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10 その髪をよすがに
しおりを挟むつがいが、私を呼んでいる。
いつぶりだろう。
前回はたしか、猟師のしかけた罠にはまった彼女が、必死に助けを求めていたんだったか。あの時の彼女は黒い小さな鳥だった。急いで駆けつけて罠を外してやると、そのまま飛んで行ってしまったが。
懐かしさを感じつつ、糸を編み込んで作られた耳飾りを握りしめる。
「イリューザ様、どうかされましたか?」
急に動きを止めた私を見て、従者である男が首を傾げた。訝しげな視線で、手の中にある耳飾りを見ている。
「しばらく留守にする」
「は?」
「7日で戻る」
「……またつがいですか?」
その言葉には返事をせず、私は神殿を飛び出した。
一度訪れたことのある場所なら転移魔法を使えたが、どうやら彼女は私の知らないところにいるらしい。しかも、かなり遠い。
適当な場所まで転移して、あとはひたすら竜の姿で飛び続けた。
結界から離れるほど、体力の消耗は激しくなる。結局彼女が住んでいるだろうと思われる村に着いた頃には、暑さと疲労で体力の限界を迎えていた。
結界などはっていなければ、こんな距離どうってことないが、いまはそうも言っていられない。
それからは彼女の匂いを頼りに歩き続け、途中で意識を失った。最強の竜の一種とも言われているのに、情けない。
たが幸運なことに、倒れた私を拾ってくれたのが彼女だった。
やっぱり、人間だった。
嬉しい。今度こそ話をすることができる。……触れることが、できる。
どうやったら一緒に来てくれるだろうか。いきなりつがいだと言ったら、嫌われるだろうか。なんでもいい、とにかく話がしたい。名前を、呼んでもらいたい。
……まあ結局のところ、彼女の私に対する第一印象は最悪だったんだが。浄化魔法で少しは持ち直したかもしれないが、言ってしまったことや、やってしまったことは消えない。
尋ねてきた男を追い返して、つがいだといきなり言ってしまうなんて。目を覚ましたときに彼女が別の男と話しているのを見たら、身体が勝手に動いていた。これはつがいとしての本能だ。
彼女にはやはりというか、予想通り一緒に行きたくはないと言われてしまった。それもそうだろう。いきなりやってきた男につがいだと言われ、国に付いてきてほしいだなんて、普通に考えて頷けるわけがない。
それでも、どうにかして私を選んでほしかった。
村にいられるのは、7日間しかない。たった7日で好きになってもらう? 無理がありすぎる。
私は竜だから、つがいとは魂の繋がりを感じる。だが、彼女は人間だ。私を前にしたところで、運命的な何かを感じることはないだろう。
焦る心は、最悪な言葉を紡ぐきっかけになってしまう。
『きみが……私とともに来てくれることが、条件だ』
村の井戸を以前のように水で満たす代わりに、自分と一緒に来いだなんて。あのように脅してまで彼女がほしいのか。……そうだ、どんな手を使ってでもほしい。それは紛れもない本心だ。
けれど、同じ時間を共有する中で思い知ってしまった。彼女がどれだけあの村を愛しているか、そしてどれだけ愛されているか。
人間にとって、生まれ育った故郷を捨てることは難しい。ましてや両親の眠る土地だ。
どうやっても勝ち目などない。
こんな会ったばかりの、よく分からない竜族に付いてきてくれるはずがない。
だから、早々に決断した。これ以上彼女に嫌われる前に。
勝手だと思われるかもしれない。――でも、限界だった。
想いがあふれて、無理やり連れ帰りそうになったことは一度や二度ではない。自制心で押し留めてきたが、日が経つにつれて本能に負けそうになっていた。それは結界の維持のために、無駄に力を消費していたからで。
森に行った際に魔法を使ったことで、綻びが明るみに出てしまった。転移魔法による着地点の間違いなど、普段は起こるはずがないのに。思っていたよりも消耗が激しいらしい。
期限は6日としたが、正直保つかは微妙なところだった。
理性が残っているうちに、傷つけてしまう前に……彼女から離れよう。今ならまだ、間に合う。
◆◇◆
月明かりが差し込む室内で、崩れるようにベッドに倒れた。
4日ぶりに戻ってきた神殿内にある自室は、いつもと何も変わらず。そのなかでベッドに敷かれた白いシーツが、みるみるうちに赤く染まっていった。
服が返り血で濡れていたせいだ。森に潜んでいた魔物は全て排除した。これで彼女は、いつでも花を摘みに行けるだろう。
無理をしたからか、身体がとてもだるい。あんな小物、普段はひと風吹かせるだけで消し去れるのに。いまはそうもいかず、おかげで無駄に血を浴びることになった。
私自身の怪我はないが、もう心も身体も限界だ。
会わなければ……よかった。
会ってしまったら、一度知ってしまったら、もう忘れることなどできない。今でも全身が彼女を求めている。
夜闇を閉じ込めた黒い髪に、黒曜石のような瞳。あの可憐な黒い瞳に、自分が映っているのがとても嬉しかった。
日に焼けたせいか、胸の辺りまで伸びた黒髪は少し傷んでいたが、手入れをしてやれば艶のある手触りのいい髪になるだろう。
本当は誰の目にも触れさせず、瞳には私だけが映るようにして、この腕になかに閉じ込めてしまいたい。だが、自由にたくましく生きてきた彼女が、檻の中にいることなど望むはずがない。
人間でなければ、よかったのか?
またいつものように動物や植物であれば、この手の中に閉じ込めるのは簡単なことだ。
しかしきっと人間でなければ、ここまでの感情を抱くこともなかった。いっそ殺してしまいたくなるほど、愛おしい。
たった4日だ。出会ってからのたった4日間で、私の全てが彼女に向かっている。つがいというものは、とても残酷だと思った。手に入らないのに、一生でその一人しか愛せないのだから。
「ツィータ……」
だるい身体を動かして、大切に胸の内側にしまった布を取り出した。血に濡れた手で中にあるものを汚さないように、慎重に手のひらで包んで鼻先に近づける。とたんに香る甘い匂いに、全身が震えた。
髪をよすがにするなんて知られたら、笑われるかもしれない。
彼女には深い眠りに落とすために、忘却の魔法をかけてきた。あれは対象を思い出そうとしない限り解けない魔法だ。
一生忘れたままでいるなら、それでいい。彼女にとって私は、必要のない存在ということだ。
でももし思い出してしまったなら、ほんの少しだけでも、私がいなくなったことを寂しいと思ってほしいなんて……
「都合がよすぎるな……」
勝手に行動しておいて、何を願っているのだか。
「自分に忘却の魔法をかけられたら……楽になれたかもな」
暗い部屋に溶け込むようにぽつりと言葉を呟いたとき、扉を叩く音が聞こえた。そのまま許可もなく、一人の男が室内へと入ってくる。
「……人の気配がすると思ったら、もうお戻りになられていたのですか」
めんどうだなと思いながらベッドの上に身体を起こす。入ってきた男は私を見て、あきれた声を出した。
「随分と酷い格好ですね。おひとりで戻られたということは……その血はまさか――」
「そんなわけはないだろう」
何を想像したのか。言いたいことは分かったが、言葉になどしたくはない。
否定すると今度は意外そうに瞬きをして、従者である男は私を見る。
「まさか、あきらめたのですか? せっかくの初めての人間なのに?」
あきらめた、か。簡単に言ってしまえばそうだ。あきらめざるを得なかった。
返事をしないでいると、今度は小さく溜め息を吐かれる。
「では、エヴェリーナ王女との縁談の話を進めますか?」
「ばかを言うな。つがい以外との婚姻など、なんの意味ももたない。おまえも竜なら分かるだろう」
「それはこちらの常識ですからね。向こうはあなたを繋ぎ止めておくのに必死なんでしょう。断りたいのであれば、無理やりにでもつがいを連れてくるべきでした」
この男の言うことはもっともだ。こちらにとっての最善は、ひとつしかなかった。
「本人の意思など関係なく、とっととかごの中に閉じ込めてしまえばいいのに、なぜそうしないのです」
なぜ? そんなものは決まっている。彼女が自分自身よりも大切だからだ。
「去れ、クーイン。それ以上言うなら、おまえでも容赦はしない」
鋭く睨みつけると、やれやれと肩を竦めて入ってきた扉に手をかける。それからわずかに振り向いて、吐き捨てるように言った。
「あなたは本当に、臆病だ」
パタリと小さな音を立てて扉が閉められた。
「言われなくても、分かっている……」
ひとりになった部屋で小さく呟き、目を閉じる。
今日はもう何も考えたくないと、無理やり眠りを誘った。
――ああ、明日からまた……つまらない日々が始まる。
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