イリス=オリヴィエ戦記・外伝 ~アラン・フルーリーは兵士になった~(完結)

熊吉(モノカキグマ)

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:第35話 「束の間」

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:第35話 「束の間」

 敵の姿が、煙幕の向こうに消えていく。
 王立陸軍は少しでも損害を与えるべく攻撃を継続したが、やがて見える範囲には無事な敵の姿はいなくなり、後には救助を断念され放棄された負傷兵だけが残された。

 射撃中止が命じられ、戦闘の喧騒(けんそう)が一気に静まり返る。

 勝利した。
 自分たちは、圧倒的に優勢だったはずの敵を、押し返したのだ。

 そんな自覚が、胸の内で大きく膨れ上がって来る。
 ———しかし、そのことを大っぴらに喜ぶ者は、誰もいなかった。

 目の前に広がっている光景が、あまりにも凄惨なものであったからだ。

 無数の、数えきれない、途中で数えることが嫌になるのに違いないほどの死傷者が転がっている。
 明らかにここに留まっている王立軍の将兵よりも多い連邦軍が倒れ、血を流している。

 撃破され、炎上している戦車の数は両手の指では到底足りない。

 大戦果。
 英雄的とも言える勝利。

 しかし、そのことよりも、目の前で苦しんでいる敵兵のことが哀れで、気がかりであった。

 アランたちは誰もが、ほんの三日前には平和の中にあったのだ。
 軍服に身を包んでいようとも、その事実は変わらない。
 自分たちがこうして実戦を経験することも、敵を死傷させ、また、敵から死傷させられることも、想像すらしていなかった。

 平時の感覚がまだ色濃く残っている。
 そしてその観点から言えば、現状はあまりにも悲惨な出来事であり、嬉しいとは思えない。

 しかもアランたちの方から救いの手を差し伸べることもできなかった。
 敵は退却したとはいえ一時的なものであるのに違いなく、いつ、攻撃が再開されるともわからない。
 少数であるこちら側がのこのこ陣地を出ていくことは危険すぎるし、そもそも、負傷した連邦軍の将兵を治療する術は残ってはいなかった。

 適切な手当てを施せば、救える命はきっと、多いだろう。
 しかしそうする手段はなく、その最後の灯(ともしび)が消えゆく様を見ていることしかできない。

 自分が生き延びたということも、相手の倒してしまった結果なのだと思えば、素直に喜ぶことができないのだ。

 ただ、ほっとしてはいた。
 絶望的だと思っていた戦況だったが、自分たちはまだここにいて、そして、王国とそこに暮らす人々を守り続けているからだ。

 自分たちがここにいる限りは、故郷は、そこに暮らしている家族や友人たちは、無事でいられるし、目に見えない懐かしいそれらを、身近なところに感じていられるのだ。

「よォ、アラン。なぁ、煙草くれねぇか? せっかく生き延びたんだから、一服しておきてぇ」

 軽機関銃の焼けた銃身を交換し終えたパガーニ伍長が、足元に降り積もった薬莢をじゃらじゃらと鳴らしながら塹壕の底に座り込むと、そう言って人懐っこい笑顔でねだって来た。

「煙幕が消えるまでは、敵の野郎も攻撃を再開することはねぇだろうからさ」

 その言い分は、なかなか説得力があった。
 ここで一息つきたい、というのは、まったく同感でもある。

「はい、どうぞ」
「おっ、ありがてぇ」

 快く煙草を譲(ゆず)ってやると伍長は嬉しそうに箱を受け取って一本取り出し、それをくわえ、マッチをこすって火をつけると、心の底から楽しんでいる様子で肺一杯に煙を吸い込む。

「ちょっと、カルロ! 」

 そんな彼に向かって、ルッカ伍長が鋭い言葉を向ける。
 まるで怒っているかのような表情で、両手を腰に当てて仁王立ちしていた。

「な、なんだよ、マリーザ? 別にいいだろ? こんな時なんだし」
「そうじゃないよ」

 驚いて、少しビクビクした様子で許しを請われると、南部育ちの褐色肌の女性は表情を和らげて微笑んだ。
 怒っていたのは、冗談であったらしい。

「あたしにも一本、ちょうだいな」
「……へへっ、なぁんだ、そういうことかい」

 するとパガーニ伍長は安心したのかニヤリと笑い返し、アイコンタクトで「いいよな? 」とアランに確認して許可を得ると、煙草をもう一本取り出してルッカ伍長を手招きし、その口にくわえさせる。

「ありが、と……っ!? 」

 礼を言った彼女の双眸(そうぼう)が驚愕(きょうがく)に見開かれ、マッチを取ろうと伸ばしていた手が硬直する。
 ———不意にパガーニ伍長が顔を近づけて来て、自身のくわえていた煙草をルッカ伍長がくわえた煙草の先端に押しつけ、そうすることで火をともしたからだ。

 それはほんの数秒間の出来事だったが、なぜか、ずいぶんと長く感じられた。

「いいだろ? この方が手っ取り早くって」

 なにも言えずにいるルッカ伍長から視線を逸らし、パガーニ伍長は何食わぬ顔で煙を吹かしている。

 そんな彼に、無言のまま、獲物を狙う肉食獣のように素早く、ミュンター上等兵が肉薄した。
 そしてまるで襲いかかるような勢いでつかみかかっていく。
 狙いは、パガーニ伍長の持っている煙草のようだった。

「おいおいおい、なんだよ? ちょっと火をつけてやっただけじゃねーか! 」
「そのやり方が問題なんですよっ! 大人しくソレを渡してください! ……渡せっ! 」
「ヤダねったら、ヤーダね! 」

 なぜ、二人の間で喧嘩が始まってしまったのか。
 なぜ、ルッカ伍長が頬を赤らめたまま、呆然自失とした様子でたたずんでいるのか。
 なぜ、ベイル軍曹は仲裁するでもなく、ニヤニヤとして眺めているのか。
 なぜ、G・Jは上気した顔を両手で覆い隠しながらも、指の間に作った隙間で食い入るようにその様子を見つめているのか。

 アランには理解できなかったが、とりあえず隙を見てパガーニ伍長が放り投げて来た煙草を受け取ると素早く服の中に隠した。
 ミュンター上等兵の矛先が自分の方に向いてはたまらないと思ったからだ。

 それは、戦いの合間に訪れた束の間の中で起こった、ささやかな事件だった。
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