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第1章 暗い闇と蒼い薔薇
王子様の誤算 2
しおりを挟む「いっそ、ここに居を移されたほうがいいのじゃないかしら」
サリーは本気で、そう思っている。
レティシアにとって、王宮に近い公爵家の屋敷よりも安全なのは確かだ。
なにより、ここには大公がいる。
どんな地位にいる者でも、彼を脅かすことはできない。
大公の力は誰もが知っているし、この国にとどまっていてほしいと思ってもいるだろう。
大公なくして国の平和は保たれない。
今まで妻の故郷というのは、大公にとって大きな意味を持つものだった。
が、その想いも変わってきているのではないかと思う。
でなければ、想い出の屋敷に手を加えることを許したりはしなかったはずだ。
大公が、今、最優先に大事にしているのはレティシアに違いない。
「どうしたんだ、突然」
いつものごとく厨房にいる。
けれど、ガドは屋敷に残っており、マルクもすでに寝室に引き上げていた。
ここにいるのは、サリーとグレイの2人だけだ。
芋の皮剥きの際などに使う、簡素なイスに座っていた。
やはり背もたれはない。
それでも、グレイの背筋はピンと伸びている。
対して、サリーは少し前かがみになっていた。
両肘を膝の上に置き、その先で両手を組んでいる。
「ここには大公様もいらっしゃるし、安全じゃない? 殿下がいつ婚姻するかわからない上に、たとえ正妃を迎えたとしても、それでレティシア様を諦めるとは限らないでしょう?」
「それはそうだが……ずっとここで暮らすというのは、どうだろう」
屋敷に、二度と帰らないということではない。
サリーも、レティシアが、屋敷に残っている者たちを気にかけているのは知っている。
時々、大公が「遠眼鏡」を使うくらいだ。
レティシアは「ウチのみんな」を、使用人だとは思っていない。
それは、身に沁みていた。
「わかっているわよ、グレイ」
ここでの生活をレティシアも楽しんでいる。
ただ、それは「いずれ帰る」ことを前提にしたものだ。
長期ではあれ、旅を満喫しているに過ぎない。
ずっとここで暮らせと言われたら、きっと戸惑う。
不満はなくても、ここはレティシアの「ウチ」ではないのだから。
「心配しているのか?」
「当然でしょう? 私たちは、1度、レティシア様を失いかけているのよ?」
サイラスが怪しげな人物だと知っていた。
なのに、2人きりにさせたのだ。
あげく、サイラスから「しばらく1人にしておけ」と言われ、その言葉に従ってしまった。
その結果、レティシアは命を落としかけている。
あんな失敗は、もうしたくなかった。
さりとて、自分にはなんの力もない。
多少、魔術が使えはするが、それで彼女を守り切れるとは思えずにいる。
サリーの魔力は、王宮魔術師の位に換算すると、中の中程度。
上級魔術師の1人や2人なら足止めくらいはできるだろう。
けれど、それ以上の人数で来られたら、足止めにすらなれない。
「きみの心配はわかる。私だって、あの時のことは悔いているんだ」
グレイが顔をしかめていた。
レティシアからの指示であれ、無理にでも同席すべきだったと思っているのだろう。
その後のことにしても同じだ。
扉をぶち破ってでも、部屋に入るべきだった。
事実、大公は戻るや否や、それをしている。
そして、室内に倒れているレティシアを見つけたのだ。
自分たちが、もたもたしている間に、レティシアの命の灯は消えかけていた。
「それなら、わかってよ。私は……レティシア様には安全なところで生活をしていただきたいの。もう危ない目にはあってほしくない」
「サリー……」
彼女が笑うと、周りがパッと明るくなる。
身分や常識など気にもせず、いつも笑い飛ばしてくれた。
サリーには、さらに強い後悔の念と罪悪感がある。
マリエッタとパットのことだ。
屋敷内の全員が知っていて、レティシアだけが知らなかった事実。
この「全員」の中には、彼女の両親も含まれている。
2人をグレイに紹介したのは大公だったので、大公も当然に知っていた。
知らなかったのは、本当にレティシアだけだったのだ。
彼女に話さなかったのは、言えば解雇されるとわかっていたからだ。
以前の彼女であれば、間違いなく2人を屋敷から追い出していた。
「私たちは、使用人……だけど、レティシア様は、家族同然だと言ってくれて……ちゃんと“人”として見てくださってる」
たった2ヶ月ほどで、彼女に対する評価が変わった理由でもある。
十年だ。
十年も彼女は傍若無人に振る舞ってきた。
普通なら、自分たちが評価を変えることはなかっただろうし、むしろ冷たくあしらっていてもおかしくはない。
彼女のしてきたことを思えば、信頼なんて鼻で笑ってしまうところだ。
が、今の彼女は信頼に足ると思える。
彼女は、1人1人を名前で呼び、けして間違わない。
朝当番、昼当番を通じて知った屋敷の者の仕事ぶりや嗜好などをちゃんと把握していて、混同したこともなかった。
それを苦も無く「フツー」にやっている。
彼女の目に映っているのは使用人ではなく、いつも1人の人間なのだ。
「……私は、彼女を失いたくない」
サリーは、両手をぎゅっと握りしめる。
貴族同士でも上下があり、家の中でも上下はあった。
そういうものを、レティシアは簡単に打ち破ってくる。
あんな「姫さま」は、どこを探してもいないのだ。
巡り合えたことを幸運だと感じている。
「サリー……私もレティシア様を、失いたくはない。ここにいれば安全だとも思っている。私に……彼女を守り切るだけの力がないことも、わかっているよ」
サリーは、いつしかうつむいていた顔を上げた。
グレイの眼鏡の奥にある瞳を、じっと見つめる。
大公とは違う、感情の見える静けさを持つ瞳だ。
暗い色をしていても、その奥には揺らぐ彼の心が映されている。
「……私たちが間違えたのは2度目だ、サリー」
「2度目……」
「ガドの言葉を覚えているだろう?」
言われて、ハッとなった。
レティシアが、己の血の特別さに気づいていないという話をしていた時だ。
ガドは「教えるべき」だと言ったのに、残りの3人は同意しなかった。
その際に、ガドは言った。
『……それは……俺たちの都合、だ』
正論であり、正解でもある。
ガドの言うように、ちゃんと教えていればよかった。
仮にそれで彼女が以前の彼女に戻ってしまう可能性があったとしても。
「レティシア様に無事でいてほしい、失いたくない、と思うのは……俺たちの都合なんじゃないか?」
きゅっと、サリーは唇を引き結んだ。
そうかもしれない。
たぶん、そうなのだろう。
これは身勝手な自分の想い。
「レティシア様がどうなさりたいか。私は、その手助けをしたい」
ここで暮らせば安全は確保できる。
けれど、それをレティシアが望むかと言えば、おそらく違うのだ。
彼女は「いずれウチ帰る」と無邪気に信じているのだから。
サリーは、大きく息を吐き出す。
ガドは正しかった。
そして、グレイも正しい。
「彼女を失いたくなくて……私が安心したいだけだったみたいね……」
自分の心の平和のために、レティシアの気持ちを無視しようとしていた。
どんな危険があるとしても、たとえ守り切る力が持たないとしても、やれることはある。
レティシアの意思を尊重することだ。
その上で、自分にできる最善を尽くす。
いや、最善以上を。
「ところで、きみがそんなことを言いだすなんて、なにかあったのか?」
へたれな男ではあるが、さすがは有能執事。
サリーのことも、よく知っている。
執事として、支え合ってきた同志として、サリーはグレイを信じていた。
たいしたことではないのかもしれないが、気にしていることがある。
「ここ2日、レティシア様は、お昼寝をなさるでしょう?」
「体調を崩しておられると?」
サリーは首を横に振った。
レティシアは元気で、体調には何も問題はない。
その問題がないことが、問題なのだ。
「様子を見に行ったのだけど、レティシア様は、お部屋にいらっしゃらなかったの。たぶん……お部屋を抜け出されて、どこかに行っておられるのだわ」
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