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最愛の人
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闇が地の底から忍び寄る。記憶が氾濫し、ルクレティアに涙を流させた。
――外見ばかりの空の人形だ。そう言ったリーヴァイの顔が、記憶の中でブレて歪む。
(だめ――! 考えてはだめよ!)
だが頭は、それを反芻する。
――ルクレティアは外見ばかりの空の人形だ。あれは言うことを聞くようによく躾けている。私に文句を言う度胸さえない。愛しているのはアリシア、君だけだ。
オーウェンが、そうアリシアに囁く声を聞いたのは、池の周りを歩いている時だった。うっかり近寄りすぎてしまい、その言葉を聞いたのだ。
ルクレティアはオーウェンを愛そうと努力していた。彼が多くの女性と遊んでいても、婚約者は自分なのだと言い聞かせ、歯向かうことはしなかった。だがその言葉を聞いた時、ルクレティアの中で、決定的に何かが終わった。ルクレティアは初めて、自分が傷ついていることに気がついた。
――オーウェン様は、アリシア様を愛しているんだわ。だったら……。
だったら、自分だって、好きに生きていいのではないのか。
だからルクレティアは、兄に伝えてしまった。婚約者に馬鹿にされ、いいように利用された心はボロボロで、自分が何を口走っているのかも分かっていなかった馬鹿な女だ。
――オーウェン様は、わたしではない方を愛していらっしゃるの。それだけじゃない。他にも恋人が何人もいるの……。
ずっと恋していたその男に、ルクレティアは打ち明けた。
――わたしは、リーヴァイ兄様を、愛しているの。男の人として、好き……。
その時のリーヴァイの表情を、ルクレティアは思い出した。苦悶に顔を歪め、体を震わせ、そうしてたった一度だけ、口付けをした。
触れるような、口付けだった。
だがそれだけで、ルクレティアは十分だった。生まれて初めて満たされたように思った。
だから愚かにも、本当に愚かにも、オーウェンにリーヴァイを愛していると伝えてしまった。
オーウェンの怒りは、凄まじかった。
ルクレティアを牢に閉じ込め、日々、狂ったように苛んだ。
そうして最後にまたオーウェンが来て、ルクレティアの前に、毒を差し出したのだ。
どちらを選ぶ? と、オーウェンは愉快そうに言っていた。
――どちらを選ぶ? どちらを選んでも、君は救われる。リーヴァイも、君と同じ目に遭わせているんだ。だが君が死んだら、リーヴァイのことは許そう。さあ、彼のためなら喜んで死ねるだろう?
魔力の高い兄を、そう簡単に捕まえられるはずがない。だが真っ当な判断力などとうに失せていた。疲れ果てた精神は、毒を手に取らせた。
よかった、とルクレティアは思った。これで最愛の人は救われる。
幼い頃、ルクレティアは、いつか自分にも美しい恋が訪れるのだと思っていた。だが恋は、苦しいだけだった。だから恋心を、忘れてしまいたいと、そう強く思った。
寒さに、体が凍えてしまいそうだった。
「ソフィーじゃなかった……。わたしに魔術をかけたのは。それに、どうして……どうして、リーヴァイ兄様だと思っていたの? わたしを蹂躙して、愉悦に浸っていたのは――」
「何をしている?」
ぞっとするほど冷たい声が聞こえ、顔を上げると、オーウェンが無表情のまま小屋の入口に立っていた。
「ひっ……」
口から悲鳴が漏れて、体がガタガタと震え始めた。冷気が地の底から這ってやってくるようだった。
(この人だ――! オーウェン様が、わたしを――!)
オーウェンは、ルクレティアを見て静かに笑う。
「なんだ、記憶が、戻ってしまったのか」
「どう、して」
「残念だな。どれだけ強い恋心なんだ? あれだけ君の心を破壊したのに」
のんびりと、オーウェンはルクレティアに近づいてくる。地面に散らばった幼い頃の宝物が、彼の靴の下で砕けていく。
遂に目の前までやってきたオーウェンは、ルクレティアに目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「貴方が、わたしに、黒魔術をかけたの?」
「そうだよ、せっかく綺麗な術をかけたのに。可哀想に、壊れてしまったんだね」
「なんで――」
「だって君は私のために生まれた存在だから。別の男に恋をしていいはずがなかった」
言ってからオーウェンは目を細めた。
「君は償わなくてはならなかった。完璧な術をかけるには、現実を少しだけ捻じ曲げた上で、精神を破壊しなくてはならないからね。兵士たちに襲われながらも、私に向かって助けを求めるさまは、とても美しかった。今度はそこまでせずともいいだろう。大丈夫、また上手に忘れられるよ」
空中に出現した魔法陣が、ルクレティアの体の自由を奪う。
オーウェンの手が、ゆっくりとルクレティアの首にかけられた。
「死ぬ前に、術がかけられるように祈っていてくれ。もう時を戻す力を持つ人間はいないのだからね」
唯一動く口で、ルクレティアは抵抗した。
「あな、たは、さいてい。あいして、ない。だいっきらい……」
だがオーウェンは、余裕の態度で一笑しただけだ。
「せっかく君が私に恋をしているという記憶を植え付けたのに、淋しいことを言わないでおくれ。また一緒に愛し合おうじゃないか」
首が締まり、息が苦しくなる。オーウェンの魔術が、目の端で光り、避けようがなく体の中に入ってくるのを感じた。
ルクレティアの意識は曖昧になる。ぼんやりと考える。
目の前にいるこの男――いいえこの人は……。
(オーウェン様は、わたしの、最愛……)
――外見ばかりの空の人形だ。そう言ったリーヴァイの顔が、記憶の中でブレて歪む。
(だめ――! 考えてはだめよ!)
だが頭は、それを反芻する。
――ルクレティアは外見ばかりの空の人形だ。あれは言うことを聞くようによく躾けている。私に文句を言う度胸さえない。愛しているのはアリシア、君だけだ。
オーウェンが、そうアリシアに囁く声を聞いたのは、池の周りを歩いている時だった。うっかり近寄りすぎてしまい、その言葉を聞いたのだ。
ルクレティアはオーウェンを愛そうと努力していた。彼が多くの女性と遊んでいても、婚約者は自分なのだと言い聞かせ、歯向かうことはしなかった。だがその言葉を聞いた時、ルクレティアの中で、決定的に何かが終わった。ルクレティアは初めて、自分が傷ついていることに気がついた。
――オーウェン様は、アリシア様を愛しているんだわ。だったら……。
だったら、自分だって、好きに生きていいのではないのか。
だからルクレティアは、兄に伝えてしまった。婚約者に馬鹿にされ、いいように利用された心はボロボロで、自分が何を口走っているのかも分かっていなかった馬鹿な女だ。
――オーウェン様は、わたしではない方を愛していらっしゃるの。それだけじゃない。他にも恋人が何人もいるの……。
ずっと恋していたその男に、ルクレティアは打ち明けた。
――わたしは、リーヴァイ兄様を、愛しているの。男の人として、好き……。
その時のリーヴァイの表情を、ルクレティアは思い出した。苦悶に顔を歪め、体を震わせ、そうしてたった一度だけ、口付けをした。
触れるような、口付けだった。
だがそれだけで、ルクレティアは十分だった。生まれて初めて満たされたように思った。
だから愚かにも、本当に愚かにも、オーウェンにリーヴァイを愛していると伝えてしまった。
オーウェンの怒りは、凄まじかった。
ルクレティアを牢に閉じ込め、日々、狂ったように苛んだ。
そうして最後にまたオーウェンが来て、ルクレティアの前に、毒を差し出したのだ。
どちらを選ぶ? と、オーウェンは愉快そうに言っていた。
――どちらを選ぶ? どちらを選んでも、君は救われる。リーヴァイも、君と同じ目に遭わせているんだ。だが君が死んだら、リーヴァイのことは許そう。さあ、彼のためなら喜んで死ねるだろう?
魔力の高い兄を、そう簡単に捕まえられるはずがない。だが真っ当な判断力などとうに失せていた。疲れ果てた精神は、毒を手に取らせた。
よかった、とルクレティアは思った。これで最愛の人は救われる。
幼い頃、ルクレティアは、いつか自分にも美しい恋が訪れるのだと思っていた。だが恋は、苦しいだけだった。だから恋心を、忘れてしまいたいと、そう強く思った。
寒さに、体が凍えてしまいそうだった。
「ソフィーじゃなかった……。わたしに魔術をかけたのは。それに、どうして……どうして、リーヴァイ兄様だと思っていたの? わたしを蹂躙して、愉悦に浸っていたのは――」
「何をしている?」
ぞっとするほど冷たい声が聞こえ、顔を上げると、オーウェンが無表情のまま小屋の入口に立っていた。
「ひっ……」
口から悲鳴が漏れて、体がガタガタと震え始めた。冷気が地の底から這ってやってくるようだった。
(この人だ――! オーウェン様が、わたしを――!)
オーウェンは、ルクレティアを見て静かに笑う。
「なんだ、記憶が、戻ってしまったのか」
「どう、して」
「残念だな。どれだけ強い恋心なんだ? あれだけ君の心を破壊したのに」
のんびりと、オーウェンはルクレティアに近づいてくる。地面に散らばった幼い頃の宝物が、彼の靴の下で砕けていく。
遂に目の前までやってきたオーウェンは、ルクレティアに目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「貴方が、わたしに、黒魔術をかけたの?」
「そうだよ、せっかく綺麗な術をかけたのに。可哀想に、壊れてしまったんだね」
「なんで――」
「だって君は私のために生まれた存在だから。別の男に恋をしていいはずがなかった」
言ってからオーウェンは目を細めた。
「君は償わなくてはならなかった。完璧な術をかけるには、現実を少しだけ捻じ曲げた上で、精神を破壊しなくてはならないからね。兵士たちに襲われながらも、私に向かって助けを求めるさまは、とても美しかった。今度はそこまでせずともいいだろう。大丈夫、また上手に忘れられるよ」
空中に出現した魔法陣が、ルクレティアの体の自由を奪う。
オーウェンの手が、ゆっくりとルクレティアの首にかけられた。
「死ぬ前に、術がかけられるように祈っていてくれ。もう時を戻す力を持つ人間はいないのだからね」
唯一動く口で、ルクレティアは抵抗した。
「あな、たは、さいてい。あいして、ない。だいっきらい……」
だがオーウェンは、余裕の態度で一笑しただけだ。
「せっかく君が私に恋をしているという記憶を植え付けたのに、淋しいことを言わないでおくれ。また一緒に愛し合おうじゃないか」
首が締まり、息が苦しくなる。オーウェンの魔術が、目の端で光り、避けようがなく体の中に入ってくるのを感じた。
ルクレティアの意識は曖昧になる。ぼんやりと考える。
目の前にいるこの男――いいえこの人は……。
(オーウェン様は、わたしの、最愛……)
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