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14.誰かの為に
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「それで私を訪ねてきたと?」
珍しくクラウゼ邸に来たライナーは、出掛ける支度をしていたバラードに迷惑そうな視線を向けられながらも怯む事なく食い下がっていた。
「覚えていないか? 三年前に舞踏会会場でお前とハーン子爵が言い合っていただろう? その女性の事だと思うんだ」
「嫌な記憶は早々に消去してしまうから覚えていないなぁ」
「いいからたまには協力しろ」
するとタイを結び終わったバラードはドスンとソファに座った。
「多分お前の言っている女性はデルマの妹分だな。確かにあの時ハーン子爵に言い寄られている妹がいるって言っていたから。もういいか? 今日は本当に時間がないんだよ、約束があるんだ」
「あぁ引き止めて悪かったな。それで今日はどこに行くんだ?」
「ちょっと約束をね」
「あんまり無茶するなよ」
頷くとバラードは小さく笑って部屋を出て行った。
オーティスの迎えを頑なに拒み続けて四日。ウィノラはする事がないまま部屋でベッドの上をゴロゴロと往復していた。
オーティスはエデルの治療が進んでいない事に気が気ではないだろうが、実際は違う。エデルの所にレンを置いてきたから、直接触れる程の癒やしの効果はなくてもレンが触れている事で治療は出来ている。ウィノラ自身エデルの治療をすぐに止める気は最初からなかった。いくらエデルの母親がもう治療はしなくていいと言おうが、エデルにとって必要だと分かっている治療を止める訳にはいかない。しかしそれをわざわざオーティスに教えてあげる程、今のウィノラはお人好しでもないのだ。エデルから流れてくる感覚に変化があったのは、レンを置いてきてからすぐだった。最初は水の底にいるような重たく冷たい感覚だったが、次第に引き合うように除々に浮遊しているように感じ始めている。
「レン、もういいわよ」
そういうとレンの身体がエデルから離れたのが分かる。レンは治療中ずっとエデルの頭に座っている。その方が効率よく癒やしの力を与えられるからだった。でも癒やしの力は一定以上は効かない。せいぜい長くて三十分程度。それ以上はこちらの集中力が途切れてしまい、触れていた所で実際はほとんど効き目はないのだった。毛布を抱きしめ目を閉じていると、頭の中に嫌な記憶ばかりが流れてきてしまう。そしてレナードからかばってくれたライナーの事も思い出してしまった。いつフックス公爵家の遣いが来るかと怯える毎日に、もうしばらくまともに眠れていない。
「ウィノラさん? 入ってもいいですか?」
扉が叩かれる音に飛び起きると、扉を開いた先にロラが立っていた。男爵と駆け落ちしようとしていたロラの事は頭の片隅でずっと気になってはいたものの自分の事で忙しく、気に掛けてやる事は出来ていなかった。
「ウィノラさん、断られるのを承知でもう一度お願いします。私を外に連れて行って下さい!」
震えながら組んでいる手を見たウィノラは、その手にそっと触れていた。びくりと驚いたロラは不安そうな瞳で顔を上げた。
「……いいわよ。連れて行ってあげる」
「本当ですか?! 本当に??」
それは自分でも驚く返事だった。本当はここにいた方がいいに決まっている。男爵に付いて行ったからと言って幸せになれるとは限らない。それに男爵にはすでに妻がおり、いくら別居中とはいえ男性には愛人を囲う事が許されているから、きっとロラはそうした立場で男爵の元へ行くのだろう。でも敢えてそれは口にしない。ロラも子供ではないのだから、それくらい分かっているに違いないのだから。
「……でも、信じてみたいじゃない」
ウィノラは無意識にぽつりと呟いていた。
「ウィノラさん?」
「きっと明日もオーティス殿下の迎えは来るだろうから、その時一緒に連れて行ってあげるわ。途中で降ろしてあげるから気がついたように忘れ物をしたとでも言って」
「ありがとうございます! 実は男爵様が明日にはもう帝都を離れるので、最後の機会だったんです。ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
「あまり多くの荷物は持っていけないから最小限にね。それと、しばらくは誤魔化してあげるけれど、きっと翌朝には知れ渡ってしまうわよ」
「はい、一日あれば十分移動出来ているでしょうしウィノラさんにご迷惑は掛けません。途中で手紙を出しますので、女将さん達にはそれで知らせるつもりです」
気が弱そうだと思っていたロラが、こんなにも意志が強く行動的だとは思いもしなかった。
「でも、どうして連れて行って下さる気になったんですか?」
「私達にみたいな女は好きな男性とは一緒になれない事の方が多いから、好き合っている相手がいるならそれを逃す手はないと思っただけよ」
「ウィノラさんもしかして好きな人が……」
ウィノラはロラの言葉を遮るように口を抑えた。
「違う違う! そんなんじゃないから!」
なぜだがライナーの顔が一瞬過ぎってしまう。すぐにその顔を消し去ると、ロラに向かって微笑んだ。
「もし男爵様の所にいるのが難しくなったら迷わずにここへ返って来るのよ」
「ありがとうございます! ウィノラさんもオーティス殿下とお幸せに」
「オーティス殿下と?」
「殿下はとてもウィノラさんを想っていらっしゃるようですね。そうじゃなければ連日お迎えには来られないでしょうし。でも安心しました。喧嘩をされていたようですがやっと仲直りする気になったんでしょう?」
そう無邪気に笑顔を向けられたウィノラは、ただ曖昧に微笑み返すのが精一杯だった。泣き笑いしながら何度も頭を下げながら部屋を出ていくロラを見送ると、ウィノラはその場にしゃがみ込んだ。
目に見えるものが真実とは限らない。オーティスとの関係はそんなに温かいものではないし、実際には娼婦として本来の仕事をしている訳ではない。ずっと胸の奥に巣食っている想いがある。親に捨てられた自分にはなんの価値もなく、育ててくれた人達にはいつまで経ってもなんの恩返しも出来ていない自分は、果たしてこのままこの場所に居続けてもいいのだろうか。それでもきっとアデリータ達は良いと言うのだろう。それなら出来る事を見つけたい。でも何が出来るかが分からない。だからこそ今の自分にはエデルの治療を勝手に続けたり、ロラを手助けしたり、目先の事をこなしていくしかないのだ。
翌日、運良くオーティスは馬車には乗ってはおらず、ロラの事は少し馬車を進めた大通りで下ろす事が出来た。表向きは忘れ物をしたので取りに行くという名目で馬車を降りる為、別れの挨拶は出来ない。それでも目と目で言葉を交わすとロラの背中を見送った。
「どうして来る気になったんです?」
治療している最中に眠りについたエデルから手を離し、帰ろうとした屋敷の玄関の前には不満そうなオーティスが立っていた。ウィノラは頭を下げながら横を通り過ぎようとした所で、目の前に手が伸びて行く手を遮ってきた。
「フェッチだけを置いてもうここには来ないのかと思っていました」
掴まれた腕の痛みよりも、オーティスから聞こえた言葉にウィノラは固まってしまった。
「今なんて?」
「フェッチをエデルの側に置いているでしょう? 治療してくれるのはありがたいですが、私としてはやはり直接治療して欲しいと思っています」
「なぜフェッチを……誰かに聞いたんですか?」
「視えるのですよ。私だけではなくエデルもです」
言葉にならない。フェッチが視えているという事は、オーティスは母親が何者かを知っているという事になる。もし皇帝陛下に話されてしまえばリナもローザも、ヒュー娼館の者達も一斉に粛清されかねない。ガタガタと震え出すウィノラを見ると、オーティスは掴んでいた手の力を緩めて溜息を吐いた。
「心配しなくても誰にも話すつもりはありません。もし話してしまえば私達家族は皆処刑されてしまうでしょうから。あぁちなみに、これは母も知らない事です」
「いつから? いつからフェッチが視えていたんです?!」
「ずっとですよ。幼い事はフェッチという言葉は知りませんでしたし、よく分からないものを指摘する事もありませんでした。それくらいに母のフェッチは弱々しく、浮遊する光の玉のようにしか視えなかったからです。ですがあなたのフェッチを視て確信しました。エデルには、あの生き物は視えていると言ってしまうと死んでしまうから、口にしてはいけないと話してあります。おそらく物語の中に出てくる妖精か何かの類いだと思っているのでしょう」
「レン!」
ウィノラはオーティスの前でも構わずにその名を呼んだ。レンは突然現れると、何食わぬ顔でウィノラの肩に乗った。
「どうしてエデル殿下が視えていると教えてくれなかったの」
“だってあいつが二人の秘密だよって言うからさ”
「レンは私のフェッチでしょ!」
“だけどお前があいつを守るようにって言ったんじゃないか”
確かにレンの言う事は正しい。ウィノラはレンにエデルの保護を頼んだ。だからエデルはレンが視えているとウィノラに伝えてしまえば、必ずレンに戻るように言っていたに違いない。そうすればエデルの回復は今よりもずっと止まっていたかもしれなかった。フェッチは主の奥深くの気持ちに繋がっている。きっと、レンの行動はウィノラも気づいていない部分を感じ取っての行動だったのかもしれなかった。
「もういいわ。どうせ視えているなら隠した所で無意味だもの」
そういうとレンの姿は再びフッと消えた。
「あの子はエデル殿下を気に入っているようです。私の言う事など聞きやしません」
不貞腐れたように言うとオーティスは初めて微笑んだ。
「ありがとうございます。私の弟を大事に想ってくれて」
「これはただの治療の一環です!」
そう言って背を向けたが、明らかに背中に感じる気配は今までとは違い、温かいものに変わっていた。
「女将! 大変です、今すぐに使用人塔へ来て下さい!」
明け方前に叩き起こされたアデリータは、ガウンを引っ掛けただけの姿で使用人塔の治療室へと走っていた。
部屋の中は騒然としており、中にいるのはマイノと門番が一人、そして年重の使用人がベッドに横たわる者を慌ただしく治療していた。
「何があったのか説明しておくれ」
ベッドに横たわっているのは見覚えのある老婆。ボロボロの姿に怪我も酷く、巻いている包帯には血が滲んでいた。見間違えるはずがない。それはウィノラを取り上げた産婆だった。
「何があったんだい。あんた確か帝国を出ていたはずじゃあ……」
アデリータが声を掛けると、老婆はうっすら目を開けて口元だけに歪んだ笑みを浮かべた。
「ひさ、しいね。アデ……」
「話せるかい?! 何があったんだよ!」
「姉さん、今は休ませてやろう」
「ウィノラは? なんでウィノラを呼ばないんだい!」
「この方がウィノラは呼ぶなと」
「ウィノラを呼ばないと死んじまうよ!」
「本人に向かって、酷いねえ」
絞り出すような声にアデリータは更に声を上げた。
「痩せ我慢はよしな! マイノ、ウィノラを連れてきておくれ」
細い腕がアデリータの腕を掴む。力はないがとても振り解けない意志が籠もっていた。
「これでいいんだ。もし死ぬならそれでも、いいんだよ。それより、話がある……」
「こんな姿になってまで来るなんてそりゃさぞ重大な話なんだろうね!」
涙目にそう言うアデリータは、腕を掴んでいた手を掴んで握り締めた。
「エミル王国には、この国とは違う歴史が残っていたんだよ。真実の歴史が」
「まさか……私達の歴史の事かい?」
すると老婆はこくりと頷いた。
「一体どうして……」
「エミル、王国の王妃は……その歴史を、公表しようと」
「そんな事をしたらこの国は大混乱になっちまうよ! 第一、“真の統治者”も現れていないのにそんな事したらいたずらに人が死ぬだけさ!」
すると老婆は力の籠もった目で、アデリータを見つめた。
「あの子、私がこの手で受け止めたあの子、かもしれない」
アデリータの瞳が大きく揺れた。
「何かの間違いだよ。お前の勘違いだろ!」
「姉さん! 怪我人なんだぞ、止めろよ」
老婆は意識を手放し、そのまま眠ってしまったようだった。
「何があったか誰か説明しておくれ」
「今他の奴らが調べに街に出ているから少し待ってくれ。でももし正体が知られて襲われたんだとしたら、今後俺達がどうしていくかも考えないとな。迷惑を掛けないようにと身を潜めていたらしい」
するとアデリータは枕元にいる薄黒い光に目を留めた。
「フェッチを顕現出来るなんて聞いた事なかったけれどね」
すっと細められた視線を感じたのか、薄黒い光は威嚇するように僅かに尖り、しかし小さくなった。
「目が覚めたらすぐに呼んでおくれ。聞きたい事は山程あるんだ。それとここには今いる者達しか出入りしないように。いいね?」
「ウィノラは呼ばないのか? 意識のない今なら大丈夫だろ」
「治療させればきっとウィノラはこの者を気にする事になる。絶対にウィノラを会わせるんじゃないよ」
マイノは頷くと、アデリータと共に部屋を出た。
「女将さん! これを見て下さい!」
「今度はなんだい」
夜が明けてすぐ、一通の手紙を持ってきたのはディアンヌだった。寄越された手紙には確かにこの娼館にいるはずのロラの名前が記載されていた。乱暴に封筒を破り捨てると、手紙を見て握り締めた。
「この手紙は?」
「さっき届いたんです。手紙にはなんて? ロラの姿がどこにも見当たらないんです!」
「ウィノラを私の部屋へ」
「ウィノラですか? そんな事よりもロラを探さないと」
「いいからウィノラを呼びな!」
アデリータの手には手紙が握り締められている。そしてその手紙を机の上に置くと、視線でウィノラに読むよう言った。
「ロラはヘイワード男爵様の元に行ったようだよ」
「ヘイワード男爵ですって?! ここに来ていたの?」
「お名前をお借りしたからね。帝都に来たついでにお立ち寄り下さったんだ。それなのにまさかこんな事になるなんてね」
手紙には男爵の領地で必ず幸せになる、世話になったのに申し訳ないというような内容が並んでいた。ウィノラは手紙を綺麗に畳むと、アデリータの前に押し返した。
「驚いていないようだね。ロラは昨日お前の手伝いをするからと一緒に馬車に乗って行ったね?」
「娼婦になりたての女達は勝手にこの館から出入りは出来ないでしょ。だから私が馬車に乗せたのよ」
「何を勝手な事を!」
勢いよく立ち上がったアデリータをマイノが抑えている。ウィノラは自分でも不思議な程に落ち着いていた。
「出て行きたいならそうさせるべきだわ! それに外出にも制限をかけているなんて前々からおかしいと思っていたのよ。何故皆の意志を尊重しないの?!」
「勝手な事ばかり言って! これは家族を守る事なんだよ! 魔女達の正体が知られずにずっと生きて来られたのは規律があったからなんだ!」
「でもここに閉じ込めて身売りだけをして、そんなんじゃ心が死んでいくわ」
「もし一時の感情で逃げ出してしまったら、行く所がなくなってもここには戻って来られないだろう。そしたらその女達はどうなると思う? お前は家族を野垂れ死にさせたいのかい?!」
「でも好きな人が一緒に暮らそうと言っているなら行かせてもいいじゃない!」
その時、マイノの静止を振り切ったアデリータの平手打ちが飛んできた。部屋に破裂音が響き、ウィノラは気がつくとソファに倒れ込んでいた。
「姉さん! 何してんだよ! 大丈夫かウィノラ!」
駆け寄ってくるマイノの手を振り払うと、ウィノラはアデリータを睨み付けた。
「結局アディが一番魔女だという事を恥じているのよね? だからこんな風に私達を隔離するんだわ! それともお金に目が眩んでいるのかしら。そもそもなんで魔女は身売りを家業にしているのよ!」
言い切ったウィノラは肩で息をすると部屋から飛び出した。
勢いのまま下に降りていき、今はまだ営業中ではない食堂に向かった。薄暗い食堂の机には椅子がひっくり返して掛けられている。いつもの賑わいとは打って変わった静けさに、ウィノラの勢いは削がれていった。
ポタポタと涙が溢れていく。あんな事を言いたかった訳じゃない。アデリータが誰よりもこの館を大事に思っている事は良く知っている。未婚の女達が一人で暮らしていくのは、ギルベアト帝国がいくら大国とはいえまだまだ難しい。昔、この地区よりもずっと貧しい最下層に同胞がいると手がかりを入手して、向かった時の光景が今でも脳裏に焼き付いていた。食事をする所はもれなく酒場と一緒になっており、一日分の食事程度の金で身売りをしている者達もいた。どこを見てもとても綺麗といえる町ではなかった。ごみを漁っている子供達もいたし、その中でも特に女達の扱いは酷かった。病気になっても治療する金もなく綺麗とは言えない場所で横になっている者達もおり、雇ってもらえても給料は安い。それでも身よりもなく、生きていく術を持たない女達は我慢し、耐えて生きていくしかないのが事実だった。好きな事を堂々と仕事にしたり、不自由なく暮らしているのは一部の人間だけ。だからここの暮らしがどんなに良いのかも痛い程に分かっていた。
「ウィノラ? 大丈夫?」
とっさに声を掛けられ、目を擦ってから振り返ると、薄暗い所に立っていたのはディアンヌだった。ディアンヌはその最下層の町から連れて来た魔女で、いつもの少し困ったような優しい微笑みを浮かべていた。
「ごめんね、女将さんの部屋の前で話を聞いてしまったの。ロラが心配だったから」
「ディアンヌも、私が間違っていると思う?」
心のどこかでディアンヌは味方になってくれると思っていた。しかし返ってきたのは全く別の言葉だった。
「ウィノラはロラの相手の男爵様に会った事がある?」
「ないわ。私は食堂には降りないから」
「私はね、何度も見かけた事があるの。実際ロラと一緒にいる所も見たわ。あの男爵様はロラよりもずっと年上だったけれど、とても優しそうだった。それに話してみたらやっぱりすっごく優しかったの」
「やっぱりロラは一緒に行って正解だったと思うでしょ?」
「……どうかしら。ウィノラはそんなに全面に優しさを出す人っていると思う? それにここは娼館よ。女の気を惹く為に男達は昼とは違う顔を見せる所なのよ」
「でもそれはロラを愛しているからじゃないの?」
「ははッ、娼婦を本気で愛する男がいると思う? 手に入らない一時の熱に浮かされて、それを愛だと勘違いしていたらと思うと私は少し怖いわ」
「男爵様もそうだと言いたいの?」
すると、ディアンヌは一点を見つめたまま話し始めた。
「私がまだ最下層の町にいた時、そばにいた男がいたでしょう。覚えている?」
ディアンヌがここにきて六年。ウィノラはまだ子供と言える年でアデリータに同行してあの町に行ったのだから、嫌でも強烈な記憶として鮮明に残っていた。もし保護した者が弱っていたらと治療の為に同行したのだ。
「覚えているわよ。あの時は分からなかったけれど、まだ若い男だったと思う」
「あれが私の父親なのよ。年はあの時で三十前だったわ」
「三十って、それじゃあ幾つの時の子なの……」
「母親は魔女で娼婦だったけれど、出会ったばかりの父親と駆け落ちしたの。でも現実は甘くない。若い二人が生きていくには苦しかったんだと思う。母親はすぐに新しい男を捕まえて消えたわ。父は若いながらにそれでも私を一生懸命育ててくれたと思う。だから女将さん達が迎えに来てくれた時、助かったと思ったの」
「どういう事?」
「これで父を開放してあげられるって」
「ッ、ディアンヌ」
「あなた達に情報を流したのは一体誰だと思う?」
ウィノラは無意識に身体が震えているのが分かった。ディアンヌはいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
「父よ」
返事は出来なかった。
「でも、身寄りのない女を高値で買い取ってくれる娼館があると父の耳に入るように噂を流したのは私なの。働いていた食堂で耳にした事があったから、その客から父の耳に入るようにしたの。私がもうあの生活から抜け出したかったから!」
始めて声を荒げたディアンヌは泣き笑いの顔をしていた。
「ここの暮らしはあの頃に比べたら天国なの。でも、毎日思い出さない日はないわ。……父は元気なのかなって」
「ディアンヌはもう自由に外出出来るでしょう、会いには行かなかったの?」
「行ける訳ないじゃない。父は私を売り飛ばしたと思っているし、私は自分の為に父を捨てたんだから!」
ディアンヌが何を言おうとしているのかが分かる気がする。きっとロラも母親のようになり、自分と同じような子供が生まれたらと思ったのかもしれない。
――それでも。
「ロラには幸せになる道を選んで欲しかった。先の事を考えれば不安はあるかもしれない。それでも幸せになれるかもしれないから」
「そうね、そうだといいね。ごめんなさい、変な話をしてしまって」
「ディアンヌ、私……」
「仕事の準備を始めないと。行くわね」
ディアンヌはそう言い残すと、走って食堂を出て行ってしまった。
何もかもが上手くいかない。ロラの為にと思ってした事も今となっては不安だけが残ってしまう。ディアンヌが抱えている不安は最もで、それでも今はこれで良かったと思うしかなかった。
珍しくクラウゼ邸に来たライナーは、出掛ける支度をしていたバラードに迷惑そうな視線を向けられながらも怯む事なく食い下がっていた。
「覚えていないか? 三年前に舞踏会会場でお前とハーン子爵が言い合っていただろう? その女性の事だと思うんだ」
「嫌な記憶は早々に消去してしまうから覚えていないなぁ」
「いいからたまには協力しろ」
するとタイを結び終わったバラードはドスンとソファに座った。
「多分お前の言っている女性はデルマの妹分だな。確かにあの時ハーン子爵に言い寄られている妹がいるって言っていたから。もういいか? 今日は本当に時間がないんだよ、約束があるんだ」
「あぁ引き止めて悪かったな。それで今日はどこに行くんだ?」
「ちょっと約束をね」
「あんまり無茶するなよ」
頷くとバラードは小さく笑って部屋を出て行った。
オーティスの迎えを頑なに拒み続けて四日。ウィノラはする事がないまま部屋でベッドの上をゴロゴロと往復していた。
オーティスはエデルの治療が進んでいない事に気が気ではないだろうが、実際は違う。エデルの所にレンを置いてきたから、直接触れる程の癒やしの効果はなくてもレンが触れている事で治療は出来ている。ウィノラ自身エデルの治療をすぐに止める気は最初からなかった。いくらエデルの母親がもう治療はしなくていいと言おうが、エデルにとって必要だと分かっている治療を止める訳にはいかない。しかしそれをわざわざオーティスに教えてあげる程、今のウィノラはお人好しでもないのだ。エデルから流れてくる感覚に変化があったのは、レンを置いてきてからすぐだった。最初は水の底にいるような重たく冷たい感覚だったが、次第に引き合うように除々に浮遊しているように感じ始めている。
「レン、もういいわよ」
そういうとレンの身体がエデルから離れたのが分かる。レンは治療中ずっとエデルの頭に座っている。その方が効率よく癒やしの力を与えられるからだった。でも癒やしの力は一定以上は効かない。せいぜい長くて三十分程度。それ以上はこちらの集中力が途切れてしまい、触れていた所で実際はほとんど効き目はないのだった。毛布を抱きしめ目を閉じていると、頭の中に嫌な記憶ばかりが流れてきてしまう。そしてレナードからかばってくれたライナーの事も思い出してしまった。いつフックス公爵家の遣いが来るかと怯える毎日に、もうしばらくまともに眠れていない。
「ウィノラさん? 入ってもいいですか?」
扉が叩かれる音に飛び起きると、扉を開いた先にロラが立っていた。男爵と駆け落ちしようとしていたロラの事は頭の片隅でずっと気になってはいたものの自分の事で忙しく、気に掛けてやる事は出来ていなかった。
「ウィノラさん、断られるのを承知でもう一度お願いします。私を外に連れて行って下さい!」
震えながら組んでいる手を見たウィノラは、その手にそっと触れていた。びくりと驚いたロラは不安そうな瞳で顔を上げた。
「……いいわよ。連れて行ってあげる」
「本当ですか?! 本当に??」
それは自分でも驚く返事だった。本当はここにいた方がいいに決まっている。男爵に付いて行ったからと言って幸せになれるとは限らない。それに男爵にはすでに妻がおり、いくら別居中とはいえ男性には愛人を囲う事が許されているから、きっとロラはそうした立場で男爵の元へ行くのだろう。でも敢えてそれは口にしない。ロラも子供ではないのだから、それくらい分かっているに違いないのだから。
「……でも、信じてみたいじゃない」
ウィノラは無意識にぽつりと呟いていた。
「ウィノラさん?」
「きっと明日もオーティス殿下の迎えは来るだろうから、その時一緒に連れて行ってあげるわ。途中で降ろしてあげるから気がついたように忘れ物をしたとでも言って」
「ありがとうございます! 実は男爵様が明日にはもう帝都を離れるので、最後の機会だったんです。ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
「あまり多くの荷物は持っていけないから最小限にね。それと、しばらくは誤魔化してあげるけれど、きっと翌朝には知れ渡ってしまうわよ」
「はい、一日あれば十分移動出来ているでしょうしウィノラさんにご迷惑は掛けません。途中で手紙を出しますので、女将さん達にはそれで知らせるつもりです」
気が弱そうだと思っていたロラが、こんなにも意志が強く行動的だとは思いもしなかった。
「でも、どうして連れて行って下さる気になったんですか?」
「私達にみたいな女は好きな男性とは一緒になれない事の方が多いから、好き合っている相手がいるならそれを逃す手はないと思っただけよ」
「ウィノラさんもしかして好きな人が……」
ウィノラはロラの言葉を遮るように口を抑えた。
「違う違う! そんなんじゃないから!」
なぜだがライナーの顔が一瞬過ぎってしまう。すぐにその顔を消し去ると、ロラに向かって微笑んだ。
「もし男爵様の所にいるのが難しくなったら迷わずにここへ返って来るのよ」
「ありがとうございます! ウィノラさんもオーティス殿下とお幸せに」
「オーティス殿下と?」
「殿下はとてもウィノラさんを想っていらっしゃるようですね。そうじゃなければ連日お迎えには来られないでしょうし。でも安心しました。喧嘩をされていたようですがやっと仲直りする気になったんでしょう?」
そう無邪気に笑顔を向けられたウィノラは、ただ曖昧に微笑み返すのが精一杯だった。泣き笑いしながら何度も頭を下げながら部屋を出ていくロラを見送ると、ウィノラはその場にしゃがみ込んだ。
目に見えるものが真実とは限らない。オーティスとの関係はそんなに温かいものではないし、実際には娼婦として本来の仕事をしている訳ではない。ずっと胸の奥に巣食っている想いがある。親に捨てられた自分にはなんの価値もなく、育ててくれた人達にはいつまで経ってもなんの恩返しも出来ていない自分は、果たしてこのままこの場所に居続けてもいいのだろうか。それでもきっとアデリータ達は良いと言うのだろう。それなら出来る事を見つけたい。でも何が出来るかが分からない。だからこそ今の自分にはエデルの治療を勝手に続けたり、ロラを手助けしたり、目先の事をこなしていくしかないのだ。
翌日、運良くオーティスは馬車には乗ってはおらず、ロラの事は少し馬車を進めた大通りで下ろす事が出来た。表向きは忘れ物をしたので取りに行くという名目で馬車を降りる為、別れの挨拶は出来ない。それでも目と目で言葉を交わすとロラの背中を見送った。
「どうして来る気になったんです?」
治療している最中に眠りについたエデルから手を離し、帰ろうとした屋敷の玄関の前には不満そうなオーティスが立っていた。ウィノラは頭を下げながら横を通り過ぎようとした所で、目の前に手が伸びて行く手を遮ってきた。
「フェッチだけを置いてもうここには来ないのかと思っていました」
掴まれた腕の痛みよりも、オーティスから聞こえた言葉にウィノラは固まってしまった。
「今なんて?」
「フェッチをエデルの側に置いているでしょう? 治療してくれるのはありがたいですが、私としてはやはり直接治療して欲しいと思っています」
「なぜフェッチを……誰かに聞いたんですか?」
「視えるのですよ。私だけではなくエデルもです」
言葉にならない。フェッチが視えているという事は、オーティスは母親が何者かを知っているという事になる。もし皇帝陛下に話されてしまえばリナもローザも、ヒュー娼館の者達も一斉に粛清されかねない。ガタガタと震え出すウィノラを見ると、オーティスは掴んでいた手の力を緩めて溜息を吐いた。
「心配しなくても誰にも話すつもりはありません。もし話してしまえば私達家族は皆処刑されてしまうでしょうから。あぁちなみに、これは母も知らない事です」
「いつから? いつからフェッチが視えていたんです?!」
「ずっとですよ。幼い事はフェッチという言葉は知りませんでしたし、よく分からないものを指摘する事もありませんでした。それくらいに母のフェッチは弱々しく、浮遊する光の玉のようにしか視えなかったからです。ですがあなたのフェッチを視て確信しました。エデルには、あの生き物は視えていると言ってしまうと死んでしまうから、口にしてはいけないと話してあります。おそらく物語の中に出てくる妖精か何かの類いだと思っているのでしょう」
「レン!」
ウィノラはオーティスの前でも構わずにその名を呼んだ。レンは突然現れると、何食わぬ顔でウィノラの肩に乗った。
「どうしてエデル殿下が視えていると教えてくれなかったの」
“だってあいつが二人の秘密だよって言うからさ”
「レンは私のフェッチでしょ!」
“だけどお前があいつを守るようにって言ったんじゃないか”
確かにレンの言う事は正しい。ウィノラはレンにエデルの保護を頼んだ。だからエデルはレンが視えているとウィノラに伝えてしまえば、必ずレンに戻るように言っていたに違いない。そうすればエデルの回復は今よりもずっと止まっていたかもしれなかった。フェッチは主の奥深くの気持ちに繋がっている。きっと、レンの行動はウィノラも気づいていない部分を感じ取っての行動だったのかもしれなかった。
「もういいわ。どうせ視えているなら隠した所で無意味だもの」
そういうとレンの姿は再びフッと消えた。
「あの子はエデル殿下を気に入っているようです。私の言う事など聞きやしません」
不貞腐れたように言うとオーティスは初めて微笑んだ。
「ありがとうございます。私の弟を大事に想ってくれて」
「これはただの治療の一環です!」
そう言って背を向けたが、明らかに背中に感じる気配は今までとは違い、温かいものに変わっていた。
「女将! 大変です、今すぐに使用人塔へ来て下さい!」
明け方前に叩き起こされたアデリータは、ガウンを引っ掛けただけの姿で使用人塔の治療室へと走っていた。
部屋の中は騒然としており、中にいるのはマイノと門番が一人、そして年重の使用人がベッドに横たわる者を慌ただしく治療していた。
「何があったのか説明しておくれ」
ベッドに横たわっているのは見覚えのある老婆。ボロボロの姿に怪我も酷く、巻いている包帯には血が滲んでいた。見間違えるはずがない。それはウィノラを取り上げた産婆だった。
「何があったんだい。あんた確か帝国を出ていたはずじゃあ……」
アデリータが声を掛けると、老婆はうっすら目を開けて口元だけに歪んだ笑みを浮かべた。
「ひさ、しいね。アデ……」
「話せるかい?! 何があったんだよ!」
「姉さん、今は休ませてやろう」
「ウィノラは? なんでウィノラを呼ばないんだい!」
「この方がウィノラは呼ぶなと」
「ウィノラを呼ばないと死んじまうよ!」
「本人に向かって、酷いねえ」
絞り出すような声にアデリータは更に声を上げた。
「痩せ我慢はよしな! マイノ、ウィノラを連れてきておくれ」
細い腕がアデリータの腕を掴む。力はないがとても振り解けない意志が籠もっていた。
「これでいいんだ。もし死ぬならそれでも、いいんだよ。それより、話がある……」
「こんな姿になってまで来るなんてそりゃさぞ重大な話なんだろうね!」
涙目にそう言うアデリータは、腕を掴んでいた手を掴んで握り締めた。
「エミル王国には、この国とは違う歴史が残っていたんだよ。真実の歴史が」
「まさか……私達の歴史の事かい?」
すると老婆はこくりと頷いた。
「一体どうして……」
「エミル、王国の王妃は……その歴史を、公表しようと」
「そんな事をしたらこの国は大混乱になっちまうよ! 第一、“真の統治者”も現れていないのにそんな事したらいたずらに人が死ぬだけさ!」
すると老婆は力の籠もった目で、アデリータを見つめた。
「あの子、私がこの手で受け止めたあの子、かもしれない」
アデリータの瞳が大きく揺れた。
「何かの間違いだよ。お前の勘違いだろ!」
「姉さん! 怪我人なんだぞ、止めろよ」
老婆は意識を手放し、そのまま眠ってしまったようだった。
「何があったか誰か説明しておくれ」
「今他の奴らが調べに街に出ているから少し待ってくれ。でももし正体が知られて襲われたんだとしたら、今後俺達がどうしていくかも考えないとな。迷惑を掛けないようにと身を潜めていたらしい」
するとアデリータは枕元にいる薄黒い光に目を留めた。
「フェッチを顕現出来るなんて聞いた事なかったけれどね」
すっと細められた視線を感じたのか、薄黒い光は威嚇するように僅かに尖り、しかし小さくなった。
「目が覚めたらすぐに呼んでおくれ。聞きたい事は山程あるんだ。それとここには今いる者達しか出入りしないように。いいね?」
「ウィノラは呼ばないのか? 意識のない今なら大丈夫だろ」
「治療させればきっとウィノラはこの者を気にする事になる。絶対にウィノラを会わせるんじゃないよ」
マイノは頷くと、アデリータと共に部屋を出た。
「女将さん! これを見て下さい!」
「今度はなんだい」
夜が明けてすぐ、一通の手紙を持ってきたのはディアンヌだった。寄越された手紙には確かにこの娼館にいるはずのロラの名前が記載されていた。乱暴に封筒を破り捨てると、手紙を見て握り締めた。
「この手紙は?」
「さっき届いたんです。手紙にはなんて? ロラの姿がどこにも見当たらないんです!」
「ウィノラを私の部屋へ」
「ウィノラですか? そんな事よりもロラを探さないと」
「いいからウィノラを呼びな!」
アデリータの手には手紙が握り締められている。そしてその手紙を机の上に置くと、視線でウィノラに読むよう言った。
「ロラはヘイワード男爵様の元に行ったようだよ」
「ヘイワード男爵ですって?! ここに来ていたの?」
「お名前をお借りしたからね。帝都に来たついでにお立ち寄り下さったんだ。それなのにまさかこんな事になるなんてね」
手紙には男爵の領地で必ず幸せになる、世話になったのに申し訳ないというような内容が並んでいた。ウィノラは手紙を綺麗に畳むと、アデリータの前に押し返した。
「驚いていないようだね。ロラは昨日お前の手伝いをするからと一緒に馬車に乗って行ったね?」
「娼婦になりたての女達は勝手にこの館から出入りは出来ないでしょ。だから私が馬車に乗せたのよ」
「何を勝手な事を!」
勢いよく立ち上がったアデリータをマイノが抑えている。ウィノラは自分でも不思議な程に落ち着いていた。
「出て行きたいならそうさせるべきだわ! それに外出にも制限をかけているなんて前々からおかしいと思っていたのよ。何故皆の意志を尊重しないの?!」
「勝手な事ばかり言って! これは家族を守る事なんだよ! 魔女達の正体が知られずにずっと生きて来られたのは規律があったからなんだ!」
「でもここに閉じ込めて身売りだけをして、そんなんじゃ心が死んでいくわ」
「もし一時の感情で逃げ出してしまったら、行く所がなくなってもここには戻って来られないだろう。そしたらその女達はどうなると思う? お前は家族を野垂れ死にさせたいのかい?!」
「でも好きな人が一緒に暮らそうと言っているなら行かせてもいいじゃない!」
その時、マイノの静止を振り切ったアデリータの平手打ちが飛んできた。部屋に破裂音が響き、ウィノラは気がつくとソファに倒れ込んでいた。
「姉さん! 何してんだよ! 大丈夫かウィノラ!」
駆け寄ってくるマイノの手を振り払うと、ウィノラはアデリータを睨み付けた。
「結局アディが一番魔女だという事を恥じているのよね? だからこんな風に私達を隔離するんだわ! それともお金に目が眩んでいるのかしら。そもそもなんで魔女は身売りを家業にしているのよ!」
言い切ったウィノラは肩で息をすると部屋から飛び出した。
勢いのまま下に降りていき、今はまだ営業中ではない食堂に向かった。薄暗い食堂の机には椅子がひっくり返して掛けられている。いつもの賑わいとは打って変わった静けさに、ウィノラの勢いは削がれていった。
ポタポタと涙が溢れていく。あんな事を言いたかった訳じゃない。アデリータが誰よりもこの館を大事に思っている事は良く知っている。未婚の女達が一人で暮らしていくのは、ギルベアト帝国がいくら大国とはいえまだまだ難しい。昔、この地区よりもずっと貧しい最下層に同胞がいると手がかりを入手して、向かった時の光景が今でも脳裏に焼き付いていた。食事をする所はもれなく酒場と一緒になっており、一日分の食事程度の金で身売りをしている者達もいた。どこを見てもとても綺麗といえる町ではなかった。ごみを漁っている子供達もいたし、その中でも特に女達の扱いは酷かった。病気になっても治療する金もなく綺麗とは言えない場所で横になっている者達もおり、雇ってもらえても給料は安い。それでも身よりもなく、生きていく術を持たない女達は我慢し、耐えて生きていくしかないのが事実だった。好きな事を堂々と仕事にしたり、不自由なく暮らしているのは一部の人間だけ。だからここの暮らしがどんなに良いのかも痛い程に分かっていた。
「ウィノラ? 大丈夫?」
とっさに声を掛けられ、目を擦ってから振り返ると、薄暗い所に立っていたのはディアンヌだった。ディアンヌはその最下層の町から連れて来た魔女で、いつもの少し困ったような優しい微笑みを浮かべていた。
「ごめんね、女将さんの部屋の前で話を聞いてしまったの。ロラが心配だったから」
「ディアンヌも、私が間違っていると思う?」
心のどこかでディアンヌは味方になってくれると思っていた。しかし返ってきたのは全く別の言葉だった。
「ウィノラはロラの相手の男爵様に会った事がある?」
「ないわ。私は食堂には降りないから」
「私はね、何度も見かけた事があるの。実際ロラと一緒にいる所も見たわ。あの男爵様はロラよりもずっと年上だったけれど、とても優しそうだった。それに話してみたらやっぱりすっごく優しかったの」
「やっぱりロラは一緒に行って正解だったと思うでしょ?」
「……どうかしら。ウィノラはそんなに全面に優しさを出す人っていると思う? それにここは娼館よ。女の気を惹く為に男達は昼とは違う顔を見せる所なのよ」
「でもそれはロラを愛しているからじゃないの?」
「ははッ、娼婦を本気で愛する男がいると思う? 手に入らない一時の熱に浮かされて、それを愛だと勘違いしていたらと思うと私は少し怖いわ」
「男爵様もそうだと言いたいの?」
すると、ディアンヌは一点を見つめたまま話し始めた。
「私がまだ最下層の町にいた時、そばにいた男がいたでしょう。覚えている?」
ディアンヌがここにきて六年。ウィノラはまだ子供と言える年でアデリータに同行してあの町に行ったのだから、嫌でも強烈な記憶として鮮明に残っていた。もし保護した者が弱っていたらと治療の為に同行したのだ。
「覚えているわよ。あの時は分からなかったけれど、まだ若い男だったと思う」
「あれが私の父親なのよ。年はあの時で三十前だったわ」
「三十って、それじゃあ幾つの時の子なの……」
「母親は魔女で娼婦だったけれど、出会ったばかりの父親と駆け落ちしたの。でも現実は甘くない。若い二人が生きていくには苦しかったんだと思う。母親はすぐに新しい男を捕まえて消えたわ。父は若いながらにそれでも私を一生懸命育ててくれたと思う。だから女将さん達が迎えに来てくれた時、助かったと思ったの」
「どういう事?」
「これで父を開放してあげられるって」
「ッ、ディアンヌ」
「あなた達に情報を流したのは一体誰だと思う?」
ウィノラは無意識に身体が震えているのが分かった。ディアンヌはいつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
「父よ」
返事は出来なかった。
「でも、身寄りのない女を高値で買い取ってくれる娼館があると父の耳に入るように噂を流したのは私なの。働いていた食堂で耳にした事があったから、その客から父の耳に入るようにしたの。私がもうあの生活から抜け出したかったから!」
始めて声を荒げたディアンヌは泣き笑いの顔をしていた。
「ここの暮らしはあの頃に比べたら天国なの。でも、毎日思い出さない日はないわ。……父は元気なのかなって」
「ディアンヌはもう自由に外出出来るでしょう、会いには行かなかったの?」
「行ける訳ないじゃない。父は私を売り飛ばしたと思っているし、私は自分の為に父を捨てたんだから!」
ディアンヌが何を言おうとしているのかが分かる気がする。きっとロラも母親のようになり、自分と同じような子供が生まれたらと思ったのかもしれない。
――それでも。
「ロラには幸せになる道を選んで欲しかった。先の事を考えれば不安はあるかもしれない。それでも幸せになれるかもしれないから」
「そうね、そうだといいね。ごめんなさい、変な話をしてしまって」
「ディアンヌ、私……」
「仕事の準備を始めないと。行くわね」
ディアンヌはそう言い残すと、走って食堂を出て行ってしまった。
何もかもが上手くいかない。ロラの為にと思ってした事も今となっては不安だけが残ってしまう。ディアンヌが抱えている不安は最もで、それでも今はこれで良かったと思うしかなかった。
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