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リヒト
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今日も温室へ出かけるべく僕は、部屋を出た。
このお屋敷は広いけれど、段差が少ない。廊下には手すりがついているので、ふかふかの絨毯を踏みしめながら手すりを伝って歩く。
昨年まで僕は、お城のユーリ様のお部屋に住まわせてもらっていた。
お城は階段が多くて、廊下もたくさんあって、こんなふうにひとりで出歩くなんてとてもじゃないけどできなかった。
でも昨年に、当時の王様(ユーリ様のお父さんだ)がユーリ様と十七歳年の離れたお兄さんを次期王様に指名して、退位されるという出来事があった。
新しい王様はマリウス様という名前で、戴冠式のときはお城がひとで溢れかえっていたらしい。
らしい、というのは僕は式には参加せず、部屋でお留守番をしていたからだ。
ひとがたくさん居る場所は僕にとっては危険だから、というユーリ様の心遣いだ。
僕はユーリ様に拾われてから、ユーリ様と他数名のひとたちとしか関わっていないので、式に出なくていいというのはすごく気が楽だった。
マリウス様の戴冠式を区切りに王城を出るとユーリ様が言ったのは、その翌日のことだった。
「出ると言っても敷地内だけどね。使ってない別宮を手入れさせたんだ。リヒトもきっと気に入るよ」
当然のように僕も一緒に連れて行くと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった。
「二番目の兄もとっくに城を出てるし、僕もずっとタイミングを計ってたんだよね。父上だって健康上の理由を口実に退位されたけど、本音は面倒事は兄上にぜんぶ押し付けて母上と二人の隠居生活を満喫したいだけなんだよね。兄上には頑張っていただいて、僕も僕の好きにさせてもらうことにしたよ」
ユーリ様はそう言って、僕をひょいと抱っこしてその足でこのお屋敷に移ったのだった。
敷地内、と言っても徒歩ですぐ、というわけではなくて、馬車で少し走らなければならない。でも、ユーリ様のお仕事先(詳しくは知らないけど、外国との窓口係だとユーリ様は言っていた)にはこの別宮からの方が行きやすいようで、好きにさせてもらうと言いつつもマリウス様を支えるお役目のことをちゃんと考えているところが、ユーリ様らしかった。
このお屋敷内にいくつ部屋があるだとか、外側から見たらどういう造りになっているとか、そういうことはよくわからない。
遠くにあっても近づいてみても僕の視界はぼやけたままだから、大まかな輪郭しか判別できない。
それでも手すりがあれば安心で、僕は淀みなく足を進めた。
しばらく歩くと手すりが途切れる。そこを左に折れたら、今度は左側にロープが張られていて、そこを伝って歩けるようになっている。
足元がふかふかの絨毯から、石造り変わる。触覚も鈍い僕なので、明確には気づかない。でも最初に温室まで連れてきてもらったときに、ユーリ様がそう説明してくれた。
「ここから足元の感触が変わるから、転ばないように気をつけるんだよ」
その言いつけを僕はちゃんと覚えている。
温室とお屋敷を結ぶこの渡り廊下には、屋根はあるが壁はない。風の通り道になっているから、雨の日や風の強い日はここは通ってはいけないよ、とユーリ様にはあらかじめ言い含められていた。
風ぐらいで大袈裟な、と思われるかもしれないけれど、僕の皮膚感覚はすごく弱いので、風が吹いていても気づけない。だから踏ん張ることもできない。
最初の日にこの廊下で僕がふらついたのを見て、ユーリ様がそれに気づき、こうして僕の通り道にロープを張ってくれた、という経緯があった。
転ばないように、転ばないように。
自分に言い聞かせながらロープを辿って歩いていると、突然、
「おいっ」
と、声が聞こえた。
それと同時に背後に腕を引かれて、ぐらりと体が傾く。
「……っ! くそっ! …………か? …………ってないな?」
誰かが倒れかけた僕の背を支えて、なにかを言っている。
後ろからなので聞こえにくい。なにを言われたかわからない。
僕は首を捻って背後を見上げた。
茶色い髪が見えた。
ユーリ様の側近のロンバードさんだろうか? でもこの時間は彼もユーリ様と一緒にお仕事に行っているはずだ。
他に茶色の髪のひとは……。
考えながら僕は、
「ど、どなたでしょうか」
と尋ねた。
何名かの名前は頭に浮かんでいたけれど、あてずっぽうに呼ぶことはしない。前に一度それで失敗したからだ。
温室で花の手入れをしていたときのことだった。
葉っぱの重なりあう緑色の向こうに、金色の頭が見えた。
てっきりユーリ様かと思って、「ユーリ様っ」と抱き着いたら、まったくべつのひとで。
悲鳴を上げたそのひとに僕は突き飛ばされて、ころんと地面に転がってしまった。
土まみれになった僕を置いてそのひとはどこかへ行ってしまい、しばらくすると本物のユーリ様が息を切らせて走ってきて、立ち上がれない僕を抱っこして部屋へ連れ帰ってくれたのだった。
ユーリ様と同じ金髪だというだけでひと違いをしてしまった僕は、自分が情けなくて恥ずかしくて、なんどもユーリ様に謝った。
ユーリ様は「気にしなくていいよ」とやさしく慰めてくれたけれど、僕はこれを教訓にして、二度と間違わないように誰かと会ったら必ず名前を尋ねるようにしている。
「前にも教えていただいてたらすみません。僕は目が良くないので、お顔が見えません。どなたが、僕を支えてくれてるのですか」
謝りながらも問いかけた僕に返ってきたのは、聞き取れないほどの早口の声で。
「………なら………だっ。ユリウ……まに…………からっ!」
なにごとかを言ったそのひとは、僕の手にロープを握らせるとそのままどこかへと行ってしまった。
いつもこうだ、とかなしくなる。
僕が顔を判別できないからだろうか。
それとも耳が遠くて会話が面倒だからだろうか。
このお屋敷のひとは誰も、ユーリ様のようには僕に話かけてくれない。
誰かに会っても、いまのようにすぐ逃げてしまう。
まるで僕とは、接触したくないとでもいうように。
僕はとぼとぼとロープを伝って歩き、温室に入った。
太陽を燦燦と浴びているガラス張りのこの場所は、夏場はとても暑くなるのだという。いまは冬だから問題ないけれど、夏になったらあまり長い時間居てはいけないよ、とユーリ様には言われている。
でも僕は暑いのも寒いのもあまりわからない。
ユーリ様と同じものを食べても、ユーリ様のように「おいしいね」と笑うこともできない。
ひとの見わけもつかないから、ご飯をありがとう、掃除をありがとうとお礼を言うこともできない。せめて僕の目の前で色々なことが行われたならば、その場で頭を下げることができるのに、使用人は基本的に主人の目の入るところで仕事はしないらしく、ユーリ様と一緒に居る僕にその機会が巡ってくることはほとんどなかった。
僕ってほんとに役立たずだ。
だから捨てられてしまったのだろうか。
幼かった僕は。山の中に。僕があまりに、なにもできないから。
温室の中央にはユーリ様の背丈ほどの木が植わっている。
この木は、春から夏にかけて白と青の花がたくさん咲くのだと、ユーリ様は言っていた。
とても甘くていい匂いで、僕の匂いとよく似ている、と。
でも僕には、花の形も匂いも、ぼんやりとしかわからない。
ふつうの目が欲しかった、と僕は思った。
ふつうの目と、耳と、舌と、鼻が欲しかった。
暑さも寒さもわかる、ふつうの皮膚感覚がほしかった。
そうすれば。
ユーリ様と他のひとを見間違えたりしないし。
ユーリ様の声を聞き漏らすこともないだろうし。
ユーリ様と同じように、おいしいですね、いい匂いですね、と笑えるだろうし。
ユーリ様に抱きしめられたときに、もっと近くにユーリ様を感じることができるし。
それになにより、ユーリ様のお手を煩わせることもなく、他のひとと同じようにユーリ様のお役に立つことができただろうに。
僕はいつまでユーリ様のお側に居れるだろうか。
いまはひとつのベッドで眠り、「おはよう、僕のオメガ」と言ってもらえているけれど。
なぜユーリ様がこんなにも僕に親切にしてくださるのか、僕にはよくわからない。
きっと、死にかけの子どもを拾った、義務感のようなものがユーリ様にはあるのだと思う。
とても尊い身分で、国のため、兄である王のためにと熱心に務めるお方だから、僕のような役立たずの面倒も嫌がることなく見てくださっているのだ。
「捨てられたくないなぁ」
僕はぽつりと呟いた。
顔もわからない親のことや、記憶のない昔のことは、どうでもいいけれど。
ユーリ様に、おまえは要らないと言われたらどうしよう。
せめて五感のうち、どれか一つでもまともであったなら、僕にできることも少しはあったかもしれないのに。
先のことを考えるとそこには不安しかなくて。
僕は木の幹に両腕を回してもたれかかりながら、少し泣いた。
このお屋敷は広いけれど、段差が少ない。廊下には手すりがついているので、ふかふかの絨毯を踏みしめながら手すりを伝って歩く。
昨年まで僕は、お城のユーリ様のお部屋に住まわせてもらっていた。
お城は階段が多くて、廊下もたくさんあって、こんなふうにひとりで出歩くなんてとてもじゃないけどできなかった。
でも昨年に、当時の王様(ユーリ様のお父さんだ)がユーリ様と十七歳年の離れたお兄さんを次期王様に指名して、退位されるという出来事があった。
新しい王様はマリウス様という名前で、戴冠式のときはお城がひとで溢れかえっていたらしい。
らしい、というのは僕は式には参加せず、部屋でお留守番をしていたからだ。
ひとがたくさん居る場所は僕にとっては危険だから、というユーリ様の心遣いだ。
僕はユーリ様に拾われてから、ユーリ様と他数名のひとたちとしか関わっていないので、式に出なくていいというのはすごく気が楽だった。
マリウス様の戴冠式を区切りに王城を出るとユーリ様が言ったのは、その翌日のことだった。
「出ると言っても敷地内だけどね。使ってない別宮を手入れさせたんだ。リヒトもきっと気に入るよ」
当然のように僕も一緒に連れて行くと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった。
「二番目の兄もとっくに城を出てるし、僕もずっとタイミングを計ってたんだよね。父上だって健康上の理由を口実に退位されたけど、本音は面倒事は兄上にぜんぶ押し付けて母上と二人の隠居生活を満喫したいだけなんだよね。兄上には頑張っていただいて、僕も僕の好きにさせてもらうことにしたよ」
ユーリ様はそう言って、僕をひょいと抱っこしてその足でこのお屋敷に移ったのだった。
敷地内、と言っても徒歩ですぐ、というわけではなくて、馬車で少し走らなければならない。でも、ユーリ様のお仕事先(詳しくは知らないけど、外国との窓口係だとユーリ様は言っていた)にはこの別宮からの方が行きやすいようで、好きにさせてもらうと言いつつもマリウス様を支えるお役目のことをちゃんと考えているところが、ユーリ様らしかった。
このお屋敷内にいくつ部屋があるだとか、外側から見たらどういう造りになっているとか、そういうことはよくわからない。
遠くにあっても近づいてみても僕の視界はぼやけたままだから、大まかな輪郭しか判別できない。
それでも手すりがあれば安心で、僕は淀みなく足を進めた。
しばらく歩くと手すりが途切れる。そこを左に折れたら、今度は左側にロープが張られていて、そこを伝って歩けるようになっている。
足元がふかふかの絨毯から、石造り変わる。触覚も鈍い僕なので、明確には気づかない。でも最初に温室まで連れてきてもらったときに、ユーリ様がそう説明してくれた。
「ここから足元の感触が変わるから、転ばないように気をつけるんだよ」
その言いつけを僕はちゃんと覚えている。
温室とお屋敷を結ぶこの渡り廊下には、屋根はあるが壁はない。風の通り道になっているから、雨の日や風の強い日はここは通ってはいけないよ、とユーリ様にはあらかじめ言い含められていた。
風ぐらいで大袈裟な、と思われるかもしれないけれど、僕の皮膚感覚はすごく弱いので、風が吹いていても気づけない。だから踏ん張ることもできない。
最初の日にこの廊下で僕がふらついたのを見て、ユーリ様がそれに気づき、こうして僕の通り道にロープを張ってくれた、という経緯があった。
転ばないように、転ばないように。
自分に言い聞かせながらロープを辿って歩いていると、突然、
「おいっ」
と、声が聞こえた。
それと同時に背後に腕を引かれて、ぐらりと体が傾く。
「……っ! くそっ! …………か? …………ってないな?」
誰かが倒れかけた僕の背を支えて、なにかを言っている。
後ろからなので聞こえにくい。なにを言われたかわからない。
僕は首を捻って背後を見上げた。
茶色い髪が見えた。
ユーリ様の側近のロンバードさんだろうか? でもこの時間は彼もユーリ様と一緒にお仕事に行っているはずだ。
他に茶色の髪のひとは……。
考えながら僕は、
「ど、どなたでしょうか」
と尋ねた。
何名かの名前は頭に浮かんでいたけれど、あてずっぽうに呼ぶことはしない。前に一度それで失敗したからだ。
温室で花の手入れをしていたときのことだった。
葉っぱの重なりあう緑色の向こうに、金色の頭が見えた。
てっきりユーリ様かと思って、「ユーリ様っ」と抱き着いたら、まったくべつのひとで。
悲鳴を上げたそのひとに僕は突き飛ばされて、ころんと地面に転がってしまった。
土まみれになった僕を置いてそのひとはどこかへ行ってしまい、しばらくすると本物のユーリ様が息を切らせて走ってきて、立ち上がれない僕を抱っこして部屋へ連れ帰ってくれたのだった。
ユーリ様と同じ金髪だというだけでひと違いをしてしまった僕は、自分が情けなくて恥ずかしくて、なんどもユーリ様に謝った。
ユーリ様は「気にしなくていいよ」とやさしく慰めてくれたけれど、僕はこれを教訓にして、二度と間違わないように誰かと会ったら必ず名前を尋ねるようにしている。
「前にも教えていただいてたらすみません。僕は目が良くないので、お顔が見えません。どなたが、僕を支えてくれてるのですか」
謝りながらも問いかけた僕に返ってきたのは、聞き取れないほどの早口の声で。
「………なら………だっ。ユリウ……まに…………からっ!」
なにごとかを言ったそのひとは、僕の手にロープを握らせるとそのままどこかへと行ってしまった。
いつもこうだ、とかなしくなる。
僕が顔を判別できないからだろうか。
それとも耳が遠くて会話が面倒だからだろうか。
このお屋敷のひとは誰も、ユーリ様のようには僕に話かけてくれない。
誰かに会っても、いまのようにすぐ逃げてしまう。
まるで僕とは、接触したくないとでもいうように。
僕はとぼとぼとロープを伝って歩き、温室に入った。
太陽を燦燦と浴びているガラス張りのこの場所は、夏場はとても暑くなるのだという。いまは冬だから問題ないけれど、夏になったらあまり長い時間居てはいけないよ、とユーリ様には言われている。
でも僕は暑いのも寒いのもあまりわからない。
ユーリ様と同じものを食べても、ユーリ様のように「おいしいね」と笑うこともできない。
ひとの見わけもつかないから、ご飯をありがとう、掃除をありがとうとお礼を言うこともできない。せめて僕の目の前で色々なことが行われたならば、その場で頭を下げることができるのに、使用人は基本的に主人の目の入るところで仕事はしないらしく、ユーリ様と一緒に居る僕にその機会が巡ってくることはほとんどなかった。
僕ってほんとに役立たずだ。
だから捨てられてしまったのだろうか。
幼かった僕は。山の中に。僕があまりに、なにもできないから。
温室の中央にはユーリ様の背丈ほどの木が植わっている。
この木は、春から夏にかけて白と青の花がたくさん咲くのだと、ユーリ様は言っていた。
とても甘くていい匂いで、僕の匂いとよく似ている、と。
でも僕には、花の形も匂いも、ぼんやりとしかわからない。
ふつうの目が欲しかった、と僕は思った。
ふつうの目と、耳と、舌と、鼻が欲しかった。
暑さも寒さもわかる、ふつうの皮膚感覚がほしかった。
そうすれば。
ユーリ様と他のひとを見間違えたりしないし。
ユーリ様の声を聞き漏らすこともないだろうし。
ユーリ様と同じように、おいしいですね、いい匂いですね、と笑えるだろうし。
ユーリ様に抱きしめられたときに、もっと近くにユーリ様を感じることができるし。
それになにより、ユーリ様のお手を煩わせることもなく、他のひとと同じようにユーリ様のお役に立つことができただろうに。
僕はいつまでユーリ様のお側に居れるだろうか。
いまはひとつのベッドで眠り、「おはよう、僕のオメガ」と言ってもらえているけれど。
なぜユーリ様がこんなにも僕に親切にしてくださるのか、僕にはよくわからない。
きっと、死にかけの子どもを拾った、義務感のようなものがユーリ様にはあるのだと思う。
とても尊い身分で、国のため、兄である王のためにと熱心に務めるお方だから、僕のような役立たずの面倒も嫌がることなく見てくださっているのだ。
「捨てられたくないなぁ」
僕はぽつりと呟いた。
顔もわからない親のことや、記憶のない昔のことは、どうでもいいけれど。
ユーリ様に、おまえは要らないと言われたらどうしよう。
せめて五感のうち、どれか一つでもまともであったなら、僕にできることも少しはあったかもしれないのに。
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