮の侍女たちに配給されるはずだった、上質なバターを少しだけ、間違えて混ぜてしまいなさい」と。
数日後、後宮の食堂で、事件は起きた。
「どうして今日のパンにはバターが付いていないの?」
「聞いた? 私たちの分のバター、手違いでソラリスの使節団の方へ運ばれてしまったんですって」
「まあ……。リディア様がご不在の間に、なんてこと……」
それは、些細な、しかし決定的な「手違い」だった。侍女たちの間に、「リディア様は、やはりソラリスを優遇しているのでは……」という、声にならない疑念が、黒い染みのように広がっていく。アンナとサラは、それが仕組まれた罠であると直感したが、証拠がない以上、何も言い返すことができなかった。
その頃、北の村に到着した私は、フィンと合流した後、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
黄金色に輝いていたはずの小麦畑は、広範囲にわたって黒く変色し、まるで大地が焼け爛れたかのように、不吉な静寂に包まれていた。
「ひどい……」
私は膝をつき、黒ずんだ土を手に取った。鼻をつく、微かな薬品の匂い。そして、枯れた穂をよく見ると、そこには肉眼ではほとんど見えないほど小さな、この地方には存在しないはずの害虫の卵が付着していた。
「フィン様、これは……」
「ああ。病などではない。何者かが、強力な毒と外来の害虫を、意図的にこの畑に持ち込んだのだ」
フィンの氷のように冷たい声が、事実を裏付ける。これは、ソラリスによる、宣戦布告なき生物兵器攻撃だった。
私たちはその日から、寝る間も惜しんで対策の研究に没頭した。フィンは村の古老たちと協力して、この土地に自生する薬草の中から、害虫が嫌う成分を持つ植物を探し出す。私は、賢者の書庫から持ち出した古文書を頼りに、毒を中和するための土壌改良法を必死に模索した。
帝都にいるアレクシスに、この惨状と私たちの仮説を伝えるための、緊急の書簡を送ったのは、そんな過酷な日々が始まって数日が経った頃だった。
その手紙が帝都に届いた日、アレクシスはジュリアン王子を招いた、表向きは友好的な茶会に臨んでいた。
ジュリアンは、優雅に紅茶を飲みながら、心から心配しているかのような表情で言った。
「北の畑のこと、お察しいたします。我が国には、この種の病害に詳しい専門家がおりますが……陛下さえよろしければ、お力になりましょうか?」
その言葉の裏に隠された、勝利を確信した者の傲慢さを、アレクシスは感じ取っていた。しかし、彼の手元には、まだ決定的な証拠がない。彼は、込み上げる怒りを冷静な仮面の下に隠し、ただ静かにその申し出を断るしかなかった。
その夜、アレクシスは私からの書簡を読み、北での私たちの苦闘を知った。会いたい、すぐにでも駆けつけて支えたい。だが、皇帝という立場が、それを許さない。帝都では、ジュリアンという名の、笑顔の蛇を抑え込まなければならないのだ。
もどかしさと、己の無力さへの苛立ち。そして、遠い地で、フィンという有能な男と共に戦っているであろう私への、複雑な想い。
彼は、返信を書くためのペンを取った。しかし、彼の心に渦巻く様々な感情は、言葉になることを拒んだ。
結果として、彼のペンから紡ぎ出されたのは、「状況を、可及的速やかに報告せよ」という、皇帝としての一文だけだった。
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