イリス、今度はあなたの味方

さくたろう

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最終章 彼女は死んで、また生まれる

生き残った者達

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 ローザリア帝都には夏が訪れていた。

 この十年の内に、ローザリアも発展を遂げた。道は舗装され、都市同士の交流が盛んになった。国営学校が至る所に建設され、多くの子供が勉学ができる環境が整えられた。皇帝の指導の元、優秀な魔法使い達が日々魔術式を編み出し、人々の生活に役立てた。

 ディミトリオス帝は二十八歳になり、彼の戴冠十周年の祝賀が、年間を通し至る所で行われていた。反逆の末の帝位奪還を果たした皇帝ではあったが、国民に愛され、慕われていた。
 

 
 早朝、ディミトリオス・フォーマルハウトは、書斎から帝都を見下ろしていた。
 川沿いには夏の草木が青々と生い茂り、暑さから逃れるために、市民たちが水浴びをしていた。
 大通りに面した広場では、市場を始めるためのテントが貼られ、既に商品が並べられていた。かつてより異国との貿易が盛んになり、帝都はひときわの賑いを見せていた。

 十年の間に、戦争はあった。
 聖女のいない戦争であったが、彼女の築き上げた盤石な体制と彼女に勝利を捧げることを固く誓った兵士らの働きにより、ローザリアは勝利し続けていた。
 このローザリアに、確かに聖女はいた。
 誰もの心の中に、常に、イリス・テミスが存在していた。
 だが彼女はもう、どこにもいなかった。
 誰を失っても、変わらず人々は生活し、逞しく生きる。そんな国民の強かさを、ディミトリオスは愛していた。

 一人静かに物思いに浸っていると、扉の前の護衛が客人の到着を告げるために声を張り上げる。皇帝がすでに起きて書斎にいることを、経験から知っているのだ。
 客の約束はなかったが、告げられた名に、ディマは頷いた。

 やってきたのは、三十歳になったばかりの親友だった。
 
「戻ったのか、ルシオ」 

 ルシオ・フォルセティは、相変わらず目に悪い派手な色のシャツを着て、若い頃と変わらず機嫌が良さそうに部屋の中に入ってくる。

「今朝戻ったばかりだ。いの一番でお前に会いに来たんだぜ、感謝しろよ」 

 稼いだ金を元手に始めた貿易商の仕事が上手くいき、更に事業を拡大するとかで、このところルシオは数ヶ月大陸に行っていた。
 そのまま彼は、ソファーにどかりと座り込む。

「大陸にもお前の評判は轟いていたぜ。商売ついでにスタンダリアにも寄ったが、俺でさえ賓客扱いだ。王侯貴族まで俺にこびて、誰もがお前との仲を取り持ってくれとすり寄ってきた」

 向かいに座ると、ルシオは視線を鋭くした。
 
「それでいくつか縁談も取り次いでくれと打診があったぜ。そろそろ受けろよ、結婚も仕事のうちだぜ」

「君だってしていないだろ」

 つれない返事だが、気を害した様子もなくルシオは続けた。

「俺はいいんだよ、一人に絞ったら世の女が泣くだろ。だがお前は違う。皇帝だから、フォーマルハウト家を存続させる義務がある」

「周囲の奴に、僕を説得しろとでも言われたか」

 まあな、とルシオは苦笑した。

「結婚も外交のうちさ。ローザリアのさらなる発展を願うお前の思惑とも一致する。外面を気にしないという言い訳は聞かないぜ。その髪だって、周囲に受けがいいから伸ばしているんだろう」

「前に、言ってくれたんだ。僕の長い髪が好きだと。切るときも渋っていたから」

 一瞬の静寂があった。ルシオの瞳が一瞬だけ揺れ、隠すように彼は目を閉じ、そうして再び開いた時には、元の陽気な男に戻っていた。

「まあ聞けよ。悪い話じゃない。スタンダリアの姫はどうだ? 年はお前の五つ下。現国王の姉で、器量も気立ても良い。またとない縁談だぜ?」

 ディマは無言で首を横に振った。

「じゃあ、パトリシア・クリステルはどうだ。未婚で、お前のイリスへの想いもよく理解していて、その上で嫁いでもよいと了承を得た。何より家柄がいいし、貴族としての心得もある。いい皇妃になるだろうさ」

「彼女は妹みたいなもので、妻にしたいとは思わない。……なぜそれほど結婚させたい」

 別に、とルシオは言う。

「ただお前が周囲に明るく振る舞う分、一人で淋しげに過ごす背中が、見るに耐えんと俺は思う。それに、フォーマルハウト家の後継者も作らねばならんだろう」

「後継者なら、レジーナの子供がいる。内の一人を養子としてもらうと、先日約束を取り付けたから、後継者には困っていない。シンディにも、先日二人目の子供が生まれたばかりだ。フォーマルハウト家の血筋は続いている。
 僕がやることは、この国が永劫続く基盤を作ることだと思っている。このローザリアこそ僕の伴侶で、血肉を受け継ぐ僕の子供だ」

 従姉妹のレジーナは三人の子供を産み、三人とも黄金色の瞳を持っていた。ミアが願った瞳が、その孫に引き継がれたのだ。

「僕の愛はもう捧げている。生涯、他の誰かを妻にするつもりはない」

 ルシオは手を額に付け、顔を覆うようにして言った。

「だが彼女は死んだ。聖女も二度と生まれない。教皇庁は再建されたが地の上だ。天上にはもう、誰も祈らない。大陸に渡る度、お前は長い間戻らない。探すのを止めないお前の姿を見るのが、俺はとても辛い。今回の旅でも、俺は彼女の手がかりを見つけられなかった。十年経った。もう止めろ」

 彼が本気でディマを思ってくれていることは分かっていた。だが当のディマは、辛いとは思っていなかった。

 探している間は、彼女は生きている。諦めない限り、死ぬことはない。

(僕が生きている限りは、彼女もまた、生き続ける)

 だから探し続けることを止められなかった。
 ルシオが問う。

「二度と会えないのに、愛し続けるのか」

 ディマは答えた。

「二度と会えないから、愛し続けるんだ」
 
 束の間の静寂が訪れた。もう二度と会えないという事実が、心の中に重く響く。
 
「お前の戴冠から十年経ったということは、終焉からも十年か」

 話題を変えるようにルシオがぽつりとそう言った。帝都の祝賀の空気を感じてきたのかもしれない。
 今年は特に、ローザリアでも、他の国でも、聖女への祈りが捧げられていた。世界を救ったイリス様だ。聖女はもういないのに、信仰は以前より遥かに増した。皆に死の記憶が刻み込まれ、そうして生き返った奇跡もまた、記憶から消えはしなかった。

「終焉の大選別が行われてからも十年。皆が結局は生き残った。だから人間というものは誰しも善人なのだと、皆、命が肯定されたように考えているらしい。あほくさくて勝手な思想だが、俺は結構好きな考え方だ。逞しくてさ。
 あれから俺も、少しだけ、自分の命というものを真剣に考えるようになった。聖女やクロード・ヴァリの世界滅亡の願いは叶わなかったが、前よりもこの世界はまともになったように思うぜ。それでも争乱はあるけどさ」

 そう言ってから、ルシオはその人物を強く思い出したのかもしれない。

「兄貴が憎いか」

 問いに、ディマは目を伏せる。

「憎いさ。許せないと思う。あの人がいなければ、逆行前だってイリスは死ななかった。だが……」

 クロード・ヴァリの佇まいを思い出す。孤高の人だったが、常に愛情を感じていた。イリスが彼を打ち破ったあの教皇庁の地下でさえ、彼の瞳に潜むあの情は、消えていなかった。

「……イリスが死ななければ、ディミトリオスが時を戻すことはなかった。そのおかげで僕は彼女と出会い、愛を知った。だから僕は皇帝になれたのだと思う。愛を知らない人間が、人の上に立ってはならないと、今でも思っている」

 彼がいなければ、処刑騒ぎで、ヘルで、反逆で、ディマは死んでいたはずだ。
 人の運命というものは、結果論でしか語れない。彼がいなかったら、ディマはあのイリスに出会えなかった。だからある側面では、運命に感謝をしていた。

「まあ俺も、兄貴達は大嫌いだよ。兄弟なんてそんなもんだろ」

 はは、とルシオが笑った。

「俺は一度、あいつとお前を間違えた。なんだか、雰囲気が似ている気がしてさ。懐かしいな、ヘルに着いたその日のことだった」

 ディマも思い出した。
 エンデ国からヘルへと向かう途中、彼は、ディマと自分を兄弟だと言った。あれは誤魔化しなどではなかったのだ。あの旅路は、忘れがたい日々となっていた。

「――まあ、あいつのことはどうでもいい」

 ルシオは咳払いをする。

「ひとまず、イリスのことだ。探すのを止めろとは言わないが、我こそがイリスだと、次々と偽物が現れる現状をなんとかしないとな。皆が、またとない機会だと考えては皇妃の座を狙っている。髪を銀髪に染めただけならまだいい。中には魔法で顔を変えてまで主張する奴がいる。この問題は深刻だぜ、時間も手間も取らされる。
 俺がここまで踏み込んで言っているのは、アレンさんとミランダさんが、お前をひどく心配しているからだぜ。寄り添ってくれと、直々に頼まれた。娘を亡くして未だに傷が癒えないのに、このままだと息子まで病んでしまうのではないかと危惧している。左手と右足を失って、その上心まで失ってしまったとしたら、あの人たちは立ち直れない。……俺も同じ思いだ」

 ああ、と、ディマは空返事をした。
 心のどこかでは、分かっているように思う。彼女が生きているなどあり得ないということを。当時既に、彼女の体は人間であることをやめようとした。それにシューメルナを破壊した以上、彼女もまた死んだと考えるのだ妥当だ。
 周囲にこれほどまでの心配をさせ、探し続けることに、ディマもまた、限界を感じていた。情報有らず、と伝える家臣達の表情は、つねに暗いものだった。領地に戻り、平穏に暮らすアレンとミランダが、息子を案じていることも承知していた。

 確かに、引き際なのかもしれない。自分の我が儘で、周囲を脅かしてはならなかった。

「ああ。次で、諦めるよ。今日も数人、会う約束をしていたから、それで最後だ」

 十年間、探し続けた。けりをつける、時なのかもしれない。
 そうか――、と言い、ルシオはそれ以上何も言わなかった。
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