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リヒト⑨
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室内には大きなデスクがあり、勉強用のペンと紙がすでに用意されていた。
壁際には天井まで届きそうな高さの本棚が並んでいて、すごい量の本が整然と収まっている。
「すてきな書斎ですね」
エミール様がぐるりと周り見渡して、溜め息をつかれた。
「クラウス様もそうですが、ユーリ様も読書家でいらっしゃるんですね」
「どくしょか」
「本をたくさん読まれているということです。ああでもほら、この棚はリヒト用ですよ。学舎の教本がこんなに!」
エミール様が示された棚は、確かに他の棚に収まっている革表紙の分厚い本とは趣が違っている。
でも僕が文字を覚えたいとユーリ様に言ったのは昨日の昼のことだ。一日足らずでもうこんなにたくさんの本を揃えてくださったのだろうか。いったいいつのまに……。
僕が呆気にとられていると、本棚から一冊抜き取ったエミール様が微笑みながら、
「頑張って勉強しましょうね」
と応援してくれた。
僕は、僕のためにとたくさんの教本を用意してくださったユーリ様にも背中を押してもらった気分で、「はい」と大きく頷いた。
僕とエミール様が横並びで椅子に座ると、見計らったようなタイミングでノックの音がした。
ドアの向こうからテオバルドさんが銀色のトレーを片手に現れた。
「お茶の準備をさせていただきます」
テオバルドさんは卓上の邪魔にならない位置で手際よくお茶を入れて、エミール様の前にカップを置いた。僕の前には同じく湯気のたつカップと、それからいつものシェフ特製のドリンクが置かれた。
昨日はうすい緑色の水だったのに、今日はほのかなピンク色をしている。きっと味も違うのだろう。
目が見えるようになると、いままであまり興味のなかった料理や飲み物の味が気になってくるのだから、不思議なものだ。
視力や聴力が治ったように、味覚もいつか、良くなるだろうか。
「リヒト様」
特製ドリンクの入ったグラスを見つめながら、その味に想像を巡らせていた僕は、テオバルドさんに呼ばれて顔を上げた。
「ユーリ様からの伝言です。勉強の合間に水分はしっかり摂ること、三時のおやつはエミール様と一緒に食べること、疲れたらそこのカウチで横になること」
指を一本ずつ立ててそう言ったテオバルドさんは、言葉の最後で窓際に置かれたソファを手で示した。
僕のお昼寝用にと枕と毛布まで用意されている。
「エミール様にも伝言が」
「なんでしょう」
「リヒト様が無理をしないように見張っていてください、と」
エミール様がふきだした。
「ふっ……あははっ、相変わらず過保護ですねぇ!」
僕は小さくなって、ぼそぼそと弁明を口にする。
「あの、僕……聞こえるし、見えるんですけど、ユーリ様はまだ危ないからって……でも僕、前よりも眠らなくなったんです! ちゃんと昼間は起きれるようになってて……」
話しながらすこし情けなくなった。子どもじゃあるまいし、昼寝をしないことを自慢されてもエミール様もお困りなるだろう。
エミール様がやさしい笑顔のままで、僕の頭を撫でてくださった。
「ユーリ様の心配は当然ですよ。リヒト。あなたは急に聞こえるようになって、急に見えるようになった。だからまだ神経が過敏になっていて、自分でも知らない内に疲れてしまうこともあるでしょう。大丈夫。そのうちに慣れます」
「……慣れますか?」
「はい」
「あの、ユーリ様のお顔にも、慣れるでしょうか?」
「え?」
エミール様の目がきょとんと丸くなった。
僕は口ごもりながらも、昨日の朝のできごとをエミール様に伝えた。ユーリ様のお顔が格好良すぎて、ベッドから転がり落ちてしまったことも。
エミール様は丁寧に相槌を打ちながら、僕の頬に手を伸ばして、「なるほど、それでそのほっぺたなんですね」と納得したように頷かれた。
「ユーリ様がいらっしゃるのにあなたが怪我をするなんてどうしたんだろうと不思議でした。そうですか、ユーリ様が格好良すぎて……ふっ、ふふっ」
エミール様がこらえきれないというように、また笑いを漏らす。
僕は自分の左頬をてのひらでこすった。
怪我、とエミールは仰ったけれど(昨日はユーリ様も大袈裟に薬を塗ってくれたけれど)、ベッドから落ちた拍子にほんの少しすりむいただけだ。
「リヒト、触ったらダメですよ。まぁでもそうですね、ユーリ様はとてもうつくしくていらっしゃるので、驚いてしまいますよね」
「……エミール様もおきれいです」
「ありがとうございます。でも、リヒトもとてもきれいなので、ユーリ様と並ぶと絵画のようですよ」
またお世辞を言われた。
僕はすこし唇を尖らせて、気恥ずかしさをこらえながらエミール様を真似て「ありがとうございます」と答えたら、エミール様が両手で顔を覆われて、
「ああっ! 天使!」
と、ジタバタと足を動かしてそう呟かれた。
「エミール様、くれぐれも抱きついたりなさいませんよう」
「わかってます。だからこうやって我慢してるんじゃないですか!」
テオバルドさんがティーポットを片付けながらエミール様へ声をかけ、エミール様がそれに言い返している。
目が見えて、耳が聞こえても二人のやりとりは僕には意味がわからない。
ポカンと二人を見比べていたら、エミール様がにこりと微笑まれて、
「リヒト、それではお勉強を始めましょうか」
と促してきた。
僕は背筋を伸ばして、よろしくお願いしますと頭を下げた。
エミール様は文字の教本を手元に置かれていたけれど、それは使わずに、
「リヒト、まずはどんな文字を覚えたいですか?」
そう僕に聞いてくださった。
僕はすかさず胸元をさぐり、ユーリ様からいただいた宝物の手紙を取り出した。
「エミール様、僕は自分の目で、このお手紙が読めるようになりたいのです」
僕が訴えると、エミール様がひとつ頷いて、インクの小瓶のふたを外した。
「それではひとつずついきましょうね。リヒト、まずは名前を書けるようになりましょうか」
「はい!」
「あなたの名前は、これ……手紙の最初に書かれていますね」
エミール様のきれいな指先が、手紙の冒頭の部分を示した。
僕のリヒトへ。
そう始まる文言の、流れるような文字をエミール様がひとつずつ読み上げていかれる。
リヒトの綴りは…………と、スペルを声に出しながら、エミール様は手元の紙にペンを走らせていった。
白い用紙に、インクの黒が広がってゆく。
僕は淀みなく動くエミール様の手の動きに見とれてしまった。
すごい。
「うわぁ……」
思わず歓声が漏れた。
エミール様が僕に、ペンを差し出してくる。
「リヒト、書いてみましょうか」
そう言われて、僕も恐る恐るペン先を紙につけてみた。
力加減がわからない。ペンを持っている、という感触もあまりないので、必要以上に力を込めてしまったのだろう。墨だまりができて、紙に穴が開いてしまう。
「リヒト、ペンの持ち方はこうです。指をこうして……はい、そうです。そのまま下へ動かして……」
エミール様のアドバイスを聞きながら、ペンを動かす。今度は力を抜きすぎて、ペンがすっぽ抜けてしまった。
触覚が治っていないのに文字を書くというのは無謀だったろうか。
早くも尻込みしてしまいそうになった僕の手に、エミール様の手が重なってくる。
「リヒト、文字を覚える近道は書くことです。ただ読むよりも書いてみる方が頭に入る。あなたが嫌でなければ、ペンを持つ練習をしましょう」
そのやさしい提案に、僕は二つ返事で頷いた。
室内に控えていたテオバルドさんが僕たちの会話を聞いていて、
「あの……」
と言葉を挟んできた。
「ちょっと提案があるんですけど」
右手を挙げてそう言った彼を、僕は小首を傾げて見上げた。
壁際には天井まで届きそうな高さの本棚が並んでいて、すごい量の本が整然と収まっている。
「すてきな書斎ですね」
エミール様がぐるりと周り見渡して、溜め息をつかれた。
「クラウス様もそうですが、ユーリ様も読書家でいらっしゃるんですね」
「どくしょか」
「本をたくさん読まれているということです。ああでもほら、この棚はリヒト用ですよ。学舎の教本がこんなに!」
エミール様が示された棚は、確かに他の棚に収まっている革表紙の分厚い本とは趣が違っている。
でも僕が文字を覚えたいとユーリ様に言ったのは昨日の昼のことだ。一日足らずでもうこんなにたくさんの本を揃えてくださったのだろうか。いったいいつのまに……。
僕が呆気にとられていると、本棚から一冊抜き取ったエミール様が微笑みながら、
「頑張って勉強しましょうね」
と応援してくれた。
僕は、僕のためにとたくさんの教本を用意してくださったユーリ様にも背中を押してもらった気分で、「はい」と大きく頷いた。
僕とエミール様が横並びで椅子に座ると、見計らったようなタイミングでノックの音がした。
ドアの向こうからテオバルドさんが銀色のトレーを片手に現れた。
「お茶の準備をさせていただきます」
テオバルドさんは卓上の邪魔にならない位置で手際よくお茶を入れて、エミール様の前にカップを置いた。僕の前には同じく湯気のたつカップと、それからいつものシェフ特製のドリンクが置かれた。
昨日はうすい緑色の水だったのに、今日はほのかなピンク色をしている。きっと味も違うのだろう。
目が見えるようになると、いままであまり興味のなかった料理や飲み物の味が気になってくるのだから、不思議なものだ。
視力や聴力が治ったように、味覚もいつか、良くなるだろうか。
「リヒト様」
特製ドリンクの入ったグラスを見つめながら、その味に想像を巡らせていた僕は、テオバルドさんに呼ばれて顔を上げた。
「ユーリ様からの伝言です。勉強の合間に水分はしっかり摂ること、三時のおやつはエミール様と一緒に食べること、疲れたらそこのカウチで横になること」
指を一本ずつ立ててそう言ったテオバルドさんは、言葉の最後で窓際に置かれたソファを手で示した。
僕のお昼寝用にと枕と毛布まで用意されている。
「エミール様にも伝言が」
「なんでしょう」
「リヒト様が無理をしないように見張っていてください、と」
エミール様がふきだした。
「ふっ……あははっ、相変わらず過保護ですねぇ!」
僕は小さくなって、ぼそぼそと弁明を口にする。
「あの、僕……聞こえるし、見えるんですけど、ユーリ様はまだ危ないからって……でも僕、前よりも眠らなくなったんです! ちゃんと昼間は起きれるようになってて……」
話しながらすこし情けなくなった。子どもじゃあるまいし、昼寝をしないことを自慢されてもエミール様もお困りなるだろう。
エミール様がやさしい笑顔のままで、僕の頭を撫でてくださった。
「ユーリ様の心配は当然ですよ。リヒト。あなたは急に聞こえるようになって、急に見えるようになった。だからまだ神経が過敏になっていて、自分でも知らない内に疲れてしまうこともあるでしょう。大丈夫。そのうちに慣れます」
「……慣れますか?」
「はい」
「あの、ユーリ様のお顔にも、慣れるでしょうか?」
「え?」
エミール様の目がきょとんと丸くなった。
僕は口ごもりながらも、昨日の朝のできごとをエミール様に伝えた。ユーリ様のお顔が格好良すぎて、ベッドから転がり落ちてしまったことも。
エミール様は丁寧に相槌を打ちながら、僕の頬に手を伸ばして、「なるほど、それでそのほっぺたなんですね」と納得したように頷かれた。
「ユーリ様がいらっしゃるのにあなたが怪我をするなんてどうしたんだろうと不思議でした。そうですか、ユーリ様が格好良すぎて……ふっ、ふふっ」
エミール様がこらえきれないというように、また笑いを漏らす。
僕は自分の左頬をてのひらでこすった。
怪我、とエミールは仰ったけれど(昨日はユーリ様も大袈裟に薬を塗ってくれたけれど)、ベッドから落ちた拍子にほんの少しすりむいただけだ。
「リヒト、触ったらダメですよ。まぁでもそうですね、ユーリ様はとてもうつくしくていらっしゃるので、驚いてしまいますよね」
「……エミール様もおきれいです」
「ありがとうございます。でも、リヒトもとてもきれいなので、ユーリ様と並ぶと絵画のようですよ」
またお世辞を言われた。
僕はすこし唇を尖らせて、気恥ずかしさをこらえながらエミール様を真似て「ありがとうございます」と答えたら、エミール様が両手で顔を覆われて、
「ああっ! 天使!」
と、ジタバタと足を動かしてそう呟かれた。
「エミール様、くれぐれも抱きついたりなさいませんよう」
「わかってます。だからこうやって我慢してるんじゃないですか!」
テオバルドさんがティーポットを片付けながらエミール様へ声をかけ、エミール様がそれに言い返している。
目が見えて、耳が聞こえても二人のやりとりは僕には意味がわからない。
ポカンと二人を見比べていたら、エミール様がにこりと微笑まれて、
「リヒト、それではお勉強を始めましょうか」
と促してきた。
僕は背筋を伸ばして、よろしくお願いしますと頭を下げた。
エミール様は文字の教本を手元に置かれていたけれど、それは使わずに、
「リヒト、まずはどんな文字を覚えたいですか?」
そう僕に聞いてくださった。
僕はすかさず胸元をさぐり、ユーリ様からいただいた宝物の手紙を取り出した。
「エミール様、僕は自分の目で、このお手紙が読めるようになりたいのです」
僕が訴えると、エミール様がひとつ頷いて、インクの小瓶のふたを外した。
「それではひとつずついきましょうね。リヒト、まずは名前を書けるようになりましょうか」
「はい!」
「あなたの名前は、これ……手紙の最初に書かれていますね」
エミール様のきれいな指先が、手紙の冒頭の部分を示した。
僕のリヒトへ。
そう始まる文言の、流れるような文字をエミール様がひとつずつ読み上げていかれる。
リヒトの綴りは…………と、スペルを声に出しながら、エミール様は手元の紙にペンを走らせていった。
白い用紙に、インクの黒が広がってゆく。
僕は淀みなく動くエミール様の手の動きに見とれてしまった。
すごい。
「うわぁ……」
思わず歓声が漏れた。
エミール様が僕に、ペンを差し出してくる。
「リヒト、書いてみましょうか」
そう言われて、僕も恐る恐るペン先を紙につけてみた。
力加減がわからない。ペンを持っている、という感触もあまりないので、必要以上に力を込めてしまったのだろう。墨だまりができて、紙に穴が開いてしまう。
「リヒト、ペンの持ち方はこうです。指をこうして……はい、そうです。そのまま下へ動かして……」
エミール様のアドバイスを聞きながら、ペンを動かす。今度は力を抜きすぎて、ペンがすっぽ抜けてしまった。
触覚が治っていないのに文字を書くというのは無謀だったろうか。
早くも尻込みしてしまいそうになった僕の手に、エミール様の手が重なってくる。
「リヒト、文字を覚える近道は書くことです。ただ読むよりも書いてみる方が頭に入る。あなたが嫌でなければ、ペンを持つ練習をしましょう」
そのやさしい提案に、僕は二つ返事で頷いた。
室内に控えていたテオバルドさんが僕たちの会話を聞いていて、
「あの……」
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