36 / 112
第2章 あなたは暗殺者⁉

わたしは誰⑥

しおりを挟む
 ――まただ。
 フィリと聞けば、ぞわぁっと全身に鳥肌が立つ。

 フィリという男とわたしの間に一体何があったのか? どういう関係なのかも分からない。

 だけど、その人物からは危険な感覚しか湧かない。懐かしいとか愛おしいとか少しも感じないのだ。

 会ってはいけない。その人物には近づかないと改めて認識すると、アンドレを見つめる。

「何も思い出していないわ」

「結婚する約束をしていたんじゃないですか? 結婚式という言葉を聞いてから様子が変でしたよ」

「知らないわ! 覚えていないもの」

「まあ、ジュディがフィリを思い出して仕事を辞めたくなったら、遠慮なく言ってくださいね」

「もし仮にフィリの何かを思い出しても、その人とは絶対に関わらないから! 言ったでしょう、アンドレの所にずっといるんだもん」

 やれやれと呆れたアンドレが、深いため息を吐く。

「何度頼まれても駄目です。初めから、ひと月だけの約束ですよ。女性と暮らしていると思われたら、僕の方にも色々と不都合が生じますから」

「ふ~ん、そっかぁ~。アンドレはやっぱり、さっきの話に上がっていた手紙のご令嬢が好きなのね! なんて呼び合っているの?」

 首を斜めに傾け、微笑みかけた。

 けれど、それを告げたタイミングが悪かったのだろう。
 わたしの言葉に驚いたアンドレが、ゲホゲホとスープでむせている。

「あれ? 本当にお付き合いしているとか?」

「ゲホゲホッ。あ~、もう、ジュディは何を言い出すんですか」

「ふふっ、真っ赤になってるわよ。照れちゃって可愛いわね」

「照れていませんし、彼女との関係は何もありません。手紙でお礼を伝えていただけですよ」

「ふふっ。別に誤魔化さなくてもいいじゃない。もしかしたら想いが届くかもしれないし、一か八か当たってみたらいいわよ」

 アンドレの見た目は美しく整っている。
 それに性格だって悪くない。
 まあ、厄介者のわたしのことは馬鹿にして笑っているが、他の人には礼儀正しいからモテる気もする。

 アンドレは身分差を気にしているのだろうが、お相手がご令嬢といってもすぐに諦める必要はない。まだ可能性はある。

 貴族だってピンからキリまであり、令嬢といっても一括りにできないからだ。

 家によっては持参金の用意ができず、結婚できない女性がいるのは、わたしでさえ知っている。

 自身の後学のためにも彼の恋話をもっと聞きたい。
 そんな浮かれたわたしがにこにこ笑っていると、咳払いをした彼の表情が強張った。

「ウゥンッ。僕の顔が赤いのは、スープでむせたせいです。ジュディの、その無神経に人の感情へずかずかと入り込む言動はやめてくれませんか。あまりに続くなら、すぐに事務所から出ていってもらいますよ」

「あ、いや、そんなつもりではなかったんだけど……。ごめんなさい」

「もう結構です。二度とこの話には触れないでください」
 冷たい口調で言われ、「はい」と言うしかできなかった。

 恋愛話に飢えているわたしが、またしても地雷を踏んでしまったようだ。

◇◇◇

 アンドレと険悪な雰囲気になったまま昼食を終えると、エレーナさんと仕事を代わるため、流し台に立った。

「あらッ。もう食べ終わったのかい? ゆっくりしてくれば良かったのに」

「あはは、早く働きたくて」
「随分とやる気だね」
「へへ、任せてください!」

「それじゃあこれからしばらくは、カウンターに戻ってきた食器を洗ってね」
 そう言ってエレーナは微笑んだ。
 求められている仕事は、十分に理解している。

 わたしに課せられたことは、食器を洗え、ただそれだけだ。

 ――だけど変だな。
 そう言われても作業のイメージが全くできない。

 こうなれば恥じらう気持ちを捨てた。そうでなければ何もできやしない。

「あのう……大変申し訳ないのですが……。作業を細かく説明していただいてもいいですか? 初めに聞いておけば、自己流で間違ったことをしないと思うので」

「まあ、ジュディちゃんは真面目なのね。感心だわぁ~」

 優しく微笑むエレーナから、感心しきりに褒められたけれど。恥ずかしながら、……それは違う。

 真実は「食器を洗った記憶さえない」だった。
 ……どうしてだろう。
 
 ここでクビにされるわけにはいかない。

 家事の記憶がない事実は隠し、真面目な顔をする。

 そうすれば、「洗剤はこれで。スポンジに付けて。皿を洗って。泡を水で流して」と、一から十までの手順を細かく教えてもらった。

◇◇◇

 大概嫌な予感は的中するものだ。

 食器洗いさえ分かっていなかった自分である。
 もしかして、夕飯を作る作業でも悪戦苦闘するのではないかと思ったが、案の定だった。

 早速「きゃぁ~。滑っちゃった」と、食材を流しの中に落とした。
 気を取り直し作業を進めたのだが、「あれ、これは皮を剥いたかな?」と首を傾げる。

 終いには、包丁で親指の付け根をざっくりと切りそうになり、「あ、危なかったぁ~」と叫ぶ。

 開始わずか十分。人参と格闘し一人ごちるわたしを、エレーナは見ていられなくなったようだ。

 わたしが「危ない」と言った時点で、すかさず包丁を取り上げられてしまう。

「ジュディちゃんは危なっかしいから、これを頼むわね」

 泡食うエレーナがわたしにドンッと託したのは、山のような玉ねぎである。

「手で皮を剥くように」と言われ、これなら爪でひっかけながら、するすると要領よくこなせた。

 そんなところをみると、端から不器用ってわけではないらしい。
 だけど、包丁は初めて握った感覚がした。変だなぁ?

 この歳で食材の皮くらい剥けないとは、一体全体どんな暮らしをしていたんだろう。

 今まで、何をして生きてきたのか?
 自分というものがさっぱり分からなくて、困惑しかない。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】毒を飲めと言われたので飲みました。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃シャリゼは、稀代の毒婦、と呼ばれている。 国中から批判された嫌われ者の王妃が、やっと処刑された。 悪は倒れ、国には平和が戻る……はずだった。

存在感のない聖女が姿を消した後 [完]

風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは 永く仕えた国を捨てた。 何故って? それは新たに現れた聖女が ヒロインだったから。 ディアターナは いつの日からか新聖女と比べられ 人々の心が離れていった事を悟った。 もう私の役目は終わったわ… 神託を受けたディアターナは 手紙を残して消えた。 残された国は天災に見舞われ てしまった。 しかし聖女は戻る事はなかった。 ディアターナは西帝国にて 初代聖女のコリーアンナに出会い 運命を切り開いて 自分自身の幸せをみつけるのだった。

婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。 目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。 「あなたは、どなたですか?」 その一言に、彼の瞳は壊れた。 けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。 セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。 優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。 ――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。 一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。 記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。 これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。

「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!

放浪人
恋愛
【「愛さない」と言ったのはあなたです。私はもっとハイスペックな次(夫)と幸せになりますので、どうぞお構いなく!】 侯爵令嬢リディアは、建国記念舞踏会の最中に、婚約者である王太子レオンハルトから婚約破棄を宣言される。 「君を愛することはない!」という王太子の言葉は、国中に響く『公的拒絶誓約』となってしまった。 しかし、リディアは泣かなかった。 「承知しました。私も愛しません。次いきます」 彼女は即座に撤退し、その場で慰謝料請求と名誉回復の手続きを開始する。その潔さと有能さに目をつけたのは、国の行政を牛耳る『氷の宰相』アシュ・ヴァレンシュタインだった。 「私の政治的盾になれ。条件は『恋愛感情の禁止』と『嘘がつけない契約』だ」 利害の一致した二人は、愛のない契約結婚を結ぶ。 はずだったのだが――『嘘がつけない契約』のせいで、冷徹なはずの宰相の本音が暴走! 「君を失うのは非合理だ(=大好きだ)」「君は私の光だ(=愛してる)」 隠せない溺愛と、最強の夫婦による論理的で容赦のない『ざまぁ』。 一方、リディアを捨てた王太子は「愛さない誓約」の呪いに苦しみ、自滅していく。 これは、悪役令嬢と呼ばれた女が、嘘のない真実の愛を手に入れ、国中を巻き込んで幸せになるまでの物語。

ざまぁに失敗したけど辺境伯に溺愛されています

木漏れ日
恋愛
天才魔術師セディが自分の番である『異界渡りの姫』を召喚したとき、16歳の少女奈緒はそれに巻き込まれて、壁外という身分を持たない人々が住む場所に落ちました。 少女は自分を異世界トリップに巻き込んだ『異界渡り姫』に復讐しようとして失敗。なぜかロビン辺境伯は少女も『異界渡りの姫』だと言って溺愛するのですが…… 陰陽の姫シリーズ『図書館の幽霊って私のことですか?』と連動しています。 どちらからお読み頂いても話は通じます。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

「本当に僕の子供なのか検査して調べたい」子供と顔が似てないと責められ離婚と多額の慰謝料を請求された。

佐藤 美奈
恋愛
ソフィア伯爵令嬢は、公爵位を継いだ恋人で幼馴染のジャックと結婚して公爵夫人になった。何一つ不自由のない環境で誰もが羨むような生活をして、二人の子供に恵まれて幸福の絶頂期でもあった。 「長男は僕に似てるけど、次男の顔は全く似てないから病院で検査したい」 ある日、ジャックからそう言われてソフィアは、時間が止まったような気持ちで精神的な打撃を受けた。すぐに返す言葉が出てこなかった。この出来事がきっかけで仲睦まじい夫婦にひびが入り崩れ出していく。

処理中です...