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気がつくと、有子は薄暗い石壁の部屋に入れられていた。室内は薄暗く、天窓から差し込む日光で、ようやく昼間だとわかるほどだ。天窓以外には、出入り口に鉄格子の入った扉があり、ひからびた白パンと水だけの粗末な食事が置かれている。剣と弓矢と鎧は外されていたが、胴体は鎧の熱に焼かれたために、水ぶくれになっている部分が数箇所あった。
「へっ、ようやくお目覚めか。とりあえず、さっさと飯を食っちまえ。貴様には、聞きたいことがいろいろとあるからな」
カイゼル帝国の軍装をした兵士が、面倒くさそうに怒鳴る。有子はようやく、ここが牢屋だと気づいた。同時に空腹を覚えたので、白パンをガツガツと食べる。ひからびていたが、空腹を満たすには充分だった。
食事が終わると、有子は縄をうたれて牢屋から出され、薄暗い石壁の廊下を、兵士に連行されて歩いて行った。この区画の囚人たちは、ベオグラード王国軍の軍装をしている者が多いので、おおかた捕虜がぶちこまれているのだろう。もちろん、捕虜のほとんどは男だ。そんな中で、若い女である自分が取り調べを受け、凌辱されたらどうなるのかと思うと、恐怖で足がすくんで歩けなくなった。そこを無理矢理、縄で引っぱられながら、取調室にぶちこまれる。
室内には、机に座った年老いた軍人が一人と、若い軍人が数人いた。年老いた軍人は、優しそうな目つきの奥に、油断ならない狡猾さを隠しているように思えた。それに対し、若い軍人のほうは、あからさまに有子を小娘と思って見くだしているように感じられた。
「では、取り調べを始めよう。ユウコ、貴様は自らを大天使と名乗って、ベオグラード王国の親カイゼル帝国派をかく乱した。それに止まらず、カイゼル帝国が派遣した魔術師に私闘を挑み、ことごとくだまし討ちに近いやり方で殺した。それに相違ないか?」
年老いた軍人は、有無を言わせぬ威圧感で、有子に承諾を迫る。有子は初めのうちは、「いいえ、違います」と反論しようとしたが、年老いた軍人が「嘘をつくな」と繰り返すだけなので、最後には、「ああ、そうですよ」と投げやりに言い放ってしまった。
「ふむ。自白したな。これを裁判の記録として提出しよう。これで貴様は戦犯として死罪確定だ。さあ、おまえたち、この小娘を慰み者にして良いぞ。ワシは疲れたから退出させてもらう」
年老いた軍人が書類を机でトントンとそろえると、立ち上がり退室する。
「あ、言い忘れたが、ユウコよ、この部屋の結界の中では、貴様の自慢の魔法は封じられておるからな。抵抗するだけ無駄じゃぞ」
そのまま退室すると、扉のカギを閉めてしまう。一方、有子のほうは慄然とした。前にいる若い軍人たちは、性欲にギラついた目で有子を見おろしながら、包囲するように迫ってきたのだ。
「よく考えたら、俺たち、こんな美少女を犯せるなんて、すげえ役得だよな」
「そうだよな。犯しながら殺しても良いなんて、あからさまに軍紀違反なことをできるんだからよ。粋な計らいだぜ」
「軍の慰安婦相手だと、金も払わなければならんし、避妊もせにゃならんしな。全く、軍隊なんて、窮屈なだけだしよ。こういう楽しみがなけりゃ、軍人なんてやってられるか」
有子は全身に鳥肌が立ってきた。目の前に、男どもの性欲に満ちた目があることが、ひたすら怖かった。しかも、魔法を使おうとしても、室内には魔素も無いし、白い光も出せないように妨害の結界が張ってあるのだ。足がガクガク震えて、もらしそうだった。
だが、そこでエッちゃんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「有子、絶望的な状況なのはわかるけど、決して諦めないで。もう少しで、必ず助けが来るから。有子の思ってもいないところからね」
エッちゃんは、それだけつぶやくと、再び声が聞こえなくなった。有子は、「エッちゃん、どこにいるの?」と呼びかけたが、反応は全く無かった。
「何だ、この女? 急に、エッちゃんとか言いだして……」
若い軍人たちは、有子のほうに距離をつめてくるが、有子は先ほどのように恐怖で混乱するばかりでなく、少しは冷静に考えられるようになっていた。
(こういう男どもと戦うには、どうしたら良いんだ? 昔読んだ漫画で、そんな場合の対処法が書いてなかったか? 考えろ、あたし……)
有子は考えながら後ずさりしていると、手垢で汚れた机が背中に当たる。そのとき、ピンと閃くものがあった。有子はさめざめと泣き始めると、小声でつぶやく。
「そうだ、こんなこと言いたくなかったんですけどね……」
「はぁ? 何、もったいつけてんだ? どう転んでも、貴様が俺たちに犯されるのは、変わりゃしないんだよ」
「いや、あたし、実は性病を持ってるんですよ。見てみますか?」
「おいおい、証拠があるのかよ? あるなら見せてみろってんだよ」
一人の軍人が剣を抜き、有子の服を切り裂く。同時に、ギョッとして後ずさりする。服の下の胸は、皮膚が黒ずんでおり、腹の皮膚も真っ黒だったからだ。
「き……貴様。それは黒狼病じゃねえのか?」
「そうです。性行為によって感染し、発病したら死に至る病気ですよ。これでも、あたしを犯したいですか?」
実は、これは取調室の机やいすの真っ黒に汚れた手垢を、魔素を操るのと同じ要領で、自分の表皮の細胞に移しただけなのである。勘の良い者なら、机がまるで磨かれたようにピカピカになっているのに気づいただろう。
(やれやれ、当面は犯されずに済んだけど、けっこう痛いな……。しかも、これは皮膚が下から新しく生え変わるまで、消えそうにないわ)
とにかく、有子は犯されることもなく、元の牢屋に戻された。とりあえず、ホッと一息ついたが、このままでは遅かれ早かれ、勝手に大天使を名乗った戦犯として死罪になるだけだ。何とかして脱獄し、ベオグラード王国へ帰らねばならない。しかも、牢屋の中まで、魔素が徹底的に結界で排除されており、魔法が全く使えないのだ。
仕方ないので、とりあえず冷たい石の床に寝転がって、時間だけをつぶす。そうやって有子が途方にくれているとき、ふいに看守の控え室のほうから、人が入ってくる気配がした。看守とやり取りする声の高さからして、おそらく若い女性だ。しかも、有子の聞き覚えのある声だった。
(この声は……まさか……)
やがて、看守の立会いのもとで、女性は有子のいる牢屋の扉を開けて入ってくる。服装は、中世ヨーロッパの貴婦人の侍女のように、華美すぎず、質素すぎないものだった。
「久しぶり。有子。この異世界にとばされて、ずいぶん苦労したみたいね。偉いわ」
女性はそのまま、有子を抱きしめた。その声や顔に、有子はハッとした。
「まさか、エッちゃんなの? 小学校であたしと親友だったけど、途中で転校していっちゃって……。転校してから、行方不明になったって聞いて、どれだけ心配したか……」
「心配かけて、ごめんね。アタシ、転校してからすぐに、このカイゼル帝国にとばされちゃったんだ。原因は今でもよくわからない。とばされた頃は、言葉もよくわからないし、苦労の連続だったわ。たまたま、孤児院に拾われて、帝国の言語を必死で覚えたんだけど、当時は食べ物や衣服さえ、満足に与えられなかった……。それでも、生まれつき魔法の才能があったのか、見事に魔術師の試験に合格してさ、子爵令嬢付きの侍女にまでなれたんだ。まあ、アタシの魔法は、有子のと違って、魔素ではなく念を使うものだけどね。だから、最近、有子の意識が、隣のベオグラードから感じられるので、念を送って、助けようとしたの。まさか、カイゼル帝国で再会できるとは思わなかったけどさ」
エッちゃんは懐かしさのためか、有子を抱きしめたまま、泣き続けた。その手は、別れた頃のきれいな手ではなく、あかぎれの痕がいくつもあった。
「ちょっと待って。今日、この牢屋であたしに面会できたのも、子爵令嬢様の力ってわけ? それに、孤児が子爵令嬢付きの侍女になんて、そうはなれないよ。どうやったの?」
「ああ、それなんだけどさ……。実は、子爵令嬢様が孤児院を視察に訪れたことがあるの。もっとも、父親の子爵様の命令で、しぶしぶだけどね。でも、あまりの不潔さと孤児たちのガサツさに、嫌悪感をもよおしちゃってさ。昼飯も食べずに、来て早々に帰ろうとするから、アタシが清潔な食器に盛られた料理を、清潔なハンカチで包んで差し出したの。そのアタシの気遣いに感心された子爵令嬢様は、アタシを侍女に取り立ててくれたんだ。まあ、ここまでは、孤児院で唯一、魔術師の試験に合格したアタシを、侍女に取り立ててもらい、子爵様に孤児院への寄付をさせようという、男の子たちの計画だったけどね」
そこで、エッちゃんはいたずらっ子のように、ぺロリと舌を出す。
「もっとも、侍女になってからが、本当に大変だったわ。礼儀作法や仕事は覚えなきゃならないし、先輩からのイジメもあったしさ。そこで、アタシは魔法で先輩たちの念を探ることで、先輩たちの弱みを掴んだり、先輩がして欲しいことをしたりと、ずいぶん神経を使ったよ。そんな折に、子爵令嬢様が、大事にしていた母君の形見の首飾りを無くされたから、アタシはあちこちの侍女たちの念を探りながら、幾日も探し続けたの。どうやら、下水溝に落ちてしまったと知ったから、一張羅の服をドロドロに汚してまで、あちこちの下水溝を探したわ。やっとこさで首飾りを見つけたときは、涙が出たよ」
そのまま、エッちゃんは苦労したことを思い出したのか、涙を流した。
「そうやって、子爵令嬢様への忠勤が認められて、信頼も得られたから、今、お側にいられるってわけ。侍女に取り立てられた経緯がどうあれ、それ以来、子爵令嬢様は孤児院の貧困の問題に関心を持ち始め、孤児たちとも仲良くなってきたしね。今回も子爵令嬢様に特別にお願いして、会いに来させてもらったの。ほら、後ろにいらっしゃるのが、子爵令嬢様だよ」
エッちゃんが、うやうやしく礼をすると、後ろから、茶褐色の髪を高く結い上げて赤いドレスを着た貴族の貴婦人が現れた。同時に、「この人を牢屋から出しなさい。わたくしの命令です」と、凛とした声で命じる。
「初めまして。レーム子爵の娘のゾフィーと申します。ユウコさんのお話は、侍女のエイコから聞き及んでおります。エイコの幼少期に、すごく良くしていただいたそうですね。エイコの友人は、わたくしの友人も同じです。父の子爵には、わたくしから話を通しておきましたから、どうぞ我が屋敷にて、身をお隠しください。条件付きではありますが」
ゾフィーの優しい物腰に、有子は警戒心を解いてしまったが、屋敷に招くのが条件付きというのが気になったので、思い切って、「条件とは何ですか?」と尋ねてみた。
「大きな声では言えませんが、カイゼル帝国では今、帝位をめぐる権力争いが起きつつあるのです。皇帝が老齢のため、出来の悪い第一皇子を嫡子として推す者と、第一皇子を廃嫡して英明な第二皇子を推す者とで、水面下で争っております。そして、父の子爵は第二皇子側です。帝位を継ぐための戦果をあげるために、ベオグラード王国を併呑しようとして、トログリムに援助をしているのが、第一皇子ですから、廃嫡はユウコさんにとっても願ったりだと思いますが、いかがでしょうか?」
「つまり、あたしの魔法で、第二皇子殿下を助けてほしいわけですね。しかし、あたしの魔法は、そこまで強力なものではありません。先日も、カイゼル帝国軍の魔術師に、あっさり負けましたし……。正直言って、とうてい政争のお役に立てるとは思えません」
有子は自信なさそうに言ったが、ゾフィーは別に気にしていないようだった。
「かまいませんよ。魔法が使えるというだけで、わたくしの陣営にとっては、貴重な戦力です。むしろ、自分の魔法の限界をちゃんとご存じなのは、好印象でした。さあ、一刻も早く、わたくしの屋敷へいらしてください。事前の準備もありますので」
ゾフィーは看守から、牢屋の一室を借りると、そこで有子を、エッちゃんのような侍女の服に着替えさせ、表に待たせてあった馬車に乗り込んだ。死刑囚から一転して子爵邸に住むことになったため、有子は事態の急転に付いていけずに、目を白黒させるばかりだったが、張り詰めていた気が緩み、馬車の中では眠っていた。そのうち、馬車が停まると、有子はエッちゃんに起こされ、停車場から玄関に入り、あてがわれた部屋に通される。
「お疲れだったでしょう。お腹も空いているでしょうから、すぐにお食事を運ばせます」
ゾフィーはそれだけ言うと、退室した。考えてみれば、牢屋に入れられてから、まずいパンと水しか与えられてないのだ。有子は、今さらながら、腹がぐっと鳴るのを感じた。
三十分ほどたって、食事が運ばれてくる。といっても、貴族の食べる豪勢な料理ではなく、白パン、野菜のスープ、卵料理、大ぶりのオレンジだ。それでも、焼き立ての湯気のたつ白パンを見ただけで、有子は食欲をそそられた。たちまち完食してしまう。
「お口に合いましたようで、良かったです。ユウコさんはエイコと同郷の出身だそうですから、エイコのいつも食べている献立にさせていただきました」
ゾフィーが再び入室すると、笑みを浮かべてテーブルに座る。
「さて、第一皇子、ウダーイに関することを、ユウコさんにお伝えしておきます。ウダーイは学問がちっともできず、力だけが強い乱暴者です。皇帝陛下にしてみれば、バカな息子ほど可愛いのでしょうが、あれは人の上に立てる器ではありません。人格に難ありです。そこで、父上が擁立しようとしている第二皇子、クチャーイですが、クチャーイ殿下は物静かな方で、真面目で責任感もございます。とりあえず、明日、宮廷で舞踏会がありますから、そこでお二人の人となりをご覧になってください」
「へっ、ようやくお目覚めか。とりあえず、さっさと飯を食っちまえ。貴様には、聞きたいことがいろいろとあるからな」
カイゼル帝国の軍装をした兵士が、面倒くさそうに怒鳴る。有子はようやく、ここが牢屋だと気づいた。同時に空腹を覚えたので、白パンをガツガツと食べる。ひからびていたが、空腹を満たすには充分だった。
食事が終わると、有子は縄をうたれて牢屋から出され、薄暗い石壁の廊下を、兵士に連行されて歩いて行った。この区画の囚人たちは、ベオグラード王国軍の軍装をしている者が多いので、おおかた捕虜がぶちこまれているのだろう。もちろん、捕虜のほとんどは男だ。そんな中で、若い女である自分が取り調べを受け、凌辱されたらどうなるのかと思うと、恐怖で足がすくんで歩けなくなった。そこを無理矢理、縄で引っぱられながら、取調室にぶちこまれる。
室内には、机に座った年老いた軍人が一人と、若い軍人が数人いた。年老いた軍人は、優しそうな目つきの奥に、油断ならない狡猾さを隠しているように思えた。それに対し、若い軍人のほうは、あからさまに有子を小娘と思って見くだしているように感じられた。
「では、取り調べを始めよう。ユウコ、貴様は自らを大天使と名乗って、ベオグラード王国の親カイゼル帝国派をかく乱した。それに止まらず、カイゼル帝国が派遣した魔術師に私闘を挑み、ことごとくだまし討ちに近いやり方で殺した。それに相違ないか?」
年老いた軍人は、有無を言わせぬ威圧感で、有子に承諾を迫る。有子は初めのうちは、「いいえ、違います」と反論しようとしたが、年老いた軍人が「嘘をつくな」と繰り返すだけなので、最後には、「ああ、そうですよ」と投げやりに言い放ってしまった。
「ふむ。自白したな。これを裁判の記録として提出しよう。これで貴様は戦犯として死罪確定だ。さあ、おまえたち、この小娘を慰み者にして良いぞ。ワシは疲れたから退出させてもらう」
年老いた軍人が書類を机でトントンとそろえると、立ち上がり退室する。
「あ、言い忘れたが、ユウコよ、この部屋の結界の中では、貴様の自慢の魔法は封じられておるからな。抵抗するだけ無駄じゃぞ」
そのまま退室すると、扉のカギを閉めてしまう。一方、有子のほうは慄然とした。前にいる若い軍人たちは、性欲にギラついた目で有子を見おろしながら、包囲するように迫ってきたのだ。
「よく考えたら、俺たち、こんな美少女を犯せるなんて、すげえ役得だよな」
「そうだよな。犯しながら殺しても良いなんて、あからさまに軍紀違反なことをできるんだからよ。粋な計らいだぜ」
「軍の慰安婦相手だと、金も払わなければならんし、避妊もせにゃならんしな。全く、軍隊なんて、窮屈なだけだしよ。こういう楽しみがなけりゃ、軍人なんてやってられるか」
有子は全身に鳥肌が立ってきた。目の前に、男どもの性欲に満ちた目があることが、ひたすら怖かった。しかも、魔法を使おうとしても、室内には魔素も無いし、白い光も出せないように妨害の結界が張ってあるのだ。足がガクガク震えて、もらしそうだった。
だが、そこでエッちゃんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。
「有子、絶望的な状況なのはわかるけど、決して諦めないで。もう少しで、必ず助けが来るから。有子の思ってもいないところからね」
エッちゃんは、それだけつぶやくと、再び声が聞こえなくなった。有子は、「エッちゃん、どこにいるの?」と呼びかけたが、反応は全く無かった。
「何だ、この女? 急に、エッちゃんとか言いだして……」
若い軍人たちは、有子のほうに距離をつめてくるが、有子は先ほどのように恐怖で混乱するばかりでなく、少しは冷静に考えられるようになっていた。
(こういう男どもと戦うには、どうしたら良いんだ? 昔読んだ漫画で、そんな場合の対処法が書いてなかったか? 考えろ、あたし……)
有子は考えながら後ずさりしていると、手垢で汚れた机が背中に当たる。そのとき、ピンと閃くものがあった。有子はさめざめと泣き始めると、小声でつぶやく。
「そうだ、こんなこと言いたくなかったんですけどね……」
「はぁ? 何、もったいつけてんだ? どう転んでも、貴様が俺たちに犯されるのは、変わりゃしないんだよ」
「いや、あたし、実は性病を持ってるんですよ。見てみますか?」
「おいおい、証拠があるのかよ? あるなら見せてみろってんだよ」
一人の軍人が剣を抜き、有子の服を切り裂く。同時に、ギョッとして後ずさりする。服の下の胸は、皮膚が黒ずんでおり、腹の皮膚も真っ黒だったからだ。
「き……貴様。それは黒狼病じゃねえのか?」
「そうです。性行為によって感染し、発病したら死に至る病気ですよ。これでも、あたしを犯したいですか?」
実は、これは取調室の机やいすの真っ黒に汚れた手垢を、魔素を操るのと同じ要領で、自分の表皮の細胞に移しただけなのである。勘の良い者なら、机がまるで磨かれたようにピカピカになっているのに気づいただろう。
(やれやれ、当面は犯されずに済んだけど、けっこう痛いな……。しかも、これは皮膚が下から新しく生え変わるまで、消えそうにないわ)
とにかく、有子は犯されることもなく、元の牢屋に戻された。とりあえず、ホッと一息ついたが、このままでは遅かれ早かれ、勝手に大天使を名乗った戦犯として死罪になるだけだ。何とかして脱獄し、ベオグラード王国へ帰らねばならない。しかも、牢屋の中まで、魔素が徹底的に結界で排除されており、魔法が全く使えないのだ。
仕方ないので、とりあえず冷たい石の床に寝転がって、時間だけをつぶす。そうやって有子が途方にくれているとき、ふいに看守の控え室のほうから、人が入ってくる気配がした。看守とやり取りする声の高さからして、おそらく若い女性だ。しかも、有子の聞き覚えのある声だった。
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「まさか、エッちゃんなの? 小学校であたしと親友だったけど、途中で転校していっちゃって……。転校してから、行方不明になったって聞いて、どれだけ心配したか……」
「心配かけて、ごめんね。アタシ、転校してからすぐに、このカイゼル帝国にとばされちゃったんだ。原因は今でもよくわからない。とばされた頃は、言葉もよくわからないし、苦労の連続だったわ。たまたま、孤児院に拾われて、帝国の言語を必死で覚えたんだけど、当時は食べ物や衣服さえ、満足に与えられなかった……。それでも、生まれつき魔法の才能があったのか、見事に魔術師の試験に合格してさ、子爵令嬢付きの侍女にまでなれたんだ。まあ、アタシの魔法は、有子のと違って、魔素ではなく念を使うものだけどね。だから、最近、有子の意識が、隣のベオグラードから感じられるので、念を送って、助けようとしたの。まさか、カイゼル帝国で再会できるとは思わなかったけどさ」
エッちゃんは懐かしさのためか、有子を抱きしめたまま、泣き続けた。その手は、別れた頃のきれいな手ではなく、あかぎれの痕がいくつもあった。
「ちょっと待って。今日、この牢屋であたしに面会できたのも、子爵令嬢様の力ってわけ? それに、孤児が子爵令嬢付きの侍女になんて、そうはなれないよ。どうやったの?」
「ああ、それなんだけどさ……。実は、子爵令嬢様が孤児院を視察に訪れたことがあるの。もっとも、父親の子爵様の命令で、しぶしぶだけどね。でも、あまりの不潔さと孤児たちのガサツさに、嫌悪感をもよおしちゃってさ。昼飯も食べずに、来て早々に帰ろうとするから、アタシが清潔な食器に盛られた料理を、清潔なハンカチで包んで差し出したの。そのアタシの気遣いに感心された子爵令嬢様は、アタシを侍女に取り立ててくれたんだ。まあ、ここまでは、孤児院で唯一、魔術師の試験に合格したアタシを、侍女に取り立ててもらい、子爵様に孤児院への寄付をさせようという、男の子たちの計画だったけどね」
そこで、エッちゃんはいたずらっ子のように、ぺロリと舌を出す。
「もっとも、侍女になってからが、本当に大変だったわ。礼儀作法や仕事は覚えなきゃならないし、先輩からのイジメもあったしさ。そこで、アタシは魔法で先輩たちの念を探ることで、先輩たちの弱みを掴んだり、先輩がして欲しいことをしたりと、ずいぶん神経を使ったよ。そんな折に、子爵令嬢様が、大事にしていた母君の形見の首飾りを無くされたから、アタシはあちこちの侍女たちの念を探りながら、幾日も探し続けたの。どうやら、下水溝に落ちてしまったと知ったから、一張羅の服をドロドロに汚してまで、あちこちの下水溝を探したわ。やっとこさで首飾りを見つけたときは、涙が出たよ」
そのまま、エッちゃんは苦労したことを思い出したのか、涙を流した。
「そうやって、子爵令嬢様への忠勤が認められて、信頼も得られたから、今、お側にいられるってわけ。侍女に取り立てられた経緯がどうあれ、それ以来、子爵令嬢様は孤児院の貧困の問題に関心を持ち始め、孤児たちとも仲良くなってきたしね。今回も子爵令嬢様に特別にお願いして、会いに来させてもらったの。ほら、後ろにいらっしゃるのが、子爵令嬢様だよ」
エッちゃんが、うやうやしく礼をすると、後ろから、茶褐色の髪を高く結い上げて赤いドレスを着た貴族の貴婦人が現れた。同時に、「この人を牢屋から出しなさい。わたくしの命令です」と、凛とした声で命じる。
「初めまして。レーム子爵の娘のゾフィーと申します。ユウコさんのお話は、侍女のエイコから聞き及んでおります。エイコの幼少期に、すごく良くしていただいたそうですね。エイコの友人は、わたくしの友人も同じです。父の子爵には、わたくしから話を通しておきましたから、どうぞ我が屋敷にて、身をお隠しください。条件付きではありますが」
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「大きな声では言えませんが、カイゼル帝国では今、帝位をめぐる権力争いが起きつつあるのです。皇帝が老齢のため、出来の悪い第一皇子を嫡子として推す者と、第一皇子を廃嫡して英明な第二皇子を推す者とで、水面下で争っております。そして、父の子爵は第二皇子側です。帝位を継ぐための戦果をあげるために、ベオグラード王国を併呑しようとして、トログリムに援助をしているのが、第一皇子ですから、廃嫡はユウコさんにとっても願ったりだと思いますが、いかがでしょうか?」
「つまり、あたしの魔法で、第二皇子殿下を助けてほしいわけですね。しかし、あたしの魔法は、そこまで強力なものではありません。先日も、カイゼル帝国軍の魔術師に、あっさり負けましたし……。正直言って、とうてい政争のお役に立てるとは思えません」
有子は自信なさそうに言ったが、ゾフィーは別に気にしていないようだった。
「かまいませんよ。魔法が使えるというだけで、わたくしの陣営にとっては、貴重な戦力です。むしろ、自分の魔法の限界をちゃんとご存じなのは、好印象でした。さあ、一刻も早く、わたくしの屋敷へいらしてください。事前の準備もありますので」
ゾフィーは看守から、牢屋の一室を借りると、そこで有子を、エッちゃんのような侍女の服に着替えさせ、表に待たせてあった馬車に乗り込んだ。死刑囚から一転して子爵邸に住むことになったため、有子は事態の急転に付いていけずに、目を白黒させるばかりだったが、張り詰めていた気が緩み、馬車の中では眠っていた。そのうち、馬車が停まると、有子はエッちゃんに起こされ、停車場から玄関に入り、あてがわれた部屋に通される。
「お疲れだったでしょう。お腹も空いているでしょうから、すぐにお食事を運ばせます」
ゾフィーはそれだけ言うと、退室した。考えてみれば、牢屋に入れられてから、まずいパンと水しか与えられてないのだ。有子は、今さらながら、腹がぐっと鳴るのを感じた。
三十分ほどたって、食事が運ばれてくる。といっても、貴族の食べる豪勢な料理ではなく、白パン、野菜のスープ、卵料理、大ぶりのオレンジだ。それでも、焼き立ての湯気のたつ白パンを見ただけで、有子は食欲をそそられた。たちまち完食してしまう。
「お口に合いましたようで、良かったです。ユウコさんはエイコと同郷の出身だそうですから、エイコのいつも食べている献立にさせていただきました」
ゾフィーが再び入室すると、笑みを浮かべてテーブルに座る。
「さて、第一皇子、ウダーイに関することを、ユウコさんにお伝えしておきます。ウダーイは学問がちっともできず、力だけが強い乱暴者です。皇帝陛下にしてみれば、バカな息子ほど可愛いのでしょうが、あれは人の上に立てる器ではありません。人格に難ありです。そこで、父上が擁立しようとしている第二皇子、クチャーイですが、クチャーイ殿下は物静かな方で、真面目で責任感もございます。とりあえず、明日、宮廷で舞踏会がありますから、そこでお二人の人となりをご覧になってください」
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しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜
深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。
処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。
なぜなら彼女は――
前世で“トップインフルエンサー”だったから。
処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。
空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。
タイトルは――
『断罪なう』。
王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。
すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、
国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
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