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リヒト⑨
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「なるほど。それでそのほっぺたなんですね」
僕の話を聞き終えたエミール様が、笑いながら頷かれた。
勉強部屋でエミール様と隣同士に座って、文字の勉強を始めようとしているときのことだった。
文字を覚えたい、と言い出したのは僕だった。
目が見えるようになった僕は、自分がいかに物を知らないままで暮らしてきたのかということを、ひしひしと痛感している。
たとえば寝室ひとつをとっても、朝にベッドを出たら夜に眠るときには、シーツはしわひとつなく整えられていて、太陽の傾きに合わせて照明もこまめに調整されていたり、僕やユーリ様に不便のないようにとこまかなところにまで配慮が見て取れた。
食事もそうだ。
ユーリ様と一緒に食卓につくと、テーブルの上には色とりどりの料理が並んでいて、とても華やかだった。
僕の目が見えるようになったから特別に準備してくれたのかと思ったら、ユーリ様が、
「これまでもずっとこんな感じだったよ。うちのシェフは凝り性だからね」
と笑顔で教えてくれた。
部屋の壁際や廊下に手すりがついているのは知っていたけれど、よくよく見てみるとそれらはすべて僕の身長に合わせたものだったし、角のある場所には僕がぶつかって怪我をしないよう、さりげなく布が巻かれていた。
このお屋敷はどこもかしこも、本当に僕のための工夫がたくさんされている。
そのことを知らないままでずっとユーリ様に甘やかされていたかと思うと、恥ずかしくて、ここで働いているひとたちひとりひとりに謝って回りたいぐらいだった。
僕はそういう、いつも当たり前のように与えられていたひとの気配りに気づいていなかっただけでなく、根本的マナーや基礎的な学力も身についていなかった。
目が見えて、耳が聞こえて、ふつうのひとと同じになったら、自然とそういうこともできるようになると漠然と考えていたのだけれど、実際はまったく違っていた。
僕は思いもしなかった。
目が見えるようになっても、文字を読むことができないだなんて!
だって、僕の周りのひとたちは皆、当たり前のようにをそれができていたから。
僕も目が見えさえすればユーリ様からのお手紙を読めると、愚かな勘違いをしていたのだ。
だから目が治ったことをユーリ様と一緒にひとしきり喜んだあと、僕はいそいそと飾り額から手紙を取り出して便箋を開いたのだけれど……一文字も読むことができなくてびっくりしてしまった。
「ユーリ様……僕、文字が読めません」
半ば呆然としながらそうつぶやいた僕に、ユーリ様は、
「それはそうだよ、リヒト。だってきみはほんの小さなころから目が悪かったんだろう? 文字を見ることができなかったんだから、読めなくて当然だよ」
やさしい声でショックを受ける僕を慰めてくれて、とてもきれいに微笑まれた。
指摘されてみれば当然のことだった。
物心ついてから視界はずっとぼやけていて、そんな環境で育った僕は文字を見たことも習ったこともないのだ。
それで文字が読めるはずもなかった。
でも読みたい。ユーリ様からの手紙を。読めるようになりたい。
僕がそうユーリ様にお願いすると、ユーリ様は腕を組んでう~んと考え込まれた。形の良い眉がすこし寄っている。そんな表情までもがきれいで格好良くて、僕は手紙を胸に押し抱きながらユーリ様の顔に見惚れてしまった。
しばらく思案されていたユーリ様が、
「リヒト、文字を習ってみるかい?」
と僕に提案してくれた。
僕は迷いなく「はい!」と頷く。
そうしたらユーリ様の眉がますます寄せられて。
「う~ん。でもそうなると家庭教師を……いやでもリヒトと二人きりには……僕が教えるとなると夜の時間が削られることになるし……」
ぶつぶつと低い呟きがユーリ様の口から漏れている。
僕はそんなに難しいことをお願いしてしまっただろうか。途中で不安になってきたけれど、でも譲れなかった。ユーリ様の手紙を読む、というのは僕が絶対にやりたかったことだから。
長い長い黙考の末に、ユーリ様がようやく僕と目を合わせて、口を開かれた。
「リヒト。エミール殿に頼んでみようか? 昼間はエミール殿に文字を習って、夜は僕に見せてくれる? きみの書いた文字を僕も見てみたい」
「はい!」
エミール様に教えていただけるならとても嬉しいと思って勢いよく頷いた僕だったけど、
「あ……でも、エミール様にご迷惑じゃ……」
エミール様にはエミール様の都合があるだろうと思い至り、ユーリ様におずおずと言ってみた。
ただでさえ色々とお世話になっているのに、これ以上あまりご迷惑になるようなことはしたくない。
尻込みした僕に、ユーリが華やかな微笑を浮かべた唇で、まぶたにちゅっとキスとくれた。
「大丈夫だよ、リヒト。エミール殿なら二つ返事で引き受けてくれるんじゃないかな」
僕はそうは思えなかったけれど、ユーリ様がなにか上手く働きかけてくれたのだろう。
翌日から早速、エミール様とのお勉強の時間が僕のスケジュールに追加されることになった。
目が見えるようになって初めてのエミール様との対面は、衝撃的だった。
ユーリ様がお仕事へ行かれた後、僕はエミール様の来訪を玄関でお出迎えしたのだけれど、飴色のきれいな馬車から降りてこられたエミール様は、とてもおきれいで、おやさしい顔立ちをしていらしたのだ。
僕の目が治ったのが昨日の朝のことで。丸一日以上ユーリ様のきらきらしいお顔を見ていたから、もうちょっとやそっとじゃ驚かないはずだったのに、ユーリ様とはまたべつの意味できれいなエミール様を見て、僕はポカンと口を開けてしまった。
エミール様はまっすぐに僕のところまで走って来られ、
「リヒト! 目が治って良かった!」
と喜びのハグをしてくれた。
「エミール様……」
「これまであきらめずによく頑張りましたね。報せを聞いて、オレも泣いてしまいました。ユーリ様も喜ばれたことでしょう。本当に良かった!」
「エミール様」
「……どうしました、リヒト?」
僕が固まっていることに気づいたエミール様が、体をすこし離して、小首を傾げながら僕を覗き込んできた。
「……エミール様がおきれいで、びっくりしてしまいました」
正直にそう答えると、エミール様の目が丸くなって。
それから、さっきの馬車と同じ飴色の瞳をやわらかく細めたエミール様が、やわらかな笑い声をあげられた。
「オレもあなたを最初に見たときにとても驚きました。リヒト、鏡は見ましたか? 天使のように可憐な顔が見えたでしょう」
くすくすと肩を揺らしたエミール様の指先が、僕の前髪をさらりと掻き分けた。
ユーリ様にも似たようなことを言われて、僕は鏡を見てみたのだけれど、僕ってこんな顔だったんだなぁと思うだけでユーリ様やエミール様のお顔を見たときのような衝撃は受けなかった。だからこれはお二人のお世辞なのだと思う。
ここを使っていいよ、とあらかじめユーリ様から聞いていた部屋に、僕はエミール様を案内した。
廊下の手すりを伝って歩く僕に、エミール様はすこし心配そうな表情になる。
目が見えるのにまだ手すりが必要なのか、と言いたげなエミール様へと、僕は恥ずかしい思いをこらえて説明した。
耳が聞こえるようになったときと同じで、僕の視界にはあんまりたくさんの物が映り込んでくるから、どれを見て良いかわからずについ気を散らしてしまって、昨日からもう何回も転びかけているのだ。
そのたびにユーリ様やテオバルドさんがすばやく僕を支えてくれたから事なきを得ているのだけど、ユーリ様がお留守のときは僕がこの目に慣れるまでちゃんと手すりを使うことを約束させられている。
僕の話を聞いたエミール様は、口元を押さえて笑いながら、
「そうだったんですね。では、このほっぺもそれで?」
と、僕の頬にあるガーゼを示して尋ねてきた。
僕はふるふると首を横に振って答えた。
「これは違うのです。これはユーリ様のお顔のせいなんです」
「それは……どういう意味でしょう」
エミール様が怪訝に眉を寄せて問い直してきたけれど、ちょうど部屋についたところだったのでおしゃべりは一旦やめて、僕とエミール様は勉強部屋へと入った。
僕の話を聞き終えたエミール様が、笑いながら頷かれた。
勉強部屋でエミール様と隣同士に座って、文字の勉強を始めようとしているときのことだった。
文字を覚えたい、と言い出したのは僕だった。
目が見えるようになった僕は、自分がいかに物を知らないままで暮らしてきたのかということを、ひしひしと痛感している。
たとえば寝室ひとつをとっても、朝にベッドを出たら夜に眠るときには、シーツはしわひとつなく整えられていて、太陽の傾きに合わせて照明もこまめに調整されていたり、僕やユーリ様に不便のないようにとこまかなところにまで配慮が見て取れた。
食事もそうだ。
ユーリ様と一緒に食卓につくと、テーブルの上には色とりどりの料理が並んでいて、とても華やかだった。
僕の目が見えるようになったから特別に準備してくれたのかと思ったら、ユーリ様が、
「これまでもずっとこんな感じだったよ。うちのシェフは凝り性だからね」
と笑顔で教えてくれた。
部屋の壁際や廊下に手すりがついているのは知っていたけれど、よくよく見てみるとそれらはすべて僕の身長に合わせたものだったし、角のある場所には僕がぶつかって怪我をしないよう、さりげなく布が巻かれていた。
このお屋敷はどこもかしこも、本当に僕のための工夫がたくさんされている。
そのことを知らないままでずっとユーリ様に甘やかされていたかと思うと、恥ずかしくて、ここで働いているひとたちひとりひとりに謝って回りたいぐらいだった。
僕はそういう、いつも当たり前のように与えられていたひとの気配りに気づいていなかっただけでなく、根本的マナーや基礎的な学力も身についていなかった。
目が見えて、耳が聞こえて、ふつうのひとと同じになったら、自然とそういうこともできるようになると漠然と考えていたのだけれど、実際はまったく違っていた。
僕は思いもしなかった。
目が見えるようになっても、文字を読むことができないだなんて!
だって、僕の周りのひとたちは皆、当たり前のようにをそれができていたから。
僕も目が見えさえすればユーリ様からのお手紙を読めると、愚かな勘違いをしていたのだ。
だから目が治ったことをユーリ様と一緒にひとしきり喜んだあと、僕はいそいそと飾り額から手紙を取り出して便箋を開いたのだけれど……一文字も読むことができなくてびっくりしてしまった。
「ユーリ様……僕、文字が読めません」
半ば呆然としながらそうつぶやいた僕に、ユーリ様は、
「それはそうだよ、リヒト。だってきみはほんの小さなころから目が悪かったんだろう? 文字を見ることができなかったんだから、読めなくて当然だよ」
やさしい声でショックを受ける僕を慰めてくれて、とてもきれいに微笑まれた。
指摘されてみれば当然のことだった。
物心ついてから視界はずっとぼやけていて、そんな環境で育った僕は文字を見たことも習ったこともないのだ。
それで文字が読めるはずもなかった。
でも読みたい。ユーリ様からの手紙を。読めるようになりたい。
僕がそうユーリ様にお願いすると、ユーリ様は腕を組んでう~んと考え込まれた。形の良い眉がすこし寄っている。そんな表情までもがきれいで格好良くて、僕は手紙を胸に押し抱きながらユーリ様の顔に見惚れてしまった。
しばらく思案されていたユーリ様が、
「リヒト、文字を習ってみるかい?」
と僕に提案してくれた。
僕は迷いなく「はい!」と頷く。
そうしたらユーリ様の眉がますます寄せられて。
「う~ん。でもそうなると家庭教師を……いやでもリヒトと二人きりには……僕が教えるとなると夜の時間が削られることになるし……」
ぶつぶつと低い呟きがユーリ様の口から漏れている。
僕はそんなに難しいことをお願いしてしまっただろうか。途中で不安になってきたけれど、でも譲れなかった。ユーリ様の手紙を読む、というのは僕が絶対にやりたかったことだから。
長い長い黙考の末に、ユーリ様がようやく僕と目を合わせて、口を開かれた。
「リヒト。エミール殿に頼んでみようか? 昼間はエミール殿に文字を習って、夜は僕に見せてくれる? きみの書いた文字を僕も見てみたい」
「はい!」
エミール様に教えていただけるならとても嬉しいと思って勢いよく頷いた僕だったけど、
「あ……でも、エミール様にご迷惑じゃ……」
エミール様にはエミール様の都合があるだろうと思い至り、ユーリ様におずおずと言ってみた。
ただでさえ色々とお世話になっているのに、これ以上あまりご迷惑になるようなことはしたくない。
尻込みした僕に、ユーリが華やかな微笑を浮かべた唇で、まぶたにちゅっとキスとくれた。
「大丈夫だよ、リヒト。エミール殿なら二つ返事で引き受けてくれるんじゃないかな」
僕はそうは思えなかったけれど、ユーリ様がなにか上手く働きかけてくれたのだろう。
翌日から早速、エミール様とのお勉強の時間が僕のスケジュールに追加されることになった。
目が見えるようになって初めてのエミール様との対面は、衝撃的だった。
ユーリ様がお仕事へ行かれた後、僕はエミール様の来訪を玄関でお出迎えしたのだけれど、飴色のきれいな馬車から降りてこられたエミール様は、とてもおきれいで、おやさしい顔立ちをしていらしたのだ。
僕の目が治ったのが昨日の朝のことで。丸一日以上ユーリ様のきらきらしいお顔を見ていたから、もうちょっとやそっとじゃ驚かないはずだったのに、ユーリ様とはまたべつの意味できれいなエミール様を見て、僕はポカンと口を開けてしまった。
エミール様はまっすぐに僕のところまで走って来られ、
「リヒト! 目が治って良かった!」
と喜びのハグをしてくれた。
「エミール様……」
「これまであきらめずによく頑張りましたね。報せを聞いて、オレも泣いてしまいました。ユーリ様も喜ばれたことでしょう。本当に良かった!」
「エミール様」
「……どうしました、リヒト?」
僕が固まっていることに気づいたエミール様が、体をすこし離して、小首を傾げながら僕を覗き込んできた。
「……エミール様がおきれいで、びっくりしてしまいました」
正直にそう答えると、エミール様の目が丸くなって。
それから、さっきの馬車と同じ飴色の瞳をやわらかく細めたエミール様が、やわらかな笑い声をあげられた。
「オレもあなたを最初に見たときにとても驚きました。リヒト、鏡は見ましたか? 天使のように可憐な顔が見えたでしょう」
くすくすと肩を揺らしたエミール様の指先が、僕の前髪をさらりと掻き分けた。
ユーリ様にも似たようなことを言われて、僕は鏡を見てみたのだけれど、僕ってこんな顔だったんだなぁと思うだけでユーリ様やエミール様のお顔を見たときのような衝撃は受けなかった。だからこれはお二人のお世辞なのだと思う。
ここを使っていいよ、とあらかじめユーリ様から聞いていた部屋に、僕はエミール様を案内した。
廊下の手すりを伝って歩く僕に、エミール様はすこし心配そうな表情になる。
目が見えるのにまだ手すりが必要なのか、と言いたげなエミール様へと、僕は恥ずかしい思いをこらえて説明した。
耳が聞こえるようになったときと同じで、僕の視界にはあんまりたくさんの物が映り込んでくるから、どれを見て良いかわからずについ気を散らしてしまって、昨日からもう何回も転びかけているのだ。
そのたびにユーリ様やテオバルドさんがすばやく僕を支えてくれたから事なきを得ているのだけど、ユーリ様がお留守のときは僕がこの目に慣れるまでちゃんと手すりを使うことを約束させられている。
僕の話を聞いたエミール様は、口元を押さえて笑いながら、
「そうだったんですね。では、このほっぺもそれで?」
と、僕の頬にあるガーゼを示して尋ねてきた。
僕はふるふると首を横に振って答えた。
「これは違うのです。これはユーリ様のお顔のせいなんです」
「それは……どういう意味でしょう」
エミール様が怪訝に眉を寄せて問い直してきたけれど、ちょうど部屋についたところだったのでおしゃべりは一旦やめて、僕とエミール様は勉強部屋へと入った。
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