統巫之番―トウフノツガイ―狐愁晴天譚

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◇一章後編【禍群襲来】

一章……(三十四)【死合】

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 ◇◇◇



 身を屈め、此方へ威嚇している禍鼠。

 相対するケンタイも、

「ン゛ッ!! グォオラ゛ァァァッ──!!」

 さながら獣の咆哮だ。

 空気を震わせる雄叫びを上げ、威圧して返す。
 禍鼠の注意がケンタイに向いている内に、リンリは最寄りの草の影に身体を納めて、うように移動し徐々に距離を取って行く。
 それを後目に確かめると、にやりと笑い。ケンタイは重々しい足取りで敵へと向かい、踏み出した。

 火蓋は切られてしまった。

 鼠が動き出す。

「──ンでけェのに速ェなァ? オイッ!!」

 手の平に鼠の姿が収められる程度。
それ程にあったはずの距離は、すぐに縮まる。
 鼠の巨体、その隆々と張った後足をもってして大地を蹴るやいなや、もう一瞬のことで。まばたきの間でケンタイは距離を詰められてしまう。

「突進かァ? いンや……牙を剥いてよォ──」

 しかし静かに見極めて。

 ケンタイは受け取ったきりを右手に握り。腰を低く落とすと、その須臾しゅゆの先だ。
 迫った鼠の鋭い上下の牙、人間を丸飲みできそうな大きさの獣の口先が何も無い空間を通過する。

「──オヤジは、噛んでも旨かねェぞォ!!
年期入った渋味くらいすっかも知れんがなァ!」

 その横っ面に、斜め下方から拳が突き刺さった。
 紙一重の回避で鼠の虚を突き。肩と腰を捻り、片足を身体の後方へ引き。軸足に力を込めたケンタイはその全身に留めた勢いのまま起立する事で、左の拳で強力な一撃を見舞いしたのだった。

 鼠の皮膚に深くめり込む拳。

 豪腕から放たれた拳は、重く固く鋭く。
おおよそ素手で人間が放てる最大限の威力。確実に鼠の頭蓋ずがいを揺らしただろう。
 鼠は受けた攻撃に、身体を跳ねさせて仰け反る。

 その隙を見逃さず。後足をすかさず足払い。
鼠は体勢を崩して、ほんの少し大地にせた。
 ケンタイは錐を口でくわえ、助走を付けてから鼠の前足を蹴り下し、弾みで上に飛躍。
 前足の付け根を左腕で掴み、身体を振り子のようにしてその反動で更に上へ登る。そうして無駄のない一連の動作で鼠の肩にまたがった。

 ──ケンタイは咥えていた錐を左手に掴み。
逆手に持ち直すと、大きく振りかぶって、

 物体が空気を裂く音。

「──ン化物鼠ってもよォ、生物であるなら。
その種の急所は変わりゃしねェだろォ?」

 錐の先を、鼠の左首筋に貫刺した。

 急所への一突き。己の背に跨がった者を振り落とそうとして暴れていた鼠の動きが、ぴたり止まる。

「……ケンタイさん。やった、のか?」

 移動中の草の隙間から状況を見て、無意識からそうなって欲しい願望を口ばしるリンリ。
 

「オイオイッ、厚くて固ってェ毛皮だなァオイ。
たっぷり肉も蓄えてやがる。そうかい。コイツじゃ毛皮を抜けても急所まで通らねェてか?」

 ──まだ、殺れては、いない。
 禍鼠の持つ毛皮、表皮、脂肪、筋肉。
普通の鼠をはるかに逸した巨貌は、その全身を包む剛毛、脂肪、筋肉といった。構成する肉体要素までもが強靭に変貌しているらしい。
 せいぜいが半尺程度の長さしかない桐では、残念ながら毛皮と皮下の脂肪の厚い鎧に阻まれてしまい。急所までは届かないのだ。

「構わん。物事はそう易々とはいかねェもんさ。
ならあれだな。脳天を狙っても良いが……脳まで刺さるか解らねェし、不安定なとこで振り落とされたらこのオヤジの方が仕舞いだろォよ。さあてェどうすっかな。外側から傷付けるのが難しいとくりゃよゥあれか。二の矢でこういうのはどうだァ?」

 ケンタイは跨がったまま、上半身の包帯の上に身に付けていた羽織を脱ぐ。そうしてどうするかというと、その羽織を何度も捻ることで縄のようにし、錐を楔として羽織の一方を鼠の毛皮に刺し打ち固定。

 固定した箇所から、羽織の縄を左腕で伸ばし。
輪の形を拵えると、時機を見計らってから縄を空中に投げる。すると、うまくかかる。
 尚暴れる鼠の首の動きを逆に利用して、鼠の首に羽織の縄を巻き付かせたのだった。

「──オヤジの生き様、刻んでくれやァ……」

 ケンタイはリンリの隠れた辺りの草を見る。
酷く恐ろしく、優しい形相で「ガハハハ」笑った。

 それが意味するものは、己を削る苦肉の策。
刃と刃でなく、命と命の凌ぎ合いに違いない。

「──はっ。オヤジが絞め落とすのが先かァ、オヤジが力尽きちまうのが先かァ。一勝負だ鼠さんよォ。規則きまりもへったくれもねェ、命をした生存の為の競争さァ! 血湧き心躍こころおどれよこん畜生ゥが! さァおっ始めんぞ。至極単純な力比べといこうじゃねェかよ!!」

 縄を固定していた錐を抜き、再び口で咥え。
ケンタイは片足で鼠の背中を蹴る体勢で後方へ身体を反らし、両腕で縄を強く強く引き寄せ始めた。

 鼠の首を絞め落とす。おそらく有効であろう。
拳や武器で傷を付けてゆくよりも、遥かに。
 しかしながら、代償は大きすぎる。そんな行為をすれば、彼自身ケンタイの身体がどうなってしまうか……度外視さえすれば……とても有効なのだ。

「──ぐッオオオォォッ……ァァ!!」

 喉を鳴らし、血管を浮かべ、鬼の形相。
目は充血して、鼻から血を流し、額に井の形。
彼の歯に咥えられた錐の抦がきりきりと鳴る。

 ケンタイが巻く包帯が赤く染まり出す。
 それは鼠の血液が付着したのとは別に、彼自身の傷口が開いてしまった事による裂傷。加えて、跨がった鼠から受ける必死の抵抗によるもの。
 そのうちケンタイは頭から、口から、腕から、胸からも。随所から命に関わるほどの流血をし始めた。確実に彼の肉体は、深刻なまでに壊れてきている。

 ──禍鼠は転げまわって暴れる。
 喉や首筋や延の随、主要な部位が凄まじい胆力で絞められている故に。苦しみは尋常ではなかろう。
 これは流石に堪らず、鼠は己がより傷付くのも厭わずに身体を地面や岩や木の幹に転がせて無茶苦茶に叩き付けて回る。
 そう速やかに背中の人間を落とそうと試み。しかし尽くが人間を退けるに至ってはいない。

 どうして人間ケンタイは抵抗を意に介さず離れはしないのかを、鼠にはおそらく理解できはしないであろう。背中に跨がるケンタイが、どれほどまで強く優しく。どれだけのものを背負って、何のために覚悟をもって挑んでいるのかを。
 他の種を貪り、増える。その完結した円環で『生きているだけ』の鼠には理解できないはず。

「──ンァアァガァ、ぐオォォォ……!!」

 彼の筋肉が血管を浮き上がらせ、鬱血するほどに張り詰めている。身体から湯気を立ち上らせる。
 鼠の抵抗は激しさを増すばかりで。凄まじい勢いで土埃が立ち、周囲の視界が悪くなるほど転げ回る。その度々地面や木の幹にぶつけられ、押し潰されて、擦られるケンタイ。しかしそれでも彼は、縄を掴んだ拳を、硬く握った拳を離すことは絶対にしない。

 ──勝敗を分けたのは、僅かな差。
生きようとした鼠と、生かそうとした漢の差。
 貪欲までに、他者の命を生かそうとし。己を捨てても他者を守ろうとした男の意思の強さ。
 貪欲に他の命を喰らい、群れとして生き。一つの個は、役割としての消耗である鼠の弱さ。

 ……先に限界が訪れたのは鼠だった。
 なまじ巨体だ。絞められてから堪えず暴れていた事で、肺にも脳にも血管にも必要な酸素が足りなくなったのであろう。鼠の動作は徐々に緩慢になっていた……。
 鼠は痙攣するかのように身体を震わせ、僅かでも喉の気道を確保しようという生存の本能からか。髭を下に垂らし、大きく口を開くと。曇天を仰ぎ、後足でゆっくりと立ち上がるではないか。

 これでようやく──。

「い、今だッ!!」

 ──大きな“隙”だろう。

「よし。チョウカミネさん、今だッ!!」

 ふにふにした鰭の臀部を持つ少女。
その彼女を抱えて、成り行きを固唾を呑んで見守っていたリンリは『鼠の隙』に合図を出した。

 なにも逃げ、隠れていただけではない。
大切な親父が死にかけている間に、リンリは自分にできる事をしていたのだった。
 ケンタイと禍鼠が相対する際、偶然にも北側の深林から鼠を追って来たように血だらけで這う半人半魚の少女の姿に気がついて。
 距離があって何だかよく理解できなかったが。
懐に入っていた“借りたままの”シルシの遠眼鏡を覗いてみればそれが『統巫』の少女だと判別できた。

 後は、鼠とケンタイに接近し過ぎないように大回りで少女に近付き。抱き起こして介抱。曰く『余力が無い』らしい彼女が、鼠に有効な一撃を当てられるという距離まで連れて来た。
 今は弱っており。彼ノ者の力を『あまり維持できない』し、それと目が『ぼやける』し、ついでに『丁重にあつかえ!』という少女の要求に応え。代わりに鼠の隙を探していただけだが。

 リンリは少女、潤統じゅんとう導巫どうふに遠眼鏡を覗かせる。彼女は震える腕で小刀エムシを構えた。

「ん……褒めて遣わす。よくやった。
さっきは……邪魔がはいった。……予想外の。
しかしこれで、もう憂いなし。決着だ──」

 彼女の力だろう。構えられた小刀エムシに周囲の霞が引き寄せられて行き、形を持つ。霞は空中を漂う幾つもの小さな飛沫となる。

「──は、あまねことわり遵奉じゅんぽう……。循環じゅんかんし、潤滑じゅんかつし、千を育み万に営みをもたらす純澄じゅんちょう清浄せいじょうなる無色の母の落とし子なり……。彼ノ者……その力を賜り担う存在。じゅんを統べ導く巫、潤統導巫……チョウカミネ……いくよっ!」


 彼女の唱歌のような口上を経て。飛沫は纏まり水玉となり、更に更に纏まり螺旋状のほこを形作る。

 小刀エムシが振られ。追従するよう風切りの鋭い音を響かせ、激流に形作られた矛がたれ──。

「うぁッ!!」

「むっ、……んッ!!」

 ……射たれは、したのに。僅かに逸れた。

 チョウカミネを抱えたリンリが、何処からか襲ってきた衝撃で転倒し。射たれた矛は、逸れた。
 リンリが視線を動かし衝撃の正体を探せば、鞠玉まりだまの如き生物の姿。つまりこの毬状の生物の縄張りにでも踏み込んでしまったのだろう。『運がない』と嘆く他にない!
 未だに毬状の生物は二人に敵意があるかのように跳ねていたが、チョウカミネが頭をぶつけ意識を手放す刹那で小刀エムシを投げ、命中させると破裂してしまい。奇妙なことに塵一つ残さず靄に溶けるよう消滅をした。

「チョウカミネさんっ!」

 呼吸はしているが。頭をぶつけた彼女は無理に動かさない方が良いかも知れない。リンリはすぐ胸やら大切なところやらを見ないよう配慮しながら、彼女を傾けて回復体位にし、

「──んはっ! 鼠とケンタイさんは?」

 ハッと振り返った。

「そん、な……」

 矛は当たりはしたものの……。
 鼠の前足を深く抉り、羽織の綱を引きちぎり、
役目を終えたように空中に四散した後であった。

「……あ、あぁ、あ──」

 つまり。ケンタイが振り落とされた後。

 危害を加えた此方に、鼠が狙いを移した後。

 これはもう“どうしようもない状態”に陥った。




 ◇◇◇
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