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リヒト⑩
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しおりを挟む僕の作った飾緒と一緒に、新たに仕立てたユーリ様の服を見に行きませんか、と誘ってくださったエミール様に連れられて、僕は、エミール様のお屋敷にお邪魔していた。
てっきりそういうお店に行くのだと思っていたので、すこし拍子抜けしてしまう。
馬車を降りたときのポカンとした僕の顔を見て、エミール様がきれいに微笑された。
「ユーリ様の許可もなくあなたを街に連れて行くわけにもいきませんからね。変わり映えのしない我が家ですが、どうぞ」
冗談めかして言われた言葉に、僕は首を横に振った。
「僕、エミール様のお屋敷、好きです」
ユーリ様のお屋敷よりもすこしだけ華美で、あちこちにお花が活けられていて、このお屋敷はエミール様そのもののようにやさしい雰囲気がしている。
「ありがとうございます。でもあなたをあまりうちに招待すると、ユーリ様に叱られてしまうんですよね」
「えっ」
なんでユーリ様が怒るんだろう?
僕がびっくりして目を丸くすると、エミール様が僕の頭を撫でて、
「匂いが移ってしまいますから」
と言った。
匂い? なんの匂いだろうか。
よくわからなくて小首を傾げた僕に、エミール様がやさしく教えてくださる。
「この家は当然ながらクラウス様もお住まいです。ですから、そこかしこにクラウス様の匂いがついてるんです。アルファは、他のアルファの匂いに敏感ですから」
そう語ったエミール様が、ふと声を途切れさせて、僕を見つめてきた。
「リヒト……嗅覚は、まだ?」
「……はい。匂いと、味が」
「そうですか」
エミール様の手が、僕の髪をゆるやかに梳いている。頭を触られるのは、気持ちいい。
触覚が、視覚が、聴覚が良くなったように、匂いと味がわかるようになる日はくるのだろうか。
「エミール様」
「はい」
「ユーリ様は、どんな匂いがしますか?」
文字の勉強を始めて、簡単な文章なら読めるようになった僕は、ユーリ様が勉強部屋に揃えてくださった教本を読み進めている。
教本、と言っても子ども向けの、絵本のようなものだ。
その中にはアルファとオメガの物語も描かれていた。
アルファの王子様と、オメガのお姫様の物語。
王子様の姿絵が金髪に緑色の瞳で、まるでユーリ様のようだったから、僕は夢中でそれを読んだ。
絵本では、アルファとオメガがお互いの匂いで惹かれ合うシーンが描かれていた。
最初はなんのことかわからなかったけれど、なんどもなんども読むうちに、アルファとオメガは互いにしかわからない匂いを感じ取ることができるのだと、僕は理解した。
まるで頭を殴られたかのように、ひどい衝撃が全身に走った。
だって、ユーリ様はそんなこと、ひと言も仰らなかったから。
リヒトはいい匂いだね、と言われたことはあったけれど、匂いが、アルファとオメガの間でとても重要な繋がりになるなんて、ひと言も僕に言われなかったから。
ユーリ様にアルファの匂いがあることを、僕はずっと、知らないままだったのだ。
ユーリ様からは、どんな香りがするのだろう。
そして僕は。
どんな匂いが、しているのだろう。
絵本の内容がわかるようになってからは、僕は毎日のようにそのことを考えていた。
夜にひとつのベッドでユーリ様と寝ているとき、ユーリ様の胸元に鼻先を埋めて、なんとかその香りを確かめようとしたけれど、僕の嗅覚は全然仕事をしてくれない。
匂いがわからないから、僕はこうなのだろうか。
発情期も来ない、不完全なオメガのままなのだろうか。
いつになったら僕は完全なオメガになれるのだろう。
僕がちゃんとした……エミール様のような完璧なオメガになることができたら、ユーリ様は夜中にベッドを抜け出して、他のオメガの元へ通ったりすることはなくなるだろうか。
頭の中でぐるぐると、そんな考えが巡っている。
「リヒト」
エミール様が、しずかな声で僕を呼んだ。
僕がうつむけていた顔を上げたら、エミール様がいたわるように僕の頭を撫でて、それからやさしく説明してくれた。
「リヒト、オレはあなたにユーリ様の匂いを教えてあげることができないんです。オメガはアルファにうなじを噛んでもらい、つがいになったら、他のアルファの匂いは感じにくくなる」
「……そうなんですか」
「ユーリ様から、そういうお話は聞いてませんか?」
問われて、僕は頷いた。ユーリ様とはこういう……オメガやアルファの話はほとんどしたことがない。
僕は首輪にはめ込まれた金色の宝石を指で弄りながら、エミール様の首元を見た。
「エミール様」
「なんでしょう」
「うなじを見ても、いいですか?」
僕の言葉に、エミール様の目がすこし丸くなって、けれどすぐにやわらかく細められた。
上まできちんととまっていたボタンを外し、そこをくつろげたエミール様が身を屈め、すんなりと伸びた首筋を僕の方へ差し出してくる。
後ろ髪は左手で横へ掻き分けて、エミール様は噛み痕のあるうなじを見せてくれた。
「触っても、いいですか?」
「どうぞ」
許可を得て僕は、手をそうっとエミール様の方へ伸ばした。
ほんのりと赤い、歯の形。そこを辿るように指の腹で撫でたら、エミール様の肩がひくんと揺れた。
「ご、ごめんなさいっ、痛いですか」
僕が慌てて謝ったら、エミール様が苦笑しながら屈めていた腰を伸ばした。
「いいえ。すみません、くすぐったくて。あまりひとに見せることがないので、なんだか緊張してしまいますね」
「エミール様のお肌が白いので、模様のようできれいです」
「ありがとうございます」
「でも、痣もあって痛そうです」
「痣?」
エミール様が小首を傾げながら、ご自身の首筋をさすった。
途端に背後で「うおっほん!」と大きな咳払いが上がった。
驚いて振り向くと、テオバルドさんが立て続けに咳をしていた。キャンディが喉に詰まったのかしらと僕は心配になったけれど、テオバルドさんは特に苦しむでもなく、
「リヒト様、飾緒を見に来たんじゃないんですか」
と僕を促してきたから、僕はそうだったと頷いて、エミール様へと視線を戻した。
そうしたらエミール様はなぜだか頬を赤らめていて、いそいそと首元のボタンを嵌めながら、
「見苦しいものを見せてすみません」
と謝ってきた。
見苦しいもの? 噛み痕が見たいと言ったのは僕なのに、なぜそれが見苦しいものになるんだろう? よくわからなくて僕がコトンと首を傾けると、テオバルドさんが、
「わからないままでいいんですよ」
そう言って、もう一度「うおっほん!」と咳をした。
「キャンディが詰まりましたか? 飲み物が要りますか?」
「詰まってませんし、要りません! リヒト様、飾緒を」
テオバルドさんがてのひらをすいっと前に動かして、僕の注意を飾緒へと引き戻す。
エミール様がすこし焦ったように、
「リヒト、こっちへどうぞ」
僕の手を引いて奥の部屋へと連れて行ってくれた。
僕はお洋服に隠れてしまったエミール様のうなじを見上げて、そっと唇を噛んだ。
いいなぁ、と羨む気持ちが湧いてくる。
エミール様とクラウス様はつがいで。
エミール様にはクラウス様の匂いがちゃんとわかって。
ああやって、うなじに噛み痕まであるのだ。
僕とは違う、完璧で完全なオメガ。
僕のお腹の奥で、なんだかモヤモヤと嫌な感じの感情が膨らみそうになって、僕は慌ててそれを振り払った。
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