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第三章 天使とディーバの取引明細
45.望んで選んだ舞台の上
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スマートフォンを確認すると、壱伊くんからメッセージが届いていた。
『ごめんなさい。ぼくの早とちりだったみたいです。梁間先生、つづけてくれるみたい』
よかったね、と返信しておく。
近いうちにカナタさんも含めた三人で話し合う機会を設ける予定だそうだ。梁間さんの気苦労は続くのかもしれないが、腹を括った彼ならばもう心配はないだろう。
万事解決。彼らは上手くいっている。
腕時計を確認すると、すでに午後十時を過ぎていた。
まだ午前零時をまたぐまでには十分な猶予があるとして、あまりに帰宅が遅いと家族からあらぬ疑いをかけられてしまう。
九遠堂という骨董具店でのアルバイトに関しては、親公認の事実ではあるが、まさか夜中に戸を叩いて雇い主を訪ねたとは知られたくはない。
非常識な行いにはすっかり慣れてしまったが、今夜はさすがに見切り発車が過ぎていた。
帰ろう。と、挨拶もほどほどに戸口に立つと、背後から椎堂さんが着いてくる。何を企んでいるのかと訝しげめば、辛辣な小言が飛んできた。
「しかしおまえも憐れだな。九遠堂を客として利用するならば、願いの権利を借金返済に充てれば、不当な強制労働から晴れて自由の身になれたろうに」
なるほど、名案だ。考えつきもしなかった。
「……言われてみれば、そうですね」
「浅慮が過ぎるのはそろそろ見慣れたが、少しは知恵を絞るといい」
「べつに損得勘定だけでここにいるつもりはありませんよ。九遠堂で働くのは、僕なりに、思うところあってのことですから」
ふと、閃く。疑問を口にするなら今、このときだろうかと。
――マレビトとは一体、何者なのか。
夢魔たちが恋し焦がれ、怪奇なる男が忌み嫌い、それらすべてのまなざしを傲然と払い退けながら、平然と現世に与する者。
その真意は知れない。その思惑さえも。そして、この男の傍らで過ごす日々が、僕にもたらす影響も。
「小間使いでいてやりますよ。せいぜい便利に使ってください。お望みならば鬼ヶ島まで、お供しますので」
口に馴染んできた忠心を、なるべく殊勝に奏上する。
そこではじめて気づいた。
――ここが僕が望んで選んだ舞台の上だ。
ただし、僕に与えられた椅子はせいぜい犬か猿か雉子といったところで、いざというときに役に立つかはほとほとあやしいものだ。
平凡で退屈な、つまらない人間だと思う。けれども僕なりに、足掻くことはできると知った。
人も怪奇もともに迷う、愚かで脆い存在だとして。なにもなにひとつ変えられやしないほど、無力ではない。
どのみち僕が椎堂さんのもとから離れようものなら、梁間さんが伊奈羽市から姿を消しかねないのだ。責任をとると決めた以上、奇怪な縁結びから始まったこの人との因縁を、簡単に振りほどくわけにはいかない。
敷居をまたいで戸外に赴くと、首筋をさらう涼風が心地いい。
軒下から見上げる夜空は晴れ渡っている。深々と冷え込む路地の一角では、鎧戸を下ろした商店が物静かに軒を連ね、屋号を記した立て札では夜陰にまぎれて暗号のように文字が躍る。九遠堂近隣には昼も夜もなく、どの庵の窓からも総じて商いの気配は見受けられない。
ようやくこの人に尋ねられる。そう思って、背後を振り返る。
「椎堂さん。あなたがここで、九遠堂を営むのに理由はありますか」
九遠堂に身を置くようになってから一ヶ月あまり。思えば、椎堂さんとはじめて出会ったのもこんな夜だった。
夏場にしては妙に涼やかで、夜道を照らす月光が凍えるほどに美しかったのを覚えている。あの晩、僕の胸に落ちてくだけた隕石は、好奇心という熱病をもたらしたまま居残りつづけていた。
悲しいことにいまだ快癒しそうもないのが現状だ。
たぶん、季節はめぐれどもこの熱が消えることはないだろう。
耳元を羽虫が通り過ぎていく。額にじわりと汗がにじむのを感じた。
「この店は先代から譲り受けたものだ。幸い、この場は俺の体質を活かすにはふさわしく、まあここで店主として踏ん反り返るのも存外悪くはない」
「世のため人のためになるから、ですか」
「個々人の欲の行き着く果てにはさして興味がないな。……ただし、この店に縁をもつ者が絶えず現れ続けるということは、少なからず世人が求める店なのだろう」
椎堂さんは戸口に佇み、腕を組んだまま。
「人でなしには人でなしの矜持がある。世の習いに与せずとも、あるがままに生きるのはたやすい。この俺にとっては、な」
薄笑いを浮かべている。
そのかげに悪辣な深謀遠慮があろうとも、善良な誠心誠意があろうとも、これからも隣で見極めてみせよう。
「椎堂さんらしいや。いいんじゃないですか、人でなしでも」
「そろそろ自覚をしておけ、伏見。俺に付き合うおまえも素養があるだろうよ」
あやうい口元がゆるりとほころぶ。
今夜はまったく、月が明るい。暗夜行路をたどるとして、帰り道に迷うことはもうなさそうだ。
それから、翌週にはカナタさんは京都の自宅に帰っていった。
共に過ごすうちに親交を深めたからか、あるいは馬が合ったのか、佳代さんはことさら名残惜しげにしていた。新幹線が乗り入れるホームまで見送りに出かけた日には、しきりにカナタさんの手を握っていた。
「また、遊びに来ますから!」
そう声高に宣言するパンクロッカーの表情は、一点の曇りもなく晴れやかだった。
壱伊くんは来年の中学受験にそなえて、梁間さんとともに勉強に明け暮れているらしい。
心に目標を抱いた少年の成長はめざましく、未来に向かって一途に邁進している。見守る家庭教師の青年も誇らしいことだろう。
僕も友達として、たまに会っては話を聞かせてもらっている。
さて、奇怪な巡り合わせを経て繋がりを得た、パンクロッカーと少年、そして怪奇なる男が、再会を果たす日はいつか訪れるのだろうか。
大丈夫だ。彼のもとには九遠堂謹呈の真理盤がある。
やがて時がきたならば、盤上の針を黄金に輝かせて、少年を導くのだろう。
〈九遠堂怪奇幻想録・完〉
『ごめんなさい。ぼくの早とちりだったみたいです。梁間先生、つづけてくれるみたい』
よかったね、と返信しておく。
近いうちにカナタさんも含めた三人で話し合う機会を設ける予定だそうだ。梁間さんの気苦労は続くのかもしれないが、腹を括った彼ならばもう心配はないだろう。
万事解決。彼らは上手くいっている。
腕時計を確認すると、すでに午後十時を過ぎていた。
まだ午前零時をまたぐまでには十分な猶予があるとして、あまりに帰宅が遅いと家族からあらぬ疑いをかけられてしまう。
九遠堂という骨董具店でのアルバイトに関しては、親公認の事実ではあるが、まさか夜中に戸を叩いて雇い主を訪ねたとは知られたくはない。
非常識な行いにはすっかり慣れてしまったが、今夜はさすがに見切り発車が過ぎていた。
帰ろう。と、挨拶もほどほどに戸口に立つと、背後から椎堂さんが着いてくる。何を企んでいるのかと訝しげめば、辛辣な小言が飛んできた。
「しかしおまえも憐れだな。九遠堂を客として利用するならば、願いの権利を借金返済に充てれば、不当な強制労働から晴れて自由の身になれたろうに」
なるほど、名案だ。考えつきもしなかった。
「……言われてみれば、そうですね」
「浅慮が過ぎるのはそろそろ見慣れたが、少しは知恵を絞るといい」
「べつに損得勘定だけでここにいるつもりはありませんよ。九遠堂で働くのは、僕なりに、思うところあってのことですから」
ふと、閃く。疑問を口にするなら今、このときだろうかと。
――マレビトとは一体、何者なのか。
夢魔たちが恋し焦がれ、怪奇なる男が忌み嫌い、それらすべてのまなざしを傲然と払い退けながら、平然と現世に与する者。
その真意は知れない。その思惑さえも。そして、この男の傍らで過ごす日々が、僕にもたらす影響も。
「小間使いでいてやりますよ。せいぜい便利に使ってください。お望みならば鬼ヶ島まで、お供しますので」
口に馴染んできた忠心を、なるべく殊勝に奏上する。
そこではじめて気づいた。
――ここが僕が望んで選んだ舞台の上だ。
ただし、僕に与えられた椅子はせいぜい犬か猿か雉子といったところで、いざというときに役に立つかはほとほとあやしいものだ。
平凡で退屈な、つまらない人間だと思う。けれども僕なりに、足掻くことはできると知った。
人も怪奇もともに迷う、愚かで脆い存在だとして。なにもなにひとつ変えられやしないほど、無力ではない。
どのみち僕が椎堂さんのもとから離れようものなら、梁間さんが伊奈羽市から姿を消しかねないのだ。責任をとると決めた以上、奇怪な縁結びから始まったこの人との因縁を、簡単に振りほどくわけにはいかない。
敷居をまたいで戸外に赴くと、首筋をさらう涼風が心地いい。
軒下から見上げる夜空は晴れ渡っている。深々と冷え込む路地の一角では、鎧戸を下ろした商店が物静かに軒を連ね、屋号を記した立て札では夜陰にまぎれて暗号のように文字が躍る。九遠堂近隣には昼も夜もなく、どの庵の窓からも総じて商いの気配は見受けられない。
ようやくこの人に尋ねられる。そう思って、背後を振り返る。
「椎堂さん。あなたがここで、九遠堂を営むのに理由はありますか」
九遠堂に身を置くようになってから一ヶ月あまり。思えば、椎堂さんとはじめて出会ったのもこんな夜だった。
夏場にしては妙に涼やかで、夜道を照らす月光が凍えるほどに美しかったのを覚えている。あの晩、僕の胸に落ちてくだけた隕石は、好奇心という熱病をもたらしたまま居残りつづけていた。
悲しいことにいまだ快癒しそうもないのが現状だ。
たぶん、季節はめぐれどもこの熱が消えることはないだろう。
耳元を羽虫が通り過ぎていく。額にじわりと汗がにじむのを感じた。
「この店は先代から譲り受けたものだ。幸い、この場は俺の体質を活かすにはふさわしく、まあここで店主として踏ん反り返るのも存外悪くはない」
「世のため人のためになるから、ですか」
「個々人の欲の行き着く果てにはさして興味がないな。……ただし、この店に縁をもつ者が絶えず現れ続けるということは、少なからず世人が求める店なのだろう」
椎堂さんは戸口に佇み、腕を組んだまま。
「人でなしには人でなしの矜持がある。世の習いに与せずとも、あるがままに生きるのはたやすい。この俺にとっては、な」
薄笑いを浮かべている。
そのかげに悪辣な深謀遠慮があろうとも、善良な誠心誠意があろうとも、これからも隣で見極めてみせよう。
「椎堂さんらしいや。いいんじゃないですか、人でなしでも」
「そろそろ自覚をしておけ、伏見。俺に付き合うおまえも素養があるだろうよ」
あやうい口元がゆるりとほころぶ。
今夜はまったく、月が明るい。暗夜行路をたどるとして、帰り道に迷うことはもうなさそうだ。
それから、翌週にはカナタさんは京都の自宅に帰っていった。
共に過ごすうちに親交を深めたからか、あるいは馬が合ったのか、佳代さんはことさら名残惜しげにしていた。新幹線が乗り入れるホームまで見送りに出かけた日には、しきりにカナタさんの手を握っていた。
「また、遊びに来ますから!」
そう声高に宣言するパンクロッカーの表情は、一点の曇りもなく晴れやかだった。
壱伊くんは来年の中学受験にそなえて、梁間さんとともに勉強に明け暮れているらしい。
心に目標を抱いた少年の成長はめざましく、未来に向かって一途に邁進している。見守る家庭教師の青年も誇らしいことだろう。
僕も友達として、たまに会っては話を聞かせてもらっている。
さて、奇怪な巡り合わせを経て繋がりを得た、パンクロッカーと少年、そして怪奇なる男が、再会を果たす日はいつか訪れるのだろうか。
大丈夫だ。彼のもとには九遠堂謹呈の真理盤がある。
やがて時がきたならば、盤上の針を黄金に輝かせて、少年を導くのだろう。
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