私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜

日室千種・ちぐ

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駄犬のキス

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 出会ってからのあれこれを思い返していたジョゼットは、ふとランドリックの強い視線に気がついた。

 いつからだろう。ジョゼットの睫毛の震えまで見逃すまいというような緑色の視線を、常に感じるようになったのは。
 そんなにいつも気にしてなくていいですよと言うと、今は一番くつろいでると言われて、何度か有耶無耶になっている。
 今日はやけにその視線が気になって、首筋に汗が浮くような熱を感じた。

「何か、私、お待たせしていますか?」
「いや、もう特にないよ。……でもそうだな、何度でもジョゼに大丈夫と言ってもらえると、心強いな」
「そのくらい、いくらでも。ランドリック様はもう十分、いろんなことがお分かりですもの。大丈夫ですよ。絶対」

 とたんに、ランドリックは、親を見つけた迷子の子供のように柔らかな笑顔になった。
 ジョゼットの心にするりと入ってきて、胸を叩く笑顔だ。
 ランドリックにこの笑顔を向けられるのは、今はジョゼットだけ。聡いジョゼットは、それを知っている。

 かといって、ランドリックがジョゼットに向ける目には、欲も何もないのだ。
 ジョゼットには男女の経験は何もないが、少なくとも、ランドリックから胸元や唇に邪な視線を向けられたことはないし、そういった悪戯を仕掛けられたこともない。
 ジョゼットが努力して定めた通り、健全で適切な距離のまま。

 もし侯爵の話を受け入れて、婚姻をし、二人の関係は変わったとして、ランドリックの純真な心は果たしてその関係に沿って変わるだろうか。
 否、と思ったからこそ、ジョゼットは断った。

 厳密には、否ではない。すぐには変わらないだろうというだけだ。
 ランドリックは人より遅くはあるけれど、少しずつ人の心を察するようになってきている。それが学習と訓練の賜物であることは、何の問題にもならない。
 かつての幼い寂しさを遅れて理解したように。
 いつか、ランドリックは恋心も手に入れるだろう。
 ジョゼットにすぐさま恋をしてくれるよう、上手に仕向けられればいいのかもしれない。けれどジョゼットには、そんな自信はない。
 ランドリックが恋心を捧げたくなる別の相手に出会う可能性のほうが、しっくりと想像できてしまう。
 その時に、既に自分が妻の顔をして隣にいては、申し訳ないではないか。
 そう思ったのだ。



 けれど今、胸に飛び込んできたランドリックの笑顔がジョゼットを揺さぶった。

 ――ためしてみようか。

 そんなことを思いついたのは、好きな人との婚姻を断ることに、ジョゼットも傷ついていたから。
 それに、尊敬する夫人の諦めの悪さを間近に見たからだ。

 壁一面を埋める書棚から、紙の匂いがする。振り子時計が百まで数えるのを、ジョゼットはソファの座面のビロードを撫でながらじっと聴いていた。
 ランドリックはソファから立ち上がり、行儀悪く執務机に腰掛けて、置いてあった手紙類を眺め始めた。
 執務室に二人きり。
 四年間二人を見守っていた屋敷の者たちは皆、二人きりにして扉を閉めても大丈夫だと信じているのだ。
 彼らの信頼を裏切ることになる。おそらくランドリックの信頼も。
 けれど、ジョゼットはもう侯爵家に長くはいられない。
 だから、最後に。

 ジョゼットは立ち上がり、すすっとランドリックの横に近づいて、その襟元を整えてあげるときのように、何気なく手を伸ばした。
 何だい、と言うように警戒心なくこちらを向いた目からは視線を外し、形の良い顎を軽く押さえて。

 唇に、軽く口付けた。

 やわらかい、でも自分より固い。
 あたたかい、でも少しカサついている。
 そうか、こんな感じか、と思う。
 年頃の娘らしからぬあっさりとした感想だった。
 離れがたくて身を寄せたまま瞼を上げると、緑の目が瞬きもせずこちらを見ていた。
 何が起こったんだろうという顔だ。
 それもそうだ。ランドリックとしては混乱するだろう。男女が保つべき最低限の距離を、教えたジョゼットから突然破棄したのだから。

 それにしても、あまりにじっと見つめられて、はっとした。
 もしかすると、嫌だったかもしれない。
 今更だが思い至り、体を引こうとしたが、それより早く、ランドリックの片腕がジョゼットの細い腰を捕まえた。
 ごめんなさい、と言いかけた唇が、べろりと思い切り舐められた。

「ん、うむ!?」

 何かを問うために唇を開く暇もない。ランドリックも言葉は発さない。
 ただ、キスの仕返しとばかり、二度、三度、四度……。
 ジョゼットは口を引き結ぶこともできず、ただ「ご」の形で舐められるがまま。
 唇がむにむにと歪み、時に鼻の下まで、唇の内側と言えるところまで舐められた。
 ひとしきり舐められて、息も絶え絶え、真っ赤になってよろめき離れるジョゼットを。

 はははっと、大層楽しげにランドリックが笑った。涙までにじませて、けらけらと、指まで差しそうだ。

 やっぱり、とジョゼットは破裂しそうな心臓を押さえながら胸に叫んだ。
 やっぱり二人の関係は男女などではない。
 ランドリックがジョゼットを犬猫扱いしていると思っていたが、それも違う。

 ランドリックこそ、犬だ!
 非力な人間を舐めて面白がる、立派な駄犬だ。

 ちょうどそこへ、家令が急ぎの用だとやってきて、ジョゼットはその隙に、執務室から逃げるように離れたのだった。
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