2 / 6
第1章
第2話 私が教育係!?
しおりを挟む
午前中の仕事は、驚くほど手につかなかった。
企画書の文字が頭に入ってこない。メールを打っても、同じ文章を三回も繰り返していた。
隣の島に座っている朝倉の存在が、視界の端にちらついて仕方がない。
編集長の藤堂さんが、朝礼で朝倉を紹介した。
「今日から編集部に加わる朝倉くんです。営業企画部から異動してきました。編集経験はないけど、企画力には定評があるから、みんなよろしく」
拍手。朝倉が軽く頭を下げる。その時、ほんの一瞬だけ、朝倉の視線が私を捉えた。
気のせいだと思いたかった。いや、そう思うことにした。
「結城さん。朝倉くんの教育係、お願いできる?」
藤堂さんの言葉に、思わず固まる。
「……私が、ですか?」
「うん。結城さん、後輩の面倒見いいし。朝倉くん、企画畑だから編集実務はこれからでしょ? 基本的なところ教えてあげて」
断る理由が見つからない。
いや、理由は山ほどある。でも、仕事を断る理由になるような内容ではない。
それを口にすることはできなかった。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。席に戻ると、朝倉が近づいてきた。
「よろしくお願いします、結城さん」
「……こちらこそ」
目を合わせないように、パソコンの画面を見つめる。朝倉は少し間を置いてから、自分の席に戻っていった。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
◇
昼休み。
逃げるように席を立ち、屋上へ向かった。
このビルの屋上は、一応開放されている。喫煙所と、ちょっとしたベンチスペースがあるだけの殺風景な場所だけど、人が少ないのがいい。
ひとりになりたい時、私はよくここに来る。
重いドアを開けて外に出ると、四月の風は思ったより冷たかった。
ベンチに向かおうとして足が止まる。
先客がいた。
「……やっぱりここに来ると思った」
朝倉だった。
ベンチに座り、缶コーヒーを手にしている。まるで、私を待っていたみたいに。
「尾行してるわけ?」
「編集部の人に聞いた。結城さん、よくここに来るって」
(情報網が早すぎる……初日から……)
引き返そうかと思ったけれど、それは負けた気がした。
私は黙ってベンチの反対側に座る。朝倉との間には、一人分以上の距離がある。
沈黙が落ちる。
四月の空は薄曇りで、どこか煮え切らない色をしている。
五年分の時間が、重たい空気になって私たちの間に挟まっている。そんな気がした。
「結婚、した?」
先に口を開いたのは、朝倉の方だった。
予想していなかった質問に、一瞬言葉が詰まる。
「……してない」
「そうか」
「そっちは?」
「してない」
短いやり取り。それだけなのに、ひどく落ち着かない。
それに対して、結婚していないことに安堵している自分が、たまらなく嫌だった。
「というか、あなたに関係ないでしょ」
突き放すように言う。
「お互い独身だろうが既婚だろうが、私たちには関係ない。五年前に終わってるんだから」
朝倉は黙って、缶コーヒーを傾けた。視線は前を向いたまま。横顔だけが見える。
五年前より少しだけ頬の線がシャープになっている。仕事が忙しいのか、それとも単に年を取っただけか。
「そうか……そうだな」
朝倉は静かに頷いた。でも、その目は私から逸れなかった。
「終わった話だ。それはわかってる」
「なら——」
「でも」
朝倉が私の言葉を遮る。
珍しいことだった。昔の彼は、いつも私の話を最後まで聞くタイプだったから。
「もう一度、ちゃんと話したいと思ってる」
心臓が止まった。私は平静を装いつつ声を絞りだした。
「……何を、今さら」
「今さらだからだ」
朝倉がこちらを向く。その目は真剣だった。
昔、私が好きだった、そのままの目。
(こっちを見ないでよ……)
「五年経って、お互い少しは大人になった。だから、ちゃんと話せるんじゃないかと思った」
「……仕事中に?」
「仕事が終わってから」
即答だった。考えてきたのだろう。この再会が偶然だったとしても、私と話すことは想定していたのだろう。
「……考えとく」
それが、精一杯の答えだった。
イエスでもノーでもない、曖昧な返事。卑怯だとわかっている。でも、それ以上のことは言えなかった。
立ち上がり、屋上のドアに向かう。背中に朝倉の視線を感じた。
でも、振り返らない。絶対に。
振り返ったら、何かが変わってしまいそうだったから。
ドアを開ける直前、朝倉の声が聞こえた。
「真帆」
名前で呼ばれて、足が止まる。
「待ってる」
それだけだった。
私は何も言わずに、ドアを閉めた。
◇
午後の仕事は、さらにひどかった。
朝倉に編集業務の基本を教えなければならない。近くで話さなければならない。昔の距離感を思い出しそうになるたびに、無理やり意識を仕事に向けた。
でも、視線の動きや指の運び、所作、気にしだすと止まらない。
「この原稿管理システム、使いにくいな」
「慣れれば大丈夫。最初はみんなそう言う」
「結城さんも?」
「私は……一週間で慣れた」
「さすがだな」
褒められているのか、からかわれているのか、わからない。
昔からそうだった。朝倉の言葉には、いつも裏がある気がして私は勝手に深読みしてしまう。
定時を過ぎ、足音が賑やかになる。そして、編集部の人が一人、また一人と帰っていく。
私は残業のふりをしてパソコンに向かっていた。朝倉より先に帰りたくなかった。話しかけられるのが怖かったからだ。
結局、朝倉が先に席を立った。
「お先に失礼します」
周囲に聞こえる声で言って、それから私の横を通り過ぎる時、小さく付け加えた。
「今日じゃなくていい。待ってるから」
私は返事をしなかった。
朝倉の足音が遠ざかり、エレベーターホールの方へ消えていく。
姿が見えなくなったのを確認してから、ひとつ深呼吸をする。
終わった恋は、終わったままでいい。
そう思っていたはずだった。五年間、ずっとそう思って生きてきた。
なのに——
この胸の高鳴りだけは、否定できなかった。
最悪な再会は、だいたい運命だ。
そして、決まって面倒くさい。
パソコンの電源を落としながら、私は小さくため息をついた。
明日もまた、あの顔を見なければならない。
明日も、その次の日も。
四月一日。新年度の始まり。
私の日常に、突然、過去の影が割り込んできた。
企画書の文字が頭に入ってこない。メールを打っても、同じ文章を三回も繰り返していた。
隣の島に座っている朝倉の存在が、視界の端にちらついて仕方がない。
編集長の藤堂さんが、朝礼で朝倉を紹介した。
「今日から編集部に加わる朝倉くんです。営業企画部から異動してきました。編集経験はないけど、企画力には定評があるから、みんなよろしく」
拍手。朝倉が軽く頭を下げる。その時、ほんの一瞬だけ、朝倉の視線が私を捉えた。
気のせいだと思いたかった。いや、そう思うことにした。
「結城さん。朝倉くんの教育係、お願いできる?」
藤堂さんの言葉に、思わず固まる。
「……私が、ですか?」
「うん。結城さん、後輩の面倒見いいし。朝倉くん、企画畑だから編集実務はこれからでしょ? 基本的なところ教えてあげて」
断る理由が見つからない。
いや、理由は山ほどある。でも、仕事を断る理由になるような内容ではない。
それを口にすることはできなかった。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。席に戻ると、朝倉が近づいてきた。
「よろしくお願いします、結城さん」
「……こちらこそ」
目を合わせないように、パソコンの画面を見つめる。朝倉は少し間を置いてから、自分の席に戻っていった。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
◇
昼休み。
逃げるように席を立ち、屋上へ向かった。
このビルの屋上は、一応開放されている。喫煙所と、ちょっとしたベンチスペースがあるだけの殺風景な場所だけど、人が少ないのがいい。
ひとりになりたい時、私はよくここに来る。
重いドアを開けて外に出ると、四月の風は思ったより冷たかった。
ベンチに向かおうとして足が止まる。
先客がいた。
「……やっぱりここに来ると思った」
朝倉だった。
ベンチに座り、缶コーヒーを手にしている。まるで、私を待っていたみたいに。
「尾行してるわけ?」
「編集部の人に聞いた。結城さん、よくここに来るって」
(情報網が早すぎる……初日から……)
引き返そうかと思ったけれど、それは負けた気がした。
私は黙ってベンチの反対側に座る。朝倉との間には、一人分以上の距離がある。
沈黙が落ちる。
四月の空は薄曇りで、どこか煮え切らない色をしている。
五年分の時間が、重たい空気になって私たちの間に挟まっている。そんな気がした。
「結婚、した?」
先に口を開いたのは、朝倉の方だった。
予想していなかった質問に、一瞬言葉が詰まる。
「……してない」
「そうか」
「そっちは?」
「してない」
短いやり取り。それだけなのに、ひどく落ち着かない。
それに対して、結婚していないことに安堵している自分が、たまらなく嫌だった。
「というか、あなたに関係ないでしょ」
突き放すように言う。
「お互い独身だろうが既婚だろうが、私たちには関係ない。五年前に終わってるんだから」
朝倉は黙って、缶コーヒーを傾けた。視線は前を向いたまま。横顔だけが見える。
五年前より少しだけ頬の線がシャープになっている。仕事が忙しいのか、それとも単に年を取っただけか。
「そうか……そうだな」
朝倉は静かに頷いた。でも、その目は私から逸れなかった。
「終わった話だ。それはわかってる」
「なら——」
「でも」
朝倉が私の言葉を遮る。
珍しいことだった。昔の彼は、いつも私の話を最後まで聞くタイプだったから。
「もう一度、ちゃんと話したいと思ってる」
心臓が止まった。私は平静を装いつつ声を絞りだした。
「……何を、今さら」
「今さらだからだ」
朝倉がこちらを向く。その目は真剣だった。
昔、私が好きだった、そのままの目。
(こっちを見ないでよ……)
「五年経って、お互い少しは大人になった。だから、ちゃんと話せるんじゃないかと思った」
「……仕事中に?」
「仕事が終わってから」
即答だった。考えてきたのだろう。この再会が偶然だったとしても、私と話すことは想定していたのだろう。
「……考えとく」
それが、精一杯の答えだった。
イエスでもノーでもない、曖昧な返事。卑怯だとわかっている。でも、それ以上のことは言えなかった。
立ち上がり、屋上のドアに向かう。背中に朝倉の視線を感じた。
でも、振り返らない。絶対に。
振り返ったら、何かが変わってしまいそうだったから。
ドアを開ける直前、朝倉の声が聞こえた。
「真帆」
名前で呼ばれて、足が止まる。
「待ってる」
それだけだった。
私は何も言わずに、ドアを閉めた。
◇
午後の仕事は、さらにひどかった。
朝倉に編集業務の基本を教えなければならない。近くで話さなければならない。昔の距離感を思い出しそうになるたびに、無理やり意識を仕事に向けた。
でも、視線の動きや指の運び、所作、気にしだすと止まらない。
「この原稿管理システム、使いにくいな」
「慣れれば大丈夫。最初はみんなそう言う」
「結城さんも?」
「私は……一週間で慣れた」
「さすがだな」
褒められているのか、からかわれているのか、わからない。
昔からそうだった。朝倉の言葉には、いつも裏がある気がして私は勝手に深読みしてしまう。
定時を過ぎ、足音が賑やかになる。そして、編集部の人が一人、また一人と帰っていく。
私は残業のふりをしてパソコンに向かっていた。朝倉より先に帰りたくなかった。話しかけられるのが怖かったからだ。
結局、朝倉が先に席を立った。
「お先に失礼します」
周囲に聞こえる声で言って、それから私の横を通り過ぎる時、小さく付け加えた。
「今日じゃなくていい。待ってるから」
私は返事をしなかった。
朝倉の足音が遠ざかり、エレベーターホールの方へ消えていく。
姿が見えなくなったのを確認してから、ひとつ深呼吸をする。
終わった恋は、終わったままでいい。
そう思っていたはずだった。五年間、ずっとそう思って生きてきた。
なのに——
この胸の高鳴りだけは、否定できなかった。
最悪な再会は、だいたい運命だ。
そして、決まって面倒くさい。
パソコンの電源を落としながら、私は小さくため息をついた。
明日もまた、あの顔を見なければならない。
明日も、その次の日も。
四月一日。新年度の始まり。
私の日常に、突然、過去の影が割り込んできた。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ひとつの秩序
水瀬 葵
恋愛
ずっと好きだった職場の先輩が、恋人と同棲を始めた。
その日から、南莉子の日常は少しずつ噛み合わなくなっていく。
昔からの男友達・加瀬透真は、気づけばやたら距離が近くて、優しいのか、図々しいのか、よく分からない。
好きな人が二人いるわけじゃない。
ただ、先輩には彼女がいて、友達は友達の顔をしなくなっていく。
戻れると思っていた関係が、いつの間にか戻れなくなっている。
これは、仕事も恋もちゃんとやりたいのに、だいたい空回りしている大人たちの、少し不器用なラブコメディ。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
先生
藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。
町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。
ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。
だけど薫は恋愛初心者。
どうすればいいのかわからなくて……
※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)
嘘をつく唇に優しいキスを
松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。
桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。
だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。
麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。
そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる