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欲望の果 第一章・嫉妬(4)
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実は、宝物の一件を森岡より早く嗅ぎ付けた男がいた。
後日判明したことであるが、法国寺の執事の中にその男の息の掛かった僧侶が潜んでいたのである。帝玄は、直ちに内通した僧侶の職を解いたが、宝物の一件を知った男は、それを材料に帝玄を恐喝してきた。
その要求は、
『天山修行堂を譲れ』
というものだった。三億円で買い取るというのだ。もちろん買い取りというのは裏工作で、表向きには『後継者に指名しろ』と要求してきたのである。
なんと、森岡と同じ着眼をした切れ者がいたのである。
「考えることは、皆同様ということですか」
「たしかに目的は同じだが、手段と心根が君とは全く違った」
帝玄は語気を強めて一刀両断すると、我が身の立身出世のみしか眼中にない男の魂胆を見抜いていたと付言した。
もっとも、男の要求は今回が初めてではなかった。帝玄が借金で苦労している事実を知った男は、すでに三年も前から買収話を持ち掛けていたのだという。
「おそらくは、瑞真寺……」
と、帝玄が思わず呟いたのを森岡は聞き逃さなかった。
「瑞真寺、とおっしゃいましたか」
森岡は目敏く訊いた。
だが、
「いや、なんでもない。今のは聞かなかったことにして欲しい」
帝玄があわてて口を濁したため、森岡はそれ以上の詮索を控えざるを得なかった。
――やはり、瑞真寺は御前様に敵対していたか。
森岡の心の中に細波が立った。
「少なく見積もっても六億は下らない土地を、半値の三億で買収すると申し出たこと自体は足元を見ただけでのことだったが、今回は話に応じなければ警察沙汰にするとまで口にした」
帝玄は苦悶の表情で言った。
そこまで聞いて、森岡の胸にある疑問が浮かんだ。
「此度の恐喝は論外と致しまして、これまで断り続けてこられた理由はその男は天山修行堂を受け継ぐには能力不足だったからでしょうか」
「いや、能力に限って言えば適任者だった。それこそ、娘婿などより断然な」
「では、どうしてこれまでお断りになったのでしょうか」
「繰り返しになるが、私には神村上人こそが意中の人物だったのだよ」
「はい」
森岡は納得顔で肯く。
「これはね、森岡君。私だけの想いだけではなく、父帝法の切なる願いでもあったのだよ」
「御尊父様の?」
「神村上人は、父の最晩年に天山修行堂にやって来た。父は、いつか私にこう言ったことがあったよ。『神村君を初めて見たとき、私が待ち望んでいたのはこの若者だったと悟った』とね。私は、父に一度も誉められたことがなかったから、正直神村上人に嫉妬したこともあったが、その後の彼の精進振りを見るにつけ、なるほど父の気持ちが良くわかった」
「御前様ほどのお方でも、嫉妬をされたのですか」
森岡は信じられないと言った顔つきで訊いた。
帝玄ほどの高僧である。嫉妬などという劣情とは無縁だと思っていた。
「人間というのは厄介な生き物でね。私だって若いときは嫉妬だけでなく、仏教の教えに反して、人を憎んだり恨んだりしたものだよ」
「失礼ながら、御前様ほどの家門と才能に恵まれたお方でも、そのようなお気持ちになられるのですか」
「森岡君。むしろ、名門といった肩書きや、なまじ才能がある方が厄介かもしれないよ」
ふむ、と森岡は言葉を咀嚼するように考え込んだ。そして帝玄の達観した謹言は、彼の胸の奥深きところに刻み込まれることになった。
「ところで、森岡君は恵果(けいか)阿闍梨という中国の高僧を知っているかね」
帝玄が話題を変えた。
「無学ですので、弘法大師空海上人に密教の奥義を伝授された方としか存じません」
「十分だよ」
帝玄が顎を小さく引いた。
阿闍梨(あじゃり、あざり)とは、サンスクリットで軌範を意味し、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する僧侶を指している。
恵果阿闍梨というのは、当時金剛頂系と大日系に分かれていた密教を一つに纏めるという偉業を成し遂げた偉大な僧侶で、代宗、徳宗、順宗と三代に亘る唐の皇帝に師と仰がれたため、三朝国師と呼ばれた。
そして、一子相伝とも言われる密教の奥義を授けるべく、日本から空海上人が来訪するのを待ちわび、奥義を伝授するや否や、使命を全うしたたかのように亡くなった人物でもある。
後年、空海上人は師の恵果阿闍梨を評して『虚往実帰(きょおうじっき)』という言葉を用いている。虚往実帰とは、行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実し、十分に満足しているという意である。つまり恵果阿闍梨は空海上人をして、それだけ徳の高い人物だったという、最大賛辞を口にさせるほどの人物だったということである。
恵果阿闍梨は、一度奥義を弟子の中国僧義明に授けたのだが、その義明が恵果阿闍梨より先に逝去してしまったため、もう一度、奥義を受け継ぐに相応しい人物を探さなければならなかった。
もっともこれには異説もあり、義明の存命中に、空海上人にも奥義を授けたという説もある。いずれにせよ、かなり年老いてからのことであり、体調も思わしくなかったが、それでも周囲の猛反対を押し切り、継承者を空海上人と定め、日本からの渡来を待ちわびていたという。
空海上人は、暴風雨の中を命からがら唐の都の長安に辿り着き、幸運にも青龍寺に二千人とも三千人とも言われる弟子を持つ、恵果阿闍梨から短期間で密教の全てを伝授された。恵果は、初めて会った空海上人を見るや、『我汝の来るを知り、待つこと久し。今日相見えて大いに好し』と告げ、空海上人は大変驚いたとの記述が残っている。
ちなみに、そういう状況下であったため、通常は数年掛かる奥義の伝承を、僅か数ヶ月で終えたと言われている。言葉の問題も克服しての偉業であるから、空海上人がいかに大天才であったかの証であろう。
尚、真言密教伝持の八祖は、第一祖・龍猛菩薩(りゅうもうぼさつ)に始まり、第二祖・龍智菩薩(りゅちぼさつ)、三祖・金剛智(こんごうち)、第四祖・不空三蔵(ふくうさんぞう)、第五祖・善無畏(ぜんむい)、第六祖・一行(いちぎょう・いっこう)禅師、第七祖・恵果阿闍梨と続き、第八祖・弘法大師空海へと伝承された。
こうしてインドで生まれた真言密教の教えが、第三祖の金剛智によって中国に伝わり、第八祖の空海上人によって日本に伝えられたのである。
公式の学説では、密教奥義の伝承は空海上人を最後に途絶えたということになっているが、実は密かに受け継がれて来ており、現在の正統伝承者が神村正遠なのである。
一方で日本仏教界にとって不幸なこともあった。
平安仏教のもうひとつの聖地である、比叡山延暦寺の開祖最澄上人もまた遣唐使船で唐に渡ったが、短い留学期間ということもあって、密教の奥義を伝授されずに帰国した。
そこで最澄上人は、頭を下げて一旦空海上人の弟子になり、奥義を極めんと欲したが、空海上人は伝法灌頂を受けるに足る修行を終えていないと奥義の伝承を拒否した。
これが日本仏教の二大聖地とも母体とも言われる両者の間に深い溝を作ってしまった。そしてその確執は、実に千数百年もの長きに亘ることになり、二十一世紀になってようやく歴史的和解に至るのである。
後日判明したことであるが、法国寺の執事の中にその男の息の掛かった僧侶が潜んでいたのである。帝玄は、直ちに内通した僧侶の職を解いたが、宝物の一件を知った男は、それを材料に帝玄を恐喝してきた。
その要求は、
『天山修行堂を譲れ』
というものだった。三億円で買い取るというのだ。もちろん買い取りというのは裏工作で、表向きには『後継者に指名しろ』と要求してきたのである。
なんと、森岡と同じ着眼をした切れ者がいたのである。
「考えることは、皆同様ということですか」
「たしかに目的は同じだが、手段と心根が君とは全く違った」
帝玄は語気を強めて一刀両断すると、我が身の立身出世のみしか眼中にない男の魂胆を見抜いていたと付言した。
もっとも、男の要求は今回が初めてではなかった。帝玄が借金で苦労している事実を知った男は、すでに三年も前から買収話を持ち掛けていたのだという。
「おそらくは、瑞真寺……」
と、帝玄が思わず呟いたのを森岡は聞き逃さなかった。
「瑞真寺、とおっしゃいましたか」
森岡は目敏く訊いた。
だが、
「いや、なんでもない。今のは聞かなかったことにして欲しい」
帝玄があわてて口を濁したため、森岡はそれ以上の詮索を控えざるを得なかった。
――やはり、瑞真寺は御前様に敵対していたか。
森岡の心の中に細波が立った。
「少なく見積もっても六億は下らない土地を、半値の三億で買収すると申し出たこと自体は足元を見ただけでのことだったが、今回は話に応じなければ警察沙汰にするとまで口にした」
帝玄は苦悶の表情で言った。
そこまで聞いて、森岡の胸にある疑問が浮かんだ。
「此度の恐喝は論外と致しまして、これまで断り続けてこられた理由はその男は天山修行堂を受け継ぐには能力不足だったからでしょうか」
「いや、能力に限って言えば適任者だった。それこそ、娘婿などより断然な」
「では、どうしてこれまでお断りになったのでしょうか」
「繰り返しになるが、私には神村上人こそが意中の人物だったのだよ」
「はい」
森岡は納得顔で肯く。
「これはね、森岡君。私だけの想いだけではなく、父帝法の切なる願いでもあったのだよ」
「御尊父様の?」
「神村上人は、父の最晩年に天山修行堂にやって来た。父は、いつか私にこう言ったことがあったよ。『神村君を初めて見たとき、私が待ち望んでいたのはこの若者だったと悟った』とね。私は、父に一度も誉められたことがなかったから、正直神村上人に嫉妬したこともあったが、その後の彼の精進振りを見るにつけ、なるほど父の気持ちが良くわかった」
「御前様ほどのお方でも、嫉妬をされたのですか」
森岡は信じられないと言った顔つきで訊いた。
帝玄ほどの高僧である。嫉妬などという劣情とは無縁だと思っていた。
「人間というのは厄介な生き物でね。私だって若いときは嫉妬だけでなく、仏教の教えに反して、人を憎んだり恨んだりしたものだよ」
「失礼ながら、御前様ほどの家門と才能に恵まれたお方でも、そのようなお気持ちになられるのですか」
「森岡君。むしろ、名門といった肩書きや、なまじ才能がある方が厄介かもしれないよ」
ふむ、と森岡は言葉を咀嚼するように考え込んだ。そして帝玄の達観した謹言は、彼の胸の奥深きところに刻み込まれることになった。
「ところで、森岡君は恵果(けいか)阿闍梨という中国の高僧を知っているかね」
帝玄が話題を変えた。
「無学ですので、弘法大師空海上人に密教の奥義を伝授された方としか存じません」
「十分だよ」
帝玄が顎を小さく引いた。
阿闍梨(あじゃり、あざり)とは、サンスクリットで軌範を意味し、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する僧侶を指している。
恵果阿闍梨というのは、当時金剛頂系と大日系に分かれていた密教を一つに纏めるという偉業を成し遂げた偉大な僧侶で、代宗、徳宗、順宗と三代に亘る唐の皇帝に師と仰がれたため、三朝国師と呼ばれた。
そして、一子相伝とも言われる密教の奥義を授けるべく、日本から空海上人が来訪するのを待ちわび、奥義を伝授するや否や、使命を全うしたたかのように亡くなった人物でもある。
後年、空海上人は師の恵果阿闍梨を評して『虚往実帰(きょおうじっき)』という言葉を用いている。虚往実帰とは、行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実し、十分に満足しているという意である。つまり恵果阿闍梨は空海上人をして、それだけ徳の高い人物だったという、最大賛辞を口にさせるほどの人物だったということである。
恵果阿闍梨は、一度奥義を弟子の中国僧義明に授けたのだが、その義明が恵果阿闍梨より先に逝去してしまったため、もう一度、奥義を受け継ぐに相応しい人物を探さなければならなかった。
もっともこれには異説もあり、義明の存命中に、空海上人にも奥義を授けたという説もある。いずれにせよ、かなり年老いてからのことであり、体調も思わしくなかったが、それでも周囲の猛反対を押し切り、継承者を空海上人と定め、日本からの渡来を待ちわびていたという。
空海上人は、暴風雨の中を命からがら唐の都の長安に辿り着き、幸運にも青龍寺に二千人とも三千人とも言われる弟子を持つ、恵果阿闍梨から短期間で密教の全てを伝授された。恵果は、初めて会った空海上人を見るや、『我汝の来るを知り、待つこと久し。今日相見えて大いに好し』と告げ、空海上人は大変驚いたとの記述が残っている。
ちなみに、そういう状況下であったため、通常は数年掛かる奥義の伝承を、僅か数ヶ月で終えたと言われている。言葉の問題も克服しての偉業であるから、空海上人がいかに大天才であったかの証であろう。
尚、真言密教伝持の八祖は、第一祖・龍猛菩薩(りゅうもうぼさつ)に始まり、第二祖・龍智菩薩(りゅちぼさつ)、三祖・金剛智(こんごうち)、第四祖・不空三蔵(ふくうさんぞう)、第五祖・善無畏(ぜんむい)、第六祖・一行(いちぎょう・いっこう)禅師、第七祖・恵果阿闍梨と続き、第八祖・弘法大師空海へと伝承された。
こうしてインドで生まれた真言密教の教えが、第三祖の金剛智によって中国に伝わり、第八祖の空海上人によって日本に伝えられたのである。
公式の学説では、密教奥義の伝承は空海上人を最後に途絶えたということになっているが、実は密かに受け継がれて来ており、現在の正統伝承者が神村正遠なのである。
一方で日本仏教界にとって不幸なこともあった。
平安仏教のもうひとつの聖地である、比叡山延暦寺の開祖最澄上人もまた遣唐使船で唐に渡ったが、短い留学期間ということもあって、密教の奥義を伝授されずに帰国した。
そこで最澄上人は、頭を下げて一旦空海上人の弟子になり、奥義を極めんと欲したが、空海上人は伝法灌頂を受けるに足る修行を終えていないと奥義の伝承を拒否した。
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