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第五章 再会
拾われ子の異変と魔法陣
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シンシアは牛乳の入った鍋を火にかける。沸騰寸前で火を止めると、マグカップに注いで蜂蜜を入れて溶かし、スイの前に置いた。
「……少しでも栄養を摂らないと貴女の身体がもちませんよ。暫く、ろくに食べていないのではありませんか?」
表情が強ばったスイに、自分の中の疑念が強まったシンシアは目を伏せる。
「……もしやとは思っていましたが、スイは今、味が解らないのですね?」
『………………』
スイは殆ど食材の好き嫌いが無い。あまり好みじゃ無い味はあるが、出されれば何でも食べるし、相伴にあずかった時も並べられた物は一通り食べるようにしている。
それなのにスイは今日、昼食も夕食も並べられた物に殆ど手を付けなかった。反対によく口に運んでいたのは飲み物だ。
「食べていたのは元々味の薄いサラダばかり。飲み物は、味がなくても飲み込みやすいからでしょう? いつからですか?」
『…………』
《二ヶ月半くらい前から。それと、たぶん匂いも解らなくなってる》
『! コハク……!』
《隠して何になるんだ。このままじゃ、弱って戦うどころか旅すら続けられなくなるぞ》
「コハクが正しいですよ、スイ」
『…………』
視線を下げたスイは、視界の真ん中にあるマグカップに手を伸ばした。一口飲むが、温かさは解ってもやはり匂いと味が解らない。
「コハク。旅の間、スイは何を口にしていました?」
《携帯栄養食と飲み物だけだ。宿の飯は殆ど食わない》
「……味が解らない固形物を食べるのが辛ければ、そうなるのでしょうね。それでも栄養を摂ろうとしているのは偉いですよ」
『…………』
時間を掛けて、スイはホットミルクを飲み干した。エトマの部屋から戻ってきたクロエは、キッチンで何やら作業をしている。
「二ヶ月半前だと……昼食の時に少し話してくれた悪徳奴隷商の指名依頼の頃ですね? 何かあったのですか?」
『…………』
《奴隷商の屋敷で――》
『コハク、やめて』
強い声がコハクを止めた。非難めいた眼を向けられても、スイは臆さずに視線を返す。
『やめて』
「……スイ、もしや……」
ハッとして言葉を選んでいるシンシアに、スイはシンシアの考えている事が解り、首を左右に振った。
『シンシア様が想像しているような事はありません。コハクもいましたから。それでも信じられないなら、医療ギルドの診断書もありますし、今から行って診てもらうのも構いません』
ザーズリー捕縛後、スイとエトマは医療ギルドで女性治癒士に診察を受けており、診断書も貰っている。
表向きは奴隷生活で身体に不調をきたしていないかの確認。本当はハンターズギルドと医療ギルドの配慮で、二人が暴行されていない事を証明する為だ。
エトマの診断書も、リリアナに渡す為に今はスイが預かっている。
「……一先ずは、安心しました。ですが……」
『ごめんなさい。自分で解ってるんです。こうなっている理由は、きっとこれなんだろうなって思い当たる事はあるんです。でも、話せません』
シンシアは黙り込んだ。
踏み込んで来る事も、寄り添う事も望んでいないと言う意思。明確な拒絶だ。
「……そうですか。私では、力になれないのですね」
『…………そう言う訳じゃ、ないんです。でも……ごめんなさい』
同じ言葉を繰り返すスイは俯いていて、表情はわからない。
「……コハクも、詳しい事は何も解らないのですね?」
《……うん。知ってたら、もうシンシアに話してる》
「そうでしょうね。あなたは何よりスイを大事にしていますから」
二人の会話に罪悪感が湧くが、それでもスイは口を割らない。
『…………』
根底から湧き上がる恐れ。それがスイの口と心を閉ざす。
「……解りました。それならば無理に聞き出そうとはしません。ですが、スイ。ふたつ、教えてください」
『…………それが何かによります』
心の距離を実感させられる返事に、悲しさを覚えながらシンシアは問いかける。
「コハクにも見えない貴女のその痛みを、伝えられる相手はいるのですか?」
『………………』
その時スイの頭に浮かんだのは、ただ一人だった。
『………………』
います、と。たったそれだけの言葉が出て来なかった。思い浮かべてしまえば、無性に会いたくなって、縋り付きたい思いが涙と共に溢れ出てきそうで、スイは瞼を閉じて頷く事しか出来ない。
「その方に、貴女は会う事が出来ますか?」
『…………っ』
もう一度頷けば、シンシアは寂しげながらも微笑んだ。
「……そうですか。出来る事なら、なるべく早く会いに行ってください。きっと解っているでしょうけれど、今の貴女に何よりも必要な事です」
『…………はい』
少しばかり震えていたが、声に出して返事をしたスイにシンシアも頷いた。
「……スイはリーディンシャウフでも色々見たでしょうから、もしかしたらそれも不調の原因かもしれませんね」
シンシアの群青色の眼が、手元の本に向けられる。
『……そう言えば……』
リビングに、邪魔にならないよう申し訳程度に避けられている数々の本にスイが視線を巡らせると、シンシアは苦笑いを浮かべた。
「……片付けるべきなのですが、すぐにまた必要になる事が多くて出したままなのです」
『こんなに沢山の本、何の為に……?』
「……話す前に、まずは見てもらう方が良いでしょう」
シンシアは、魔法陣が描かれた二枚の紙をテーブルの上に置いた。片方の紙の上に、手近に有ったスイのマグカップも置く。
その紙の上に手を置くと、シンシアは魔力を流した。魔法陣が光り、瞬くに置かれていたマグカップがもう一枚の紙の上に移動した。
《!?》
『!? これは……ダンジョンの最下層に出てくる歪みと似ていますが……』
「そう。この紙に描かれているのは、ダンジョンにある転送術を組み込んだ転送魔法陣です。今は小さな物だけですが、生命あるものを何の異常をきたす事なく、無事に魔法陣間を行き来出来るようになるのを目指しています」
『……それが、そんな事が出来たら……』
脳裏に浮かぶのは、腐臭が蔓延し、血と肉片と瓦礫の散乱する光景。
もっと早く町の異常が伝えられたなら。もっと早く応援が来てくれていたなら。
「……どれだけの生命が救えたでしょうね」
『え……』
「リーディンシャウフの大惨禍が起きた時、この魔法陣が完成していたなら、どれだけ被害を抑えられたでしょう。どれだけ、救えた生命があったでしょう。今更そんな事を考えても遅いのに、それでも考えてしまいます」
『……シンシア様も……ですか……?』
シンシアは眉を下げて頷く。スイが初めて見る、シンシアの悔恨の表情だった。
「各大陸間だけでなく町と町の往来を見ても、現行のままでは有事の際に対応が遅れる事は誰もが解っていた事です。当然、王族も。ですが、事は起きてしまった。有事に備えるのが遅過ぎたのです」
何かが起きて、緊急性の高さを実感して、漸く本気になる。
そんな人間の何と多い事か。
かく言う自分もその一人でしかなかったと、シンシアは静かに語る。
「……ですが、遅過ぎたからと言って何もしないのは更なる愚行です。 クロエにも協力してもらってダンジョンの精霊の許可を取り、転送術を解析し、大きさや数に制限はありますが町の中で物を転送させる所までは漕ぎ着けました」
スイは転送されたマグカップを持ち上げる。本体や取っ手を触り、色々と向きを変えて見る。欠けたり、色が変わっていたりなどの異常は見えない。
『凄い……! これなら、人を転送する事も……!』
「まだです」
スイの言葉を遮った一言は、シンシアが自身に言い聞かせる戒めでもあった。
「ここまで到達するのに数百の物を破損、或いは紛失しました」
物ならば良い。壊れても替えがきく。
だが生命あるもの、動物は? 人間は?
『…………!!』
「ゾッとするでしょう? ……誰でも思いつきそうな、この転送魔法陣というものが今日まで実現されていないのは、それが理由です。過去、何人もの魔導師や賢者と呼ばれる者が研究し、繰り返し実験しましたが、誰一人として無事に生物を転送する事は出来なかったのです」
『………………』
もしかしなくても、生物で転送実験はしたのだろう。
その結果どうなったのか。
恐ろしくなったスイは想像する事をやめた。
「……実を言えば、何年も前から私は転送魔法陣の研究をしています。実現の難しさから、私が生きている間に完成させられたらそれに越したことはないけれど、そこまでいかずとも完成を後進に託せる所まで研究を進められたらと思っていたのです。でも、それは怠けていただけでした」
リビングのあちこちに積まれている本の数々。
これらは、シンシアの覚悟と決意と努力の表れだったのだ。それでもきっと、その欠片でしかない。
「私は、何としても私の手で転送魔法陣を完成させます。一生を費やす事になっても、生命に恨まれる事になっても」
『っ!? シンシア様……!?』
「大丈夫ですよ。人間では試しません。……虫や小動物、モンスターを犠牲にする事は考えていますが。人間で試す時は、私自身が魔法陣の上に乗りますから」
『「シンシア様!!」』
傍に立ったクロエと、腰を浮かしたスイの声が重なった。眼を丸くしたシンシアは、眉を下げて微笑む。
「心配いりません。やるにしても、殆ど安全である事を確認してからやりますよ」
「殆どでは駄目です。完全に安全である事を確認してからやってください。寧ろ、やらないでください」
「クロエ、言っている事が無茶苦茶ですよ?」
無茶苦茶だが、スイもクロエと同じ気持ちだ。
もしもの事があったらと思うと、止めないなんてとても出来ない。
「完全に安全である事を示す為に、人間が乗るのです。でも、それはまだ先の事ですから。私も死ぬと解りきっている段階で身を挺しはしませんよ。……クロエ、お茶を淹れてもらえますか?」
「……はい」
お湯を沸かす音だけが聞こえるリビングで、スイの眼が真っ直ぐシンシアを射抜く。
「……本当ですよ、スイ。最後に安全性を確実に証明する時も、死ぬつもりはありません。この家には、クロエがいますから」
《……どう言う意味だ?》
「クロエを残して死ぬような真似はしないという事ですよ。置いていかれると言うのは、とても悲しく、辛く、酷く心が痛むものですから」
ヒトの血を引きながら、ヒトとは遅い時を刻む身体で生き続けているシンシア。友や身内を何人も見送ってきた彼女の言葉と声は、説得力と寂しさを帯びていた。
「……ハーブティーをお持ちしました。カモミールです」
「ありがとう。寝る前に丁度良いですね」
香りを楽しんでから一口飲んだシンシアは、困ったように笑った。
「この魔法陣が完成したら、各関門だけでなく王都や政令指定都市を始め、多くの町に設置されるでしょうけれど、暫くの間は有事以外で使われないでしょうね」
《何でだ? 何処からでも行きたい町にいけるなら、いつでも使えた方が良いじゃないか》
「そうですね。けれど、幾つかの問題が出てきてしまうのです」
《?》
『……旅人が全く寄らない町が出てくる……?』
例えば中央大陸の場合、東西南北の各関門から王都を目指すとなると、旅慣れた大人の足でも最低一ヶ月半かかるかどうかと言うところだ。
その間、旅人は必ず関門と王都の間にある町で宿屋に泊まり、必要であれば他の店にも金を落とすのだが、魔法陣で移動するとなるとその必要が無くなる。
「そうなると、どうなります?」
『……今まで旅人からのお金で成り立っていたお店が、商売を続けられなくなって、町が廃れていくのでは……?』
「はい、正解です。それが問題のひとつ。もうひとつ、大きな問題として上がるのが、犯罪に使われる可能性ですね」
『!』
「有事の際の移動を考えると、一度に大量の人や物を転送させる必要があります。ですが、魔法陣の常用を可能とした場合、悪人が徒党を組んで不意打ちで町を襲ったり、魔石を沢山持ち込んで無差別に発動させたりなども出来てしまいます。門の外に設置するとしても、町が危険に晒される事に変わりはありません」
人を助ける為に作った物が、必ずしも作成者の意図に沿った使われ方をするとは限らない。
結果が良いか悪いかは別としても、突飛な考えを思いつく者は必ずいるのだ。
「どんな道具も結局は使い手次第であり、善人がいれば悪人もいます。転送魔法陣の悪用の可能性は決して妄想などではなく、現実的に有り得るのです。設置場所をよく考え、規制や法、万が一の対応策が確立されるまでは、有事以外では使わない方が良いのですよ」
《そう言う事か……。不便だけど、仕方無いな……》
微笑ったシンシアは、カモミールティーを飲み干すとクロエへカップを渡す。
「えぇ。そしてそれは王族の管轄なので、彼等に頑張って良い考えを閃いてもらいましょう。これに関しては、私の管轄外ですし」
シンシアにしては珍しく、茶目っ気のある表情で笑った。
王族は大変だろうが、こればかりは早急に実装してもらいたい。スイも心から同意して頷いた。
「……少しでも栄養を摂らないと貴女の身体がもちませんよ。暫く、ろくに食べていないのではありませんか?」
表情が強ばったスイに、自分の中の疑念が強まったシンシアは目を伏せる。
「……もしやとは思っていましたが、スイは今、味が解らないのですね?」
『………………』
スイは殆ど食材の好き嫌いが無い。あまり好みじゃ無い味はあるが、出されれば何でも食べるし、相伴にあずかった時も並べられた物は一通り食べるようにしている。
それなのにスイは今日、昼食も夕食も並べられた物に殆ど手を付けなかった。反対によく口に運んでいたのは飲み物だ。
「食べていたのは元々味の薄いサラダばかり。飲み物は、味がなくても飲み込みやすいからでしょう? いつからですか?」
『…………』
《二ヶ月半くらい前から。それと、たぶん匂いも解らなくなってる》
『! コハク……!』
《隠して何になるんだ。このままじゃ、弱って戦うどころか旅すら続けられなくなるぞ》
「コハクが正しいですよ、スイ」
『…………』
視線を下げたスイは、視界の真ん中にあるマグカップに手を伸ばした。一口飲むが、温かさは解ってもやはり匂いと味が解らない。
「コハク。旅の間、スイは何を口にしていました?」
《携帯栄養食と飲み物だけだ。宿の飯は殆ど食わない》
「……味が解らない固形物を食べるのが辛ければ、そうなるのでしょうね。それでも栄養を摂ろうとしているのは偉いですよ」
『…………』
時間を掛けて、スイはホットミルクを飲み干した。エトマの部屋から戻ってきたクロエは、キッチンで何やら作業をしている。
「二ヶ月半前だと……昼食の時に少し話してくれた悪徳奴隷商の指名依頼の頃ですね? 何かあったのですか?」
『…………』
《奴隷商の屋敷で――》
『コハク、やめて』
強い声がコハクを止めた。非難めいた眼を向けられても、スイは臆さずに視線を返す。
『やめて』
「……スイ、もしや……」
ハッとして言葉を選んでいるシンシアに、スイはシンシアの考えている事が解り、首を左右に振った。
『シンシア様が想像しているような事はありません。コハクもいましたから。それでも信じられないなら、医療ギルドの診断書もありますし、今から行って診てもらうのも構いません』
ザーズリー捕縛後、スイとエトマは医療ギルドで女性治癒士に診察を受けており、診断書も貰っている。
表向きは奴隷生活で身体に不調をきたしていないかの確認。本当はハンターズギルドと医療ギルドの配慮で、二人が暴行されていない事を証明する為だ。
エトマの診断書も、リリアナに渡す為に今はスイが預かっている。
「……一先ずは、安心しました。ですが……」
『ごめんなさい。自分で解ってるんです。こうなっている理由は、きっとこれなんだろうなって思い当たる事はあるんです。でも、話せません』
シンシアは黙り込んだ。
踏み込んで来る事も、寄り添う事も望んでいないと言う意思。明確な拒絶だ。
「……そうですか。私では、力になれないのですね」
『…………そう言う訳じゃ、ないんです。でも……ごめんなさい』
同じ言葉を繰り返すスイは俯いていて、表情はわからない。
「……コハクも、詳しい事は何も解らないのですね?」
《……うん。知ってたら、もうシンシアに話してる》
「そうでしょうね。あなたは何よりスイを大事にしていますから」
二人の会話に罪悪感が湧くが、それでもスイは口を割らない。
『…………』
根底から湧き上がる恐れ。それがスイの口と心を閉ざす。
「……解りました。それならば無理に聞き出そうとはしません。ですが、スイ。ふたつ、教えてください」
『…………それが何かによります』
心の距離を実感させられる返事に、悲しさを覚えながらシンシアは問いかける。
「コハクにも見えない貴女のその痛みを、伝えられる相手はいるのですか?」
『………………』
その時スイの頭に浮かんだのは、ただ一人だった。
『………………』
います、と。たったそれだけの言葉が出て来なかった。思い浮かべてしまえば、無性に会いたくなって、縋り付きたい思いが涙と共に溢れ出てきそうで、スイは瞼を閉じて頷く事しか出来ない。
「その方に、貴女は会う事が出来ますか?」
『…………っ』
もう一度頷けば、シンシアは寂しげながらも微笑んだ。
「……そうですか。出来る事なら、なるべく早く会いに行ってください。きっと解っているでしょうけれど、今の貴女に何よりも必要な事です」
『…………はい』
少しばかり震えていたが、声に出して返事をしたスイにシンシアも頷いた。
「……スイはリーディンシャウフでも色々見たでしょうから、もしかしたらそれも不調の原因かもしれませんね」
シンシアの群青色の眼が、手元の本に向けられる。
『……そう言えば……』
リビングに、邪魔にならないよう申し訳程度に避けられている数々の本にスイが視線を巡らせると、シンシアは苦笑いを浮かべた。
「……片付けるべきなのですが、すぐにまた必要になる事が多くて出したままなのです」
『こんなに沢山の本、何の為に……?』
「……話す前に、まずは見てもらう方が良いでしょう」
シンシアは、魔法陣が描かれた二枚の紙をテーブルの上に置いた。片方の紙の上に、手近に有ったスイのマグカップも置く。
その紙の上に手を置くと、シンシアは魔力を流した。魔法陣が光り、瞬くに置かれていたマグカップがもう一枚の紙の上に移動した。
《!?》
『!? これは……ダンジョンの最下層に出てくる歪みと似ていますが……』
「そう。この紙に描かれているのは、ダンジョンにある転送術を組み込んだ転送魔法陣です。今は小さな物だけですが、生命あるものを何の異常をきたす事なく、無事に魔法陣間を行き来出来るようになるのを目指しています」
『……それが、そんな事が出来たら……』
脳裏に浮かぶのは、腐臭が蔓延し、血と肉片と瓦礫の散乱する光景。
もっと早く町の異常が伝えられたなら。もっと早く応援が来てくれていたなら。
「……どれだけの生命が救えたでしょうね」
『え……』
「リーディンシャウフの大惨禍が起きた時、この魔法陣が完成していたなら、どれだけ被害を抑えられたでしょう。どれだけ、救えた生命があったでしょう。今更そんな事を考えても遅いのに、それでも考えてしまいます」
『……シンシア様も……ですか……?』
シンシアは眉を下げて頷く。スイが初めて見る、シンシアの悔恨の表情だった。
「各大陸間だけでなく町と町の往来を見ても、現行のままでは有事の際に対応が遅れる事は誰もが解っていた事です。当然、王族も。ですが、事は起きてしまった。有事に備えるのが遅過ぎたのです」
何かが起きて、緊急性の高さを実感して、漸く本気になる。
そんな人間の何と多い事か。
かく言う自分もその一人でしかなかったと、シンシアは静かに語る。
「……ですが、遅過ぎたからと言って何もしないのは更なる愚行です。 クロエにも協力してもらってダンジョンの精霊の許可を取り、転送術を解析し、大きさや数に制限はありますが町の中で物を転送させる所までは漕ぎ着けました」
スイは転送されたマグカップを持ち上げる。本体や取っ手を触り、色々と向きを変えて見る。欠けたり、色が変わっていたりなどの異常は見えない。
『凄い……! これなら、人を転送する事も……!』
「まだです」
スイの言葉を遮った一言は、シンシアが自身に言い聞かせる戒めでもあった。
「ここまで到達するのに数百の物を破損、或いは紛失しました」
物ならば良い。壊れても替えがきく。
だが生命あるもの、動物は? 人間は?
『…………!!』
「ゾッとするでしょう? ……誰でも思いつきそうな、この転送魔法陣というものが今日まで実現されていないのは、それが理由です。過去、何人もの魔導師や賢者と呼ばれる者が研究し、繰り返し実験しましたが、誰一人として無事に生物を転送する事は出来なかったのです」
『………………』
もしかしなくても、生物で転送実験はしたのだろう。
その結果どうなったのか。
恐ろしくなったスイは想像する事をやめた。
「……実を言えば、何年も前から私は転送魔法陣の研究をしています。実現の難しさから、私が生きている間に完成させられたらそれに越したことはないけれど、そこまでいかずとも完成を後進に託せる所まで研究を進められたらと思っていたのです。でも、それは怠けていただけでした」
リビングのあちこちに積まれている本の数々。
これらは、シンシアの覚悟と決意と努力の表れだったのだ。それでもきっと、その欠片でしかない。
「私は、何としても私の手で転送魔法陣を完成させます。一生を費やす事になっても、生命に恨まれる事になっても」
『っ!? シンシア様……!?』
「大丈夫ですよ。人間では試しません。……虫や小動物、モンスターを犠牲にする事は考えていますが。人間で試す時は、私自身が魔法陣の上に乗りますから」
『「シンシア様!!」』
傍に立ったクロエと、腰を浮かしたスイの声が重なった。眼を丸くしたシンシアは、眉を下げて微笑む。
「心配いりません。やるにしても、殆ど安全である事を確認してからやりますよ」
「殆どでは駄目です。完全に安全である事を確認してからやってください。寧ろ、やらないでください」
「クロエ、言っている事が無茶苦茶ですよ?」
無茶苦茶だが、スイもクロエと同じ気持ちだ。
もしもの事があったらと思うと、止めないなんてとても出来ない。
「完全に安全である事を示す為に、人間が乗るのです。でも、それはまだ先の事ですから。私も死ぬと解りきっている段階で身を挺しはしませんよ。……クロエ、お茶を淹れてもらえますか?」
「……はい」
お湯を沸かす音だけが聞こえるリビングで、スイの眼が真っ直ぐシンシアを射抜く。
「……本当ですよ、スイ。最後に安全性を確実に証明する時も、死ぬつもりはありません。この家には、クロエがいますから」
《……どう言う意味だ?》
「クロエを残して死ぬような真似はしないという事ですよ。置いていかれると言うのは、とても悲しく、辛く、酷く心が痛むものですから」
ヒトの血を引きながら、ヒトとは遅い時を刻む身体で生き続けているシンシア。友や身内を何人も見送ってきた彼女の言葉と声は、説得力と寂しさを帯びていた。
「……ハーブティーをお持ちしました。カモミールです」
「ありがとう。寝る前に丁度良いですね」
香りを楽しんでから一口飲んだシンシアは、困ったように笑った。
「この魔法陣が完成したら、各関門だけでなく王都や政令指定都市を始め、多くの町に設置されるでしょうけれど、暫くの間は有事以外で使われないでしょうね」
《何でだ? 何処からでも行きたい町にいけるなら、いつでも使えた方が良いじゃないか》
「そうですね。けれど、幾つかの問題が出てきてしまうのです」
《?》
『……旅人が全く寄らない町が出てくる……?』
例えば中央大陸の場合、東西南北の各関門から王都を目指すとなると、旅慣れた大人の足でも最低一ヶ月半かかるかどうかと言うところだ。
その間、旅人は必ず関門と王都の間にある町で宿屋に泊まり、必要であれば他の店にも金を落とすのだが、魔法陣で移動するとなるとその必要が無くなる。
「そうなると、どうなります?」
『……今まで旅人からのお金で成り立っていたお店が、商売を続けられなくなって、町が廃れていくのでは……?』
「はい、正解です。それが問題のひとつ。もうひとつ、大きな問題として上がるのが、犯罪に使われる可能性ですね」
『!』
「有事の際の移動を考えると、一度に大量の人や物を転送させる必要があります。ですが、魔法陣の常用を可能とした場合、悪人が徒党を組んで不意打ちで町を襲ったり、魔石を沢山持ち込んで無差別に発動させたりなども出来てしまいます。門の外に設置するとしても、町が危険に晒される事に変わりはありません」
人を助ける為に作った物が、必ずしも作成者の意図に沿った使われ方をするとは限らない。
結果が良いか悪いかは別としても、突飛な考えを思いつく者は必ずいるのだ。
「どんな道具も結局は使い手次第であり、善人がいれば悪人もいます。転送魔法陣の悪用の可能性は決して妄想などではなく、現実的に有り得るのです。設置場所をよく考え、規制や法、万が一の対応策が確立されるまでは、有事以外では使わない方が良いのですよ」
《そう言う事か……。不便だけど、仕方無いな……》
微笑ったシンシアは、カモミールティーを飲み干すとクロエへカップを渡す。
「えぇ。そしてそれは王族の管轄なので、彼等に頑張って良い考えを閃いてもらいましょう。これに関しては、私の管轄外ですし」
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ファンタジー
「魔力なしの穀潰し」――そう蔑まれ、幻獣保護センターの地下で廃棄幻獣の掃除に明け暮れる少女・ミヤコ。
実のところ、その施設は「価値のない命」を無慈悲に殺処分する地獄だった。
ある日、ミヤコの前に運ばれてきたのは、泥と油にまみれた「ボロ雑巾」のような正体不明の幻獣。
誰の目にもゴミとしか映らないその塊を、ミヤコは放っておけなかった。
「こんなに汚れたままなんて、かわいそう」
彼女が生活魔法を込めたブラシで丹念に汚れを落とした瞬間、世界を縛る最凶の封印が汚れと一緒に「流されてしまう。
現れたのは、月光を纏ったような美しい銀狼。
それは世界を喰らうと恐れられる伝説の災厄級幻獣『フェンリル・ヴォイド』だった……。
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