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前編
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侯爵家の令嬢、サリーヌ・ルブールは婚約者を愛していた。
遠縁から持ち込まれた縁談ではあったが、二人は合意の上で婚約した。手紙や贈り物、お茶や観劇などにもよく二人で出掛けた。彼が笑えば嬉しく、彼が話すことはどんなことでも聞いていたかった。
「婚約を無かったことにして欲しい」
「なぜでしょうか?何か私が気に障るところがありましたか?」
「そんなことは絶対ない」
「ではなぜ?」
「…」
「私でない、婚約したい方が出来たということですの?」
「そ、そうじゃない!そのような者はいない」
「…そうですの。では私では駄目だということなのですね」
「…すまない」
「承知いたしました、あとは家同士でお話ください」
「本当にすまない、許さなくていい、恨んでくれていい」
「承知しました」
婚約は解消ではなく、全て無かったことになり、白紙になった。サリーヌは抜け殻になった。何か言われなければ何も出来なくなってしまったのだ。放って置けばずーっと座っていたり、横になっていたり、侯爵はとにかくサリーヌを大事にしてくれる新しい相手をと躍起になったが、あんな状態では相手と会わせることも出来ない。
「修道院に入らせて下さいませ」
「駄目だ!何言われても全て伯爵家が被ってくれる。お前に落ち度はない」
「いいえ、皆口には出さずとも、私に問題があると思うでしょう」
「悪いのは向こうだ」
「いいえ、もうすぐお兄様の結婚式もあります。その前に、醜聞は消えるべきです」
「醜聞だなんてとんでもない!」
「いいえ、私、昨日、首に剣を刺しましたの」
首の詰まったドレスをちらりと下げると、首筋に五センチくらいの生々しい傷口が残っていた。
「馬鹿なことを!」
「ええ、愚かなのでしょう。彼と結婚することだけを目標に日々を送って来ました。それが突然、無くなったのです。何もする気力がなく、消えるべきだと思いました。でもここで死ねばお父様にも皆にも迷惑が掛かると思い留まったのです。修道院で自殺は許されないはずです、ですから私のためにも行かせてください、どうか娘なんていなかったことにしてください」
「そんなことは出来ない。他の縁談だって来ているんだ」
「ここに留まれば、また同じことをするかもしれません。どうか私を生かしてくださいませんか」
「どうしてもか」
「私は消えたいだけで、死にたいわけではありません」
「分かった…」
「皆優しいので、引き留められたくは無いので、明朝には出て行きます。これまで育ててくれてありがとうございました、遠くから幸せと健康を祈っております」
サリーヌは明朝、自身で見付けた修道院に旅立っていった。
父から母も兄も聞いていたが、父だけが見送り、母と兄は窓越しから見送った。そして修道院に入ったことは秘匿して、サリーヌのことは聞かないで欲しいと涙ぐめば、誰もそれ以上聞くことは出来なかった。
学園の休みが明けても、サリーヌが姿を現すことはなかった。婚約の白紙のことは皆、口にはしなかったが、サリーヌが婚約者を慕っていたのは明白で、きっと傷付いており、療養しているのだと思った。
しかし仲の良かった兄の結婚式にも、サリーヌは姿を見せることはなかった。時折、いない誰かを探すような家族の姿があったそうだ。
婚約者だったクリストファー・ランド伯爵令息は、傷付けたことに心を痛めながらも、自分が選んだ選択に後悔はなかった。侯爵家、さらに親族からは末代まで縁を切ると言われても、意志は固かったのだ。
「サリーヌ嬢は来たか」
「…いいえ」
「そうか、慰謝料も受け取って貰えていない」
「白紙だからでは?」
「馬鹿か、その程度で許す気はない、ということだ」
「申し訳ございません」
「いや、仕方ない。無理に結婚しても上手くいかなかっただろうからな。まだ傷は浅い方だろう」
サリーヌの姿を見た者がいないこと、兄の結婚式にも出ていないことで、病気なのではないか、留学したのかなどと噂が立ったが、学園側にも問い合わせたが、家族以外に教えることは出来ないと言われ、何も分からなかった。半年もするとサリーヌのことを聞くことも少なくなっていた。ただし、サリーヌの友人からの目線は強い。
クリストファーはサリーヌのことが嫌いではなかったが、愛しているわけでもなかった。こんなものかと思っていた中、愛する人が出来てしまったのだ。このことは愛する人にしか告げていない。
婚約を白紙にして、すぐに婚約などと愚かなことはしない。白紙になる前から距離を保ちつつ、表向きは友人だと言って育んでいた。サリーヌが捨てられた、乗り換えられたと言われることも避けたかった。愛する人も奪った、寝取ったなどと言われかねない。だからこそ慎重に築き上げて来たのだ。
そのサリーヌも私のことなど忘れて、別の誰かと笑ってくれていれば良かったが、姿を現さないサリーヌのことを思い出さなくなればと時間を過ごして来たのだ。
サリーヌには悪いと思っているが、それでも愛する人への想いはどうしようもなかった、サリーヌならすぐ新しい婚約が結ばれるだろうと思っていた。
しかし、サリーヌ・ルブールは消えた。
遠縁から持ち込まれた縁談ではあったが、二人は合意の上で婚約した。手紙や贈り物、お茶や観劇などにもよく二人で出掛けた。彼が笑えば嬉しく、彼が話すことはどんなことでも聞いていたかった。
「婚約を無かったことにして欲しい」
「なぜでしょうか?何か私が気に障るところがありましたか?」
「そんなことは絶対ない」
「ではなぜ?」
「…」
「私でない、婚約したい方が出来たということですの?」
「そ、そうじゃない!そのような者はいない」
「…そうですの。では私では駄目だということなのですね」
「…すまない」
「承知いたしました、あとは家同士でお話ください」
「本当にすまない、許さなくていい、恨んでくれていい」
「承知しました」
婚約は解消ではなく、全て無かったことになり、白紙になった。サリーヌは抜け殻になった。何か言われなければ何も出来なくなってしまったのだ。放って置けばずーっと座っていたり、横になっていたり、侯爵はとにかくサリーヌを大事にしてくれる新しい相手をと躍起になったが、あんな状態では相手と会わせることも出来ない。
「修道院に入らせて下さいませ」
「駄目だ!何言われても全て伯爵家が被ってくれる。お前に落ち度はない」
「いいえ、皆口には出さずとも、私に問題があると思うでしょう」
「悪いのは向こうだ」
「いいえ、もうすぐお兄様の結婚式もあります。その前に、醜聞は消えるべきです」
「醜聞だなんてとんでもない!」
「いいえ、私、昨日、首に剣を刺しましたの」
首の詰まったドレスをちらりと下げると、首筋に五センチくらいの生々しい傷口が残っていた。
「馬鹿なことを!」
「ええ、愚かなのでしょう。彼と結婚することだけを目標に日々を送って来ました。それが突然、無くなったのです。何もする気力がなく、消えるべきだと思いました。でもここで死ねばお父様にも皆にも迷惑が掛かると思い留まったのです。修道院で自殺は許されないはずです、ですから私のためにも行かせてください、どうか娘なんていなかったことにしてください」
「そんなことは出来ない。他の縁談だって来ているんだ」
「ここに留まれば、また同じことをするかもしれません。どうか私を生かしてくださいませんか」
「どうしてもか」
「私は消えたいだけで、死にたいわけではありません」
「分かった…」
「皆優しいので、引き留められたくは無いので、明朝には出て行きます。これまで育ててくれてありがとうございました、遠くから幸せと健康を祈っております」
サリーヌは明朝、自身で見付けた修道院に旅立っていった。
父から母も兄も聞いていたが、父だけが見送り、母と兄は窓越しから見送った。そして修道院に入ったことは秘匿して、サリーヌのことは聞かないで欲しいと涙ぐめば、誰もそれ以上聞くことは出来なかった。
学園の休みが明けても、サリーヌが姿を現すことはなかった。婚約の白紙のことは皆、口にはしなかったが、サリーヌが婚約者を慕っていたのは明白で、きっと傷付いており、療養しているのだと思った。
しかし仲の良かった兄の結婚式にも、サリーヌは姿を見せることはなかった。時折、いない誰かを探すような家族の姿があったそうだ。
婚約者だったクリストファー・ランド伯爵令息は、傷付けたことに心を痛めながらも、自分が選んだ選択に後悔はなかった。侯爵家、さらに親族からは末代まで縁を切ると言われても、意志は固かったのだ。
「サリーヌ嬢は来たか」
「…いいえ」
「そうか、慰謝料も受け取って貰えていない」
「白紙だからでは?」
「馬鹿か、その程度で許す気はない、ということだ」
「申し訳ございません」
「いや、仕方ない。無理に結婚しても上手くいかなかっただろうからな。まだ傷は浅い方だろう」
サリーヌの姿を見た者がいないこと、兄の結婚式にも出ていないことで、病気なのではないか、留学したのかなどと噂が立ったが、学園側にも問い合わせたが、家族以外に教えることは出来ないと言われ、何も分からなかった。半年もするとサリーヌのことを聞くことも少なくなっていた。ただし、サリーヌの友人からの目線は強い。
クリストファーはサリーヌのことが嫌いではなかったが、愛しているわけでもなかった。こんなものかと思っていた中、愛する人が出来てしまったのだ。このことは愛する人にしか告げていない。
婚約を白紙にして、すぐに婚約などと愚かなことはしない。白紙になる前から距離を保ちつつ、表向きは友人だと言って育んでいた。サリーヌが捨てられた、乗り換えられたと言われることも避けたかった。愛する人も奪った、寝取ったなどと言われかねない。だからこそ慎重に築き上げて来たのだ。
そのサリーヌも私のことなど忘れて、別の誰かと笑ってくれていれば良かったが、姿を現さないサリーヌのことを思い出さなくなればと時間を過ごして来たのだ。
サリーヌには悪いと思っているが、それでも愛する人への想いはどうしようもなかった、サリーヌならすぐ新しい婚約が結ばれるだろうと思っていた。
しかし、サリーヌ・ルブールは消えた。
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