私が育てたのは駄犬か、それとも忠犬か 〜結婚を断ったのに麗しの騎士様に捕まっています〜

日室千種・ちぐ

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賢き犬の導き

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 自室の鏡に映る自分に、ジョゼットはじっと見入っていた。
 金褐色の髪も艷やかに、肌は輝かんばかり、紫色の目もぱっちりと、過去最高に綺麗な姿だ。
 結婚式に向けての準備は式会場その他だけではない、ジョゼット自身も入念に整えられていっている。
 夕食後の時間はすべて美容に割り振られたうえに、睡眠時間の確保は特に厳命されていて、寝台に入るべき時間も早い。

 侯爵夫妻は外出中。父母とソムズは別室。
 ジョゼットも、一人で夕食を摂った。
 それから美容の施術を受けて、今はすでに寝支度を整えてしまっている。
 帰っていると聞いたのは昼間だったのに、ランドリックの顔すら見ることなく過ごしてしまった。
 どうしたのだろう。夕食も一緒に取れない理由を、執事も知らないようだった。
 執務室にこっそり行ってみようか、けれどもう、休まなければならない。

 仕方なく、寝台に入って、灯りを消す。
 寝付けないのを誤魔化しながらもぞもぞと動いて、ふと窓を見て、叫びそうになった。
 誰かがそこにいて、中を見ている。

「……っ! ……え、ランドリック?」

 裸足で起き出して、鍵を外し窓を開ける。
 夜の藍色に半分溶けるようにして立っていたのは、確かにランドリックだった。

「どうしたの?」

 いつもは爽やかな風さえ感じさせるほど笑顔を見せるのに、今日はどことなく、透けて消えそうな風情だ。
 元気がないように見えての問いかけに、ランドリックは微かに微笑んだだけで、何も返事を返さなかった。
 
「ジョゼ、夜が気持ちいいから、ちょっと離れを見に行こう」

 代わりの唐突な誘いに、ジョゼットはやや怯む。
 庭には篝火が要所に焚かれ、警備の兵が巡回している。その中を、このテラスから出て、忍ぶように離れへ向かうというのだろうか。見つかっても咎められるはずはないが、婚約者と二人夜分にこそこそとすること自体、ジョゼットには恥ずかしい。
 ジョゼットの躊躇いを、ランドリックはじっと見つめていた。表情が薄いと、端正な顔立ちが際立つのがわかる。

「……あの、わかった。ちょっと待って」

 恥ずかしさより、久しぶりに会えて嬉しい気持ちのほうが勝った。元気のなさも気になった。このまま帰す気にはどうしてもなれない。
 浮かれていた。それもある。
 自覚はあったが、それでも、一緒にいたいと思った。

 ジョゼットは衣装箱から薄布のショールを取り出して頭から被った。これなら、視線はあまり気にならなくなるだろう、きっと。

「これでいいわ。行きましょ」

 差し出した手を、ランドリックがそっと丁寧に取った。
 そのまま、テラスからジョゼットを連れ出し、よい足場を選んで導き、離れへと向かう。
 明るい月は、円さを取り戻しつつある歪な姿。
 庭は夜鳥の声を響かせて青い異世界となり、木々は藍色の切り絵になって風に揺れ、さざめく草は玻璃細工のよう、地に敷かれた飾り石は仄白く発光する絹布のようだ。
 侯爵家の土地で語り継がれる賢き犬。その案内を信じて見知らぬ道を行く人が見るのは、こんな景色だろうか。
 ジョゼットの目の前には広い背中。白く柔らかな服のひだに合わせて、波のように青い影が揺れる。
 確かな手に導かれて、まるで空中を往くようにふわりふわりと、ジョゼットはただランドリックについていく。

 不思議と警備の兵に遭遇することなく離れの敷地に入り、玄関ではなく、どこかの部屋の外窓をランドリックが開け放った。
 どうぞと先を譲られ、扉を押さえる腕の下をくぐりかけて。
 ふとジョゼットは立ち止まった。

「……どうしたの、ジョゼ?」
「ランドリック、ここ」

 室内の暗さゆえ自信はないが、部屋に家具が入っている部屋はまだ少ない。
 ここは、夫婦の寝室、ではないだろうか。
 どうしていきなりここに? そもそも、なぜ表から入らないのだろう。
 危険を察知してというより、不思議で。目を丸くして間近で見上げれば、ランドリックは淡い金の髪にも、整った彫刻のような顔にも蒼さを溶かして、男神のように淡く微笑んでいる。
 その目が、静かに深く深く澱んでいるように見えたのは、錯覚だろうか。

「――ねえジョゼ、さっき執務室で別立ての予算を見たよ。式を中止した場合の、補償費用の試算。どうして? 結婚式、やめようと思ったの?」

 いつの間にか、ランドリックの腕が断固としてジョゼットの退路を遮っていた。
 夜が、遠くなる気がした。
 二人の吐息だけがこもる小さな空間を挟んで、見つめ合う。
 服越しに熱が伝わる距離。けれど何故か、とてもひんやりとする。

「あの、それはね」
「やめたくなったら、言ってくれると、そう思ってた」
「やめたくなんてないわ」
「でも、準備していたね。行動と心が裏腹なら、何を信じればいいの? ジョゼ、教えて?」

 畳み掛けられるように言われて、ジョゼットは胸が痛んだ。
 そうだ、ランドリックには「ジョゼットがやめたくなるはずがない」なんて考えはないのだろう。もっとちゃんと、話をすればよかった。
 後悔が募る。
 けれど、それでも、話をすればすぐにわかってくれると、そう思っていた。

「あれは、ランドリックがいろんな問題を解決してくれたってわかる前に、私もできることをしたくて、万が一のために用意しただけなの。あのもう、要らなくなったみたいなんだけど」

 そういえば、お礼も言っていなかった。
 ジョゼットは引き寄せられるようにランドリックの胸に額を擦り寄せた。

「……ありがとう、ランドリック」

 背中に、手が回された。
 いつもなら、どこよりも安心できる場所なのに。
 触れる体が、いつもより強張っている気がして、ジョゼットは訝しむ。

「もし、上手くいかなかったら」

 額から震えが伝わる、絞り出すような声。

「もう一度なんとか対策を考えたらいい。そもそも、何があったって、式を取りやめるほどのことなんて、ないよね。俺……そうか、俺だけなのかも、しれないけど」

 ああ、――ああ!
 ジョゼットは心のなかで叫んだ。
 他意もなく、良かれと思った自分の小賢しく浅はかな行動で、ランドリックを傷つけた。
 きっとどこまでも、ずたずたに。深く。
 どうして、もっと注意深く考えなかったのか。どうして、もっとランドリックの気持ちをよく確認しなかったのか。

「信用されてないのか、そこまで好きじゃないのか、慎重すぎるのか、理由はわからないけど。俺にはわからない人の心がわかるジョゼが、俺ほどはまっすぐに二人の未来に飛びつかないのは、仕方ないのかもね。俺のほうが、勝手なことを言ってるのかも。どうだろう、そうかもね? でもジョゼ、どうして、諦められるの? いいの? 俺は、要らない?」

 違う、違うと首を振るのを、背中に回った手がぎゅうぎゅうと締め付けて、邪魔をする。

「どうしたら諦められるのか、俺にはわからない。ジョゼットとは、そこは理解りあえない。それがわかった。よく、わかった」
「――待っ、て」

 ジョゼットの背中を、悪寒が走った。
 こんなランドリックは知らない。初めて見るけれど、まるで手に取るようにわかる。
 ランドリックの心が、遠ざかる。
 もう手の届かない、分厚く固い扉の向こうに、隠れてしまう。
 悲しい緑の視線だけを残して、扉が、閉じる。

「いや、いやだ、ランドリック、ごめんなさい、待って」

 突然溢れた涙を拭う事もせず、しゃくり上げながらジョゼットは懇願したのに。
 ランドリックは、あたかも慈愛のような微笑みを浮かべて、ジョゼットをがちりと抱き締めた。

「ごめんね」

 掠れたような声が、降ってきた。
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