私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜

日室千種・ちぐ

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四年という月日と核心について

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 その笑顔と比べれば、初めて会った日に手の甲に口付けの挨拶をされた時の、蕩けそうな甘い顔は、いかにも嘘くさかったと、ジョゼットは思い出した。

 まだ成人前のもの慣れない娘だったジョゼットは、そんな挨拶を受けたことなどなく、驚いて子供のような悲鳴をあげた。
 ランドリックは思いもよらない反応に、見事に固まってしまって。
 いち早く立ち直ったジョゼットが、逆にランドリックの指先を掴んでブンブンと振ったのだ。

 男女が手を掴んでブンブン振る。そんな挨拶は教本にはない。田舎の男同士の挨拶だったかもしれない。なんでもよかった。
 だってジョゼットはただ驚いただけで、ランドリックに途方に暮れた顔をさせるつもりはなかったから、どうにか挽回したかっただけだ。
 目を丸くして、それから笑って一緒にブンブン振ってくれたランドリックを思い出すとジョゼットはつい微笑んで、そしてわずかに寂しくなる。
 おそらくその時、ランドリックはジョゼットを女性枠から外したのだ。

 数日に一度、執務室に一ヶ月も通えば、ジョゼットは事態を理解するばかりか、問題の本質を朧げながら掴みとってしまった。
 ランドリックは、人の気持ちを察するのが苦手だと、侯爵夫妻は話していた。けれど、普段はとても苦手なようには見えないとも。
 見ていれば確かに。

 突然押しかけて来た礼儀知らずの令嬢でも、使用人であっても、年齢が上でも下でも、女性と見れば微笑んで、丁寧に気遣い、優しく扱う。女性相手でなくとも基本的に明朗で怒らず、一方的で冷酷な判断を下すこともなく、穏当。騎士たちにも慕われていて、人付き合いに不足はないようだ。

 それらがすべて、ランドリックの驚くべき努力の上にあることは、最初はわからなかった。

「疲れた……」

 人と会った後のランドリックは、いつも疲弊していた。特に子爵として、あるいは侯爵家嫡男として社交に励んだ日は、萎れた花のように項垂れていた。
 人との会話が疲れるのかもしれないと、ジョゼットはただ黙って同じ執務室で過ごした。相手を知らなければ、正しい推察は不可能だ。
 そんな思いでただ見守っていた。
 何も言わず、何も責めず、何も求めないジョゼットに、ランドリックは少しずつ口を開く。

「また、なぜ皆が笑うのか分からなかった」
「水に流そうと言うから終わりにしたつもりだったのに、あちらは違ったらしい」
「本当に約束したつもりで行ったら違った」
「どうして皆、俺がどう思うかをしつこく聞きたがるんだろう」

 花弁から朝露がこぼれ落ちるように、ぽろりぽろりと、伝わる苦悩。

 親しくない人との共感が、著しく困難で苦痛。
 そんなランドリックが迷いなく振る舞えるのは、教本に載っていること、経験したこと、教訓的資料から学んだこと、訓練によって身につけたことをもとに、推測して判断できる時だけ。

 けれど執事が年齢的な腰の痛みに顔を歪めたとき。ランドリックは、どうしていいのかわからなかった。表情だけからは、痛みがあるかもしれないと、すぐに連想できなかったという。
 仲間内で今度出掛けようかという話になった時、曖昧なまま話が終わると、いったいどこまで実現させるべき話だったのか、判断などとてもできない。
 恋人関係になった相手と会えなくても、自分が気にしていなければ、相手が寂しがっているかもなどと疑いもしないし、寂しいと訴えられても、そうなのか、と思うばかりだったそう。

 侯爵夫妻の見立ての通り。
 だが、夫妻が見落としていることは。
 ランドリックは、そのことをとても、恥じているということ。ランドリック自身の感情が、薄いわけではないということ。
 ぽつりぽつりとジョゼットに話してくれるのは、うまくいかなかったことばかり。
 私に興味がないのだ女性に責められて当惑したり、隙があると舐められて使用人に迫られたり、騎士たちの恋の鞘当てに巻き込まれて煮湯を飲まされたこともあるらしい。
 その全てに、ランドリックは確かに傷ついていた。

 ランドリックが初めて自分の異質さに気がついたのは、父親である侯爵に、ただ一度だけ感情的に責められた時だったという。
 夫人の体調が悪い時期が半年ほど続き、落ち込んでいた侯爵が、ランドリックの目の前で何度もこぼしていたため息と、独り言。
 ランドリックは、それらをまさに文字通り独り言として片づけていたが。
『お前は、父親の苦悩に寄り添おうと言う気はないのか』
 それは、ランドリックにとっては寝耳に水の言葉だった。
 一度として、父親から聞いてくれと言われたことも、どうしたらいいと思うかと問われたこともない。
 ただ、いつも肩を落とし、悲しみに暮れていた。一人で。
 そう、思っていた。
 けれど、父親の言葉を、母も、祖母も、古参の使用人も擁護した。ランドリックの主張は、幼い子供のような自分勝手な言い訳だと断じられて、さらに衝撃は深くなった。
 まもなく十歳を迎える頃だったそうだ。
 ランドリックは、驚き、怖れ。
 そして、挫けずに何とかしようと、自分自身に立ち向かった。
 教本を暗記し、経営や兵法を学び、人の表情と言葉使い、振る舞いなどをつぶさに観察して記憶し、そこから人の気持ちを察する訓練を、ひとり、繰り返した。
 そこに、終わりはない。
 それでも、少しずつ、少しずつ、違和感なく馴染める場所が増えていく。馴染めると思えば、余裕もでき、態度も自然に近くなる。堂々と振る舞うランドリックを、周囲は大いに歓迎した。

 侯爵家と騎士団は、そうして比較的安寧の場所となった。

 ところが、貴族社会での化かし合いは甘くない。人間関係も複雑だ。
 同じ人間が、同席する人間が変われば、違う反応をする。どれほど論理的に答えを導いても、一瞬の表情を読み取れずに反応を間違えることも多々あった。
 特に、貴族令嬢は、類型化ができるようで難しく、その対応も定型では心がこもっていないと断じられる。ランドリックにとっては極めて難解な対象だった。
 侯爵家の跡取りとしては、致命的だとわかっていたが、ぎりぎりのところで耐え凌いでいたのに。

 従姉妹との距離を間違ったことで、家族まで、ランドリックの異常性に注目するようになってしまった。

 そこまでいけば、諦め切ってしまうか、それとも、人間そのものを嫌いになってもおかしくはない。
 なのにまだ変わらず努力を続けて、己の不足を埋めようと一人で足掻き苦しむランドリックの姿。

 侯爵夫妻が見えていない問題の核心が、ジョゼットには見えた。

「ランドリック様は、すごいです。自分には無理だと投げ出さずに、努力されて。すごく、えらい。でも、ランドリック様だけが変なんじゃないですよ。自分の気持ちを口にしなくてもわかってくれるべき、何を言わずとも察し合うべきと過剰に思う人達だって、独り善がりじゃないですか? みんな違う人間です。生まれ持っての性質も、生きる環境も。いずれ花開く能力も、体得する能力も、その時期も。
 ――あの、私は、人の気持ちが分かる必要なんかないと思います。神様じゃあるまいし、分かるなんて、幻想ですよ。人の気持ちを学んで知るのでも十分すごいことですし、それだって、相手はほんの数人の大切な人だけでもいいと思います。ランドリック様に歩み寄ってくれない人たちは、他人、と書いた箱に放り込んで、少し離れて眺めましょう」

 思い返せばこの時、ジョゼットは幼さも手伝ってずいぶんと雑なことを言った。

「そして、私を相手に、今はよく知らないけど仲良くしたい相手、の練習をしていいですよ」

 そんなことまで言い放ったのだから、傲慢にも見えただろう。
 けれど、それから四年。子供扱いで髪をかき混ぜられては注意をし、女性扱いで妙に手慣れたエスコートを受けたりしては大袈裟すぎると拒絶して、ちょうどよい距離感におさまるべく、ジョゼットは努力した。
 ランドリックも努力してくれた。
 もう十分努力を重ねてきたはずなのに、ジョゼットを拒絶せずに、受け入れてくれた。
 ジョゼットを通して、女性という存在を少しでも知るために。




 そうしてある日、ランドリックから見た事の真相を聞いたのだ。

「俺が悪いんだけどね。あの時は、従姉妹とアルバインの仲を取り持とうと張り切って楽しくて、俺自身が従姉妹と仲良くなるにもいい機会だと思って、はしゃいでた。外から見てどう見えるかなんて、全く考えなかった。だって、従姉妹は筋肉が好きだって言ってたし」

「はしゃいでも、従姉妹君のお好みがどうでも、年頃の女性に自分の胸の筋肉を触らせるって、しかも外の誰が見てるかわからないところでって。それはどう考えても駄目でしたね」

「……そうか」

 肩を落としたランドリックは、はっとした様子でジョゼットを振り向いた。

「じゃあ、従姉妹だけじゃなくて、ジョゼットも駄目? 服の上からだよ? 筋肉じゃなくて、ふわふわの犬なら触ってみるだろう?」

「だめですよ。年頃を過ぎたら、どんな関係の男女でも、家族でも、それ以上近づいちゃいけない距離があるんです。男性同士でもあるとは思いますよ。多分、騎士同士より貴族のご友人同士は距離が大きいです。超えていいのは、伴侶とか、恋人とか、特別な間の人同士だけです」
「家族でも!?」

 あまりに愕然とされると、ジョゼットはつい自分が本当に正しいのか、疑いそうになる。
 だが、こういうことに真実の正解はない。ジョゼットは、ジョゼットの感覚で押し通すしかないのだ。

「奥様との距離だって、ランドリック様が成長するにつれて開いてきたでしょう?」

「……いや、母上との距離は幼い時からあまり変わらないな。昔は母上は本当に病弱でいらして、子供が近くで過ごすと悪い風を浴びると言われて、寄りつけなかった」

「それは、寂しかったですね」

 何の気なく呟いたジョゼットに、ランドリックの緑の目がじっと注がれた。

「思い出すと、当時はいつも神経が剥き出しでひりひりと痛むような、不安定な気分でいることが多かった。もしかして、あれが寂しい、ということなのかな」

 とっさに、いろんな思いが去来して、ジョゼットは言葉を見失った。
 自分の心も分からずに、きっと、いつも一人で苛立っていたランドリックを、今からでも抱きしめてやりたいような。しあわせになって欲しいと、切に願うような。
 震える花びらのようないじらしい気持ちが、どっと溢れた。
 その思いは、合わせた視線から、少しは伝わっただろうか。

 いや、伝わるはずはない。そんな幻想がランドリックを苦しめるのだ。
 けれど、さすがに口には出せず、ジョゼットはひっそりと揺れる気持ちを胸に閉じ込めた。

 反対に、ランドリックはさっぱりとした顔をしていた。

「昔の感情にすぎなくても、名前が付くのは存外嬉しい。
 ジョゼット、では俺に、そういう距離感も教えてほしい。今までは君を、というか人を怒らせたくなくて、自分からは決して近付かないように気をつけていたんだけど。試しに、君に俺から近付いてみたらどうかな。近づきすぎたら、教えて?」

「……はい、あの、まずそういう、自分の秘密に触れるような重要な約束は、家族や家族に準じる仲の良い人だけにしてくださいね」

「ジョゼット、ジョゼだけだ」

「わかりました。今後、他の人も増やしていけますよ、きっと」

 それが、初めてランドリックの相談に乗った日だったかもしれない。




 そうして、日々を過ごして。
 たゆまず、倦むことなく、常にさり気なく気を張って、その場の多くの人を細やかに観察し、確かな前例に基づけば、ほぼ必ず適切な選択ができるよう、繰り返し繰り返し確認する終わりのない思索と、試行錯誤。
 ランドリックが密かに負う、途方もない労力。それをすぐ横で見つめて、尊敬の念をいだかないはずがない。
 ランドリックの困惑や苦しみも、わずかでも慰撫したいと、常に心から願うようになった。

 ランドリックに、男性として心惹かれるようになってからも。
 ランドリックのためのその願いは、夏の空のように透明で曇りなく、果てもない。

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